08

空が薄闇に染まり始めた頃。彩音とかごめは息を切らせるほど懸命に駆け続け、ようやく悟のいる病院へと辿り着いた。それと同時、正面玄関から出てきた女性に気が付く。悟の母親だ。それを把握した途端、二人はすぐさま彼女の元へ駆け寄って「あの、すみませんっ」とわずかに大きくなってしまう声を投げかけた。すると悟の母は足を止め、二人へ柔らかい表情を見せてくれる。 「あら、あなた…確か草太くんと一緒にきてくれた…それじゃ、隣のあなたが草太くんのお姉さんかしら。なにか?」 妙に焦った様子の二人を前にしながらも悟の母は怪訝な顔をせず優しく問いかける。二人はその表情を真っ直ぐ見つめながら息を整え、意を決するように顔を見合わせてはかごめがゆっくりと口を開いた。 「亡くなった…真由ちゃんのことで…」 「え…? あなたたち…真由のことなにか知ってるの? あの日のこと…」 (あの日…? それって、真由ちゃんが死んだ日のこと…?) まるで“自分こそ知りたいことがある”とでも言いたげな悟の母の様子に思わず小さな戸惑いを見せてしまう。 彼女は真由の関係者だ。それがどうしてそんな反応をしてしまうのか、と考えてしまう二人に対し、その心境を察したらしい母は神妙な面持ちを見せ、「あの日…」と呟くように当時のことを二人へ話し始めた。 「お母さんのバカ!! なんで参観日来てくれなかったの!?」 「仕方ないでしょ、悟が急に熱出しちゃったんだから」 帰宅直後、ランドセルを片手に部屋へ入った真由が不満そうに怒鳴り声を上げるが、母は悟の看病をしながら厳しさを孕んだ声で諭そうとする。その母の言葉通り、悟はしんどそうにベッドに横たわっており、母の看病がなくてはならないことは明白であった。 ――それを思い返しながら、母は眉間にわずかなしわを寄せる。 「元々弟の悟は体が弱くて、そんな言い合いはしょっちゅうだったから…」 「お母さんも悟も大っ嫌い!」 「真由が表に飛び出した時も、いつものことだと…だけど…」 「奥さん、お宅が火事!」 「いま119番したから…」 激しい黒煙が上がり炎特有の赤が辺りの壁を照らす中、買い物帰りの母へ告げられたのは近所の住人のそんな言葉であった。しかし部屋には一人で寝ている悟がいる。それを思い出した母は途端に駆け出し、炎に包まれる我が家へ躊躇いなく押し入ってはひどい火傷を負いながらも悟を抱きかかえて外へと逃げだした。だが―― 「あの時…真由がうちの中にいたなんて…」 「ダイニングで倒れてたんです。お宅のお嬢さんに間違いありませんか?」 消火作業を終えた部屋に呼ばれ、見せられたもの。それは焼けてしまっていても分かる――紛うことのない、自身の娘であった。 「分かっていれば…戻って助けてた…」 込み上げる涙を堪え、体も声も震わせるほど思いつめる母の姿にたまらず言葉を失くしてしまう。下手な言葉など口にはできない。しかしこの場に相応しい言葉が出てくるはずもない。いたたまれない沈黙の中、セミの鳴き声だけがシャワシャワシャワ…と儚く響く。 その時彩音は切なさに眉根を寄せ、強く感じる思いに手を握り締めた。 (この人の言葉…どう聞いたって、ウソはついてない…) 目尻に浮かぶ涙が小さく震える様はあまりに痛々しく、とても偽りのものには思えない。そう確信を抱くような思いに至ると同時に、だからこそ、あの時の真由の言葉が脳裏に甦る。 ――お母さんはあたしのこと嫌いだったんだ。だから見捨てたんだ。 (違う…そんなはずないよ真由ちゃん…お母さんは真由ちゃんのこと、見捨ててなんかない…) 締め付けられるような錯覚を抱く胸を押さえ、たまらずギュ…と握る手に力を込める。 ――その時、突如病院の方からガシャーン、という激しい音が鳴り響いた。咄嗟に顔を上げれば、最上階の窓が外れ割れたガラスが凄まじい音を立てながら地面へ降り注いでいるのが分かる。 「悟の病室…」 (! まさか、真由ちゃんがもう…!?) 息を飲むように上げられた母の声に悪寒が走る。その瞬間二人は弾かれるように駆け出し、すぐさま悟の病室を目指して階段を駆け上った。お願い、早まらないで。そんな届かない思いを必死に念じ続け、もつれそうになる足で一層速く駆け続けては辿り着いた病室へ勢いよく飛び込んだ。 「真由ちゃんっ!」 「え…!?」 「!」 咄嗟に上げた彩音の声に母が驚愕の表情を見せ、同時に視線の先で一人の小さな女の子が驚いたように振り返ってくる。激しく荒らされた病室の中、念力によってベッドごと悟を窓へ引き寄せるその女の子は、間違いなくあの真由であった。 「ま…真由!?」 あるはずのない姿を目にした母がたまらず声を上げる。