17

「犬夜叉を一人で行かせてよかったのでしょうか」 自転車を押して進むかごめとそれに並ぶよう歩く彩音へ、弥勒が改めて問うてくる。その声に七宝が思わず自転車のかごの中から様子を窺ってしまう当の二人は、ただ静かに黙り込むばかり。俯きがちに視線を落とし、ゆっくりと流れていく地面を見つめているだけであった。 そんな重くも感じられるような沈黙を不意に破ったのは、どこか心ここに非ずといった様子のかごめ。 「犬夜叉はきっと…まだ桔梗のこと好きなのよ」 “一人で…行きてえんだ”と告げた彼の表情を脳裏に甦らせながら、呟くように言う。それに彩音は黙り込むまま隣を歩いていたのだが、後ろを歩く弥勒からは「は?」と呆気にとられるような声が返ってきた。 かごめはそれに振り返らず、ただゆっくりと歩き続けながら説明の声を続ける。 「だから…あたしたちはいない方が…」 「ちょっと待て。犬夜叉は妖怪退治に行ったのではないのか!?」 「え…? そ、それは…」 突然訝しげな顔を見せながら問いただしてくる七宝の言葉にかごめは目を瞬かせて言いよどんでしまう。思ってしまったのだ、“言われてみれば…どうなんだろ”と。 それはかごめだけではなかった。隣で顔を上げた彩音も同様に、犬夜叉は桔梗に会いに行ったとばかり思っていた。 しかし思い返してみれば確かに犬夜叉は桔梗に会いに行くなどとは一言も言っていない。桔梗と呼ばれる妖怪がいることを聞いて、一人で行きたいと言っただけだ。七宝の言う通り、ただ妖怪退治に向かっただけという可能性は十分にある。 (やだ、私…なに勘違いしてるんだろ…) 改めて彼の言葉を確かめるように思い返せば自分が考えすぎていたということを思い知り、犬夜叉への申し訳なさすら感じてくる。 ――だが、脳裏に甦る犬夜叉の横顔。一人で行きたいと言ったあの時の彼の表情は、ただ妖怪退治だけを考えているものには見えなかった。犬夜叉の桔梗への想い――それを抱えている時に見せる悲痛な色。それが確かにあの表情にあったのだ。 それを思った時、どうしてか胸の奥にもやもやとしたわだかまりのようなものが生まれていることを感じてしまう。それを訝しむように胸へ手を触れると同時、不意に背後から「私には分かるような気がします」という弥勒の声が聞こえて思わず顔を振り返らせた。 「弥勒、分かるって…?」 「昔惚れたおなごが変わり果てているかもしれぬ。だとすればそのような姿…他人の目に触れさせたくない…」 「おらたちは他人かっ」 弥勒が儚げな演技交じりに語ればすかさず七宝の鋭いツッコミが入る。その様子に彩音は小さく苦笑を浮かべたが、それとは対照的に、胸のうちではチク…と刺すような痛みが微かに生じていた。 それはきっと、七宝が口にした“他人”という言葉のせいだろう。もし本当に犬夜叉が自分たちのことを他人だと思っているなら、それはどれだけ寂しいことか。 それを思って小さく唇を結ぶよう閉口していると、弥勒を見据えた七宝が恐る恐るといった様子で問いかけた。 「大体それで、思ったより悪くなかったらどーすんじゃい」 「私なら、とりあえずよりを戻しちゃいますけど」 間髪入れず平然と放たれた弥勒の言葉に突如隣からびきっ、と不穏な音が鳴らされる。それに肩を跳ね上げて振り返ってみれば、俯いたままのかごめがとてつもなく冷めた目をしているのが見えた。それはもう、殺生丸の睨みに匹敵するのではないかと思ってしまうほどに。 彩音がそんなことを考えて冷や汗を浮かべた時、そのかごめの目は背後の弥勒を鋭く射抜くよう静かに振り向けられた。 「へえっ…そういうもん?」 ひどく威圧的な言葉が、視線が、ずきゅーん、と光る。向けられていないはずの彩音まで硬直させるほど冷たいそれは、しかと弥勒の腹に風穴を開けてしまうような鋭さを向けるなり、ぎっ、と自転車を軋ませて早々に背けられた。 