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「……」 ふ…とほんの小さなため息を漏らしながら当てもなく森の中を歩く彩音。道を塞いでしまう倒木を前にしては、のそりとした動きでそれを乗り越えて足を進め続けていた。 ――そんな彼女の後ろ。こそっ、と顔を覗かせる犬夜叉は一定以上の距離を縮められないまま、どこか気まずそうに彼女の様子を窺っている。それに釣られるよう弥勒たちまでもが同様に顔を覗かせれば、七宝が固く口を結んで黙り込んでいる犬夜叉へ咎めるような声色で言った。 「犬夜叉、彩音を引き止めんか。行ってしまうぞ」 犬夜叉の肩に乗ってまで催促してやるが、肝心の彼は背後から見つめるばかりでやはり一向に近付こうとしない。それどころかその顔にいくつも冷や汗を浮かべてひどい焦りに顔を固まらせていた。 「(あれを…見られてたんだろうな…)」 脳裏に浮かぶのは、桔梗に口付けられたあの時のこと。彩音はこちらが桔梗の元へ辿り着く前からその場にいたと、全て見ていたと言った。姿こそ見えなかったが嘘を言っている様子はなく、いまの彼女の姿からもそれが事実なのだろうと嫌でも思い知らされる。 …ということは、やはり口付けを見られたことに間違いはないだろう。 確信を得るような思いを抱くと同時に、冷や汗を拭うことすらできないほどの得も言われぬ緊張に苛まれてしまう。だがそんな犬夜叉とは対照的に、背後のかごめは突然すっ、と立ち上がって言いだした。 「あたし、ちょっと行ってくる」 「え゙っ」 自身が身を潜めるようにしていた倒木を軽々とまたぎ始めるかごめの姿にぎょっとする。慌てた犬夜叉は咄嗟に彼女を止めようとしたが間に合わず、駆け出したその後ろ姿はあっという間に彩音に並んでしまった。 これはまずいかもしれない。そんな思いに犬夜叉の冷や汗が一層噴き出すと、はらはらとするような落ち着かない気持ちが強まっていた。 というのも、かごめにまで口付けの件が伝わってしまうことが恐ろしいのだ。彼女はどうやら気を失わされていたようで件の現場を見ていないようなのだが、彼女が近付いた彩音はばっちりとそれを見てしまっている。もし彩音からそれが伝わってしまえば、間違いなくかごめはこちらを責めてくるはずだ。弁解の余地さえ与えられないかもしれない。 そう予想すればするほど冷や汗は止めどなく溢れてきて、いつしかだらだらだらと滝のように流れていく。そんな尋常ではない犬夜叉の様子に、事情を知らない弥勒はわずかに厳しさを孕んだ声で端的に問うた。 「桔梗さまとなにがあったのです」 「なにって…おめーがいつも女とやってることだよ」 口付けをした、などとは到底言えるはずもなく、犬夜叉は彩音たちを見つめるままどこか濁した言葉で返す。 弥勒ならば察してくれるだろう、そう思ったのに当の弥勒はその言葉を耳にした途端雷に打たれたかのように目を丸くして硬直していた。その反応を不可解に思って振り返ってみれば、彼はとてつもなく狼狽えながら信じられないという表情を浮かべて大きくよろめいてしまう。 「お前…そんな淫らなことを彩音さまの目の前で…」 「なんか別のこと考えてんだろ、コラ!」 明らかに口付けより深い行為を想像している弥勒へ慌てて声を荒げてしまうように否定する。 するとその時、犬夜叉の声が届いたらしい彩音の足がぴた、と止められた。それに気が付いてはっとするように振り返れば、彼女はこちらに振り返ることもなく、 「おすわり」 と、呟くように言う。その瞬間犬夜叉は「ふぎゃっ」という悲鳴を上げるが早いか、再び体を地面に叩きつけられてしまった。それも、顔面から。それでも彩音はこちらを見ようとせず、そのまま足を進めて距離を離していく。 するととうとう痺れを切らしたらしい犬夜叉が地面から仏頂面を上げ、強く握りしめた拳をぶるぶると震わせ始めた。 「てめえいい加減に…」 たまらずそんな声を漏らしながら殴り掛かりに行こうと体を起こした――その瞬間、背後の弥勒がぢゃら、と不穏な音を立てる。 「彩音さまのご機嫌が直るまでお待ちなさい」 「聞こえてないぞ」 忠告する弥勒へそう伝える七宝の前には、錫杖で叩きつけられ伸びてしまった犬夜叉の姿。どうやらその一発は相当重かったようで、目を回す彼は完全に気を失っていた。 ――それからどれくらいの時間が経っただろう。 休むこともなくすたすたと森の中を進んでいく彩音とそれについて行くかごめ、そして目を覚ますなり二人の背後を一定距離で追い続ける犬夜叉が“また”弥勒たちの前を通りすぎていく。その弥勒と七宝は焚火を囲み、そこらで捕ってきたヘビやトカゲの串焼きを手にしながら止まらない三人の往来をぼんやりと眺めていた。 「さっきから五回くらい通りかかっとるのう」 「七回目です」 そんなことを話し合う二人は実に呑気だが、その視線の先の彩音はというと到底そんな気分にはなれず、ただひたすらに出口を求めて足を進めていた。 