「犬…夜叉…」
たまらず蚊の鳴くような声を漏らす。
犬夜叉が来てしまった。自分たちがここを去れないまま、彼の方が辿り着いてしまった。“引き返せ”と言われたのに彼の言いつけを守らず、二人きりにしてほしいであろう場所に居合わせてしまった。
そんな自分を、彼はどう思うのだろうか。
瞬く間に不安に等しい様々な思いが頭の中を駆け巡る。犬夜叉はまるでこちらのことなど見えていないかのように桔梗を見つめていたが、居たたまれなくなった
彩音はわずかに震えそうになる声で謝罪を述べようとした。
「い、犬夜叉…ごめ…」
「桔梗…」
彩音の声を遮るように、狼狽えた様子で彼女の名前を呼ぶ犬夜叉。その目はやはり桔梗を捉えて離さず、真っ直ぐに彼女との距離を詰めようとする姿から“それほどまでに桔梗と会いたかったのか”と思わされそうになった。
だが、
彩音の胸のうちにはとてつもない違和感と、それを超える恐怖に近しい不安が瞬く間に溢れるよう広がっていく。
(まさか…犬夜叉には私が見えてないの…!?)
ふとよぎった信じがたい可能性に動悸が激しさを増していく。痛いほどの鼓動が、頭いっぱいに強く響いてくる。
彩音にとってそれは信じたくないことであったが、その予感は正しかった。桔梗が
彩音の額に指を触れさせた時、彼女は
彩音の体の自由を奪っただけでなくその姿を犬夜叉から見えなくしてしまっていたのだ。そのうえ、唯一自由に発せられる声でさえ、犬夜叉には届かない。
それを心のどこかで悟った
彩音が顔を青ざめさせるも、その様子に気が付くこともない犬夜叉は強く桔梗を見つめ、こめかみに一筋の汗を伝わせながらわずかに強張った表情を浮かべた。
「やっぱりお前なのか、女の死魂を集めていたのは…」
「……」
「どうして…」
死魂を抱えた妖怪を辺りにいくつも漂わせながら黙り込む桔梗へ、犬夜叉は問いただすようにゆっくりと歩みを寄せる。すると桔梗は自身の胸を押さえながら犬夜叉を睨みつけるように見やった。
「この…土と骨の紛いものの体は、魂で満たしておかねば、うまく動かせない」
抑揚の少ない声で淡々と告げる言葉。それに、その姿に犬夜叉はなにを思っているのか。彼はただ目を離すこともなく、呆然とするように汗を滲ませながらわずかに眉をひそめた顔を見せていた。
するとその様子に気が付いた桔梗は途端に表情を変え、まるで挑発するかのように自嘲の笑みを浮かべてみせる。
「犬夜叉…私がおぞましいだろう。お前への怨念に突き動かされ、死者の魂をまとってこの世に在り続けているのだから」
思い知らせるように、軽蔑させるかのようにそう言ってのける桔梗。
彼女のその言葉に、
彩音はたまらず桔梗へ思いを馳せた。
――彼女は…桔梗は、犬夜叉のことを信じていた。人間になろうと話を持ち掛けるほど、深く。
だが奈落の罠によってその信頼は裏切られたのだと思い違え、以来強い憎しみを抱くようになってしまった。そして裏陶によって強引に甦らされたいま、桔梗はその憎しみだけで生き続け、犬夜叉への復讐を果たそうとしている。
それは――どれだけつらく、哀しいことだろう。自分には到底計り知れず考えも及ばないその感情を思うと、
彩音は自身の置かれた状況も忘れて彼女に心を傾けてしまいそうになった。
だがその時、桔梗の言葉に唇を噛んでいた犬夜叉が途端に桔梗を鋭く見つめ、「ばっ…」と詰まるような声を漏らすほど強く食い掛かった。
「ばかやろう! お前はおれを憎んでるかもしれねえけどなっ! おれは…おれは一日だってお前を忘れたことはなかった!」
桔梗へ詰め寄り、自身の胸元を握りしめるほど強く思いの丈を放つ犬夜叉。その姿を目の当たりにした途端、
彩音はどうしてか胸の奥に痛みのような違和を感じてしまった。
鼓動が速まる。なぜ、どうしていま、わずかに痛みが走ったのだろう。そう思ってしまう頃には痛みもすでに見失っており、代わりに、もやもやとした形容しがたいものがわだかまりとなってそこに居座っていた。
その重さに引かれるように、呆然と顔を俯かせてしまう。
(なに…なんで、こんなに気持ち悪くなるの…? 犬夜叉が…桔梗を好きだって、分かったから…? ううん違う…それは、分かってた…ずっと前から分かってた…じゃあ、なに? やっぱりあの言葉が、信じられないから…?)
