20

「(やった…とうとう、奈落を…)」 「(呆気ない…これが本当に、おれが追い続けていた奈落なのか…)」 狒狒の皮に覆われるまま転がる首を見つめ、犬夜叉と弥勒がそれぞれの胸中に言葉をこぼす。同様に遠くで見守るかごめたちも緊張を解きつつあるが、彩音は滲む安堵よりも強い違和感を胸に渦巻かせていた。 というのも、自身を拘束する触手が一向に緩む気配を見せないのだ。まさかこれで終わりではないのか、あるいは奈落が討たれたことで体が硬直しているだけなのか。様々な可能性に思考を巡らせるまま地面の奈落の首を見つめていれば、強張った表情を見せる犬夜叉が首へ足を踏み出した。 「(桔梗を死なせ…おれや美琴…色んな奴を苦しめ続けた憎い仇…) ツラを見届けさせてもらうぜ!」 そう声を荒げるとともに狒狒の皮を掴みその首から剥がすよう勢いよく取り払う。途端、転がるように露わになったその顔に一同は「な!」と声を上げるほど強く目を見開いた。 それはどういうわけか、首から上が鼻の頭ほどまでしかないという異様なものであったのだ。それより上や首下の断面は土の塊のような質感を覗かせているだけで、顔のパーツどころか生物らしい質感はなにひとつ見当たらない。 「なんだこれは…」 「いやっ、犬夜叉っ!」 「! 彩音!?」 突如バキバキという奇妙な音とともに上げられた彩音の悲鳴。それに弾かれるよう犬夜叉たちが振り返れば、拘束される彩音の傍で首を落とされた奈落の体がなおも触手を動かすという不気味な光景が広がっていた。それは複数の触手を高く掲げ、同時に彩音の体を軋ませるようにギリギリと締め付けていく。 「う…犬、夜叉っ…」 「彩音っ。くそ!」 苦しげに顔を歪める彩音の姿に焦燥感を募らせた犬夜叉が即座に触手を断ち切らんと地を蹴る。だがいくつもの触手が彼の行く手を阻むように次々と襲い掛かり激しく地面を穿ちつけた。 あの体は確実に奈落の意思で動いている。それを嫌でも思い知らされたその時、転がっていた首がゴト…と硬い音を立てて起き上がったかと思うとその口元に不気味な弧を描いた。 「くくく…わしは死なぬ…」 「首も生きている…? (どういうことだ!? いや、そんなことより…以前出会った奈落の瘴気は、こんなものではなかった…)」 弥勒は汗を滲ませながらも戸惑う気持ちを抑えて冷静に以前の奈落を思い返す。しかし思考することも許さないかのように伸ばされた複数の触手が再び犬夜叉たちを殺さんと勢いよく迫ってきた。それには弥勒も対処せざるを得ず、犬夜叉とともに触手を迎え撃つよう錫杖で強く叩き払っていく。 その時犬夜叉は鉄砕牙で容赦なく触手を蹴散らしながら隙を見るようにして視線を上げた。 「耐えろよ彩音! いま行くからなっ!」 「くっ…ずっと…耐えてるっ…」 犬夜叉の声に彩音はそう返しながら触手に抵抗するよう力を込めている様子。だがその力は圧倒的なようで、緩まないどころか徐々に体を締め付ける強さが増していることが見て取れた。 彼女の様子を見るにまだ猶予はあるのだろう。だが、それも時間の問題であるはずだ。それを悟った犬夜叉は一刻も早く触手を散らし尽くすべく、襲いくるそれらを激しく斬り払っていった。 ――しかしそれは終わりの見えない繰り返し。犬夜叉たちがどれだけ触手を断ち切ろうと、肉片となったそれらはすぐに寄り集まりビチビチと生々しい音を立てながら新たな触手へと再生してしまうのだ。 彩音はわずかに掠れ始める目でそれを見つめながら、よぎる嫌な予感に強く眉をひそめた。 (あの再生力…まさか、四魂のかけらの妖力を…!?) そう考えすぐに四魂のかけらの光に目を凝らすが、奈落の胴体の下に存在するそれは依然として確かな形を保っている様子。ということは、四魂のかけらは奈落に溶け込んでいないのだ。 時間、そして行動を顧みてもすでに四魂のかけらの力を利用していてもおかしくない頃合いのはず。それなのになぜ… とてつもなく膨らむ違和感に焦燥感を駆り立てられるような思いを抱えながら考えるが、その時、まるで思案することさえ許さないかのような凄まじい力で締め付けてきた触手に「かはっ」と強く息を吐かされた。 (あ…だめ…意識…が…) まともに呼吸をすることも叶わないほど締め付けられ、意識が霞みがかっていくのを感じる。 それと同じ頃、離れた場所で苦悶の表情を滲ませながら横たわる珊瑚が奈落の体を見つめながら深く眉をひそめていた。 「(なぜあたしは気付かなかった…? あんな妖怪と連れ立っていながら…妖気を感じなかった…いや、それどころか今でも…今もあいつは妖気を発していない! あいつ一体…)」 冷静に奈落を観察することで気が付いた違和感。間違いなく妖怪であるはずなのに一切の妖気を纏わないそれに、珊瑚はこれまでの記憶や知識を掘り起こすよう集中した。直後―― 「(そうか分かった! あいつは…) 動かないところを…胸を狙え!!」 「胸!?」 「おのれ…気付きおったか…」 突如犬夜叉たちへ伝えるよう声を張り上げる珊瑚に奈落の首が忌々しげな声を漏らす。直後、犬夜叉は奈落の胸へ狙いを定めるよう鉄砕牙を構えると、襲いくる触手を真っ二つに斬り裂きながら強引に突き進んだ。 「ここかーっ!!」 張り裂けんばかりの声とともに渾身の力で振り下ろした鉄砕牙で奈落の胸を叩き斬ってみせる。それが鈍い音を響かせながら両断された瞬間、独りでに動いていた奈落の首が崩れ、あれだけ多く蠢いていた触手たちも同様に砕けるよう脆く崩れ落ちていった。 すると彩音を拘束していた触手も崩れ、ようやくその身を解放されたのだが―― (だめ…力、入らな…) 気絶寸前で解放された彩音は判然としない意識のまま宙へ投げ出されてしまう。だがその体が地面に叩き付けられることはなく、咄嗟に駆けつけた弥勒の腕の中へしかと抱き留められた。 「大丈夫か彩音」 「あ…ありがとう…弥勒…」 抱き寄せるように力を込めながらこちらを覗き込んでくる弥勒の姿に安堵の笑みを小さく浮かべて返す。すると彼は一層深く彩音を自身へ引き寄せ、彼女の瞳を深く見つめるよう顔を近付けながらそっと囁きかけた。 「すまない。私がいながら、お前を危険に曝してしまった」 「弥勒…」 真に申し訳なさそうに眉根を寄せる彼に少し驚くような思いを抱く。 確かに危険に曝されたことは事実だ。だがそれは彼に落ち度があったからではない。むしろ大した戦力もなくのこのこと危険に近付いてしまった自分の責任だろう。だというのに彼はこちらを責めることなく、そのうえこれほど真剣に謝罪までしている。 それに胸を打たれるような不思議な感覚を抱いてしまっては、そっと正面の双眸を見つめ返す。 そしてどこか温かい気持ちを感じながら、小さく眉を下げて優しく言葉を返した。 「こっちこそごめんね…次は…次は絶対、手を離さないようにするから…」 微笑みかけるように、そっと紡ぐ言葉。それは奈落と対峙した時、弥勒に告げられた“私の手を離さないように”という言葉に対するものであった。 それに気が付いた弥勒は先ほどの彩音のように少し驚いた表情を見せたが、すぐにふ…と表情を緩め、変わらず彼女を見つめながら優しく微笑みかけた。 ――だがその直後、ずかずかずかと荒々しい足音が聞こえてきたかと思えば、突然引き剥がすように彩音を奪われてしまう。