20

一方、彩音と弥勒は渦巻きながら逃げゆく瘴気を見失わないよう注視しながらあとを追い続けていた。ここで追い詰めなければ、またしても逃げられてしまう。その思いを胸に突き進んでいた弥勒であったが、突如並走する彩音を引き留めるように腕を突き出してガッ、と足を止めた。 それに同じく立ち止まる彩音はよろめくように彼の腕に掴まりながら、眼前の光景に目を丸くする。 「えっ…道がない!?」 「あーっちくしょう!」 愕然とする彩音の隣で弥勒が悔しげに声を上げながら頭を抱え込んでしまう。 そう、彩音の言葉通り二人が足を止めたそこは崖のようになった岩場で道が続いていなかったのだ。数メートル先に同様の岩はあるが、恐らく助走をつけて跳んだとしても届かないであろう。それが分かるからこそ、成す術のない二人はとてつもない焦りともどかしさに苛まれる。 そんな時、なにかが風を切る音が聞こえたかと思うと、その音源――頭上高くに炎を纏う影が姿を現した。その影に気が付いた直後、それは突然二人の体を掬い上げるように背中へ乗せてしまう。 「き、雲母っ」 「ありがたい、乗せてくれるのか」 その影の正体は雲母であったようで、獣の姿で駆けつけたそれは二人の足となり凄まじい勢いで風を切りながら奈落を追ってくれる。 これならば奈落に追いつけるだろう。それを思った彩音が礼代わりに首元を撫でてあげると、背後から「行きましょう」という声とともに弥勒に体を包み込まれるよう支えられた。それに合わせて雲母にしかと掴まれば、その速度は圧倒的なまでに加速していく。 それにより遠ざかっていたはずの奈落との距離は瞬く間に縮められていき、瘴気の渦の中の奈落の姿を視認できるほどに詰め寄ってみせた。 「奈落ーーっ!!」 弥勒から怒号が上げられ、雲母が宙を駆ける速度に乗せて奈落の体を錫杖で力の限り殴りつける。バキ、と響かされた音、手に伝わる感触に確かな手応え――それらを感じた直後、どういうわけか狒狒の皮の下から巨大な肉塊が視界を埋め尽くさんばかりに溢れ出した。 「なっ…!?」 「なに!?」 思わず驚愕の声を漏らしてしまう二人の眼前で、先ほどまでの体からは考えられないほど大きな肉塊が不気味に蠢く。それは血管に似た筋を浮かべるいくつもの触手となっており、突如その切っ先を手の形に変えながらこちらへ襲い掛かってきた。 その光景に目を見張った弥勒が咄嗟に彩音をかばうよう錫杖を振るいそれらを蹴散らしてみせるが、数の多い触手は次々と新たな手を迫らせてくる。 「くっ。彩音、私の手を離さないように!」 「わ、分かったっ」 弥勒の声に応じるよう回された手を強く握りしめる。それと同時に鞘に収めたままの燐蒼牙を構え、弥勒同様に迫りくる触手を叩き払った。 だがその時、弥勒の錫杖を逃れた触手が目の前を過ぎ、即座に絡め取った雲母の首をギリ、と締め上げてしまう。それと同時、勢いよく伸ばされた新たな触手は弥勒の腕を巻き取り雲母から引きずり落とそうとする。それを悟った弥勒はすぐさま彩音を守るよう強く抱き込むと、触手に振るわれるまま背中から地面へダン、と叩き付けられてしまった。たまらず「うわっ!」と短い声が漏れる。 「う…み、弥勒っ、大丈夫!?」 「彩音こそ…怪我は…」 強い衝撃のあと慌てて弥勒の安否を確認するが、彼は自身が下敷きになったというにも関わらずこちらに心配そうな瞳を向けて無事を確かめようとする。その姿に小さく唇を噛みしめながら首を振るえば、弥勒の表情がわずかながら安堵に和らいだ。 だがそれも束の間。不意にミシミシと不気味な音が聞こえ、弥勒は即座に上体を起こすとともに彩音を強く抱き寄せながら音の元を見やった。 そうして二人が振り返った先には、肉塊のような触手を膨張させ軋ませる奈落の姿―― 「くくく…甘く見るなよ…」 「(こ…こいつ一体…)」 せせら笑うような声を向ける奈落の姿に弥勒は息を飲むことすら忘れるほど強く見開いた目を向ける。対して支えもなく自力で宙に浮いてみせる奈落はまるで弥勒たちを取り囲むかのように触手を広げ、滑稽そうに喉を鳴らして二人を見下ろしていた。 「くくく法師…なにを驚いている」 「(奈落のこの体…) まやかしか!!」 「まやかしかどうか…自分たちの体でたっぷりと味わうがいい!!」 「「!」」 奈落の言葉と同時に突如切っ先をキリキリと鋭くする触手が一斉に襲い掛かってくる。