26

木漏れ日が清らかに射し込む静かな森の中。鬱蒼と茂る草木が微かにざわめき立てるそこに、ひどく血にまみれた殺生丸が呼吸を荒くしながら力なく横たわっていた。 「(体が動かん…)」 変化の過程で傷つけられた体はどれだけ力を込めようとも一向に動く気配がない。変化を遂げることも、元の姿に戻ることもできない。呼吸すら苦しい気がしてくる。ただシュー…シュー…と細い息を薄く吐くことしかできなかった。 その時ふと、自身の呼吸に重なるもうひとつのそれに気が付いた。伴うように、自身の胸から下に何者かの体重が掛かっていることまで自覚してくる。 しかし首を動かすことすら億劫になるほどの重傷。それを煩わしく思いながら視線だけを向けてみれば、自身の胸の辺りに見覚えのある白いリボンが見えた。 無造作に投げ出されたようなそれの下、同様に広がり散らばる髪の隙間には、自身の体と同じ赤が覗く華奢な体が窺える。 それに気が付くなり、わずかに眉根が寄った。 それだけではない。その華奢な体がこちらを抱きしめるように横たわっていることを把握しては、一層不可解そうに眉間のしわを深めてしまう。 「(こいつ…まさか…私をかばおうと…?)」 微かに苦痛に歪めた表情で硬く目を閉ざす#name#の姿に当時の光景が甦る。 そうだ、犬夜叉が“風の傷”を放たんとした時、#name#は無謀にも間へ飛び入り盾となろうとしたのだ。しかしそれに“風の傷”を防ぐような力などなく、特殊な命であろうともその身はただの人間のもの。 結局“風の傷”に対してどうすることもできなかったという事実は、無情にも多くの傷を刻まれたその体が物語っていた。 こうなることなど当然分かっていたはずだ。しかし、だというにも関わらず、彼女は身を挺して殺生丸を守ろうとしたのだという。 愚かな…――そう感じさせられては視線を外そうとした、刹那。不意に#name#の体から、淡く蒼い光がほんのりと明かりを灯すように現れた。その光はまるで#name#の体に刻まれた傷をひとつひとつなぞるように広がり、やがて蛍火のような光の玉となって虚空へ昇り、消えていく。 ――それは、いつか見た光景。幾度と見た、光景。 こうして彼女の体の傷が癒えていく様を見たのは、もう何度目であろうか…思いがけずそのような思いを抱くとともに、“かつての巫女”を思い出してしまう。 だがそれすらも振り払うように視線を背け、視界から彼女の姿を消そうとした。 そんな時、不意に木々の向こうからカサ…と小さな物音がひとつ鳴らされる。 「(人間の匂い…)」 物音の元から漂うそれを嗅ぎ取っては警戒の色を見せる。自身は体が動かないうえ、傷が治り始めている#name#さえも目を覚ましていない。このような状況で接触するなど、例え相手が人間であろうと面倒だ。 そんな思考を即時巡らせた殺生丸はすぐそこまで迫った気配へ向けてシャーッ、と強く威嚇の牙を剥いた。人間ならば怯えて逃げ帰るはずだと踏んで。 すると足音の正体は顔を覗かせると同時、殺生丸のその様相にびくっ、と体を揺らして立ち止まった。 「(子供…?)」 その姿に、殺生丸は訝しむような思いを抱く。しかし対する幼い少女は逃げようともせず、ごく…と小さく息を飲んでは意を決した様子でこちらへと近付いてきた。かと思えば殺生丸の傍で足を止め、握りしめていた竹筒を彼の頭上でひっくり返して容赦なく水を被せてしまう。 冷たい水が傷だらけの体に染み入るように伝っていく。それを静かに見守るよう寄り添う少女の瞳は、まるでこちらを心配しているかのような色をしていた。 「(こいつ…私たちを救おうとしているのか)」 やがて#name#にも残りの水を被せてしまう少女の姿にそんな可能性を抱く。そう思えたのはきっと少女が危害を加える様子がなかったことと、こちらの容体を窺うよう真摯に見つめていたからであろう―― ――あれから、幾度となく浮き沈みを繰り返す太陽と月を眺め続けていた。木々の隙間から差し込む柔らかな朝日を受ける殺生丸の瞳は元の黄金色に戻っていたが、治りが早いはずの体に刻まれた傷は未だ癒えずはっきりと残されている。 