08

不気味ささえ感じる夜闇の中を飛ぶように駆けていく。焦りから溢れてくる嫌な汗に触れる風が気持ち悪い。だがそれを気にしている余裕もなく、彩音は目先のタタリモッケを見つめながら小さく唇を噛みしめていた。 (地獄へ堕とされる前に…なんとしても真由ちゃんを成仏させなきゃ。そのためにも…私があの子の魂を鎮める!) 意を決するように強く犬夜叉の衣を握り締める。それに犬夜叉が少しばかり視線を向けたと同時、夜空を飛び続けていたタタリモッケが突然急降下を始めた。 唐突な変化――それにいよいよ時間がないことを思い知らされるような気がして、二人は焦燥の表情で犬夜叉を急かすとタタリモッケが消えた場所へ真っ直ぐに向かっていった。 ――煌々と輝く街灯の光さえ届かない団地。風の吹き抜ける音が強く聞こえるこの場所に降り立った瞬間、見覚えのある煤だらけの光景に思わず目を丸くした。 そう、そこは真由の家だった場所。真由が命を落とした場所であった。 どうしてタタリモッケがここに降りたのかは分からない。だが彩音は構わずドアの元へ駆け出し、バン、と躊躇いなくドアを開け放った――その瞬間、部屋一面を覆い尽くすほどの激しい炎が視界いっぱいに広がった。 「なっ…!?」 「こ、これは…」 あるはずのない業火に彩音とかごめは揃って顔を強張らせる。 外から見た時は部屋の中に明かりなど一切見えなかった。だというのに、ドアを開けたそこには眩いほど強く熱い炎が確かに存在しており、いまにも彩音たちへ襲い掛からんばかりに轟々と燃え盛っているではないか。 一体なぜこのようなことに…彩音がそんな思いをよぎらせた時、隣に顔を覗かせた犬夜叉がわずかに眉をひそめながら怪訝そうに問うた。 「彩音、あのガキ火に焼かれて死んだのか」 「そう…火事で、気付かないまま…」 「冥加じじいが言ってたぜ、タタリモッケは死んだ“時”に霊を連れ戻して…そこから地獄に引きずり込むんだと」 「! それで、こんな…」 あるはずのない炎が激しく揺らいでいる理由を知り、たまらず小さく顔を歪めてしまう。あんな幼い子供にただでさえつらい出来事をもう一度経験させるというのだ。いくらそれが悪霊になりかけた者相手とはいえ、タタリモッケのそのやり方はあまりに無慈悲だと感じざるを得ない。 ――そんな思いをよぎらせた次の瞬間、突如あの笛の音が鳴らされると同時に辺りの炎が一同の頭上へ集まるよう大きな渦を巻き始めた。それにはっと顔を上げれば、渦の中心に大きく見開かれたタタリモッケの目がひとつ。それは彩音とかごめの姿を見とめると、突如その炎の体に二人を飲み込むよう勢いよく飛び掛かってきた。 「あっ…!?」 「きゃっ…」 体を包み込まれ強く引き込まれるような感覚――それに思わず身構えた直後、二人の両腕にジャッ、と音を立てて物々しい鎖が巻き付けられた。これは真由を拘束したものと同じ鎖。それに気付いた瞬間、犬夜叉は即座に鉄砕牙へ手を触れた。 「タタリモッケ! てめえなにを…」 怒鳴り声と共に引き抜いた鉄砕牙を勢いよく振り下ろす。しかし変化することのないそれはただ虚しくバシッ、と床に叩き付けられるだけ。その音が響かされる頃にはすでに、周囲を包み込んでいた炎やタタリモッケ、そして彩音たちの姿さえ見えなくなってしまっていた。 「消えた…?」 不可解な状況に漏れ出た声がやけに大きく響く。煤にまみれてひどく荒れた部屋は暗く静かで、ただ割れた窓から吹き込んでくる風だけが不気味な音を鳴らしていたのであった。 * * * その頃、病院では手当てを受けた悟の母が廊下の椅子に座り込み、神妙な面持ちで深く視線を落としていた。それは処置室に入った悟の安否を心配しているだけではない、むしろ今は、あの時見た彼女の姿に思いを馳せていた。 「(あれは幻じゃない…死んだ真由だった。あの日のままで…)」 半年前、火事があったあの日の姿のまま変わらない娘の姿に目頭が熱くなる。いまにも溢れてしまいそうな涙を抑え込みながら、止めどない後悔と罪悪感に押し潰されそうになった――その時、突如処置室からひどく慌てた様子の看護婦が飛び出してくる。 「お母さん悟くんが…」 「え…?」 その様子と言葉に強い不安がよぎる。まさか悟まで…嫌でも考えてしまうそんな思いに駆られるよう処置室へ入っては、「悟っ…」と声を上げながらベッドの上の彼へ駆け寄った。 すると―― 「おかあ…さん…」 母に応えるよう、まだおぼろげな表情で微かに母を呼ぶ悟。その姿を目の当たりにした途端母は短い声を上げるほど息を詰まらせ、抑えきれない涙をその目に大きく滲ませた。 生きていた。