途端に弥勒は彩音を背後へ隠すよう立ちはだかり、強く素早く振るった錫杖でそれらを打ち散らしてみせた。 すると肉片となった触手は生々しく嫌な音を立てて地面に叩き付けられた途端、ざわつきを見せながら互いに身を寄せ合うよう合体し再生してしまう。 「くそ、斬っても元に戻る…」 好転しない状況にたまらず疎ましげな声が漏れる。その時巨大な触手が叩き潰さんばかりの勢いで頭上から降りかかってくることに気が付いた弥勒は、咄嗟に彩音を抱き込んでその場を大きく飛び退き触手をかわした。 ――だがその刹那、隙を突くように伸ばされた別の触手が彩音の腕を強く掴み込む。 「あっ…!?」 「! しまった!」 触手の存在に気が付くも遅く、弥勒が後方へ跳ぶと同時に反対方向へ引かれた彩音の体は容易く弥勒の腕から離されてしまう。その刹那、弥勒は咄嗟に彩音へ手を伸ばしたが、それは互いの指を掠めた程度に終わり彼女を取り返すことは叶わなかった。 そうして無慈悲にも彩音は奈落の体の方へと引き寄せられていく。その光景にひどく顔を歪めながら「くっ」と声を漏らし駆け出そうとした弥勒だが、突如彩音を連れ去ったもの同様の触手の手が左足首をパシ、と強く掴み込んでしまう。それによりバランスを崩しかけた――その時、槍のように鋭い切っ先を持つ触手が凄まじい勢いで弥勒の腹部を突き込んだ。 「ぐっ!」 「弥勒っ!」 計り知れない衝撃が襲いくるとともに彩音の悲痛な声が響く。その中ではち切れんばかりに強く目を見開き、“貫かれる!!”と悟った――その瞬間であった。目の前でドカ、と鈍くも激しい音を響かせるほど強く鉄砕牙を叩き込まれ、弥勒の腹部を突き破ろうとした触手が容易く断ち切られたのは。 「いっ犬夜叉!」 「彩音!」 駆けつけた犬夜叉の姿に彩音が安堵を滲ませながら名前を呼ぶ。しかしその声に振り返った犬夜叉は途端に表情を険しくさせた。 それもそのはずだ、声の主である彩音は奈落の体の傍で拘束されているのだから。 見たところ傷は負わされていないようだがそれに安堵できるはずもなく、犬夜叉は奈落への怒りに顔を強張らせ、忌々しげにギリ…と歯を鳴らした。 そうして中々起き上がろうとしない弥勒へ、八つ当たりをするように厳しい視線を振り向ける。 「弥勒、てめえがいながら…なにやってんだだらしねえ…」 溜まらず怒鳴り付けようとしたその瞬間、ギクッ、と走る嫌な感覚に声を止められる。 なぜならその視線の先、地面に横たわる弥勒の腹部には先ほど断ち切った触手の鋭い切っ先が突き立てられていたのだ。その光景には肩の冥加も「さ…刺さっとる」と声を震わせ、同様に遠く離れた場所で珊瑚を支えるかごめや七宝たちの顔までも青くさせていく。 まさか弥勒は…そんな思いがよぎった瞬間、犬夜叉の表情は一層強張った。 「弥勒!」 「! 犬夜叉後ろっ!」 咄嗟に弥勒を起こそうとした犬夜叉へ突如彩音の声が響かされる。それに気付かされるよう背後を見やれば、奈落の触手が犬夜叉の背後、頭上から襲い掛からんと勢いよく迫っていた。すると犬夜叉はすぐさま弥勒の体を抱え込み、触手が容赦なく地面を穿ちつける瀬戸際でその場から飛び出してみせる。 ひとまず弥勒を安全な場所へ連れて行かなければ。その思いで奈落から距離をとるよう跳躍しながら、同時に腕の中で項垂れる弥勒へ必死に声を荒げた。 「弥勒死ぬなっ! (ちくしょう…おれがもう少し早く来ていれば…)」 後悔、苛立ち、様々な思いが激しく渦巻く複雑な感情に汗を滲ませながら強く歯を食い縛るほど顔を歪める。するとその時、一切反応のなかった弥勒が突然ゲホッ、と大きく咳き込んだ。 「しっ…死ぬかと思ったっ!」 「え゙」 大きく上げられた予想外の声に犬夜叉は思わず目を点のようにしてしまう。そしてたまらず足を止めると、弥勒が自身の腹に突き立てられた触手を掴んで一切の躊躇いなくベリッ、と剥がしてみせる。 その様子にはかごめたちや彩音も驚いており、同様に呆然とする犬夜叉は訝しげな表情を見せながら「ん゙~?」と声を上げ、弥勒の腹部を確かめるようにまじまじと見つめだした。 「穴も開いてねえ」 「全く危ういところで…」 戸惑う犬夜叉の眼前で安堵のため息をこぼすようにして言う弥勒はそっと自身の腹を摩る。だがその直後、彼は真っ赤にした顔を引きつらせる犬夜叉によって思い切り頭を殴りつけられてしまった。 「てめえ、紛らわしい顔して倒れやがってっっ!」 「お前勝手に慌てふためいておきながら…」 「やかましいっ。