26

奈落の幻影殺から逃れた翌日、一行はかごめの手当てと彩音の治癒によって回復を早め、すでにのどかな平地を歩き始めていた。 しかし桔梗の手に四魂のかけらが渡ったあの時からかごめは落ち込んだまま。いまもなお自転車を押しながら視線を上げられずにいるようで、見兼ねたように労わりの言葉を掛けたのは意外にもあの犬夜叉であった。 「もう気にすんなかごめ。とにかくみんな命は助かったんだ。四魂のかけらはまた捜せばいい」 「うん…ごめんね」 頼もしさすら感じる言葉を掛けられながら、それでもかごめは申し訳なさそうに呟く。 このような事態、これまでの犬夜叉ならばとうに不機嫌になっているはずだ。しかしどうしてか今回の彼は捻くれることも怒鳴ることもしない。 それを不思議に思った珊瑚たちは怪訝そうな目をして、彼の数歩後ろでひそひそと声を交わし始めた。 「犬夜叉らしくないね。なんであんな物分かりがいいの?」 「そりゃあ四魂のかけらを奪ったのが、桔梗さまだからでしょう」 「桔梗相手じゃ怒れないよねえ」 「惚れた女の犯行ではのう」 珊瑚の疑問に弥勒と同様の答えを口にした彩音だったが、当然のようにこぼされた七宝の言葉にはつい口をつぐんでしまう。 “惚れた女”――その言葉がなんだか無性に重く圧し掛かったような気がしたのだ。どうやらそれにはかごめも同じ思いのようで、口を閉ざしてしまいながらじー、と犬夜叉を見つめ始めた。まるで彼の反応を確かめるように、ただ無言で。 その様子になんとなく彩音まで釣られるよう犬夜叉を見やれば、二人から注がれる物言いたげな視線に犬夜叉は思わず「な…なんだよ」と漏らしながら狼狽えるように身を引いてしまう。 「お前らも…おれが桔梗をかばってると思ってるのか」 「違うの?」 「それ以外ないでしょ」 「ばっ、お前らなあっ!」 悩むこともなく当然だと言わんばかりに返す二人に犬夜叉はつい身を乗り出すほど大きく吠え掛かる。 ――だがその瞬間、頭上からなにかが勢いよく風を切るような音が聞こえてきて「ん゙!?」と声を漏らした。どうやらその音はこちらへと向かってきている様子。 一体なにか、と一同が空を仰いだその直後――犬夜叉が傍のかごめを抱えて飛び退き、弥勒が彩音の身を守るよう覆ったと同時に目の前に降り注ぐ、激しい轟音を伴うほどの凄まじい落雷。 まるで爆発のように大気を震わせる衝撃に目を見張り注視すれば、周囲の景色を覆ってしまうほどの煙が立ち込める中心に三つ目の大きな黒毛牛がいた。 それだけではない。その上にはあぐらを掻く痩せこけた老爺がいて、牛と同様の大きな丸い目を真っ直ぐに犬夜叉へ向けている。 「なっ? なんだてめえは!」 「わが名は刀々斎。抜け、犬夜叉」 「(このじじい…おれを知ってる!?)」 「抜かないならこちらからゆくぞ」 迷いなく名前を口にする老爺に犬夜叉が眉根を寄せる間にも、それは老体とは思えないほど軽々と牛の背から飛び跳ねてみせる。それと同時に抱えていた長い柄の金槌を片手で勢いよく振りかざしてきた。 相手が襲い掛かってくる以上対応するほかはない。即座に鉄砕牙を抜いた犬夜叉はかごめたちに「下がってろ!」と声を上げては、刀々斎と名乗る老爺へ斬りかかろうとした。 だが振り下ろされた金槌に刀身を叩かれ、容易く押し戻されてしまう。 ――その時鳴り響いた“ギン”という鈍い金属音。それを聞くなり、刀々斎は呆気なく後方へ飛び退いた。 「ふん、まだまだ音が濁っとる」 「なっ…なんなんだてめえはっ!」 なにやら知ったような口振りの刀々斎が癪に触ったのだろう、苛立ちを露わにした犬夜叉は両手で握り締めた鉄砕牙を高く掲げて刀々斎へと迫る。すると刀々斎は怯むこともなく懐から長い革を取り出し、それをべろんと一舐めしては勢いよく振り下ろされる鉄砕牙を受け止めてみせた。 「えっ!?」 「革で受け止めた!?」 