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「冗談じゃないわよ! 犬夜叉に触らないで!!」 「「!」」 突如背後から響く怒号。それに彩音と桔梗が目を見張ったその瞬間、桔梗の体に雷のような衝撃が迸った。直後、その全身のいたるところから無数の死魂たちがブワ、と勢いよく噴き出すように抜けていく。 それだけに留まらず、死魂はまるで桔梗から逃れるよう瞬く間に漆に塗り潰された空へと昇っていた。 予期せぬ目まぐるしい事態。それに目を見張った桔梗と彩音が弾かれるように声の元へ振り返れば、そこには知らぬ間に目を覚まし怒りを湛えた表情で桔梗を睨みつけるかごめの姿があった。 「(この女また…私の魂を奪う! 急がねば! この体から死魂が出尽くす前に…)」 かつてこの世に甦った時と同じように魂を抜かれる感覚。それに焦燥感を露わにした桔梗はなりふり構わずすぐさま犬夜叉へ掴み掛かった。桔梗も必死なのだろう、先ほどまでよりも一層強く力を込めて彼を引き摺り込もうとしている。 それに気が付いた彩音はもう桔梗を説得することは不可能だと悟り、同時に無我夢中で、これまでよりもさらに強く大きく叫び上げた。 「起きて! 起きろ犬夜叉あっ!!」 喉に痛みが走るほど渾身の力を込めて呼び続ける。早く届けと、強く願いながら。 ――その頃、犬夜叉の真っ暗な意識の中に確かな声が響き渡った。聞き慣れた心地よい声が、何度も何度も懸命に自分の名前を叫んでいる。この声は一体誰の声だろう。いままで眠っていたようになにも感じなかった意識がそんな疑問を抱き、いつしかその声の主を思い出そうとしていた。 「(美琴の…声…? いや違う、これは彩音の…彩音…いるのか?)」 判然としない意識のまま、声がしたであろう場所へ顔を向ける。するとぼんやりとした視界に人のような形が浮かび上がり、それは次第に立体感を得るようよく見知った人物を形作っていった。 「彩音!」 それが彩音だと気が付いた瞬間、強く胸を打たれるような衝撃に襲われると同時に弾かれるよう駆け出していた。その背後で桔梗が「犬夜叉…」と衝撃や悲哀に満ちた声を漏らしたが、鉄砕牙を引き抜きながら彩音に駆け寄った彼は気が付いていないのか、一切振り返ることもなく彩音に巻きつく妖怪を容赦なく切り捨ててみせた。 途端、自由を取り戻した彩音の体がバランスを崩すよう倒れかけると、犬夜叉はそれを抱き留めながら彩音へ訝しげな顔を向ける。 「お前、なにやってんだこんなとこで…」 「…それは…そ、そんなことよりっ、早くかごめを助けて!」 濁す言葉をどこかへ追いやるように言えば、犬夜叉はわずかに戸惑いながら頷き、同様にかごめに巻きつく妖怪を蹴散らした。それに伴いふらつくかごめの体。それを支えるように彩音が寄り添えば、ほんの一瞬の間、かごめが犬夜叉へ儚く悲しげな視線を向けているように見えた気がした。 それはどこか、先ほどの桔梗を彷彿とさせるもの―― (かごめ…?) なぜそんな顔を、そう感じた刹那、生き残っていた妖怪たちがシュル…と細い音を立てて連なり始め、桔梗を包み込むよう緩やかに寄り添い始めた。それを目で追っていた犬夜叉は振り返ると同時、桔梗の足元に広がる光景に顔を強張らせるよう強く目を見張った。 なぜならそこが、自身の知らない間に大きく変わってしまっていたから。深い亀裂が大きく広がり、ガラ…と音を立てて崩れるその地面が、今まさに自分が殺されかけていたのだということを痛いほどに思い知らせてきていたからだ。 