17

やがて犬夜叉がその足を止めると、彩音は途端に犬夜叉の手を振り払うようにして逃れ、なにも言うことなく背を向けて立ち去ろうとした。だが慌てた犬夜叉が再びその手を取り直し咄嗟に吠え掛かる。 「てめえっ、話くらい聞けよっ!」 「………なに」 「気に食わねえなら謝るっ! 悪かったなっっ!!」 不機嫌そうに返す彩音へ犬夜叉はまるで怒鳴りつけるかのようにそう言い放ってしまう。その姿に彩音はほんの一瞬眉根を寄せたが、素直に謝られたこともあって口を堅くつぐんだまま足をとどめていた。 そんな彼女の様子に“ひとまずは話を聞いてくれる”と感じたらしい犬夜叉はそっと手を放し、彩音に背を向けてどっかりと座り込む。そして彩音も座れと促しながら、荒い鼻息をひとつ吹いた。 「ったく、おれにここまでさせやがって」 (こいつ、ほんとに謝る気あるのか…?) あまりにもぶっきら棒で一方的な態度に彩音は同じく腰を下ろしながらも呆れ返った白い目を向ける。しかしそんな風に睨んでいるのも馬鹿らしくなってきて、込み上げてくるため息をはあ~、とわざとらしく大きくこぼした。 するとそれを聞き取った犬夜叉が目を泳がせ始め、なんとも言いづらそうにしながら問いかけてくる。 「やっぱあれか? くっ…口づけのこと怒ってんだろ。だからお前もさっき、おれへの当てつけのために…弥勒とその…し、したんだろ。口付け…」 「……はああ~~~?」 ぎこちなく言葉を紡いでいく犬夜叉であったが、対する彩音はというと“なに言ってんだこいつ”と言わんばかりに眉をひそめながら強い声を向けた。すると犬夜叉がなにか間違えたかと大きく狼狽えながら振り返ってきて、その様子にもまた呆れを強めた彩音はひどく訝しむような目で犬夜叉を見据えた。 「あのさ、私がいつ弥勒と口付けしたっていうわけ?」 「だ、だから…さっき…してただろ」 「さっきって……あー…え? まさか、あれのこと? あれはねえ、目にごみが入ったから見てもらってただけだわ、このバカ!」 ようやく彼の言っていることを理解すると、呆れも一周回って腹が立ってくる。そんな思いで声を荒げてしまえば、犬夜叉は目を丸く大きく瞬かせながら「そ、そうだったのか…」とどこかほっとした様子で呟いていた。 しかし彩音は落ち着けるはずもなく。もう一度ため息をこぼしては向き直るように真っ直ぐ見つめながら本題を切り出した。 「あんたがなにも分かってないようだから単刀直入に言わせてもらうけど…あんたさ、桔梗のこと一日も忘れたことがなかったんでしょ? それくらい好きだったんでしょ? それなのに私に傍にいてほしいとか言って…一体、どっちがあんたの本当の気持ちなんでしょうかねえ!?」 冷静に問い詰めたかったのに、数々の光景が脳裏に甦ってくるせいでつい語尾を強く荒げてしまう。そんな彩音の雰囲気に気圧された犬夜叉はたまらず目を丸くさせながら後ずさった――が、その顔は次第に困ったような表情を浮かべ始め、わずかな沈黙のあと、 「どっちも本当だ」 と、さも当然のように言ってのけた。まるで、“別におかしなことなんて言っていないだろう”とでも言わんばかりに戸惑った表情で。 そんなあまりに純粋な気持ちを向けられた彩音はとてつもない衝撃を受け、これまでにないくらい丸々と目を見開いて硬直してしまっていた。 「おおっ、固まったぞ」 「ああいうことは、思っていても言っちゃいけませんねえ」 「そういう問題じゃないでしょ」 遠くから覗き見ていた七宝と弥勒が話し合うのにかごめが呆れた様子で返す。 大丈夫かと案じて様子を見ていたのだが、これではまた彩音が怒るもしくは呆れ、犬夜叉の元を離れてしまうのではないだろうか。堂々巡りになるのではないだろうかと感じさせられる。それに不安を抱くよう見つめていれば、そんな予感とは裏腹に当の彩音たちはわずかにその空気を変え始めていた。 彩音を見つめる犬夜叉がわずかに俯きがちになり、どこか儚く切なげな表情を浮かべる。彼はしばしの間沈黙を保っていたが、やがて呟くように、それでも確かな声で彩音へ伝えるよう言葉を紡ぎ出した。 