「(…あれから何日経ったのか…まだ動けん…こいつも…目を覚まさん…)」 ここに飛ばされたあの日から変わらない#name#の姿に視線を落とす。 一度は死んだのかとさえ思った。だが自身の上に重なる彼女は死から最も遠い存在であり、こちらへしかと鼓動を伝えている。恐らくは自分の傷を治癒することに体力を使い果たし、それゆえ眠り続けているのだろう。 そう思考しながら、彼女の表情を窺うようにそこに掛かる髪へ触れた。サラ…と流した髪の下には、当初より幾分か穏やかさを取り戻した様子が窺える。これならばそろそろ目を覚ましてもおかしくはないだろう。 頬の血の痕をなぞるように触れながらそう考えていれば、ふと彼女の髪の下に覗く背中に目を引かれた。 見えたのは、髪に隠されるなにか。それを確かめるように指先で髪を退ければ、緑色の後ろ襟に縫い付けられる小さな“印”が姿を現した。 「(…なんだこれは…犬…?)」 初めて目にするそれに思わず眉をひそめる。そんな彼が見つけたのは、かつて#name#がかごめと制服を区別するために付けてもらったもの――小さな犬のワッペンであった。 デフォルメされてはいるが、初めて目にする殺生丸でもそれが犬であることは確かに分かる。 以前はこのようなものを付けてはいなかったはず。ならばなぜこれを施したのか、そして――なぜ“犬”なのか。普段ならば気にも留めないことであるはずなのに、彼女の変化には些細なことでも不思議と意識を引かれてしまうものがあった。 まるでその真意を探るようにそっとワッペンへ指を触れさせれば、不意に#name#の手がピク…と微かな動きを見せる。同時に、「う…」と小さな呻き声が漏れた。 「…ここ…は…?」 「…ようやく目が覚めたか」 「! 殺生丸…そうだ、傷っ…」 ようやく意識が戻ったらしい#name#へ声を掛ければ、彼女は殺生丸の姿にはっとした様子ですぐに手を伸ばそうとする。だがうまく体に力が入らないのか、その手は届くことなくカクン、と崩れ落ちた。 #name#は殺生丸の胸の上でわずかに顔を歪める。それを眺めるように見やっていれば、彼女は再び視線を上げてすぐに弱々しい笑顔を見せてきた。 同時に、殺生丸の胸へ手を触れさせる。 「ごめんね…私がもう少し早く…犬夜叉を止められていれば…」 「……貴様…治癒の力を使う気か」 「上手くはできないけど…せめてものお詫び…かな」 よぎった可能性を問えば、彼女は儚い笑顔でそれを容易く肯定してしまう。その姿に殺生丸は小さく眉根を寄せた。 なぜ重傷を負ってまで自分を――犬夜叉の敵と言えるこちらを守ろうとするのか。なぜ立てなくなるほど力を失っていながら、自身より先に救おうとするのか。 その不可解な疑問に一層眉をひそめそうになっては、彼女の治癒を阻止するように腕を掴み込んだ。 「ふざけるな。お前にそのような体力など残っていないはずだ」 「そうかも…しれないけど…でも…」 厳しさを孕んだ声で事実を突きつけるよう言うが、#name#は納得できない様子で渋り引き下がろうとしない。本当に詫びたいのだろう。それが分かる姿に一度口を閉ざした殺生丸は黙り込み、再度厳しくも呆れを含んだ声色を投げかけた。 「悪いと思うのなら動けるだけの力を早く取り戻せ。いつまでもお前に乗られている方が邪魔だ」 言い聞かせるようにそう告げながら掴んでいた腕を解放する。おかげで#name#はそれ以上治癒の手を伸ばそうとはしなかったが、どこか驚いたように少しばかり目を丸くしていた。 「…ほんと…相変わらず、はっきり言うよね…」 こちらもまた呆れた様子を見せながら弱り切った声で言い返す#name#。しかしそんな彼女の言葉に殺生丸は当然だと言わんばかりの表情で顔を逸らしてしまった。 確かに彼の言う通りだろう。それを理解できるうえ、恐らく治癒を強行しようとしてもまた阻止され機嫌を損ねるだけに違いない。そう察しては大人しくしているほかなく、#name#は申し訳なさを抱きつつも大人しく殺生丸の胸の上に横たわるまま、とす、と頭を預けた。 いまは早く回復することに専念しよう。殺生丸の迷惑にならないように、早く犬夜叉たちの元へ帰れるように――そう考えた時、思わずあ…と小さな声が口を突いて出そうになった。 