たまらず視線を持ち上げれば、よろめきながら立ち上がる桔梗が悲哀に歪めた表情をこちらに向けていることが分かる。 ああ、そうか。信じたくはない、だが… 「桔梗…お前が…」 「その女の方が…大切なのか…」 「え…」 問い質そうとした声を遮ってまで呟かれた切なげな言葉に、思わず小さな声を漏らしてしまう。すると桔梗は言葉を続けることなく、突如妖怪たちに背負われるよう軽々とその身を宙に浮かせた。 その姿に慌てた犬夜叉が「桔梗!」と声を上げるが、彼女は悲しげに眉をひそめるまま静かに目を伏せて囁いた。 「犬夜叉、忘れるな…お前に口づけした気持ちに…嘘はない…」 ――忘れるな… 穏やかに髪を揺らしながらそう紡ぐ桔梗は、いつしか光の集合体となってしまうようにその姿を遠く彼方へ消してしまった。それになにもできなかった犬夜叉は眉をひそめ、ただ茫然とその淡い光の残滓を見つめ続ける。 そんな彼とは対照的に、彩音は小さく唇を結んでいた。 というのも、どうしてか桔梗の言葉に胸の奥がジワリと苦く気持ちの悪い感触を広げたからだ。しかしその原因や意味を把握することができなくて、ただ犬夜叉から目を逸らすように顔を俯かせるばかり。 犬夜叉はきっと、名残惜しいのだ。桔梗のことが。ずっと好きだった…否、いまでも想い続けている彼女を救えなかったことが。犬夜叉の後ろ姿にそのようなことを思ってしまうとなんだか居たたまれなくなり、彩音は踵を返して一人静かに歩き出した。 「あ…彩音…」 その姿に気が付いたかごめがすぐに声を掛けるが、どこか暗い雰囲気に圧されたそれは小さく消え入ってしまう。そんな小さな声はどうやら犬夜叉に届いていたようで、去ろうとする彩音の姿に気が付いた彼は不思議そうな顔を振り返らせてきた。 しかし彩音は俯くまま、犬夜叉がこちらを向いていることすら知らずに足を進めていく。当然そんな彼女を見過ごすはずはなく、犬夜叉はすぐにその後ろ姿を追いながら憮然とした態度を見せた。 「おい…」 「……」 「なに無視してんだよ」 どこか咎めるようにそう声を掛けると彩音の足が止まる。かと思えば彼女は途端にはあ~、と大きなため息をつき、まるで呆れ果てたかのような表情で振り返ってきた。 「ごめんね。色々あって、全部見てたの」 「えっ…ぜ…全部って…」 「最初から。犬夜叉がくる前から。ぜーーーんぶ」 戸惑うように問うてくる犬夜叉へ淡々と告げる。すると彼は目を丸くしたまま、どこか都合の悪そうな顔で押し黙ってしまった。それを見た彩音は再び込み上げてきた大きなため息をこぼし、少しばかり言いづらそうに目を逸らしては気弱な笑みを小さく浮かべた。 「犬夜叉の考えてること…分かんないや」 息が漏れ出でるような声で、そう呟く。 犬夜叉は桔梗が好きだ。それは分かっていたことで、今しがた痛いほど思い知らされたこと。 別にそれはそれでいい、そう思っていた。彼が誰を好きでいようと勝手だと、自分には関係のない話だと。だが彼が自分へ縋るように『傍にいてほしい』と言った時、確かに自分は嬉しいと思った。 しかしその彼は、桔梗のことを一度だって忘れたことがないという。ならばなぜあの時自身を求めるような言葉を、期待させるような言葉を口にしたのか――それだけがどうしても、本当に分からなかった。 やはりただの慰めにしか過ぎなかったのだろうか。自身はそれに救われるような思いを抱いて、彼に必要とされていることを嬉しく思ったのに。彼の中で特別ななにかになれるような気がしたのに。 