08

井戸の中で不思議な光と浮遊感を味わったあと、地上へ出てみれば戦国時代の澄んだ風に頬を撫でられる。そして聞こえたのは、木々が揺れる安らかな音。鳥たちの楽しげなさえずり。そんな自然に満ちたこの場所だからこそ感じる穏やかな空気に、彩音はようやく普段の落ち着きを取り戻すような心地よい安堵感を抱き始めていた。 ――そんな時。穏やかな空気の中にほんのわずか、どこか遠くから感じられるなにかの気配のようなものに気が付いた。 (…? なんだろう…この感じ…) 覚えがあるような、懐かしささえ感じるようなその気配。だがその正体がなにかは分からず、どこから感じられるものなのかも把握できない。それに小さく首を傾げた彩音は辺りを見回しながら、先に歩き出してしまう犬夜叉のあとを追うように駆けていった。 ――そうしてしばらく歩けば、やがて遠目に楓の村が見えてくる。しかし見たところ表立った異変は感じられず、未だ楓の言う“確認”とやらがどういうことなのか分かりそうにない。 大して目立つことのない、些細なことなのだろうか。そうぼんやり考えながら足を進めていたその時、突然犬夜叉の足がピタ、と止められた。それだけでなく、彼の顔がわずかに険しく歪んでいく。 「犬夜叉…? どうかしたの?」 「…血の臭いだ」 「え…!?」 呟くようにこぼされた言葉に嫌な鼓動が響く。どうやらそれは微かなものだが、確かに村の方から臭っているという。 楓たちになにかあったのか――たまらずそんな不安をよぎらせると同時に「乗れ、彩音!」と声を上げてきた犬夜叉が腰を屈める。それに彩音が体を預けるが早いか、犬夜叉は即座に強く地を蹴り急速に村へと近付いていった。 ――ザッ、と音を立てるようにして降り立ったのは楓の家の前。あれから数分と経たずして辿り着いたがやはり大きな異変は見当たらないように思う。 ただ少しばかり気に掛かるのは、村の男たちの姿が見えないこと。普段ならば畑仕事などでそこらに姿を見るのだが、いま辺りにいるのはどこか不安そうにざわつく村の女子供や老人たちだけだ。 こんなこと、いままでにあっただろうか。そう考えざるを得ない状況に彩音が眉をひそめた時、不意に「彩音さま!」と声を上げた三人の村の子供たちが慌てた様子で駆け寄ってきた。 「助けてっ」 「上で楓さまたちが…」 子供たちがそう口走ると同時、突如石階段の上から男たちのどよめきが響いてくる。どうやら姿の見えない男たちは楓と共に上にいて、さらにはなにかただならぬことに巻き込まれているようだ。 「犬夜叉っ」 「ああ。妖気は感じねえが、血の臭いは確かに上からだ。行くぞ彩音!」 「うん!」 犬夜叉の声に強く頷き決意を固めるとすぐさま楓の家から弓矢を持ち出す。そして犬夜叉の背中に乗り込めば彼は再び強く地を蹴り、長く伸びる石階段を跳ぶように駆け上がっていった。 「! 楓さんっ」 やがて見えた頂上の鳥居。その向こうに立つ楓の姿に思わず声を上げれば、はっとした表情を見せる楓がこちらへ振り返ってきた。 「彩音…来てくれたか」 鳥居の元へ降り立つ二人の姿に楓はわずかな安堵の色を滲ませる。そんな彼女の装束の左腕部には切り裂かれたような跡があり、微かな赤が染みついていた。 どうやら犬夜叉が感じ取った血の臭いは楓のものらしい。それを悟った彩音がすぐさま治癒に駆けつけようとしたのだが、楓たちの向こうに立ちはだかる大きな影に気が付いては思わず足を竦めるように立ち止まってしまった。 「な…なにあれ…!?」 「鳥…!?」 周囲に散らばる村の男たちが囲むようにしているもの、それは鳥居よりも大きな鳥であった。しかしその姿はただの鳥ではない。長い尾を持ち、まるで不死鳥のように荘厳な姿をしたそれは、体の端々に幻想的な蒼い炎を揺らめかせていた。 もはや神々しささえ感じられるその姿。