思ってもみなかった光景に彩音や七宝がたまらず驚愕の声を上げる。そんな彼女らの戸惑うような視線を受けても刀々斎は構うことなく、目の前でギリギリと押しつけられる鉄砕牙だけを見定めるように眺めていた。 「あ~あ、刃こぼれしとるじゃないか。荒っぽい使い方しおって…」 「(こっ、このじじい一体…)」 「刀々斎、もうよかろう」 犬夜叉が一層深く眉をひそめた途端に聞こえたのは覚えのある声。同時に眼前へ姿を現したそれを見ては、犬夜叉がわずかに驚いた様子で「冥加じじい」と声を漏らした。 そう、突然姿を現したのは馴染み深い冥加であった。そして刀々斎が彼の知り合いである様子を見るに、敵対する必要はないであろうことを思い知らされる。 ――そうして鉄砕牙を納めた犬夜叉は冥加に誘われるまま、一行と刀々斎とともに大きな木の陰へと身を移して話を聞くこととなった。 「このじじいが…鉄砕牙を打った刀鍛冶だと!?」 突然切り出された思いもよらない言葉に犬夜叉から驚愕の声が上がる。それに冥加が肯定の声を返すと、同様に刀々斎から「いかにも」という声を向けられた。 「お前の親父殿の牙から、鉄砕牙を打ち出したのはこの刀々斎」 「え…じゃあもしかして、この燐蒼牙も?」 「まあな」 思い立った様子で問う彩音に刀々斎は至極当然だと言わんばかりの声を返す。それに彩音は感嘆するよう目を丸くさせて燐蒼牙に触れた。刀を打ち出した本人ならば自分たちが分からなかった燐蒼牙という刀について詳しいはずだ、と考えて。 ようやく燐蒼牙について知ることができる。もしかしたら美琴のこともなにか分かるかもしれない。そんな期待を抱いた彩音はたまらず燐蒼牙を両手で握り締め、すぐさま刀々斎へ詰め寄るように身を乗り出していた。 「おっ、教えてください刀々斎さんっ。燐蒼牙の力とか、どうして美琴さんに与えられたのかをっ…」 咄嗟のことで美琴の名前を出して問うてしまう。だが刀々斎はすでに冥加から彩音の事情を聞いているようで、疑問を抱くこともなく「ほー」と声を漏らしながら彩音の姿を頭から爪先までまじまじと眺めるように見つめた。 「わしは燐蒼牙が誰の手に渡るか知らなんだが…そうか、お前さん…いや、その体の持ち主に渡っていたのか」 「え? 刀々斎さんは知らなかったんですか…?」 「わしゃ犬の大将の遺言で殺生丸に託しておったからな。少しでも気の許せる人間が合えたなら、そいつに渡してやれと」 顎を擦りながら懐かしむように空を仰ぐ刀々斎の姿に彩音は声を失くしてしまう。まさか美琴の手に燐蒼牙が渡ったのが殺生丸の意思――それも、“気の許せる人間”だと感じてのことであったのだから。 二人はそれほど通じ合っていたということか…そう感じさせられる事実に、“美琴を早く目覚めさせてあげたい”という気持ちが一層強くなる。同時に、どこか胸の奥が締め付けられるような微かな感覚を抱いてしまう。 まるで寂しさのような、羨望のような、複雑な感情。そんな言い表しようのないものにたまらずギュ…と燐蒼牙を握り締めていれば、いままで静かに耳を傾けていた犬夜叉がとうとう「で、」と口を挟んだ。 「刀鍛冶がなんの用だ。刀を研ぎにでも来たのかよ」 「ああ。お前がまこと鉄砕牙に相応しい使い手ならな。ただし、資格なしとなれば、鉄砕牙はわしの手で叩き折る」 「えええ!?」 「そ、そんなっ…」 当たり前のようにとんでもないことを口にする刀々斎にかごめと彩音がたまらず目を丸くする。しかし当の犬夜叉は大きな反応を見せず、それどころか刀々斎を威嚇するよう鋭く睨みつけた。 「てめえ、おれを試そうってのか?」 「うむ。わしゃ命を狙われておる」 「あー?」 突然なにを言い出すのか。突拍子もないその言葉に一行は揃ってぽかんとした表情を見せるが、刀々斎の様子を見るにどうやらそれは嘘などではないらしい。 