それに驚いて二人が顔を上げれば、ひどく仏頂面を見せる犬夜叉が彩音を抱えて弥勒を睨んでいた。 「おい弥勒、てめーいちいち近ーんだよ。またスケベなこと企んでんだろ」 「今そんな空気ではなかったでしょう」 じろ、と疑いの目で睨みながら言う犬夜叉に、こちらもまた呆れたような半眼で言い返す弥勒。そんな二人の様子に彩音はつい苦笑を浮かべてしまっては「まあまあ…」と宥めるような声を向けた。 そんな時、ふと視界の端に土となった奈落の体が映り込む。そこに埋もれる小さなものに気が付いた彩音は犬夜叉に降ろしてもらうと、わずかによろめく足取りで奈落の残骸へと歩み寄った。 そうして目に留めた小さなそれを手に取り眺めてみれば、背後から覗き込んでくる弥勒が「人形…」と微かに口にする。その言葉には彩音だけでなく犬夜叉も不可解そうに眉をひそめた。 「人形…だと?」 「ここに結んであるのは、髪の毛…?」 「ええ。これは傀儡の術です。この髪こそは恐らく奈落のもの」 「傀儡の術…」 弥勒から語られる慣れない言葉を復唱しながら彩音は小さく首を傾げてしまう。 手元のそれは木製の人形で、胴体部分に開いた細長い穴に一本の長く黒い髪が巻き付けられていた。こんなものが先ほどの奈落の本体だというのか…そう不思議に思う彩音がしばらくそれを見つめていると、隣に屈んだ弥勒が手を差し出してくる。 渡せということだろう。それを悟って人形を手渡すと、弥勒はそれに巻き付けられた髪を自身の指へ取り、その主を思うように見つめながらわずかに表情を険しくさせた。 「我々が戦っていた奈落は作りもの…大方、本物の奈落は安全な場所でこいつを操って…」 * * * 「ちっくしょーもー。どーなってんだよ、あの珊瑚って女」 苛立ちを募らせた犬夜叉の不満げな声が上がる。 そんな彼がいるのは退治屋の里。落ち着きを取り戻した一行は珊瑚の意向でここへ戻ってきたのだ。そうしてひとまず彼女の回復を待ち、その間に犬夜叉と弥勒の男手で荒れたこの地の後片付けを進めていく日々を送っていた。 だがあまりに代わり映えしない毎日にとうとう犬夜叉の不満が爆発したようで、彼は崩れた家屋などの木片を火にくべる弥勒へ振り返り、大きな木材を担ぎながら呆れ果てた様子を見せて言う。 「城の場所も、妖しげな若殿のツラも思い出せねーなんてよ」 「がたがた言ってないで片付けなさい。奈落のことです。悪事が露見した時には、戻ってこれぬよう暗示でもかけたのでしょう。それに…よしんば覚えていたとしてもあのケガです。今、珊瑚を動かすのは無理」 「ってもう、十日も寝込んでやがるじゃねえか。おれならあんな傷三日で治るぞ」 「私ならひと月は寝込みますよ」 自分を基準にふんぞり返って言う犬夜叉へ、弥勒は呆れを通り越して冷めた目を厳しく向ける。 ――その頃、彩音とかごめと七宝の三人は犬夜叉たちから離れた小屋に向かっていた。彩音はかごめが持参したタオルなどを入れた桶を持ち、同様に救急箱を抱えるかごめに並んで珊瑚を寝かせている小屋へ足を踏み入れる。 「珊瑚さーん」 「包帯取り替えよ…」 揃って呼び掛けながら明かりもない薄暗い室内を覗き込むが、途端に「いない!」と声を上げてしまう。 どういうわけかそこには使用した痕跡が残る寝床があるだけで、肝心の珊瑚の姿がないというもぬけの殻であったのだ。未だ完治していないため里の外へは出ていないだろうが、やはり心配は拭えない。二人はその場へ桶などを置くと、すぐさま珊瑚を捜しに駆け出した。 だが、その姿は思ったよりも近くに見つかってすぐに足を止められる。