ぐるぐると様々な感情が綯い交ぜになる胸の奥で再び呼び起こされる、あの時の光景。『傍にいてほしい』という言葉。抱きしめてまで『ここにいてくれ』と言ったのは、結局のところ、ただの慰めであったのか。
美琴の代わりであったのか。
彼の言葉の真意も、自分のこの心地が悪い感情も分からない
彩音は、ただただ胸の中で渦巻くそれに唇を噛むことしかできなかった。
いやだ、落ち着かない。気持ちが悪い。犬夜叉は…もうあの時のことなど覚えてもいないのだろうか。そんな思いを抱えながらわずかに持ち上げた視線で犬夜叉の表情を窺う。
だがやはりその彼はこちらに気が付く様子もなく、真剣な表情で桔梗に向き合っていた。
「お前がどんな姿になってたって…おぞましいとも憎いとも思えねえ」
犬夜叉はわずかに眉根を寄せながら俯き、変わらず正直な気持ちを吐露する。それに言葉を失ったよう黙り込んでいた桔梗だが、その表情がわずかに鋭さを緩めた。
そして――
「本当…なのか…?」
ザア…と吹き抜ける風に漆黒の髪を揺らしながら、呟くような小さな声でそう漏らす桔梗。その声はこれまでとは打って変わった弱々しいもので、逸らされる瞳はいまにも涙を浮かべてしまいそうなほど哀愁を纏う儚いものとなっていた。
唐突に見せられた、桔梗のしおらしい姿。まさか彼女がそのような表情を見せてしまうとは思わず、犬夜叉は戸惑いを露わにしながら「桔梗…?」と様子を窺うような声を漏らした。するとその声に顔を上げた桔梗は犬夜叉を見つめ、静かに歩みを寄せる。
そうしてわずかに距離を縮めた桔梗は犬夜叉の頬へ手を伸ばし、彼の瞳を覗き込むように見つめながら涼やかな表情で小さく言葉を紡いだ。
「恐ろしくないのか…いま、この手でお前を殺すかもしれないのに…」
「……」
先ほどの哀愁を隠した冷静な表情で告げられる言葉に、犬夜叉はわずかな迷いを感じて薄っすらと汗を滲ませる。以前も同じような状況で襲われたこと、その時確かに明確な殺意を持って対峙されたことを思い出しては容易く信じられず、言葉とは裏腹にわずかな葛藤を抱いてしまったのだ。
それは端から見守る
彩音も同様。あの時のようにまた襲われるかもしれないという思いがよぎり、居ても立ってもいられなくなった
彩音は声が届かないことも忘れて咄嗟に声を上げていた。
「に、逃げて犬夜叉! また襲われ…」
――な゙っ!?
口走った思いは言い切られる前に詰まるよう止められてしまう。それほど強く愕然とした
彩音の視線の先――そこで、どういうわけか桔梗は犬夜叉を襲うことなく、わずかに背を伸ばして彼の唇に自身のそれを重ねていたのだ。
(えっ、いや、ちょ…は? はあああああ!?)
あまりに予想外すぎる光景に頭を思いきり殴りつけられたような衝撃に襲われる。なぜ。いまこの状況でなぜそうなってしまったのか。全くもって現状の理解が追い付かない
彩音はただただ口を大きくあんぐりと開け放ち、真っ白になる頭で眼前の二人を見つめていた。
すると犬夜叉もその行動には驚かされたようで、
彩音同様に目を丸くしながら「あ…」と微かな声を漏らして桔梗を見つめていた。桔梗はそれを覗き込むようにしばし見つめ返し、やがてその体を預けるように犬夜叉の肩口へ寄りかかる。
「生きている時に…こうしたかった」
「桔梗…」
寄り添いながら囁く桔梗に犬夜叉は大きく戸惑いを見せるが、それでも彼女を拒もうとはしなかった。それだけでなく、ついには桔梗の背へ優しく手を添えてしまう。
――そんな光景を否応なく見せつけられる
彩音はやはりいつまで経っても状況の理解ができず、わけが分からない思いのままただひたすらにぱちくりと目を瞬かせることしかできずにいた。
(待って待って待って。なんなのこれ。つまりどういうこと? 結局二人は両想いでしたって? そういうことなの? へー、そっか。それならよかったじゃん。…で? 私は? 私はなんで捕まったわけ? それも意識を残したまんま。まさか、こんな光景を見せつけられるために? ははは、なにそれ。ほんっと意味わかんない…)
わけの分からない思いから畳みかけるような言葉が次々と巡り、とうとう変な笑みさえ浮かんでくる。ため息をつきたくなるが、それさえ出てこないほど呆れ返った感情に呆然とするほかなかった。
やっぱり、桔梗の考えることなんてちっとも分からない。そう感じてしまう
彩音とは対照的に、彼女の視線の先の犬夜叉はそっと桔梗を想い、確かに感じ取れるものに人知れず小さく顔をしかめていた。
「(懐かしい桔梗の匂い…でも…哀しい死の匂いがする…これは…お前を“創った”墓土の…)」
かつてのものとは変わり果ててしまったそれ。自分が愛した女は姿形さえ変わらずも、以前とは真逆と言っても過言ではないほど違う存在となってしまった。
それに比べ、自身はあの頃からなにも変わっていない。