そう考えてしまうと、また胸の奥のもやもやとした嫌な感情が渦巻き膨れ上がっていくのを感じてしまう。 そんな時、犬夜叉は彩音の失望したかのような言葉に戸惑い、どう答えるべきかと言葉選びに悩む様子を見せていた。 どれだけ懸命に思考を巡らせても、いまの彩音に向けるべき言葉をうまく見出すことができない。それでもどうにか弁解しようとした犬夜叉は、再び離れていってしまいそうな彩音を咄嗟に引き留めようとした。 「あのな」 「いい。今は、なにも聞きたくない」 「でも…」 「いいってば」 「なあ」 「うるさいおすわり!!」 我慢の限界に達したように突如強く放たれた言霊に犬夜叉の体がみし、と地面に沈む。そんな不意を突く物理的な牽制に「おいっ!」とすぐさま声を荒げたが、それを向けた先の彼女は振り返ることもなく、 「ちょっと気分転換してくる」 とだけを言い残し、その場を去ってしまった。 念珠のせいで起き上がることもできず、納得がいかないまま地面に突っ伏すこと数秒ほど。結界が消えたことでようやく弥勒と七宝がここまで辿り着き、無様な犬夜叉の姿に揃って驚いた表情を見せてきた。 「どうしたんじゃ犬夜叉」 「なにか恐ろしいことがあったらしいですな」 それはわざとなのか、どこか深刻そうな様子で犬夜叉を見やる二人。一部始終を見ていたかごめはそんな二人に苦笑してしまいながら「まあね…」と言葉を濁すほかなかったのであった。
* * *
漆黒の空の下。夜闇に包まれたのどかな村は、昼の姿とは打って変わり不気味さを孕んでいた。その中で風に撫でられざわめき立つ木々の音を耳にしながら、女は一人迷いのない足取りでひとつの家屋へと向かっていた。 「楓…」 そう呼びかけられた就寝中の老婆は静かに目を開く。途端、出入口の莚を押し退けながら入ってくる女の姿に驚くよう体を起こした。そしてまるで信じられないといった様子で、馴染み深い彼女の姿を目に焼き付けるよう見つめてしまう。 「桔梗…お姉さま…?」 思わず口を突いて出た姉の名前。 悲しいが彼女は死んだ。二度も。そう思い込んでいたその姉は、どういうわけか自らの足で生まれ育ったこの村へと戻ってきた。一体なんのためか、それは分からなかったが、自分の顔を見に来たわけではないということは一目で察せられる。 なにか目的があるに違いない。そう考えた楓は桔梗が近くに座るのを横目に、すぐさま囲炉裏へ火をくべた。 大きくなる火に照らされる桔梗の姿は、やはり幼少期をともに過ごした姉そのもの。だがその体は、裏陶によって創られた紛いものだ。生者のものではない。 その確かな事実に得も言われぬ感情を抱いてしまうと、その視線に気が付いたらしい桔梗が意地悪く胡乱げな笑みを向けてきた。 「どうした楓…姉の私が怖いのか」 「桔梗お姉さま、まだ…犬夜叉の命を狙っておられるのか」 桔梗はこの世に甦ったその瞬間から、犬夜叉を恨み葬り去ることを目的としている。それはきっと今でも変わらないのだろうと目の前の姉の様子から悟ってしまっては、顔色を窺うようにそう問いかけていた。 同時に、やめてくれという懇願に似た思いを胸の奥に秘めながら返答を待つ。すると桔梗は薄っすらと笑みを浮かべたまま、一切の詰まりなく流暢に言葉を吐いた。 「いましがた、その犬夜叉と会ってきた」 「!」 「命は取り損ねたがな」 補足に等しい言葉を続ければ、楓は言葉を失いながらもほー…と安堵のため息を漏らす。それを見ていた桔梗はそこにあった笑みを失せさせ、どこか思わしげな目を伏せがちに「あの…彩音とかいう女が言っていた」と切り出した。 