26

一方、殺生丸を撒いた犬夜叉一行は刀々斎の牛と雲母の背に乗って暮れ始める空を駆けていた。その中で彩音とかごめはしばらく後ろを見つめ、殺生丸が追って来ない様子を確かめてはかごめが感動したように弾んだ声を上げる。 「すごーいおじいさん。強いんじゃない?」 「まったく…わざわざ犬夜叉に身を守ってもらわなくてもよいのでは?」 弥勒がどこか呆れた様子でそう問いかければ刀々斎の後ろに座る犬夜叉が不満げな顔で弥勒を睨みつける。 しかし当の刀々斎はというと、なにやらひどく肩を落としてしょぼくれているようであった。それだけでなく、さらには「はあ~~」と大袈裟なほど大きなため息までこぼしてしまう。 「見込み違いじゃった。まさか犬夜叉がこんっなに弱いとは」 「なっ…」 「殺生丸は殺生丸でわが名刀をなまくら呼ばわり……痛いじゃないか」 「おれは弱くねえっ」 突然叩き込まれたゲンコツによって頭にいくつものたんこぶを作られた刀々斎が抗議の目を向けるが、拳を握りしめた犬夜叉は不満げに眉を吊り上げて反論する。どうやら“弱い”と言われたことが相当気に食わなかったようだ。 そんな犬夜叉を後ろの彩音がまあまあと宥めていれば、やがて降下を始めた一行は静かな河原へと身を移した。 しばらく様子を窺っていたがやはり殺生丸は追ってきていないらしい。そう確信を抱いては今晩の休息をここでとることとなり、刀々斎が夕食用にと獲ってきた猪をあっという間に棒に吊るして焚火をこしらえてみせた。 そこへ火を吹きつける刀々斎から改めて今回の騒動の発端を聞き出そうとすれば、まず語られたのは殺生丸がすでに手にしているあの刀が“殺傷力を持たない刀”だということであった。 「斬れねえ刀~? それでどうやって闘うんだ?」 刀々斎の言葉に犬夜叉が訝しげな表情を浮かべて言う。 当然、刀と言えば闘うための武器だ。それが斬れないものとなれば闘えるはずがなく、ほかに役立つような用途も思いつかないのだろう。それをありありと示した表情を向けていれば、刀々斎は猪を炙り続けながらこちらに目をくれることもなく淡々と教えてくれた。 「天生牙は敵と闘う刀にあらず。癒やしの刀じゃ」 「癒やし!?」 「強きものを薙ぎ払う鉄砕牙に対して、天生牙は、弱きものの命を繋ぐ刀」 「弱きものの命を繋ぐ、って…」 「まさか生き返らせるってこと?」 彩音が呟くのに続いて珊瑚が不思議そうに問いかける。 刀は本来、どちらかといえば命を奪うものだ。それがそのような相反する力を持てるのかと疑いを持って問うたのだが、火を吹くのをやめて黒い煙を細く漏らす刀々斎の口からは当然のように「使いこなせばな」という肯定の声が返ってきた。 「真に人を思い慈しむ心あらば、天生牙のひと振りで、百名の命を救うも可能」 「慈しむ心…」 「なるほどな。殺生丸の野郎が、新しい刀欲しがるわけだぜ。そんなお助け刀、殺生丸にゃ逆立ちしたって使えるわけねえ」 「やっぱダメかなあ」 納得し呆れ果てた様子を見せながら言う犬夜叉に刀々斎はまたも大きく肩を落として弱々しく呟く。 そこに、否定の声は上がらなかった。というのも一同は皆、犬夜叉の意見が最もだと思っているからであろう。 「あの兄上の性格ではなあ」 「使えても嬉しくないでしょーしねえ」 どうしても殺生丸と結びつきそうにない刀の能力に弥勒とかごめまでもがどこか困ったように漏らす。 しかし、誰しもが同じような思いを抱える中で彩音だけは深く思案するように俯き黙り込んでいた。 (美琴さんをあれだけ想ってた殺生丸なら、使えても不思議じゃないのにな…) いままでに幾度と見た美琴の記憶や自分と接する時の彼の姿を思い返しながらそんなことを思ってしまう。 しかしそれは、美琴とそれに関わる彩音にだけ。それ以外の人間には嫌悪感を表しており、妖怪でさえも受け入れようとはしない。 やはり特定の個人だけを想っても意味はないのだろうか。それとも他になにかの要因があるのだろうか。思わず考え込んでしまううちに疑問などが膨れ上がり、自然と表情を硬くしてしまうほど深く黙り込んでいた。 