それに眉をひそめた二人は警戒を緩めないまま、ただ真っ直ぐこちらを見下ろしてくる鳥の目を同様に見つめていた。 「こいつはただの妖怪ってわけでもなさそうだな…」 「な…なんでそんなのが、ここに…?」 この小さくのぞかな村に不釣り合いな姿からたまらずそんな思いを抱いてしまい、息を飲むように相手の様子を窺う。 一体この鳥は何者なのか、なぜこのようなところに現れたのか。鳥を初めて目にした彩音にはなにひとつとして分からなかったが、ふと、どうしてか。胸の奥底のどこかで、その鳥を“懐かしい”と思ってしまうような得も言われない感情が存在していることに気が付いた。 なぜだろう、この鳥を見るのは初めてのはずなのに。そんな不可解な思いに一層深く眉根を寄せながら鳥を見やるが、それもまたこちらを見つめたまま動く気配さえない。 様子を窺っているのだろうか…分からないが、なんとなくこれ以上の攻撃を加えられることはないように感じられる。 彩音はその根拠のない予感に小さく息を飲むよう覚悟を決めると、鳥の様子を窺いながらゆっくりと足を踏み出し、静かに楓の元へ歩み寄っていった。 「楓さん…! よかった、傷は深くない…」 「ああ、少し掠めただけだ。案ずるな」 「ううん、すぐに治さないと…とにかく、こっちに」 そう言って横目に鳥を見ながら、そっと犬夜叉の元へ戻っていく。そして彼の背中に隠れるよう腰を落とせば、犬夜叉が二人の警戒を請け負うように視線を鋭くさせて鳥を見据えた。しかしそれでも鳥は依然として追撃の様子を見せず、ただ真っ直ぐに視線を注いでくるばかり。 もしかしたら、こちらが手を出さない限りは危害を加えてくることもないのではないだろうか。大人しい鳥の様子にそんな可能性をよぎらせていた時、ふと背後で楓の腕の傷に治癒の光が宿され始めた。 ――その瞬間、犬夜叉がかすかに眉をひそめる。目の前の鳥の視線に、わずかながらなにかを感じた気がしたのだ。確信はない、だがそれを確かめずにはいられず、犬夜叉は鳥の視線の先を追うように一層その目を鋭くさせた。 元よりこちらへ向けられている、鳥の視線。その先を見極めるように注視しゆっくりと辿れば、行きついた果てには彩音の姿――淡い光を発する彼女の手があった。 どうやら鳥は、確実に彩音の治癒を見ている。それを悟った犬夜叉はなにを思ったか、しばらく沈黙を保つままに治癒の光を見つめて。やがて鳥の方へ向き直ると、そのまま振り返ることもなく「おい楓ばばあ」と不躾に呼び掛けた。 「こいつは一体なんなんだ。どこから現れた」 「わしにも詳しくは分からん。ただ刀を見つけた時…これは突然姿を現したのだ」 「刀?」 思いもよらない言葉に犬夜叉が怪訝そうな表情を見せる。それは彩音も同じで、つい問い直すような視線を楓に向けていた。すると楓はそんな二人にひとつ頷き、言葉もなくどこかへと振り返っては二人の視線を同じ場所へ誘った。 それは、鳥の足元。よく見れば鳥の足のすぐ傍で、規則的に敷き詰められた石畳が一枚だけ剥がれているのが分かる。それだけでなく石畳の下に見える土までわずかに掘り返されており、そこに埋もれる棒状のものが少しばかり顔を覗かせているようであった。 きっとあれこそが、楓の言う刀なのだろう。 「楓さん、あの鳥は刀を見つけた途端に…?」 「いや…最初はあの刀だけだった…」 そう呟くように言った楓はここへ至るまでの経緯を語り始めてくれた。 ――ことの発端は悪戯好きな村の子供たち。子供たちはここへ来ると宝探しだといって辺りを漁って回っていたらしい。その時外れそうな石畳を見つけて剥がしてしまい、なにかお宝があるかもと子供心に舞い上がって掘り返したのだという。するとあの刀を見つけ、まさか刀が出てくるとは思ってもみなかった子供たちは驚愕。さすがに腰が引けたらしく楓に見てもらったようだ。 そしてそれを目にした楓は、なぜこのような場所に刀があるのかと訝しんだ。 