そうして続けられたのは、奈落という男が本当の仇だと言われたこと。桔梗はあの時彩音の言葉をまるで聞いていないかのように牽制していたが、その情報はしかと胸に刻んでいたようだ。 「話せ楓。お前が知る限り奈落のことを…」 「は、はい」 鋭くなる桔梗の目に、ほんのわずか気圧されるよう返事をする。そんな楓の胸のうちには、真実を知ることで姉をこの世に縛り付ける“犬夜叉への恨み”を断ち切れるかもしれないという希望があった。その思いに押されるよう、楓は奈落についての情報を知る限りすべて話し尽くしていく。 それをただ静かに聞いていた桔梗は、囲炉裏の薪が立てる小さな音に耳を傾けながら伏せがちな瞼をそっと持ち上げた。 「そうか…あの野盗鬼蜘蛛が…」 「はい。すべて鬼蜘蛛の邪念から始まったこと。その鬼蜘蛛も、自ら呼び寄せた数多の妖怪に食い尽くされ、妖怪奈落が生まれた…お姉さま…犬夜叉もまた、奈落の罠で深く傷ついた…ですから…」 説得を試みようとしたその時、桔梗は聞く耳を持たずして立ち去ろうとする。その姿に思わず「お姉さま?」と呼びかければ、桔梗は莚に手を掛けたまま静かにその足を止めた。 「私はただ…自分が死んだ理由(わけ)くらい知っておこうと思っただけだ」 当時の黒幕が誰であろうと、犬夜叉も同じ被害者であろうとそんなことはどうだっていい。そう言わんばかりの桔梗の横顔に、楓は思わず言葉を失くしてしまう。 そうして、莚の隙間からいつしか明るくなった外の光を受けつつ、その横顔に影を差す桔梗は表情を変えることもなく淡々と呟いた。 「楓、犬夜叉は変わったな」 「え…」 「ずいぶんと顔つきが優しくなった。昔のあいつは、何者も信じようとしない…拗ねた目をしていたのに」 そう語りながら壁に背を預けると、白んだ朝日が昇る空を無気力に見つめる。 その彼女の言葉は、一体なにを伝えたいのだろう。そんな疑問を抱いた時、外へ向けられていた視線がこちらを向いて、どこか疎ましげな声色で問いかけてきた。 「あのかごめとかいう女と…彩音が…犬夜叉を変えたのか?」 「かごめと彩音は…不思議な子たちです。特に彩音は…それがあの子の力なのか…少しずつ犬夜叉の心を癒やしている」 犬夜叉の封印を解き、ともに旅をし――次第に、犬夜叉を素直にさせていく。そんな彩音たちの様子を思い返しながら、楓はそこに感じた思いを正直に口にしていた。 しかし、桔梗はそれをどう捉えたのか。表情にわずかな影を差した彼女はほんの一瞬の間を置いて、フ…と嘲笑にも似た笑みを小さく浮かべた。その瞳は、外景の向こうに彩音を見る。 「美琴のおかげか、それともなにか…私がしたかったことを…代わりにあの女がやっているのか」 「お姉さま…」 「(生きていれば――この私が犬夜叉の心を癒やすはずだった)」 そんな思いを抱えて嫉妬のような醜い感情を胸のうちに渦巻かせてしまうと、桔梗はそれ以上の言葉もなく莚を押し退けて出て行ってしまった。その姿に慌てた楓はすぐさま駆け出し、村を去ろうとする桔梗の背中へ大きく呼びかける。 「お姉さま! 未練は…断ち切れませんか?」 「また会おう…」 問いかけに答えることもなく、どこからともなく現れる妖怪を纏いながら別れを告げる桔梗。楓はその姿に「お姉さま…」と切なげな声を漏らし、得も言われぬ不安を抱えながら去り行く背中を見つめていることしかできなかった。 「(いつまで彷徨うのか…)」

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