怨念が強まりすぎたのか、母にもその姿が見えるようになったらしい。しかしそれゆえに真由が悟を殺さんとする光景を目の当たりにしてしまい、母は手にしていた紙袋を落とすほどひどく強い衝撃に打ちのめされていた。 「真由、どうして…!?」 「うるさい!」 駆け寄ろうとする母に真由が拒絶の声を荒げたその瞬間、病室に転がっていた長机が勢いよく母へ投げつけられた。直後、母は壁に押さえつけられるように容赦なく叩き込まれてしまう。その時頭を強打し気を失ったのだろう、かごめが慌てた様子で彼女の元へ駆け寄るが、それは深く目を閉ざしてその場に力なく横たわっていた。 「……」 その姿に、真由は言葉を失った様子で立ち尽くす。 もしかしたら彼女は一時的な感情に任せて母を傷つけたことをわずかにでも悔いているのではないだろうか。そう捉えられる姿に小さく唇を結んだ彩音は、真由の様子を窺うようにそっと声を掛けた。 「ねえ、真由ちゃん…思い出してほしいの。お母さんはあの日…本当に真由ちゃんを見捨てた? いらないなんて言った…? もしかしたらさ…真由ちゃんが家にいたこと、お母さんは知らなかったんじゃないかな」 彩音の諭すような声に思い当たることがあるのか、真由は開いていた口を閉ざしてほんのわずかに表情を硬くした。そしてなにも口にすることなく、ただ静かに視線を落とす。そうしてなにかを考えているような様子を見せる彼女はきっと、火事が起こったあの日のことを思い出しているのだ。 「あー寒かった」 母に“大嫌いだ”と言い放って飛び出したあと、母が留守の間に帰宅した真由は二段ベッドに括りつけられた洗濯紐に自身のマフラーを投げるよう引っ掛けた。下には大きく湯気を上げるやかんが乗ったストーブがひとつ。その光景を見ていた悟はほんの小さな声で「お姉ちゃん…」と呼び掛けて言った。 「大人がいない時、ストーブの上に洗濯物干しちゃダメなんだよ…」 「うるさいなっ。それより悟! あたしが隠れてることお母さんに言うなよ。心配させてやるんだから!」 真由は有無を言わせない様子でそう言いつけてはすぐに身を潜める。対する悟は熱で弱っているため彼女が隠れると同時に眠りにつき、ただ静かに寝息を立てていた。 そうして重心が大きく偏ったマフラーは誰にも触れられることなく、ストーブの上で立ち上り続ける湯気に緩やかに揺らされる―― 「(あのマフラーが燃えたんだ…あたしのせいだ…お母さんは悪くない。悟だって悪くない…)」 思い出した当時の過ちに後悔や罪悪感といったひどく重い感情を覚え、押し潰されそうなほどの思いに苛まれる。そんな真由の心情を表情のわずかな変化から察した彩音は、様子を窺うようにしながらも彼女へ歩み寄ろうと小さく足を踏み出した。 「…真由ちゃ…」 「そんなこと…」 彩音がそっと声を掛けようとした瞬間に呟かれた言葉。それに思わずえ、と声を漏らしそうになった、次の瞬間―― 「そんなこと分かってるよ!」 突如張り裂けんばかりの声で叫んだ真由からゴッ、と力を放出される。直後、天井にいくつもの深い亀裂が走り照明が弾け、病室の備品と共に彩音たちが激しく壁に叩き付けられた。その衝撃に思わず強く目を瞑り苦悶の表情を滲ませるが、ガタタ、という荒々しい音に悪寒が走り再びはっと目を見張った。 その先には、大きく傾けられたベッドから窓の外へと投げ出される悟の姿―― 「ダメっ! 悟くん!!」 思わず声を張り上げながら咄嗟に窓へ飛び掛かる。その勢いのまま窓の外へ身を乗り出した――その瞬間、頭上から「なっ…」という声が聞こえると同時に首根っこを強く掴み込まれる感覚に襲われた。そして聞こえる、ため息の音。 「ったく見てらんねーな。おめーが飛び降りようとしてどーすんだ」 ひどく呆れた様子の覚えのある声。それに目を見張った彩音が咄嗟に顔を上げれば、病院の外壁に鉄砕牙を鞘ごと突き立ててぶら下がる犬夜叉の姿があった。 「これか? 捜しもんは」 そう言いながら彩音を病室に立たせた犬夜叉はその隣へ降り立ち、抱えていた悟を手渡してくる。どうやら彩音を引き留めただけでなく、落とされた悟さえも助けてくれていたようだ。それを実感するように悟を抱き留めては、怪我ひとつなく助けられたことへの安堵に涙が滲みそうになる。 だが、手を貸してくれた犬夜叉は本来ここにいるはずのない人物だ。真由と関わることに否定さえしていた人。それを思い出しては彼がここにいることが不思議でならず、彩音は滲む涙に揺れる瞳を犬夜叉へと向け直した。 「な、なんで来てくれたの…? 犬夜叉…おれは知らねーって…」 「んなもん、おめーが人の話も聞かずにさっさと行っちまいやがるからだろ」 「ん゙え゙っ…」 突然ぐに、と両頬を引っ張られて変な声が漏れてしまう。