17

――その頃、件のかごめはすっかり森の奥へと入り込んでいた。妖怪は先に行ってしまったが、その方角は見失っていない。このまま追っていれば追いつけるだろう。そんな思いを抱えながら斜面の木に掴まると、注意喚起するべく後方へ振り返った。 「気を付けて、足元が滑りやすいから。え゙…」 顔を振り返らせたその瞬間、小さく乾いた笑みを浮かべてしまうほど呆気にとられる。それもそのはずだ、ついて来ていると思っていた彩音たちが誰一人としてそこにいなかったのだから。 ようやくそれに気が付いては途端にあたふたと慌て始め、「な、なに!? あたし一人!? やだっ」なんて声を上げてしまいながら戸惑うように辺りを見回す。だがやはり付近には誰もおらず、追ってくる足音さえ聞こえない。 それに不安を覚えたかごめがひとまず引き返そうかと考えたその時、方向転換をしようとした足が突如ズル、と斜面を滑った。 「きゃーーーっ!」 思わず高らかに悲鳴を上げながら草木の茂る斜面を容赦なく滑り落ちていく。しかしその高さはそれほどでもなかったようで、すぐに地面に到達したかごめはドン、と尻もちをついてしまう。 斜面に生える草のおかげで怪我はなかったが、勢いよく落ちたためにぶつけた尻が痛む。それに文句を言うよう「いったーい…」と声を漏らしながら尻を擦っていれば、ふと前方でなにやら淡い光が灯っていることに気が付いた。 なにかある、そんな思いに釣られるように顔を上げたその時―― 「! 桔梗…」 そこに見えた姿に、見覚えのある人物の姿に思わず名を呟いてしまう。 かごめが落ちた場所――それは幹が複数に枝分かれした大木の窪みに横たわり眠る桔梗の目と鼻の先であった。その周囲には死魂を抱えたあの妖怪たちがいくつも飛び交い、まるで桔梗に従っているかのようにも見える。 「(ね…眠ってる…?)」 ドキドキドキと高鳴る自身の心臓の音を聞きながら、かごめは静かに桔梗への接近を試みる。微かに寝息を立てる桔梗は儚くそして美しくて、かごめは改めるようにまじまじと彼女の顔を見つめていた。 「(あたしになんか…似てないじゃない? 綺麗…)」 「……」 思わず感嘆するような思いを抱いて見つめていればその気配に気が付いたか、不意に桔梗の瞼がフ…と静かに持ち上げられて黒曜石のような瞳が露わにされる。だがその目にかごめの姿が映り込んだ瞬間、安らかだった表情は途端に強張り「お前…!」と声を上げながら弾かれるように体を飛び起こしてきた。 「お前、私の結界を通り抜けてきたのか」 「えっ、けっ結界!? あったっけ? そんなの…」 睨むような鋭い視線を向けられ問われると、かごめは本当に結界の存在に気が付いていなかったようで心底戸惑った様子を見せる。 嘘は言っていないその姿、それに桔梗は口をつぐみ黙り込んでは、どこか冷めた瞳でかごめを見据えるまま悟ったように小さく口を開いた。 「そうか…“お前は私”だからな…」 「え…」 意味深げに言ってのける桔梗の言葉にかごめはつい眉をひそめてしまう。 「なんか…違うと思うんですけど」 「犬夜叉は…? 犬夜叉は一緒ではないのか? それに彩音といったか…あの娘は…」 かごめの否定も聞かず、桔梗は辺りに視線を向けながら問いかけてくる。自分以外の者を――それも犬夜叉を求めるその様子に、かごめはわずかに心苦しそうな複雑な表情を見せて黙り込んでしまう。そしてため息をつかんばかりの様子で顔を背けながら答えを向けた。 「犬夜叉は、あなたのこと…捜しに行きました。彩音ははぐれちゃったから、分かんないけど…」 桔梗はその言葉になにを言うでもなく、ただ真っ直ぐに視線をぶつける。 犬夜叉だけでなく、彩音すらもここへ辿り着いていないのか。それを思うとため息をつきたくなるような感覚を抱くが、それすら煩わしい。そう感じてしまう桔梗は感情をその顔に現すことなくかごめを見つめ、抑揚のない声でしかと言い放った。 「お前は邪魔だ」 穏やかにも見える瞳で、容赦のない言葉を告げる。その姿にかごめが「え…?」と声を漏らしながら怯えを垣間見せたと同時、桔梗の指が二本、かごめの額へ触れようとした――刹那、突如なにかが慌ただしく地を滑るような音とともに「いやーーーっ!?」という悲鳴に似た声が響き、二人ははたと動きを止める。その直後、 「わっ…と! セーフ…!!」 「!」 「彩音!」 