「なにこれ…全然出られない…どうなってんのこの森っ…!」 クールダウンのためにと歩き続けていたが、どういうわけか同じ道を辿ってしまう状況にわずかながら語尾が強くなる。辺りの景色はいつまで経っても木と木と木。なにひとつ変わらないそれに飽き飽きしてはいつしか森を出たいと思うようになっていたのだが、肝心の出口が一向に見つからないせいで何度も同じ道を繰り返し歩き続ける羽目に遭っていた。 しかしそれもここまで。一緒に歩き続けていたかごめが不意に彩音の手を取ってその足を引き留めてしまう。 「彩音…そろそろ休まない? あたしたち徹夜で歩き続けてるわよ…」 「そうですよ彩音さま。こちらへきて休みませんか」 息の上がったかごめの提案に続いて弥勒までそんな声を掛けてくる。冷静でないためか現在衰え知らずの彩音は二人にむ…とした顔を見せてしまったのだが、同時に腹から情けない音を鳴らす体にまで休息を促されると、少しの沈黙の末に「…分かった」と小さく頷いた。 そうしてかごめに誘われるまま焚火の元へ歩み寄っては、隣をトントンと触る弥勒に釣られて座り込む。すると彼は自分が食べようとしていたヘビの丸焼きを差し出してきた。 「空腹では落ち着くものも落ち着きませんよ。ほら、これでも食べて元気を出しなさい」 「…いまは魚とかの方がよかったな…」 気分を落とすまま、どこか不貞腐れるように呟く。そのまま渋るように受け取らずにいると、なんだか目がヒリヒリとするような若干の痛みを感じてきて首を捻りながら目元に触れた。 ――それを遠目に覗き込む、犬夜叉の姿。彩音が立ち止まったことでこちらも身を潜めるように足を止めていたのだが、その表情は次第に引き攣るように強張っていく。 「(なんかバカバカしくなってきたぞ。なんでおれがビクビクしなきゃいけねーんだよ) くおら彩音!」 我慢の限界を迎えて怒鳴り込みいこうとした――その刹那、彩音が涙を浮かべる目を両手で覆ってしまう姿が見えて痛いくらい強く心臓を跳ね上げた。直後、咄嗟に岩陰へ身を潜め直しては、もう一度確かめるようにそお~、と彼女の方を覗き見る。しかしそれはやはり見間違いではなく、拭う仕草をする彼女の目には確かな涙のきらめきがあった。 「(なっ…泣いてる。やっぱりおれか!? おれが悪いのか!?)」 まさか彩音が泣いてしまうほど追い詰められているとは思ってもみず、不測の事態に焦る気持ちがどきどきどきと動悸を激しくする。 ――しかし、彼女のその涙は犬夜叉とは全く関係がなかった。 「どうかしましたか彩音さま」 「煙が徹夜の目に染みる…しかもなんか、ごみが入った気もするし…」 心配した弥勒に問いかけられる彩音は呟くように言いながらぎゅっと目をつむる。 そう、涙の原因はただの煙であったのだ。しかし当人はそれが地味に痛く、先ほど目元を触ったせいか目の中がごろごろして仕方がなく顔をしかめてしまう。眉間にわずかなしわを寄せながら目をこすってしまおうとしたが、それは「どれ。見せてみなさい」と言った弥勒に手を取られ止められた。 さすがに瞼の内側を見られるのはなんだか恥ずかしい。そう思って大丈夫だからと断ろうとしたのだが、弥勒はそんな隙もくれずにぐっと顔を近付けてくる。それだけでなく顔に添えられた手がもう逃してくれないような気がして、もういいや、と諦めた彩音はそのまま弥勒に身を任せることにした。 そんな時、突然背後から「な゙あ゙っ!?」という聞いたこともないような大きな声が響いてくる。それに釣られるよう振り返ってみれば、顔を赤くしたような青くしたような、ひどく慌てた様子の犬夜叉が立ち尽くしていて。その彼は、途端に弾かれるようすぐ傍まで駆け寄ってくる。 「彩音お前っ、な、なんで弥勒と…おっ…おれへの当てつけかっ!?」 「はあ?」 「なにを言っているのですお前は」 わなわなわなと大きく震えながら吠え掛かってくる犬夜叉に彩音だけでなく弥勒まで怪訝な顔を向ける。 ――どうやら、犬夜叉がいた位置からは先ほどの二人の行為が口付けをしているように見えてしまったようだ。だが実際は目の中のごみを見てもらっていただけ。まさか犬夜叉がそんな勘違いをしているとは露ほども思わない彩音は、面倒くさそうに目を伏せがちにして犬夜叉から顔を背けてしまう。 「犬夜叉には関係ないでしょ」 「な…」 素っ気なく言い捨てられる彩音の言葉に犬夜叉の目が丸く見開かれる。犬夜叉にはそれが口付けをしたことへの肯定と感じられてしまって、分かりやすいくらいに狼狽えた彼はなにを思ったか突然彩音の腕をとって強引に引き寄せた。 「来いっ」 「えっ、ちょっと!」 腕を強く引きながら歩き出してしまう犬夜叉に驚いて声を上げる。しかし彼は足を止めようとしないままずかずかと歩いていき、弥勒たちから少し離れた場所まで彩音を連れていってしまった。

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