見れば彼女は里の隅――そこに連なる里の者たちの墓の前に、ただ呆然と座り込んでいるようであった。 「珊瑚さんっ」 「まだ寝てなくちゃ…」 「お墓…」 駆け寄りながら呼び掛ける二人へどこか虚ろな表情で振り返ってくる珊瑚の小さな声。それに二人は揃って「え…」と漏らしては、そっと彼女に寄り添うよう隣へ歩み寄った。それに伴い、珊瑚は再び墓土の山に儚げな視線を落とす。 「みんなのお墓作ってくれたんだ」 「あ…うん」 「あのままじゃ可哀想だし、みんなで…」 かごめに続くよう囁きかけながらも、珊瑚の表情が気に掛かって声を小さくしてしまう。 浮かない、切なく虚ろな表情。それは目の前で家族を失い、家族同然の里の仲間たちまで全て失ってしまった事実を受け止めようとしているがための悲痛な表情であった。 それを見つめながら、彩音は無意識のうちに自身の元の時代のことを思い出してしまっていた。状況などは大きく違えど、自身も全てを失ったも同然の身。そのため、彼女の気持ちがどこか分かる気がしたのだ。 だが、だからといって掛けるべき言葉が分かるわけではない。頑張って、元気を出してなどとは口が裂けても言えるはずがなく、なにか適切な言葉がないかと悩むままに黙り込んでしまった。 そんな時。同様に言葉を詰まらせていたかごめが突然「あっそうだ」という声を上げた。 「体治ったら一緒に行こ?」 「あ、私もそれに賛成。ほら、犬夜叉も弥勒も、ちょっとアレかも知れないけど…基本的にはいい人だからさ! 基本的には、ねっ」 「基本…?」 ぐっ、と拳を握りながら“基本的”と強調する彩音へ七宝が不思議そうな顔を向ける。だが当の珊瑚はそんな様子に目もくれず、ただ一点だけを見つめるままに閉ざしていた口を小さく開いた。 「あんたたち…四魂のかけら持ってたよね」 「え…うん…なんとかニセ奈落から取り戻せたけど…」 「それじゃ奈落は…またそれを狙ってくるね…それに…奈落はあんたのことも、狙ってるみたいだし…」 そう言いながら珊瑚の視線が彩音に注がれる。それを受ける彩音はわずかに戸惑った様子を見せながら、それでもゆっくりと、確かに頷きを返した。 なぜ奈落が狙ってくるのか、なにか目的があるのか、それらはなにひとつ分からない。だがそれでも奈落は確かに彩音を――否、美琴を狙っているように思えるのだ。 それは彩音だけでなく周囲の犬夜叉たちや珊瑚にすら感じ取れるほどのもので、奈落がまた四魂のかけら同様に狙ってくることは明白である。それを強く再認識した珊瑚は眉根を寄せ、険しい表情を浮かべながら淡々と彩音たちへ告げた。 「いいよ。一緒に行ってやっても」 「珊瑚さん…みんなの仇をとるつもりなのね」 珊瑚の決意の瞳に悟ったかごめが言う。どうやら珊瑚もそれを否定する気はないようで「まあね」と素っ気なく返しながら眼光を鋭くさせた。 「それに四魂の玉は…」 「この里で生まれた…でしょ? その…実は私たち、それが知りたくてここに…って、さ、珊瑚さん」 彩音の話を聞き終える間もなくよろめく体を立ち上がらせて背を向けてしまう彼女に慌てて声を掛ける。すると珊瑚は「珊瑚でいいよ」と返しながらその足を止め、深く俯いていた顔だけをしかとこちらへ振り返らせてきた。 「みんなのお弔いもしてもらったしさ…教えてあげるよ…四魂の玉が生まれた理由(わけ)…」 静かに告げられる言葉。それに彩音とかごめは揃って「え…」と小さな声を漏らしながらわずかに目を丸くさせていた。

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