そうだ。いま自分は仲間の元を離れてしまっている。敵対しているとも言える殺生丸とともに。彼らの制止も聞かず危険に飛び込んで。 そんな現在に至るまでの経緯をようやく思い出してはたまらず気まずさが込み上げてきて、#name#は眉を下げながらついため息をこぼした。 「戻ったら…また怒られるかな…」 ぽつりとこぼした声。それは億劫な気持ちから出た独り言であったのだが、至近距離の殺生丸には当然届いてしまったようで。わずかに眉をひそめた彼が怪訝そうな視線を向けてきた。 「なんの話だ」 「あー…えっと、私…勝手に飛び出して、止めようとしたでしょ…? そのうえ、殺生丸の傷を治そうとしたなんて知られたら…犬夜叉に怒られそうだなあって思って…ほら、殺生丸と違って…犬夜叉はすぐ怒って…怒鳴るから…」 あはは…と困ったように力なく笑む#name#はこれから迎えるであろう未来に小さく肩を落とす。殺生丸はそんな彼女の姿を言葉もなく見ていたのだが、しばし黙り込んだ後、やがて呆れたように小さく呟いた。 「私なら怒らないとでも言いたげだな」 「…怒るの…?」 「……ふん」 「なにそれ、黙り込ないでよ…」 自分で言ったくせに、そう小さく続けながら眉を下げて笑う#name#。その姿が一瞬という短い間、どうしても#name3#と重なってしまう気がして。横目に彼女を見ていた殺生丸はしばらく留めていた視線をとうとうそっぽへと投げ出してしまった。 その時、先日と同様の場所から草木を掻き分ける音が聞こえてくる。それはそっと近付いて、ついには木の陰から緊張した面持ちを控えめに覗かせてきた。 「(また来た…)」 (え、女の子…?) そこに見えたのは先日と同じ幼い少女。殺生丸は彼女の姿にどこか疎ましげな視線を向けるが、初めてそれを目にする#name#は不思議そうな表情を浮かべた。 それを見て目が覚めたことに気が付いたのだろう、少女がまた少し緊張を露わにしたが、それでもたたっ、と駆け出しこちらへと近付いてきた。 なにかを抱えるその腕の中には、竹筒と大きな葉。なぜそんなものを持ってきたのかと思えば、彼女は殺生丸の前で足を止めるなり竹筒を置いて両手で大きな葉を彼に差し出した。 どうやらその葉は皿代わりのよう。見ればその上には焼かれた魚やキノコが乗せられていて、彼女が殺生丸のために食料を持ってきたことが分かる。 その姿に#name#が少し驚かされるような思いを抱きながら見守っていたのだが、差し出されたそれを一瞥した殺生丸は拒むように躊躇いなく叩き払ってしまった。 「あ…ちょっと、殺生丸…」 「…余計なことをするな。人間の食いものは口に合わん」 咄嗟に上げられた#name#の声にも構うことなく、殺生丸は少女から顔を背けたまま冷たく言い捨てる。その様子に少女は焼き魚などを拾い上げながら肩を落としていた。 どうにか殺生丸の手助けがしたいのだろう。それが分かる姿に#name#はギュ…と小さく手を握り締めると、か細い声を絞り出すようにして精一杯微笑みかけた。 「それ、持って来てくれてありがとう…ごめんね…落としちゃって…もしよかったら、私が食べてもいい…?」 このまま持って帰らせるのは可哀想だと感じて問えば、少女はこくん、と小さく頷いてくれる。そうしてぱっ、ぱっ、と払った焼き魚たちをもう一度葉に乗せては、そっと#name#へと差し出した。 それを受け取りながら、#name#は少女を見つめる。 「もしかして…ずっと私たちを、助けようとしてくれてたの…?」 少女が食料を持ってきたこと、殺生丸の様子、それらからすでに少女が自分たちの元へ訪れていたことを悟って尋ねてみれば、少女は再びこくん、と頷きを返してくる。 殺生丸が妖怪であることを分かっているであろうに、それでもこうして献身的に救いの手を差し伸べようとする優しさ。それに感銘を受けるような温かい気持ちを抱かされると、#name#は一層柔和な笑みを浮かべてゆっくりと手を伸ばした。 そうして、少女の小さな頭を優しく撫でる。 「ありがとね…」

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