そんな時、不意に刀々斎が顔を上げたかと思えば「そういえばお前さん、」と彩音に呼び掛けてくる。 「あの時、燐蒼牙の力を知りたいと言っておったな?」 「あ…はい。これまで不死鳥みたいな大きな鳥が出てきたり、時代を飛んだりとか色々あったので、気になって…」 「ほお、そうか。だが…知りたいと言うのがそういうことなら、わしが教えられることも多くはないぞ。なんせわしが鍛えた燐蒼牙は、本来はただの護身用の刀なのだからな」 至極落ち着いた様子で当然のように吐き出された言葉。それに一同は「え!?」と短い声を上げるほど揃って目を丸くしてしまう。 それもそのはずだ。これまで不思議な力を見せてきた燐蒼牙が、護身用として生み出されたただの刀だというのだから。そんな予想だにしなかった言葉に誰よりも強く驚き言葉を失くしたのは、当然それを握り締める彩音であった。 「た、ただの刀って…じゃあ私が時代を越えたりしたのは…!? この前だって妖怪を斬ったら蒼い炎が出て、それで…」 「まあまあ落ち着け。わしが鍛えた当初はただの刀だったというだけで、今はそうではない。お前さんの言う不思議な力をちゃんと持っておるわい」 あまりの衝撃に慌ただしく問う彩音に刀々斎は宥めるような声でそう言い切った。おかげではっと我に返った彩音が小さく謝りながら縮こまると、刀々斎は先の焦げた顎髭を撫でながら思考を巡らせるように視線を上向けた。 「燐蒼牙はわしの手を離れたあと…恐らく美琴とやらに渡ってからだろう、精霊が宿ったと聞いた。大妖怪である親父殿の牙で作った刀は馴染みが良かったんだろうな。おかげで刀は精霊の力を使えるようになって美琴を助けていたようだ。燐蒼牙という名も、その頃につけられたんじゃねえか?」 「…そうなんだ…じゃあいまの燐蒼牙があるのは、その精霊のおかげ…」 思いもよらぬ経緯になんだか呆然とするような思いを抱えながら呟けば刀々斎に「そういうこった」と深く頷かれる。 気難しい刀だと聞いていたから不安を抱いていたが、この力は精霊のもの。その精霊にすでに懐かれているであろう自分なら特に心配することもないのかもしれない。そう思い至っては、肩の荷が少し下りたような安堵のため息をこぼした。 だがふと思い出す、燐蒼牙を手にした時のこと。思わず「あ」と短い声を漏らしては燐蒼牙を握ったまま困ったように問いかけた。 「あの…燐蒼牙が繊細かつ凶暴な刀だから長いこと抜いておかない方がいい…っていうのはどういうことですか? それだけがよく分からないんですけど…」 「はあ? そんなこと誰が言ったんだ」 「冥加じーちゃんです」 怪訝そうな刀々斎へはっきりと告げれば、傍で話を聞いていた件の冥加がぎく、と大きく体を揺らした。その反応を見逃さなかった彩音は思わずまさか、と疑いの目を向けてしまうと、刀々斎からひどく呆れ返った声が発せられる。 「そりゃ冥加のウソだな。どーせ勘で適当なこと言ったんだろ、お前」 分かり切った様子で告げられる言葉に冥加は黙り込んだまま無数の汗を流し始める。 この反応は“黒”だ。そう悟った彩音がじとー、と目を細めれば、同じく眉をひそめた犬夜叉が冥加の体をむんずと摘まみ上げた。 「どーゆーことだ? 冥加じじい」 「い、いえ、精霊から強い力を感じましたし…その…危なっかしい刀だなーと思いまして…」 「それで適当なこと言ったわけ?」 「ゔ…」 問責の視線に押し黙ってしまうその姿を見ては迷うことなく確信し、込み上げる大きなため息を思い切りこぼしてやる。これまで冥加の言葉を信じて警戒していたのがバカらしく思えて仕方がなかったのだ。 おかげで冥加は呆れ果てられ、必死に弁解しようとする彼の話には誰一人として耳を貸してくれないのであった。 * * * 「ここで分かれるって…おじいさん一人で逃げる気?」 夜が明けた頃、Y字の分かれ道に差し掛かった一行の中でかごめが驚いたようにそう問いかける。その視線の先には牛の上であぐらを掻く刀々斎の姿。彼一人だけ一行とは真逆の方角へ立ち去ろうとしているのだ。 「うん、犬夜叉はアテにならん。じゃっ」 「え、でも…」 「ほっとけ彩音。