どうやら彼女の怒りの琴線に触れてしまった様子。 だが、どうしてかごめは突然あのような表情を見せたのだろう。彼女が不機嫌になってしまう理由が彩音には分からず、どんどん距離を離していくその後ろ姿に慌てては凍るように硬直した弥勒を放っておいてすぐさま追いかけた。 そうして苛立った様子の彼女に並ぶと、控えめに顔を覗き込むようにして声を掛けてみる。 「かごめ…その、大丈夫…?」 「……彩音こそ、平気なの?」 自身の声に少しの間を空けて返された彼女の声は答えではなく、問いであった。その思いもよらない返事を理解できずわずかな戸惑いを見せてしまえば、かごめはどこか複雑そうな表情をその顔に張り付ける。 「犬夜叉が桔梗のところに行っちゃうこと…彩音はなにも思わない?」 「え…」 足を止め、改めるように問うてくる彼女の言葉に、瞳に、わずかながら目を丸くして声を漏らしてしまう。 その言葉が、やけに胸に響いた気がしたから。その瞳が、まるで胸の奥のもやもやとした気持ちを見抜いているようだったから。自分にも分からない気持ちの核心を彼女は分かっているような気がして、たまらず胸を手で押さえ、視線を彷徨わせるように俯いた。 ――“犬夜叉が桔梗のところに行っちゃうこと”…その言葉が頭の中で反芻するように繰り返される。向き合うように何度も何度もそれを響かせていれば、次第に、胸の奥に生まれたもやもやの原因が――理由が分かってくるような気がした。 そうだ。こんな心地の悪い感情を抱いてしまうのは、犬夜叉の“言動”のせいだ。彼はあの時――戦国時代へ戻ってきた時、自分へ『傍にいてほしい』と言ってくれた。だというのにその彼はいま傍におらず、迷いもなく桔梗を捜しに行ってしまっている。 きっとその行動に矛盾を感じて、納得がいかなくて、このようなもやもやした気持ちを芽生えさせてしまったのだろう。 ようやくそれに気が付き腑に落ちたような感覚を抱いたものの、だからといって素直に嫌だと、納得できないなどと口にすることは到底できそうにもなかった。 「犬夜叉は桔梗を好きだから…仕方ないよ」 困ったように笑いながら、至極当然のように吐き出した言葉。きっとこれはかごめも分かっていることだと理解していたが、敢えて口にして見守るしかないと、諦めようという意思を伝えようとした。 しかしかごめはまるで対照的に、こちらを見透かしているかのような真剣な表情で真っ直ぐに見つめてくる。 「本当にそう思ってるの?」 「!」 わずかながら訝しげに眉をひそめるかごめの問いに、ドキ…と心臓が跳ねるような嫌な感覚を抱く。 別に間違ったことは言っていない。自分はそうだと思っていたから。だからそう答えたはずなのに、それなのにどうしてか、かごめの問いによって胸の奥深くでなにかがボロボロと崩れていくような気がした。 (…ああ…そっか…) ――仕方がないなんて言葉は、自分に言い聞かせるための言い訳だったんだ。 胸のうちにあった建前が崩れ落ちて姿を現したのは、そんな実直な本音。 決して桔梗の上になりたいとか、並びたいなんてことは思いもしなかった。だがそれでも、少しだけ。少しだけでも犬夜叉の中の自分は、なにか特別な存在になれつつあるのではないかと期待のような思いを抱いていた。そうなりたいと思う自分が、どこかにいた。 しかしそれは結局、自分の思い過ごしであったのだろうか。追い込まれた状況下で言われたために、自分だけが勝手に舞い上がっていただけなのかもしれない。犬夜叉にはそんなつもり、なかったのかもしれない。 そんな思いをよぎらせてしまうと、途端に心地の悪い感情が一層大きく膨らんでいくような気がした。 「あの~彩音さまにかごめさま」 無意識のうちに思考が深みにはまり始めていたその時、不意に弥勒から様子を窺うような声が向けられてはっと顔を上げる。 しまった、考えすぎていた。