大体なあ、そんな余裕があるならちゃんと彩音を守りやがれっ!」 「おお。そうだ犬夜叉、彩音さまが捕まって…」 「忘れないでよバカっっ!」 怒鳴る犬夜叉に対してぽん、と手を打ちながら平然と言う弥勒の姿に彩音まで思わず声を荒げる。その彩音は未だ触手に拘束されたまま身動きも取れない状態なのだ。まさかその状態で忘れられるとは、と恨めしげな視線を向ければ、弥勒は「冗談ですよ」と言いながら軽い笑みを浮かべていた。 解放されたら絶対仕返ししてやる。そんな思いを抱えながら彩音が彼を睨んでいた、その時であった。不意に体を拘束する触手にざわつきが伝わってくると、傍の奈落が低く唸るような声を発する。 「犬夜叉…生きていたのか。珊瑚は、貴様を仕留め損ねたのだな…」 キリキリ…と触手を鳴らし蠢かせながら向けられる言葉。それに向き直った犬夜叉は眉をきつく吊り上げ、凄むように鋭い瞳で奈落を見据えた。 「奈落…てめえだな! 妖怪の群れを退治屋の里に差し向けて…全滅させたのは」 「ふっ…わしはただ…退治屋の手練れたちは城に呼ばれ、里の守りは手薄だと、妖怪どもに伝えただけ…」 「てめえ…」 狒狒の皮の下でほくそ笑みながら淡々と告げる奈落の姿を前に、犬夜叉は胸くそ悪い感覚に歯を食い縛る。 奈落のその言葉を聞いていたのは、犬夜叉たちだけではなかった。離れた場所でかごめに支えられながら様子を見ていた珊瑚にもしかと届き、彼女の表情を硬く強張らせている。それもそのはずだ、味方であると思っていた者こそが首謀者であったのだから。 それに気付かされた珊瑚が強く目を見張るまま硬直する中、奈落を厳しく見据える弥勒が率直に問うた。 「里にある四魂のかけらが狙いだったのか?」 「ほお…よく知っているな…そう…あれだけの騒ぎの中、取るのは簡単だった」 「てめえそれだけのために、あんなことを…」 「最っ低…!」 犬夜叉の声に続くよう彩音が顔を歪めながら罵声を漏らす。それを耳にした奈落が静かに彩音へ視線を向けようとするが、それを遮るように「奈落!」という強い女の声が響かされた。 それに振り返った奈落は薄く笑みを浮かべるままに彼女を見やる。 「珊瑚か…」 「城の妖怪は…あれも…罠だったのか!」 「無論…貴様ら退治屋を誘き出す口実。そして、あとあと邪魔になる退治屋どもを始末するため…」 苦もなく平然と告げられるその言葉は瞬時に珊瑚の脳裏へ父親と弟の最期の姿をフラッシュバックさせる。最愛の家族は、仲間は、この男のせいで非業の最期を迎えさせられたのだ。その事実を改めて痛いほど実感させられるうちに、珊瑚の目には今にもこぼれ落ちんばかりの涙が震え膨らんでいく。 「貴様ーーっ!!」 途端、怒りを爆発させた珊瑚が咄嗟に飛来骨を掲げながら奈落へ襲い掛からんと駆け出す――だが、それが奈落に届くことはなかった。 彼女の背中に仕込まれていた四魂のかけらが突如弾かれるように飛び出し、それによって隠されていた計り知れないほどの体の痛みが電撃のように全身を駆け巡ったのだ。その耐え難い衝撃に体が崩れ落ちた珊瑚は倒れ込み、痛みに悶えるようひどく地を転がってしまう。 「珊瑚さん!」 「(痛みを止めていた四魂のかけらが…) ち、ちくしょう…」 咄嗟に駆け寄ってくるかごめに支えられながら、成す術もないほどの激痛にひどく顔を歪め悔しげに歯を食い縛る。そんな彼女の姿を滑稽そうに眺めていた奈落は大きく広げる触手をうねらせ、まるで嘲笑うかのような声で言い捨てた。 「ふっ…犬夜叉を仇と信じ、討ち果たして満足しながら死にゆけば良かったものを…」 そんな言葉を並べ立て言い切るが早いか、突如眼前に迫る影に目を見張る。そこには凄まじい剣幕をした犬夜叉が鬼気迫る様子で飛び掛かってきていた。 「てめえはいつもそうやって! 人の心を…」 「どうした犬夜叉。桔梗のことでも思い出したか?」 「くっ。黙れこの外道!」 奈落の挑発に怒り猛る犬夜叉が渾身の叫びとともに鉄砕牙を振り下ろす。その瞬間、奈落の首はズド、という鈍い音を立てて跳ね飛ばされてしまった。弾けた血飛沫が、刎ねられた首が地面へ落ちる。 その光景に“ついにやった”と誰しもが感じた――その視線の中、力なく転がる奈落の首は狒狒の皮の下で人知れず胡乱げな笑みを浮かべる。

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