見事着地を遂げてみせるよう姿を現した彩音にかごめが驚きながらも表情を明るくさせる。対する彩音もかごめの無事に表情を緩めたのだが、それと同時、桔梗の姿を見とめては息を飲むように目を見張った。 なぜここに桔梗がいるのか。それにあの妖怪…あれが留まるようにここにいるということは、やはり死魂を集めていたのは桔梗であったということか。 確信にほど近いそんな思いを抱きながら桔梗を見やれば、彼女の右手がかごめの額へと向けられていることに気が付いた。 「桔梗…」 かごめになにをしようとしていたのか。それを問うように威圧の念を込めた目で見据えれば、桔梗は顔色を変えることもなく静かに彩音を見つめ続ける。 「……お前も…犬夜叉を求めてきたか?」 視線を留めるまま、不意に投げかけられる問いかけ。なぜ唐突にそのようなことを口にしたのか、そう訝しみを抱いてしまうが、同時に、“お前も”という含みのある言葉に眉をひそめた。 まるで犬夜叉を求める者がすでにこの場にいるかのような言葉。それはやはり桔梗のことなのか、それとも… そんな思いを抱えながらかごめの様子を窺うが、浮かべられた不安げな表情にはたと我に返った。 今はそのようなこと、どうだっていい。なにをしようとしていたのかは分からないが、桔梗は今しがた確かにかごめに手を出そうとしていたのだ。そうとなればまずはかごめを守ることが先決だろう。 己を律するようにそう考えてはすぐさまかごめの元へ駆け寄って腕を引き、桔梗からわずかに距離をとるよう数歩後ずさった。 しかしその警戒は意味を成さず、向かいの桔梗は静かに寄り添ってくる妖怪へ手を触れさせるだけ。それは今まさにどこかから帰ってきたもののようで、桔梗はまるで妖怪から話を聞くかのようにその姿をしばし見つめていた。 そうしてその涼やかな顔は、そっとこちらへ向き直される。 「犬夜叉が戻ってきたようだ。お前たちを助けにではない。私に会いにくるのだ」 そう言い切るように宣言する桔梗に思わずピク…と眉根を寄せてしまう。しかしそれは桔梗の挑発紛いの言葉に苛立ったからではない。どちらかといえば、自責の念だ。 もうすぐ犬夜叉がここへきてしまう。きっと二人きりで桔梗に会いたいであろう彼が、引き返せと言われたはずの自分たちがいるこの場所に。それを知らない彼がここへ辿り着いた時、一体なにを思うだろうか。もしかすれば、自分たちのことを煩わしく思うのではないだろうか… そんな思いがじわじわと姿を現し始め、彩音はいつしか胸の奥に形容しがたい感情を渦巻かせていた。それがなんだか無性に気持ちが悪くて、押し殺すように唇を噛みしめる。 ついには居ても立ってもいられなくなり、彩音はかごめの手を握り締めると無意識のうちに半ば睨むような目を桔梗へ向けた。 「いいよ。二人で会えば。私たちは仲間のところに戻るから」 苛立ちに似た心地悪さから突き放すような口調でそう告げる。しかし桔梗はこちらを見つめて黙り込むまま、止めようとする気配さえ見せなかった。 勝手にしろということだろうか、彩音は返事のない様子にそう考えると、桔梗から視線を外してかごめとともに踵を返し、弥勒たちの元へ向かおうとした。 その時―― 「誰が帰すと言った」 不意に、底冷えするような声が響く。それに嫌な鼓動を響かせて咄嗟に振り返ろうとするも時はすでに遅く、突如数匹の妖怪たちが彩音とかごめの体をそれぞれ拘束するよう巻き付き、二人を引き離してしまった。 「なっ…桔梗っ、一体なんのつもり…」 突然の事態に驚きながらも桔梗へ問い質そうとすれば、彼女は大木からその身を下ろして静かに目の前へと歩み寄ってくる。 その時、先ほどの彼女の冷ややかな声が脳裏に甦る。一体なにをするつもりなのか、そう不安をよぎらせるまま近付いてくる桔梗に身構えると同時、不意に痺れを切らしたかごめが桔梗へ食い入るよう怒声を響かせた。 「彩音に近付かないでっ。あたしたちにこんなことして…あんた一体なにが目的なのよ!」 「……うるさい。お前は大人しく眠っていろ」 厳しく問いただすかごめにほんの一瞬煩わしげな表情を見せると、桔梗はス…と目を細めながらかごめへ向き直った。そして彼女の額へ、音もなく指を触れさせる。直後、かごめの体がビク、と小さくも確かに揺れたかと思えば、彼女はまるで糸が切れたかのように力なく項垂れてしまった。 「か、かごめっ!」 「案ずるな。