誰も知らない、見たことのない刀。そんなものが“桔梗の墓の傍”にある。それにより、もしや美琴と関係があるのではないかと考えた楓は、現代に行くという犬夜叉に彩音を呼ぶよう言付けた。 その後再び刀をよく調べようと石階段を上がると、そこには好奇心に駆られた子供がいて。伸ばされたその小さな手が刀に触れた途端、蒼い炎が噴き出し激しく燃え上がるよう、あの鳥が現れたのだという。同時に振るわれた攻撃の手から子供をかばい、楓が傷を負った。直後、村は瞬く間に騒ぎになったが、その数分後――彩音たちが辿り着くまでの間、鳥はそれ以上の攻撃を加えることはなく、このように刀の上に佇んでいるという。 ――それが、いまに至るまでの経緯。それを聞かされた彩音は深く考え込むように俯き、当時の状況を想像し振り返っていた。 「鳥が出てきたのは…子供が触れた時…」 気に掛かった点を呟きながら、脳裏で何度もその光景を繰り返し想像する。やがて視線を上げ、刀を見やっては次いで鳥を見据える。その鳥は変わらずこちらをじっと見つめたままだ。 それにほんの小さく眉をひそめながら「もしかして…」と呟いてしまうと、それを聞き取ったらしい犬夜叉が同様の表情を見せてこちらに振り返ってくる。 「彩音、なにか分かったのか」 「犬夜叉…あの鳥、妖怪じゃないのかも知れない」 「はあ?」 突拍子もなく告げられる彩音の答えに犬夜叉はたまらず素っ頓狂な声を上げてしまう。不死鳥のような姿をした巨大なこれを、どうして妖怪ではないかもしれないなどと言えるのか。彼女の思考が全く読み取れずに怪訝な顔をしてしまう犬夜叉が正気を疑うように彩音を見やれば、彼女は鳥の姿を見上げたまま難しい表情で続きを口にした。 「あれは子供が刀に触った時に出てきたんだよね。だとするとさ…あの鳥は、刀を守ってるんじゃないかな」 「!」 「刀を守ってるだあ?」 彩音の言葉に確信を突かれたよう驚く楓に対して犬夜叉は変わらず訝しげに首を捻る。そして彩音に倣い、二人も再び鳥を見上げた。 確かに鳥が攻撃してきたのは刀に触れた時だけで、それ以降はあちらから敵意を向けられることすらない。いまもただこちらを見つめられているだけだ。 それを思えば、彩音の話は十分に辻褄が合っているような気がした。 そのためか楓は強く納得した様子で彩音を見やり、彼女の言葉と照らし合わせるようにもう一度鳥へ視線を移しながら言う。 「彩音はあれを、守護者だと言うのだな?」 「た、たぶん…確証がないから断言はできないけど…」 「……あながち間違いでもなさそうだぜ。その話」 「え?」 唐突に肯定するような声を向けてくる犬夜叉に耳を疑う。なぜなら彼は先ほどまで彩音の言葉を疑い、納得のいかない様子を見せていたのだ。そんな彼がどうして突然手のひらを反すようにそう言ってしまうのか――つい目を瞬かせながら不思議そうに犬夜叉を見つめてみれば、彼はこちらに目を向けながら親指で鳥を指し示してみせた。 「しばらくあいつの様子を見てたが…あいつ、おれたちが来てからずっとお前だけを見てやがる。それも、なにか言いたそうにしてな」 「え…そ、そうなの?」 「ああ。もしかしたら楓ばばあが考えた通り…あの刀は美琴に関係あるんじゃねえか?」 そう言いながら犬夜叉が真っ直ぐ注いでくる視線に彩音はただぱちくりと目を瞬かせる。つい辺りを確認するように見回すが、どう見ても彼が目を向けているのは自分だ。 それを嫌というほど感じとった彩音は、まさか…とでも言いたそうに自分の方へゆっくり指を差す。 「わ…私が行かなきゃ、ダメな感じ…?」 「当たり前だろ。いまの説明でお前以外に誰が当てはまるんだよ」 そうはっきりと告げられると同時に隣の楓がうんうんと頷いてくる。それにはつい「かっ楓さんまで…!?」と声を上げるほど驚愕してしまうが、それだけでなく、ここにいる村人を含めた全員が“任せた”と言わんばかりの目でこちらを見つめてきていた。 