「五十年前、桔梗を死なせたのも、未だに成仏させられねえのも…半分はおれのせいだ…桔梗を信じてやれなかったから…だからおれは、桔梗を忘れられない」 決意さえ感じさせる瞳でそう言い切る犬夜叉。 その姿に、彩音は口を閉ざしていることしかできなかった。 ――分かっていた。犬夜叉は責任感が強いから、桔梗に対して後悔や償いといった気持ちを持っているのであろうと。ずっとずっと昔から知り合い、想い合っていたから、彼女に対する様々な思いのすべてが大きいのであろうと。 対して、自分は犬夜叉と出会ってからそれほど多くの時間を過ごしていない。関係も深いとは言えない。そんな人間が、どうして想い合う二人の関係に口出しできようか。 どう考えても我慢をするべきは――身を退くべきは自分の方だ。それを思ってしまっては返す言葉がなにひとつ出てこなくて、ただ感じる居たたまれなさに顔を背けるばかりであった。 するとそこへ、サク…と足音を鳴らす人影が現れる。顔を上げてみればそこにはかごめがいて、彼女はどこか切なさを秘めた目をしながら真剣な表情で犬夜叉を見ていた。 「犬夜叉…あたしからもひとつだけ聞かせて。あたしはやっぱり…桔梗の代わりなの?」 唐突に吐き出される問いかけ。それは彼女が生まれ変わり故に抱いていた不安で、犬夜叉が桔梗の元へ向かった時から感じていたもの。先ほど犬夜叉が桔梗を忘れられないと言ったその言葉が、彼女をこうして突き動かしたようだ。 だがその問いを向けられた犬夜叉は「な゙っ」と驚いた声を上げ、すぐさま身を乗り出すようにして声を上げた。 「ばっ! 全然違うって何度も言ってんだろ! そりゃ最初は似てるかなと思ったけど…いまは…かごめはかごめだ…お前の代わりはいねえ」 「……うん」 懸命に話す偽りのない犬夜叉の言葉に、かごめの表情がほんのりと柔らかさを取り戻す。彼女の中の不安が晴れたのだろう、それが分かる小さな優しい笑みを静かに見つめていれば、その顔はやがて彩音へと向けられた。 「彩音彩音も本当に聞きたいこと、あるんでしょ」 諭すような声を向けながら、そっと優しく手を触れてくる。そんな彼女の順番を伝えるような瞳を見上げていた彩音は、どこか拭い切れない気まずさに視線を落としてしまった。 彼女の厚意はとても嬉しくありがたい。だが、どうしても胸のうちのざわつきが落ち着かない。かごめみたいに、素直になれそうにない。その思いばかりが頭の中を支配して、喉を詰まらせて。せっかく差し出されたかごめからのバトンも受け取れないまま、彩音は徐々にぽつりぽつりと呟くよう声を漏らし始めた。 「私は…私はただ…あの言葉が本気だったのか知りたかっただけ、だから…それは聞けたし…いいの、もう…」 顔を背けるようにしながら、紡ぎ出す言葉。本当は言葉の真意を知りたかったが、聞く勇気が湧かなかった。それどころか、なにを言われても惨めな思いをするだけだろうと思った。だから、早くこの話を終わらせたかった。 「あの言葉が慰めだったとしても、美琴さんの代わりとしてでも、もうなんでもいいよ。結局…私が勝手に期待して舞い上がってただけ…浮かれてただけだから…」 終わらせようとしたのに、抑えきれない感情が無意識のうちに思ってもいないことまで口にさせる。 ああ、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。これじゃ嫌な女だ。面倒くさい奴だ。そんなのは嫌なのに、気持ちがまとまらなくてどうすればいいのか分からない。勝手に言葉を紡いでしまう。 その思いに強く口を閉ざした彩音は唇を噛み、強引に気持ちを切り替えるよう深く息を吐いた。 「…ごめん、今の…気にしないで」 なんとか我を取り戻すようにそう言い残し、立ち上がろうとした。 今はとにかく犬夜叉から離れたかったから。また思ってもいないことを言ってしまいそうだったから、すぐにでも立ち去りたかった――だが、腰を上げかけたと同時に腕を掴まれる感触が彩音の動きを止めた。 