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「(“風の傷”って…なんなんだ!? 殺生丸にはそれが見えるのか!?)」 初めて聞く名称。それが一体どういうものなのかも分からない犬夜叉は、鉄砕牙とその向こうに立つ殺生丸の姿をただ狼狽えるように見つめることしかできずにいた。 なにも分からない犬夜叉と、全てを分かっている様子の殺生丸。これでは犬夜叉が圧倒的に不利だろう。それを感じたかごめが焦燥感を露わにすると、すぐさま刀々斎へ縋るような声を上げた。 「風の傷が鉄砕牙の極意なら…犬夜叉に教えてあげて!」 「教えることなど不可能。犬夜叉が自ら悟らなければ」 「そんな…」 この状況を打破する手助けができないという無情な現実を突きつけられてはかごめの表情に一層の不安が差す。しかしその隣の刀々斎は他と違い、こめかみに汗を滲ませながらも犬夜叉へ試すような視線を向けていた。 「(それができなければ…所詮犬夜叉は真の鉄砕牙の使い手ではなかったということ)」 厳しく、しかしどこか期待を秘めた様子で刀々斎は犬夜叉の動きを待つ。だが先にバキ…と音を鳴らすほど指をしならせ強い威嚇を見せたのは、竜の腕を構える殺生丸の方であった。 「ふっ、全く分からん。なにをもって鉄砕牙が…貴様如きを使い手に選んだのか!」 「くっ…」 罵倒するように声を荒げながら地を蹴った殺生丸は再び犬夜叉へと迫り鉄砕牙を打ち払う。そのたびに鉄砕牙が竜の腕を拒み、無数の眩い稲妻を走らせるよう結界を視覚化させた。 それでも殺生丸は怯むことがなく、容赦なく振るわれ続ける腕を受け止めながら後退する犬夜叉は必死に思考を巡らせていく。 「(“風の傷”…なぜ殺生丸に見えておれには見えねえ!? そうだ…以前殺生丸が人間の腕をつけて現れた時…殺生丸はいとも簡単に百の妖怪を斬って捨てた。たった一振り…虚空を斬り裂いただけで…)」 ――そこが“風の傷”だったのか!? 確信に迫るような思いに至ったその瞬間、殺生丸の右腕が勢いよく振り降ろされる。それに「くっ」と短い声を漏らすほど懸命に身を翻しかわした犬夜叉であったが、自身の体が思うように動かず地表を転がるように膝を突いてしまった。 「(力が…入らねえ!)」 「犬夜叉!?」 「腹の傷が痛むのか!?」 「ふっ、先ほどたっぷりと…我が爪の毒を注ぎ込んでおいた。動き回るほどに毒は回っていく!」 動きが鈍る犬夜叉に手加減することもなく声を荒げる殺生丸はバキバキと音を立てながら何度も鉄砕牙を叩き付ける。犬夜叉はそれを懸命に耐え抜くよう両手で鉄砕牙を握り締めていたのだが上手く立ち回ることができず、ついには強く振るわれた右腕に頬を殴りつけられてしまった。 その瞬間、 「もう見てられない! 飛来骨!」 これまで堪えるように見守っていた珊瑚が突如声を上げたかと思えば、咄嗟に「珊瑚!」と声を上げる弥勒の制止にも構うことなく飛来骨を投げ放つ。それが勢いよく回転しながら殺生丸へ迫った――その時、バキ、という硬く強い音が大きく響き渡った。 直後、飛来骨はガララ、と音を立てて地面へと転がる。それに目を丸くした一同が捉えたものは、飛来骨の前で鉄砕牙を構える犬夜叉の姿であった。 「手ェ出すんじゃねえっ。殺生丸はこのおれが…鉄砕牙でたたっ斬る!」 切迫した様子で怒鳴り散らすように声を張り上げる犬夜叉。だが彼はすでに満身創痍であり、その現状と相反する意思に納得のいかない珊瑚はすぐさま抗議するよう身を乗り出した。 「だって犬夜叉…」 「黙って見ていなさい珊瑚。犬夜叉とて、一度だけとはいえ鉄砕牙を使いこなしたことがある」 「偶然だろ」 「例え偶然でも、才覚がなければ出来るものではない」 腑に落ちない様子を見せる珊瑚を宥めるように弥勒が説得の言葉を続ける。 確かに弥勒の言う通りだろう。だが今ここでそれを使うことができなければ犬夜叉の命はない。それを痛いほどに感じる彩音は速まる鼓動を抑えるように胸に手を押しつけ、ただひとつの言葉も発せないままに息を飲んで見守っていた。 その視線の先で、殺生丸がフッ、と音もなく犬夜叉へ迫る。 「助けを拒んだこと…後悔するぞ犬夜叉」 「抜かせ! 見つけてやる!! “風の傷”ってやつを!」 「無駄だ!」 犬夜叉が迎え討つよう駆け出しながら鉄砕牙を振り上げるが、それは竜の腕によって容赦なく押さえつけられてしまう。何度も結界に拒まれ続けて傷つきながらも形を保つそれは、未だ鉄砕牙を押し返すほどの余力を残しているようだ。 