それもネガティブなことばかり。事実が分からない以上、なにを考えても憶測でしかないというのに。やめよう、落ち着け、考えちゃいけない… まるで自分を宥めるように言い聞かせるようにそれらの言葉を胸のうちで繰り返し、気持ちを切り替えるように深く息を吐き出す。そして自分よりも先に「なによ」と無愛想に返事をしてしまうかごめに続いてなにかと問えば、声を掛けてきた弥勒は申し訳程度に提案を口にした。 「なんでしたら犬夜叉のあとを追いますか?」 「え…あとを…?」 「いやよっ。なんであたしたちが…」 躊躇う彩音とは対照的にかごめは迷いなくすぐさま却下してしまう。彩音はそんなかごめの気持ちも分かったが、犬夜叉が気になるのも事実だ。犬夜叉がなんのために桔梗の元へ向かったのか、それだけでもはっきりさせたかった。 確かめに行きたい自分と、犬夜叉の“一人で行きたい”という願いを叶えてあげたい自分――その相反する思いを同居させてしまう彩音は、簡単には決められない葛藤につい黙り込んでしまいながら小さく顔をしかめていた。 ――そんな時、突然辺りに異様な空気が流れ込んでくる。それに伴うよう周辺の木々が怪しくざわめき始め、その様子には弥勒たちもなにかがおかしいと表情を硬くさせた。 (この感じ…もしかして、妖気…?) 全員が口をつぐみ辺りを見回すと同時、彩音もその気味の悪い感覚の発生源を捜そうと静かに視線を巡らせていく。なにかが近くにいるはずだ、そう感じながら目を凝らしていれば、ふと木々の隙間に細長い影を垣間見た。 まるで森を縫うかのように飛んでいく姿。それは昨晩追いかけていた、死魂を抱える青白い虫のような妖怪であった。 「あれって…」 「追いましょう!」 場を仕切るような弥勒の声が上がった瞬間、彩音やかごめはわずかな戸惑いの尾を引きながらも駆け出した弥勒同様に妖怪のあとを追い始めた。 今度こそ見失わないようにと一定の距離を保ち追い続けるが、妖怪は昨晩同様一切こちらに構う様子を見せない。まさか気が付いていないのだろうか、はたまた、無視をされているだけなのか。それすらも読み取らせない妖怪は大事そうに死魂を抱え、ただ一点を目指すままに森の中を進み続けていた。 「ど、どこまで行くんじゃ」 「そんなこと妖怪に聞きなさい」 あまりに変化なく森の奥へ奥へ進んでいく妖怪の姿に七宝と弥勒がそんな言葉を交わす――次の瞬間、突然バチッバチバチ、と激しい音が鳴り響き、二人はなにかに阻まれるようその足を止めさせられてしまった。 その様子に気が付いた彩音が慌てて足を止めて引き返すと、二人は驚いたように彩音との間の虚空を眺める。 「な、なんじゃ…? 通れんぞ」 「これは…結界…彩音さまは通れたようで…」 「う、うん…確かにそれっぽいのは薄っすら感じるけど…通れなくはないみたい」 目の前の光景をわずかに歪ませているように見えるそれへ手を通しながら話せば、弥勒たちは不思議そうに眉をひそめてしまう。彩音はこの二人のように阻まれはしなかったが、それでも薄いシャボン玉の膜に触れているかのような微かな感触は確かに感じられた。 しかし、なぜ二人は阻まれ自身は通ることができたのだろう。そもそもこの結界は誰が張ったものなのか…そんな疑問を抱きながら結界に手を触れさせていたその時、なにかに気が付いた様子の七宝がはっと目を見張った。 「かごめがおらん!」 「え゙っうそ!?」 思わぬ言葉に驚いて振り返ってみれば、確かにそこにあったはずのかごめの姿がなくなっている。 まさか先に行ってしまったのだろうか。それを思うと彩音は途端に焦りを露わにし、弥勒たちへ「ここで待ってて!」と言付けるなりすぐさまかごめが通ったであろう道を駆けだした。

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