この場を納められるのはお前しかいない。まるでそう言われているかのような複数の視線に「ゔ…」と声が漏れる。しかしどれだけ嫌がってもみんなの気持ちが変わるはずもなく、やがて彩音は観念するように渋々首を縦に振ってみせた。 「わ、分かったよ…やってみる…」 そう呟くように答えては静かに鳥を見上げる。確かに敵意は感じられないが、じっとこちらを見つめてくる姿にどうしても嫌な緊張がまとわりついて仕方がなかった。 いや、きっと大丈夫。こちらが攻撃をしなければ大人しいはずだ。こちらの話だって聞いてくれるはず。相手はちょっと体が大きいだけ。中身はきっと普通の動物と変わらない。大丈夫、大丈夫… そう言い聞かせるようにしながら、静かに、ゆっくりと歩を寄せていく。そうして徐々に距離を詰めていった彩音は、とうとう目の前まで迫った鳥へそお…と手を伸ばした。すると鳥はしばらくその姿を見つめ、小さく後ずさる。 警戒させたか、彩音がそう感じて小さく肩を震わせてしまった、次の瞬間―― 鳥は自ら身を屈め、彩音の手に頭を擦りつけてきた。 まるで彩音に懐き、従うようなその姿。途端に村人たちが「おおっ」と歓声を上げて緊張を緩める中、当の彩音は予想外の反応に困惑と戸惑いを露わにした表情を見せていた。そのままただ呆然と、擦り付けられるがままに鳥の頭を撫でることしかできない。 するとやがて鳥はゆっくりと頭を上げ、再び彩音を真っ直ぐに見つめやった。 『我が主…燐蒼牙を…』 「え? り、りんそうが…?」 頭へ流れ込んでくるようなその声に戸惑うまま復唱する。いまの声は目の前にいるこの鳥から発せられたものなのだろうか。そう思うも事実を確かめる間もなく、鳥は突如としてゴオッ、と燃え上がるとそのまま尽きるように小さな光へ変わり果ててしまった。そしてそれは足元の刀へ溶け込むよう、静かに消えていく。 この刀が、鳥の言う“燐蒼牙”とやらなのだろうか。半分ほど土に覆われているそれを見つめる彩音は、未だ状況が飲み込めずに呆然するような感覚のまま刀へゆっくりと手を伸ばした。 「気をつけるのだぞ、彩音」 すかさず楓の忠告が飛ぶ。それを耳にしながらも手を近付ける彩音は指先でそっと刀に触れ、危険がないであろうことを確かめてからそれを優しく持ち上げた。 付着した土がボロ…と崩れ落ちる。それを払うように柔らかく触れながら両手に握ってみるが、それでもあの鳥が再度姿を現すことはなくて。ようやく事態が収束したのだと確信すると、途端に村人たちから安堵のざわめきが広がり始めた。 「やっぱりできたじゃねえか」 周囲が安心しきった様子を見せることに戸惑う彩音へ、犬夜叉はさも当然かのような声を掛ける。それに振り返った彩音は彼の言葉に小さく頷くが、手元の燐蒼牙へ視線を落としながら「でも…」と少し困ったように呟いた。 「こ、これでよかったのかな。私、本当になにもしてないんだけど…」 「あいつが大人しく引っ込んだんだ。なら、これで正しかったってことだろ」 「そう、なのかなあ…」 あまりの呆気なさに釈然としない様子で首を傾げる彩音。しかし周囲の村人にはそれが彩音の力だと思われたようで、次第に集まってくる村人たちから「あのようなものをすぐに治めてしまうとは…」「さすが彩音さま」などと次々に声を掛けられ持て囃されていた。 そんな光景を、楓は感慨に耽るよう静かに見つめやる。 「(やはり彩音は…わしが思っていた以上に不思議な娘のようだ)」 周りの反応に戸惑い困ったように笑む彩音の姿を目に、たまらず改まるような思いを抱いてしまう。そして、同じく思う。きっとこの子には、まだまだ自分たちの知らないなにかが隠されいるのだろう、と。

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