それに強く歯を噛みしめながら力を込める犬夜叉は殺生丸を鋭く睨みつける。 「(殺生丸に見えて、おれに見えないわけがあるか!!)」 竜の腕を押し返さんと両手に力を込め、まるで自身へ言い聞かせるように胸のうちで言い放つ。それによって自身を奮い立たせた犬夜叉は鉄砕牙を一層強く握りしめ、ググ…とその身を押し返すと同時に殺生丸の二の腕を掴み込んだ。 「てめえなんかに…負けねえーっ!」 強く大きく声を張り上げたその瞬間、犬夜叉は竜の腕を押し切るように鉄砕牙を振り抜いてはその腕を躊躇いなく断ち斬ってみせる。そこに鈍くも凄まじい音が響かされた刹那、鱗に覆われる竜の腕は殺生丸の体を離れ、地面へボン、と音を立てて叩き付けられた。 「バカが…無駄な抵抗を…」 怯みを見せることなく呆れたようにこぼされたその声にバキ、という音が重なる。そうして殺生丸が指を慣らした直後、躊躇いなく振り下ろされたそれが犬夜叉の目元をザッ、と切りつけるように掠めた。 その瞬間に霧散した爪の毒が犬夜叉の瞳を覆い、その視界に大きな変化を与えてしまう。 「(目が…見えねえ!!)」 激痛とともに暗く閉ざされた視界。だがそれに戸惑う暇もなく、次いで胸に凄まじいほどの衝撃が重く襲い掛かった。殺生丸が殴りつけたのだ。 たまらず息ができなくなるような感覚を抱くと同時、犬夜叉の体は地面を抉りゆくよう強く弾き飛ばされてしまった。 「く…」 「犬夜叉っ!」 殺生丸がいる方角も分からないまま弱った体を起こそうとする犬夜叉へ彩音が不安の声を上げる。しかし殺生丸はその手を止めるつもりがないようで、再び大きく指を曲げるとともにその爪を一層鋭く尖らせた。 「貴様と私では…元々出来が違うのだ。薄汚い半妖が!」 「やめて殺生丸!!」 目を赤く染め、ミシミシと音を立てながら変化の兆候を見せ始める殺生丸へ彩音が必死に制止の声を上げる。だが地を蹴った彼の足が止められることはなく、地面に膝を突く犬夜叉へと迫った。 それを感じ取ったか、犬夜叉は目を閉ざして深く意識を集中させていく。 「(近付いてくる…殺生丸の妖気の渦…風の擦れる匂い…)」 深い闇に取り残されたような感覚の中、犬夜叉は確かに感じられる殺生丸の接近に眉をひそめた。 視覚を失ったいま、己が信じられるものは嗅覚のみ。それを思っては神経を研ぎ澄ますようそれだけに全てを集中させ、鼻孔をくすぐる風の匂いに確かな違和を感じ取った。 「(風の匂いが…違う! 妖気の流れがぶつかるところ――)」 明確な匂いの違いを確信したその瞬間、まるでそこに渦巻く風が視覚化するように鮮明なイメージが広がった。迫りくる殺生丸の前で二つの妖気がぶつかり、大きな亀裂が浮かび上がるイメージが。 ――風の裂け目…この匂いが! 「(風の傷だ!!)」 教わったこともなければ見たこともない。それでも迷うことなく確信した犬夜叉は見えない目を見開き、匂いが示すその裂け目を目掛けて強く地を蹴った。 「(この匂いの軌道を斬れば…殺生丸は死ぬ!!)」 「だめっ…やめて犬夜叉あ!!」 鉄砕牙を掲げ、迫りくる殺生丸へ真っ向から襲い掛からんとする犬夜叉の姿に強い不安をよぎらせた彩音が叫び上げる。そして誰もが制止の声を上げて手を伸ばすもそれらを振り払い、互いに距離を縮めていく犬夜叉と殺生丸の元へ咄嗟に駆け出していた。 その中で彩音の声など届いてもいない犬夜叉が鉄砕牙を大きく振りかぶる。その勢いのまま振り下ろさんとした刹那――彩音が躊躇いなく間へ飛び込み、まるで殺生丸を守らんとするように彼の体を強く抱きしめた。 「(彩音の匂い!?)」 不意に掠めた彼女の匂いに心臓が跳ねる。だがすでに振り下ろした鉄砕牙は風の裂け目に叩き込まれ、そこから放たれた衝撃波が彩音もろとも殺生丸へ襲い掛かった。 「やべっ。みんな来いっ!」 「え…」 「彩音ちゃんは!?」 「いいから来い! 死んじまうぞっ」 凄まじい衝撃波が地面を穿ち始めた光景を目の当たりにした刀々斎がすぐさま牛の陰へとかごめたちを呼び込み身を潜める。それに急かされるまま一同が牛の陰へと入ったその直後、風の傷はけたたましい轟音とともに荒々しく激しい衝撃波を地面に走らせ、いつしか殺生丸と彩音を弾き飛ばしてしまうように彼方へと投げ出していた。 淡く柔らかな光の粒を散らして。 ――やがて衝撃波が消え去り、静けさを取り戻した頃。牛から顔を覗かせた刀々斎が辺りを見回し、泡のような淡い光を舞わせる犬夜叉の姿を見つめて呟いた。 