「鉄砕牙に匹敵する刀を打て。さもなくば殺すと、無茶なことを言うバカ者がおってな。そやつからわしを守ってみい」 牛にもたれ掛かるまま腕を組んで言ってのける刀々斎のその言葉に、彩音はどこか引っかかるような思いを抱く。なんとなく、そんなことを言ってしまう人物に心当たりがあるような気がしたのだ。 だがその言葉を向けられた当の犬夜叉はというと、「あのな、じじい」と言いながら刀々斎の頭を容赦なく鷲掴みにした。 「守・っ・て・く・だ・さ・い・だろ?」 「来た」 ぐきぐきと頭をこねくり回す中でこぼされた短い声。それに「ん?」と声を漏らして釣られるよう振り返れば、刀々斎の視線の先、晴れ渡る空の彼方からこちらへ向かってくる白銀の影が見えた。 ――殺生丸だ。 覚えのある姿に犬夜叉たちが「な…」と短い声を漏らしてしまう中、彩音だけは驚きながらも腑に落ちたような感覚を抱く。鉄砕牙に匹敵する刀を求め、できなければ殺すなどという理不尽な要求をするのは彼なのではないか、と薄々感じていたからだ。 無意識のうちに燐蒼牙に触れながらこちらへ迫るその姿を見つめる。その殺生丸は頭を二つ持つ竜のような風貌をした四足歩行の妖怪に乗っており、やがてはそれも空中で手放すように降りてしまう。 そうして彼はフワ…と軽やかに舞うよう地表へ立ってみせた。 「殺生丸…」 「あのっ、おじいさんの命狙ってるのって…」 「いかにもあの殺生丸じゃ」 かごめがまさかという思いで刀々斎へ問えば、彼はいまにも逃げ出したいと言わんばかりの引け腰になりながら返してきた。だがすでに殺生丸の瞳にはその姿がしかと捉えられており、微かに眉をひそめた彼は鋭い瞳で犬夜叉を見た。 「犬夜叉。なぜ貴様が刀々斎とつるんでいる」 「知れたこと。貴様を成敗するためよっ」 「ほお。よほど…死に急いでいると見える…」 意気込みだけは立派な刀々斎の返答に殺生丸は不穏な笑みを浮かべながら妖気をざわつかせる。それと同時にバキッ、と音を立てるほど指を強く曲げれば、怯えた刀々斎は咄嗟に犬夜叉の背に隠れながら「いやっ、」と否定の声を上げた。 「犬夜叉を倒したら、新しい刀を打ってやってもいいかなと…」 「ちょっと! さっきと言ってることが違うじゃないのよっ」 「犬夜叉には殺生丸からわしを守れって言ってたじゃんっ」 「そうじゃったっけ?」 突然の手の平返しに驚いたかごめが声を上げて彩音まで続くも、当の彼はなにも知らないとばかりにぼー…ととぼけてしまう。その“危険を感じたら逃げる”という姿に彩音はやはり冥加の友、類は友を呼ぶんだな…と実感させられていた。 だが殺生丸だけは刀々斎の言葉を好機と捉えたようで途端に口元へ妖しげな孤を描く。 「刀々斎…いまの言葉忘れるなよ。彩音、犬夜叉から離れていろ」 「へ…」 唐突な呼び掛けに彩音は思わず目を丸くして振り返る。しかしいまの言葉が聞き間違いかどうかを確かめるよりも早く、視線の先の殺生丸は犬夜叉へ向かってフワ…と柔らかに跳び上がっていた。 次の瞬間、殺生丸の右手が振り上げられる。 「! はっ!」 「聞いた通りだ。死ね、犬夜叉」 「けっ、返り討ちにしてやらあ!」 躊躇いなく振り下ろされる爪をかわし、犬夜叉はすぐさま応戦するよう駆け出しながら勢いよく鉄砕牙を引き抜く。 やはりこの二人、争わずにはいられないようだ。それを痛感させられる彩音がたまらず不安げな瞳を向けてしまう中、隣の刀々斎が呆れるように愕然とした表情を浮かべていた。 「ああっ、なんと短気な兄弟じゃ」 「って、あんたが焚きつけたんでしょっ」 「余計なこと言うからっ」 二人が勝手に始めたとでも言わんばかりに顔を引きつらせる刀々斎にかごめと彩音はついツッコミを入れずにはいられなかった。

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