こっちだってそんなじじいに用はねえんだ」 刀々斎を気遣い引き留めようとする彩音を止めたのは犬夜叉。弱いと言われたことなどがやはり気に食わないのか、まるで刀々斎を見捨てるように厳しい口調で言ってしまう。 だが、その声を聞いた刀々斎は怒るでも悲しむでもなく。なにかを思い出したようにぽむっ、と手を打ってはすぐさま犬夜叉の元へと引き返してきた。 「返せ」 「ん゙?」 「お前にゃ鉄砕牙は使えん。叩き折る」 犬夜叉の腰に携えられた鉄砕牙を掴むなりそんなことを言い出す刀々斎だが、次の瞬間には犬夜叉の拳の餌食となって。頭に無数のたんこぶを作られたうえに顔面まで殴られては「ふざけんなこのじじい」と吐き捨てられてしまった。 それでも刀々斎はたくましく即座に起き上がり、颯爽と逃げるよう牛に乗り込んで犬夜叉を睨みつける。 「覚えてろーっ」 途端にそんな間抜けな捨て台詞を吐き、彼はどどどどと重い足音を響かせるほど慌ただしく牛を走らせてあっという間に逃げていってしまう。 「あっさりしてますな」 「あのじいさん、強いんだか弱いんだか」 あまりの引き際の良さに弥勒と珊瑚がぽかんとした様子でそんな言葉を交わす。当然殴った犬夜叉もその傍にいた彩音とかごめも呆気にとられるよう目をぱちくりと瞬かせ、遠ざかっていくその後ろ姿を眺めていた。 だが対する刀々斎はそんな一行とは裏腹に、闘牛の如く駆けていく牛の背で憐れみの感情を抱いていた。 「(可哀想だがあの犬夜叉…殺生丸に殺されるぞ)」 ――なにしろ奴は鉄砕牙の威力を引き出す…“風の傷”すら見えておらんらしいからな。 刀々斎が誰に向けるでもなく一人胸のうちで呟く。 それと同じ頃、しばらく刀々斎を見届けていた一行がようやく背を向けて足を進め始めた。 「ねえ犬夜叉、刀々斎さんほっといていいの?」 「そうよ。せっかく鉄砕牙の生みの親に会えたのに」 「けっ、あんないー加減なじじい…」 彩音とかごめの心配に対して犬夜叉がつまらなそうに吐き捨てたその時、突如背後からどどどどどどどという轟音が聞こえてくる。それに「ん?」と短い声を漏らしたかごめが振り返るのに続いて彩音や犬夜叉たちも音の元へ顔を向ければ、そこに見えてくるのは刀々斎の姿。なにやら凄まじい勢いで土煙を上げるほど必死にこちらへ牛を走らせているようであった。 「戻って来た…?」 「な、なんで?」 「!」 かごめと彩音が呆然と呟くのと同時に犬夜叉がなにかを感じ取ったよう表情を変える。次の瞬間突如落雷のような大きな閃光が弧を描き、逃げ惑う刀々斎へ激しい音とともに襲い掛かった。 どうやら刀々斎は間一髪直撃を避けられたようだが、その風圧に吹き飛ばされたことで顔面から地面にめり込んでしまう。 「刀々斎…逃げ切れると思ったか…」 体の芯を震わせるような低い声を向けてきたのは、今しがた刀々斎を襲った本人――殺生丸であった。鋭く細めた目で刀々斎を見据えながら、バキ…と指を慣らし静かに怒りを表している。 「そこに直れ。犬夜叉ともども八ツ裂きにしてくれる」 どうやら本気で刀々斎を殺しにきたようだ。それが分かるほど剥き出しの殺意を向けられた刀々斎はすぐに犬夜叉の背に隠れ、縮こまるように首をすくめながら犬夜叉に縋った。 「あんなこと言ってる。どうする?」 「けっ。じじい、どうせ殺生丸に新しい刀打つ気はねえんだろ?」 「ない」 「だとよ」 これだけ強い殺意を向けられながらもその気持ちは変わらないようで、刀々斎は気持ちがいいほどにはっきりと言い切ってしまう。そしてそれに続いた犬夜叉もどこか疎ましげな感情を滲ませ、おもむろに鉄砕牙の鞘と柄を握りしめた。 「おれも鉄砕牙や彩音のことで付き纏われんのにゃ、いい加減ウンザリしてるんだ! そろそろ決着つけさせてもらうぜ!」 「安心しろ。今日でそれも終わりだ」 怒鳴るように声を上げながら勢いよく鉄砕牙を引き抜く犬夜叉へ殺生丸は瞬く間に距離を詰める。それと同時に地面を抉るほど強く素早く右手を振るうが、犬夜叉は咄嗟に地を蹴り間一髪のところでそれをかわしてみせた。 「食らえ!」 殺生丸が目の前にいる好機を逃さないよう即座に強く声を張り上げながら薙ぐように鉄砕牙を振り降ろす。