確かに最後まで話を聞かず現代へ戻ったことは事実だ。だがそれでどうして頬を引っ張られるという仕打ちを受けなければならないのか。 ついそんな風に考えては理不尽だと感じてしまったのだが、胸にあるのはそれだけでなく。彼の姿とその聞き慣れたぶっきら棒な言い草に、どこか緊張が和らいでいくような温かな感覚を抱き始めていた。 ――しかし対する犬夜叉はというと、まるで思い知らせるかのようにぐにぐにぐにとしつこく彩音の頬を引っ張り続けている。 「うう…いつまでするの(いふまへふうの)痛い(いふぁい)…」 「けっ。話を聞かなかった罰だ」 そう言うなり犬夜叉は引っ張っていた彩音の頬をぱっと放して。それに小さく顔を歪めた彩音は労わるように自身の頬を撫でながら、「頬っぺた伸びるかと思った…」と弱々しい声を漏らしていた。 そんな時、ふと隣の彼が厳しい表情を浮かべて窓の方へと振り返る様子が横目に映る。それを追うように不安げな瞳を彼と同じ場所へ向ければ、病院の外で宙に浮き、両手で顔を覆いながらも凄まじく不穏な空気を周囲に渦巻かせる真由の姿があった。 その様子からすでに危険な状態であることは明白だろう。そんな彼女を見つめるまま、犬夜叉はどこか疎ましげに 「だから関わるなと言ったんだ」 と彩音へ言い聞かせるよう呟いた。 それと同時、視線の先に立つ真由は微かに手を降ろすと、憎悪にまみれた凄まじい剣幕を覗かせる。 「(分かってるけど嫌だ!! このまま死ぬなんて…)」 火事が起きた原因も、母が悟だけを救い出した理由も、全て理解していた。分かっていた。しかしあとに引けなくなった彼女の感情は留まることを知らず、ただやり場のない怒りや憎悪を溢れさせるばかりだ。 「本当のこと突き付けたって…それで成仏できるほど簡単じゃねえんだ。あのガキの霊は来るとこまで来ちまってる。悪霊の一歩手前だ」 言い聞かせるように語る犬夜叉の言葉に彩音は小さく唇を噛みしめて俯く。 元より、簡単にことが治まるとは思っていない。だが今回のことはそんな覚悟さえ容易に上回るほど重く、そして複雑であったというのだ。 それを思い知らされてはたまらず逃げ出したくなるが、あれほど思いつめた真由を放っておくことなどできるはずもなく。彩音は抱いていた悟を静かに床へ寝かせ、隣にかごめが並ぶと同時に改めて覚悟を決め直すよう真由へと向き直った。真に、彼女と向き合おうとした。 ――その時、ホウ…と、聞き覚えのある笛の音が鳴り響く。 「「「!」」」 思わず目を見張った。もう一度笛の音を鳴らされたその瞬間、真由の背後にタタリモッケが姿を現したのだ。だが一同が驚いたのはそれだけではない。タタリモッケのその目が、完全に開き切っていたのだ。 『地獄へ…』 笛の音と共にそのような声が聞こえた途端、真由の腕に物々しい鎖がジャラ…と幾重にも巻き付けられる。直後、真由の両手を縛りつけたタタリモッケはゴッ、と勢いよく飛び、有無を言わせないまま強引に彼女を連れ去ってしまう。その瞬間、彩音の脳裏に冥加から聞かされた言葉が蘇った。 ――目を開き切った時、タタリモッケは霊を地獄に連れていく… 「真由ちゃんっ!」 「……」 咄嗟に真由の名を叫ぶが、怯えた表情でこちらを見つめる彼女は瞬く間に遠ざけられていく。 このままでは真由が本当に地獄へ連れて行かれてしまう。その思いにとてつもない焦燥感を駆り立てられた彩音とかごめはすぐさま犬夜叉へと声を上げた。 「追うよ犬夜叉っ!」 「そうよっ、早く行かなきゃ!」 「まだ分わかんねーのか。もうおめーらの手に負えるような話じゃ…」 「先に行ってるっ」 「っておいっ」 犬夜叉が呆れた様子で説得しようとするが彩音はまたも聞かずに駆け出してしまう。それは彩音だけでなくかごめまで続き、二人に諦める気が全くないことを見せつけられた犬夜叉は「ったく…」と煩わしげに呟いた。 「付き合い切れねえなっ」 突如そんな声を上げた犬夜叉は二人の襟をグイ、と強引に引っ張り込む。そして二人を背に乗せると迷いなく窓へ向かい、病室の床を強く蹴るようにしてその場を飛び出した。 あれだけ否定的に憎まれ口を叩いていたが、それでも手伝ってくれるらしい。そんな彼の姿に感銘を受けるが、彩音がお礼を言おうとした途端に彼は「言っとくが、」と声を上げ、二人へ言い聞かせるかのように強く言い切った。 「おれは霊の扱いなんて知らねえ。おめえらが二人でやるんだぜ!」 「分かった!」 「やってみる!」

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