「勝負あったな」 ――犬夜叉の奴…鉄砕牙の極意“風の傷”を嗅ぎ分けおった。 鉄砕牙を振り下ろした体勢のまま表情を硬くさせる犬夜叉に感心のような思いを寄せる刀々斎。だがその隣に膝を突くかごめは怪訝そうに眉をひそめながら彼方を見上げていた。 「(気のせいかしら…一瞬…殺生丸と彩音の体が光に包まれたみたいな…)」 思い返すのは弾き飛ばされた殺生丸と彩音の姿。“風の傷”の衝撃が治まる前、かごめは彼方へと飛ばされる殺生丸と彩音の姿を見ていたのだ。 あまりにも凄まじい衝撃波を受けていたために見間違った可能性もあるが、それは淡い光に守られるよう包まれていた気がした。 しかしそれの真偽も、光の正体もなにも分からない。ただ訝しげに彼らが消えた空を見上げていれば、力を使い果たしたように錆び刀へ戻ってしまう鉄砕牙を握る犬夜叉が見えないはずの目を必死に辺りへ巡らせながら声を上げた。 「彩音は!? 彩音はどこにいる!」 「彩音は殺生丸と一緒に…きっと、殺生丸をかばったんだわ」 「なっ…」 そっと歩みを寄せてくるかごめの控えめな声に犬夜叉は愕然と目を見開く。形容しがたい、ひどく大きな衝撃。それを胸に重く感じながら、見えない目の代わりに嗅覚で確かめんと必死に辺りの匂いを嗅ぎ分ける。 それでもやはり、彩音の匂いは感じられなかった。 本当に…彩音が…? そんな思いが頭の中にじわりと広がりをみせると、途端に鉄砕牙を握る手がこれまでにないような震えを刻み始めてしまう。 「彩音は…彩音と殺生丸は死んだのじゃろか」 「彩音さまは不死の御霊を宿されているから分からんが…殺生丸は恐らく…あの鉄砕牙の真の剣圧をまともに食らっては…」 不安に顔を強張らせる七宝の言葉に弥勒も眉をひそめながら彼方を見つめて呟く。 彼女が危険を顧みず殺生丸を助けに走ったこと、それを止められずさらにはその姿を見失ってしまったこと。様々な後悔に胸の奥がひどくざわつき錫杖を握る手に力が籠もった。 こうしてはいられない、早く捜しに行かなければ。瞬間的に湧き上がるその思いに駆られるよう弥勒が踵を返そうとした――その時、突如刀々斎から「へっ、」と小馬鹿にするような声が上がった。 「なーにが真の剣圧じゃい。笑わせんな」 「! なんだじじい! てめえまだ言いがかりつける気かよ!」 不安で思い詰めていたところへ嘲笑するような言葉を向けられた犬夜叉は怒りに任せて声を荒げる。くすんだ瞳で見えない刀々斎を強く睨みつけるが、彼はなにひとつ気にしていない様子で落ち着いた態度のまま真っ直ぐに見つめ返してくる。 「“風の傷”を嗅ぎ当てたことは褒めてやる。毒で目を塞がれて苦し紛れだったにせよ…な。だが犬夜叉、お前…鉄砕牙を振り切らなかっただろう」 「!」 「直前であの娘の匂いを嗅ぎ取ったこともあるだろうが…どんなに憎み合っていても…殺生丸はお前の兄。兄を殺すほど冷酷になり切れなかったというところか」 まるで諭すようにそう告げられては言葉を返すことができず、犬夜叉はわずかに俯くよう口をつぐんでしまう。しかしその顔を持ち上げた途端、いまにも殴りかからんばかりの勢いで刀々斎へ声を荒げた。 「けっ、ふざけんなくそじじい! あそこには彩音がいたんだぞ! そうでなくても毒で体が痺れて振り切れなかったんでいっ!」 勘違いするなと言いたげな犬夜叉が暴れんとするのをかごめが宥めるように制止する。そんな姿を後ろで見ていた七宝と珊瑚は「元気いっぱいではないか?」「だね」と不思議そうな顔を向けていた。 しかしその視線の先の彼は小さく「けっ」と吐き捨てたのを境に、やがて落ち込むようその顔を俯かせていく。 思うのはやはり彩音のこと。彼女が殺生丸をかばった事実に得も言われぬ悔しさのような感情を抱いて、さらには自身が放った“風の傷”が彼女を傷つけたのだという不安までもが胸を蝕むのだ。 彼女のことを考えずにはいられない。 「(彩音…)」 「さて犬夜叉、鉄砕牙を寄こせ」 唇を噛みしめると同時に向けられた刀々斎の声と痩せ細った手。それを目にした途端“鉄砕牙を叩き折る”と言われていたことを思い出しては「なっ…」と短い声を漏らした。 だが丸々とした目で見つめてくる刀々斎の口から吐き出されたのは、そんな予想とは逆の言葉―― 「研ぎ直してやろうと言っとるんじゃ」 「(え…!?)」

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