しかし殺生丸は眼前に迫るそれに顔色ひとつ変えることなく左腕を持ち上げ、その袖の中から鱗に覆われた竜のような腕を飛び出させた。 「なんじゃあの腕!」 「犬夜叉に斬り落とされた左腕…また代わりの腕をつけて来たんだわ」 「で、でもあの腕じゃ…」 妖怪は鉄砕牙の結界に拒まれ触ることさえ困難だ。その事実に彩音が不安げな表情を見せた――次の瞬間、殺生丸の左腕は躊躇いなく鉄砕牙の刀身を掴み込んだ。それと同時に電撃のような閃光が凄まじく溢れ出し、バチバチバチという激しい音が響き渡る。 「忘れたのか殺生丸! てめえは鉄砕牙の結界に拒まれてるんだぞ!」 「ふっ…気にするな」 「!」 動じる様子を一切見せない殺生丸の右腕がフッ、と空を切る。それをわずか一瞬目にした直後、犬夜叉の左頬に毒を伴った爪が鋭く走った。 たまらず「くっ…」と短い声を漏らした犬夜叉はすぐに殺生丸から飛び退き睨みつける。対する殺生丸は未だパリパリと音を立て結界の名残を見せる左腕を持ち上げるが、余裕があるのかその口元にはわずかな笑みを湛えている。 「この仮の腕…結界を受ける楯代わりくらいにはなる」 「あれ…竜の腕だ」 「え…」 「そこら辺の妖怪の腕よりはずっと丈夫だけど…」 殺生丸が見せつけるよう構える腕を見つめて眉をひそめながら珊瑚が言う。彼女の言葉の通りその腕は確かに丈夫で、あれだけの結界を受けながらもしかと原型を留めているようだが、それでも無数の鱗が剥がれ落ちてわずかに血が滴るほど痛ましいものとなっていた。 その様子に犬夜叉は挑発するよう「けっ、」と吐き捨てる。 「一度刀に触れただけで、ずいぶん痛んでるじゃねえか!」 「これで十分。なにしろ…貴様は“風の傷”すら知らんようだからな!」 「(!?)」 聞き慣れない言葉を放ち向かってくる殺生丸に目を丸くする。だがそれは犬夜叉だけでなく、二人の戦闘を見守っている刀々斎も同様であった。彼に至っては顎が外れたかのように大口を開けて「え゙?」という声を上げるほど。 だが殺生丸がそんなものに構うはずもなく、犬夜叉との距離を詰めては竜の腕で何度も鉄砕牙を打ち払っていく。それを受け止めることで精一杯な犬夜叉はわずかに顔を歪めながら鉄砕牙を弾き飛ばされないよう両手で握り締めるが、絶えず振るわれる竜の腕にどこまでも押され続けていた。 「才覚のない貴様の持つ鉄砕牙など、恐るるに足らん!」 体勢を立て直す隙さえ与えられないほどに竜の腕が鉄砕牙を何度も叩き払う。次の瞬間、目にも留まらぬ勢いで向けられた殺生丸の右腕が鈍い音を立てて犬夜叉の胸を突き込んだ。 その衝撃を一身に受けた犬夜叉は目を見開き、無残にも地面を穿つほど激しく強く叩きつけられてしまう。 「くっ」 「い、犬夜叉っ!」 腹部に深紅の血を滲ませる犬夜叉の姿に狼狽した彩音が駆け寄ろうとしたその時、それを遮るようにして「殺生丸お前…」と口を開いた刀々斎が前に出た。その表情は依然として驚愕そのもの。 「お前には“風の傷”が…読めるのか!?」 「……当たり前だ。読み取ることなど造作もない」 刀々斎の問いにしばしの間を開けては、戯言をと言わんばかりに侮蔑的な視線を向ける。対して、まさか殺生丸がそれを知っているとは露ほども思わなかった刀々斎はあまりの驚愕に言葉を失った。 その様子に眉をひそめた彩音は鉄砕牙を見やりながら呟くように問う。 「刀々斎さん…風の傷って、なんなの…?」 「刀の真の威力を引き出す正しき軌道…いわば鉄砕牙の極意…」 “鉄砕牙の極意”。そんなものがあるなど思ってもみず、彩音はただ驚きを露わにしたまま犬夜叉へ視線を移した。そこに立つ彼は鉄砕牙を両手で構えたまま視線を落とし、本来あるはずの――しかし自分には分からないものに眉根を寄せている。 刀々斎も同様にその姿を真っ直ぐ見据えながら、当惑を体現するようにいくつもの汗を滲ませた。 「(だが“風の傷”は教えられるものではない。ましてや目に見えるものでは…)」 「(風の傷を読む…? どういうことだ!?)」

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