それを思えばせめて彼女のためになることを、望むことを少しでも叶えてあげたい気持ちに駆られて。彼女の希望に寄り添えればと、微かな声を絞り出すように問いかけた。
「桔梗…おれは…どうすればいい?」
「私たちはもう…あの頃には戻れない。だから…もう少しこのままで…」
犬夜叉の背に腕を回し、自身の全てを委ねるように犬夜叉へ寄り添う桔梗が儚げにそう答える。
その姿はどこか哀しげで、それでも、美しかった。二人は愛し合っているのだと、嫌でもそう感じてしまう光景を見せつけられる
彩音は口をつぐみ、ただ静かに足元へ視線を落としていた。
自分は一体ここでなにをして、なにを思っているのだろう。どんな思いがあって、その矛先は、どこに向いているのだろう。それさえ分からない状況に胸の奥のもやを肥大化させては、もうどうにでもなってしまえ、という投げやりな気持ちを芽生えさせていた。
――だがその時、突如周囲の空気が強くざわめき立つ気配を感じて目を丸くする。そして弾かれるように顔を上げては、目の前に広がる異様な光景に一層強く目を見張った。
「なっなに!? なんで地面が割れて…!?」
激しい音を立て、つい数秒ほど前とは大きく変わってしまった光景に思わず声を上げるほど愕然とする。
その言葉が示す通り、どういうわけかいくつもの光の玉を漂わせる犬夜叉たちを中心とした地面が突如深く大きな亀裂を走らせていたのだ。亀裂は凄まじい風を帯びながら一層深く地面を割り、徐々に犬夜叉と桔梗の二人を飲み込み始めている。
しかし強く大きな音を伴っているというのに、渦中の犬夜叉は一切気が付く気配がない。感覚の鋭い彼ならばこのような異常事態、わずかな気配を感じた時点で避けるはずだというのに。
――それが意味するのは、犬夜叉の意識が正常ではないということ。そしてこの現象を起こしているのが桔梗だということだ。それに確信を抱いた
彩音は動かない体を乗り出さんばかりの勢いで強く声を張り上げた。
「桔梗っやめて! 犬夜叉を放して!!」
彼女にならば声が届くだろう。希望に似た予測から桔梗へと声を荒げれば、犬夜叉の背に両腕を回し抱きしめる彼女の目がこちらへと向けられる。
やはり思った通りだ、彼女には声が届いている。そう確信を得られたまではよかったのだが、桔梗は一切の返事を寄越す様子はなく冷ややかに
彩音を見据えているだけであった。
その目は一体、なにを思っているのだろう。たまらずそのような思いをよぎらせた時、感情を読み取れないその瞳が虚空へ向けられると、彼女は一層深く強く犬夜叉を抱きしめた。
「(犬夜叉…もう逃しはしない。私とともに地獄に来い!)」
その思いを胸のうちに響かせ、桔梗はより深く犬夜叉の体を地面の底へ引き摺り込もうとする。それは決して速くはない進行速度であったが、
彩音は体の自由を奪われているためにどれだけ必死になっても止めることができない。
それでもただ傍観していることなどできるはずもなく、
彩音は声が届かないことを分かっていてもなお焦燥感に包まれるまま懸命に犬夜叉へ叫び続けた。
「犬夜叉っ、犬夜叉! 早く気付け! 逃げろこのバカっ! あんたそのまま殺されてもいいの!? ねえ!!」
轟音に負けないよう、声が嗄れてしまうのではないかというほど必死に呼びかけるが返事はない。それどころか虚ろな目をした彼は瞬きひとつせず、どうやら知らぬ間に意識が奪われているのだということが伺える。
それに気が付いた
彩音はすぐさま桔梗へ標的を変えるよう声を上げ続けた。
「聞いて桔梗! あんたが恨むべき相手は犬夜叉じゃないっ! 五十年前、あんたと犬夜叉を罠にかけた奴が…奈落って奴がいるの! 本当の仇はそいつ! だから…だから犬夜叉には手を出さないで!!」
分かってほしい、その思いひとつでまくし立てるように言葉を紡げば、犬夜叉を見つめていた桔梗の瞳が静かにこちらへ向き、顔さえ振り向かせてくる。
伝わったのだろうか…荒い呼吸を繰り返しながらその思いを抱え、桔梗を見つめる。だが
彩音が安堵する暇もなく、桔梗の手が緩やかに持ち上げられると、スッ、と伸ばされる人差し指を向けられた。
「うるさい…」
「っ!!」
桔梗の呟きの直後、突然背後の大木が凄まじく激しい音を響かせて爆ぜてしまう。その大きな衝撃に声を上げることすらできなかった
彩音は蒼白の顔で桔梗を見つめ、彼女の計り知れない力に慄くよう瞳を揺らがせた。
「仇なぞ討ったところで、この身は生き返りはしない」
言葉を失ってしまう
彩音を疎ましげに睨みつけながら桔梗は告げる。
確かにそれは彼女の言う通りだ。だが、だからといって犬夜叉を一方的に道連れにしてもいい理由にはならない。それを胸の奥で強く感じながら、それでも打開策の見えない状況に唇を噛んでいた時、桔梗は再び犬夜叉に向き直り愛おしげに彼の顔へ両手を差し伸べた。
「犬夜叉お前だって…私を忘れられずに生きるより、いまここで一緒にいった方がいいだろう…?」
「桔梗っ…」