眠らせただけだ」 桔梗はそう告げ、伸ばしていた手をかごめに巻きつく妖怪へ触れさせる。すると妖怪たちはそれに応じるようかごめの体をフワ…と持ち上げ、大木の傍へ静かに横たわらせた。 妖怪はかごめの体に巻きついたままだが、それ以上彼女を襲う素振りなどはなくただその身を揺らめかせているだけ。襲うわけでもないなら、桔梗は一体なにをしようとしているのか。全く意図の読めない相手を警戒するよう睨みを利かせれば、桔梗はそれを気にする様子もなく向き直り、真っ直ぐにこちらを見据えてくる。 桔梗に触れられれば術を掛けられる。それが分かっているために彼女の動向をひどく警戒していたのだが、異様な緊張感が漂う沈黙の中で彼女はひとつの問いを向けてきた。 「お前…犬夜叉のなんなのだ?」 「は…」 思わぬ言葉に不意を突かれ、呆然と小さな声を漏らしてしまう。どうして突然そのようなことを問われるのか、真っ先に浮かんだ思いはそれであったが、いまの彩音にはそれがあまりにも心に刺さるような気がしてたまらずその思考に落ちてしまった。 彼女の言う犬夜叉の“なに”というのは、恐らく立場の話であろう。仲間なのか、主従なのか、あるいはそれら以上のなにかか――それを思った時、彩音は無意識のうちに“あの時”のことを思い出していた。 先日の、『傍にいてほしい』と言われた、あの時のこと。まるで自分を必要としているような彼の言葉は、当時の状況も相まって強く心に残っていた。 ――だが、そのように思いを告げられたのはあの一度きり。後にも先にも同様の特別なできごとがあったわけではなく、改めてなにかを言われたわけでもない。そのうえ、桔梗が生きているかもしれないと知ったいまに至っては自身のことなどそっちのけで彼女に夢中になっており、あの言葉は本心から言ったものなのかどうかさえ疑わしくなっている。 (…じゃあ私は…私は犬夜叉のなんなんだろう…) 考え、結論を求めようとするほど頭の中がぐちゃぐちゃになるような気がして、自身がなにを考えていたのか、なにを考えたかったのかすら分からなくなってくるような思いを抱いてしまう。 自分は犬夜叉のなにで、なにになりたいのか。様々な思考で掻き乱された頭は、それらをなにひとつ考えることができなくなっていた。 たまらず顔を俯かせそうになったその時、桔梗がわずかに目を細めて鋭く彩音を見据えた。 「お前は、美琴の代わりにはなれない」 「!」 ドキ…と強い鼓動が胸を打つ。微かな痛みさえ感じたような錯覚を抱く。 それは、どういうつもりで放った言葉なのか。桔梗が自分に美琴を重ねて見ているということか、あるいは別の誰かがそう見ていると言いたいのか――それを思った時、思考は信じたくない可能性をよぎらせてしまった。 ――まさか犬夜叉が…彼が自分のことを美琴の代わりとして見ているのではないか、と。桔梗はそれを自覚させようとしたのではないか。そして犬夜叉に言われた『傍にいてほしい』という言葉。あれは、彼女の代わりとしてという意味であったのではないか――? 様々な不安が、感情が、思考が良くない方へと引っ張られていく。それに瞳を大きく揺らがせてしまいそうになっていれば、不意に、桔梗の指がピタ…と額に触れた。 (! しまっ…) はたと我に返るもすでに遅く、触れられた額から瞬時に全身へ駆け廻る違和感を抱く。それに気が付いた時には体は金縛りに遭ったかのように固まり、一切の自由が効かなくなってしまっていた。 「き、桔梗っ…あっ」 咄嗟に声を上げようとしたその瞬間巻きつく妖怪たちが彩音の体を浮かせ、かごめ同様に大木の根元へと運んでしまう。それだけでは飽き足らず、まるでそこに縛り付けるかのように妖怪たちの長い体で大木ごと緩やかに巻き付けられた。 その様子を静かに見つめていた桔梗は、わずかに目を細めるようにして言う。 「お前はそこで見ているがいい」 「な、なにを…」 意味を理解できない言葉に訝しむよう漏らしたその声は、不意に鳴らされた足音によって遮られるよう止まる。胸の奥で、嫌な鼓動が響いた気がした。そして釣られるように音の元へ視線を向けてみれば、そこには白銀を揺らし立ち尽くす、犬夜叉の姿があった。 その瞳は強い焦燥感を露わにし、真っ直ぐに桔梗を捉えている。

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