「待てよっ。お前がなに考えてんのか知らねえけどな…あれはそんなつもりで言ったんじゃねえぞ」 怪訝そうに眉をひそめながら、振り返らない彩音を見つめて犬夜叉が言う。 「慰めでも、美琴の代わりでもねえ。おれはお前に傍にいてほしいと思った。彩音だから…そう思えたからこそ言ったんだ」 言い聞かせるように、説得するように紡がれる言葉。たまらず瞳を揺らして静かに振り返れば、力強さを湛えた金の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。 それは偽りなど一切感じさせず、彼のその言葉が真剣で本気であると、確かに伝えている。 それを前にして、言葉を失くしてしまった。なにを言えばいいのか分からなかったのだ。そのため彩音は逃げるように、唇を結んで視線を逸らそうとした。 その瞬間犬夜叉は彩音の腕を強く引き、自身の胸へグ…と抱き寄せてしまう。 「分からねえなら何度だって言う。傍にいてくれ、彩音…おれにはお前が必要だ」 どこか必死な様子で、儚く切なげに、それでも強くはっきりと告げられた言葉に目を丸くする。胸を打たれる。 ――あの言葉は、慰めなどではなかったのだ。例え彼が桔梗を忘れられなくとも、確かに自分を求めてくれた、偽りのない本心からの気持ちであったのだ。それを感じ取った彩音は、先ほどまでの痛いくらいの鼓動が強くも心地よいものに変わっているのを感じて。いつしか胸の奥に居座っていたわだかまりさえ消え去っているのを実感していた。 (私…傍にいて…いいんだ…) 彼の胸に頭を預ければ、心が解されるような柔らかな気持ちが広がっていく。耳元で響く彼の鼓動が温かくて、心地よくて。身を包まれるような思いを抱きながら込み上げる安堵に穏やかな笑みを浮かべると、微かに涙が滲む目を伏せて彼に身を委ねていった。 その様子を見守るかごめはわずかに眉を下げて困ったような微笑みを浮かべる。すると犬夜叉の背後へまわり込み、背中を合わせるようにそっともたれ掛かった。 「かごめ…?」 「背中くらい貸しなさいよ」 犬夜叉が不思議に思って声を掛ければ彼女は穏やかな声でそう返してくる。 かごめがなにを思ってそうしたのか、それが分からなかった犬夜叉は少し戸惑った様子で「お、おう…」と呟くことしかできなかったが、そこに心地悪さや緊張感などはなく、むしろ落ち着きさえ感じてくる状況に静かに視線を落とした。 ――関係がこじれそうになったというにも関わらず、二人とも自分の傍に居続けてくれている。拒まずにいてくれている。前後に感じる温もりにそれを思いながら、犬夜叉は腕の中の彩音の髪を梳くように撫で下ろした。 そして、今までにないほど優しい声で、そっと自身の想いを口にする。 「おれ…お前らの笑顔が好きだ。お前らが一緒にいて、笑い合ってて…なんか…そんなお前らと一緒にいると、ホッとするってゆーか…それに彩音…おれはお前と…彩音…?」 すらすらと言葉にできていた想いが不意に止まってしまう。その原因は返事のない彩音だ。どういうわけか彼女は一切相槌を打つこともなく小さな反応すら見せやしない。 さらには安らかな呼吸音が聞こえる気がして、不思議に思った犬夜叉とそれに釣られたかごめが揃って彼女の顔を覗き込んでみた。 するとその視線の先、彩音の目が安らかに閉ざされているのが分かる。 「(ねっ…寝てやがる。このアマ、人が大切な話してる時に…)」 いつの間にか熟睡してしまっていたらしい彩音の姿に思わずぶるぶるぶると拳を震わせる。対してかごめは思わず呆れたような笑みを浮かべてしまい、いまにも拳骨を落としそうな犬夜叉をそっと宥めていた。 そんな二人の目の前で。心からの安堵に徹夜で歩き通した疲れが押し寄せた彩音は当分目を覚ますこともなく、犬夜叉の温もりに包まれる心地よさの中でしっかりと眠り続けたのであった。

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