目を覚ましてくれた。無事でいてくれた。そんな思いが胸のうちに溢れるまま、たまらず「悟!」と大きな声を上げてしまうほど必死に彼の体へ縋りつき、確かにこちらを見つめる瞳を真っ直ぐに見つめ返す。そこへ傍で見守る看護婦が「悟くん、きみ半年間も眠ってたのよ」と意識を確かめるように優しく囁きかけるが、悟はそれに反応を返すことなく母を見つめるまま。 やがて口を開いたかと思えば「お母さんあのね…」と呟き、その小さな手で自身の胸に置かれた母の手を包むように触れた。 「お姉ちゃん、押し入れの中だよ…早く行ってあげて…」 弱々しくも優しい声で、そう告げられる。当時の記憶が混在しているのか――そう思わざるを得ない状況と言葉であったが、母だけはそれにひどく胸を打たれるような感覚を抱いていた。 * * * 「(熱いよ。助けて)」 凄まじい業火に包まれる中、苦しさに頭を抱える真由はただ一人でそこにうずくまっていた。 肌に触れる炎が痛い。辺りが焼かれていく音が恐ろしい。何度も何度も助けてと胸中で叫び続けるが、ふと、脳裏に甦る記憶に気が付いた。 「(あ…そうだ。あたし…もう死んでる…あの時助けてもらえなくて…)」 いまさら助からない。それを思い知った真由は諦めたように目を伏せ、時の流れに力なく身を任せようとした。だがその時、どこからともなく焦りを含んだ声が響いてくる。 「真由ちゃん! いるんでしょ、真由ちゃん!」 「どこなの、返事して!」 「(おかあ…さん…!?)」 自分を捜す声に希望を抱いた真由は静かに押入れの外を覗き込む。するとそこには、ひどく燃え上がる子供部屋で自身を捜す彩音とかごめの姿があった。 母ではない。それに落胆のような気持ちが芽生えかけたが、そもそも、なぜあの二人がここにいて自分を捜しているのだろう。そんな不可解な思いを抱きながらその姿を見つめていると、はたとこちらに気が付いた二人がすぐさま駆け寄ってくる。さらには、身を屈めるかごめからそっと手を伸ばされた。 「真由ちゃん…さ、帰ろう」 「あんたたち…バッカじゃないの?」 かごめの手から逃げるように後ずさる真由はそう言い、信じられないといった表情を二人へ向ける。 「あたしもう死んじゃってるんだよ。帰るとこなんかないよ!」 反発するように、思い知らせるように強く反論の声を上げた――その瞬間、どこからともなく激しい地響きが轟き始める。音の元は真由の背後か。それに気付いて覗き込めば、彼女のすぐ後ろで目を疑うようなとてつもない地割れが起こっていた。 壁面には縦横無尽に這い回る百足のような不気味な虫。底が見えないながらに感じる恐ろしい気配。その向こうこそが地獄なのだと、嫌でも感じてしまうほどの光景がすぐそこに広がっていた。 「!?」 地面が大きな口を開いた直後、突然真由を縛る鎖がジャララと激しく音を立てて谷底へ引き込まれた。その瞬間、不意を突かれた小さな体は簡単に傾けられる。それに目を見張った彩音とかごめは「真由ちゃん!」と叫びながら咄嗟に手を伸ばし、間一髪のところで真由の右手を強く握ってみせた。 おかげでその体は留められたが、なおも引きずり込もうとする鎖はギリギリギリと軋みを上げながら絶えず真由の左腕を引き続ける。 『地獄へ…』 真由が谷底へ不安げな瞳を向けた時、三人の頭上に見開かれたタタリモッケの目が現れてあの不気味な声を響かされた。それに伴うよう突如鎖を引く力が強まり、二人の腕をズズッ、と壁面に強く擦るほど深く引き摺り込もうとする。 このままでは自分たちも道連れにされるのではないか――そんな思いが脳裏をよぎったが、二人は決して真由の手を放そうとはしなかった。それどころか握る手に一層強く力を込め、いまにも諦めてしまいそうなほど不安げな表情を見せる真由へ律するような声を投げかける。 「真由ちゃん帰るのよ。このままじゃ…だめっ」 「そうだよ。早く帰って…お母さんと仲直りしなきゃ」 努めて微笑みを浮かべる彩音の言葉に真由が心打たれたように目を見開く。かと思えば、彼女はその顔を深く俯けてしまった。 まだ素直になれないのだろうか。そう思いそうになるが、どうやらこれまでのように二人を拒絶する様子はない。むしろどこか罰が悪そうに、とてもか弱い小さな声で呟いた。 「…………てない?」 「え…?」 「お母さん…怒ってない?」 少し言いづらそうにしながら、視線を逸らしたままの真由は素直にそう問いかけてくる。その姿に彩音は確信した。憎しみにまみれていた真由の心が、元の素直な心に戻り始めていることを。 「真由ちゃん…お母さんは真由ちゃんのこと、本当に大好きだと思うよ。…それにね、これは私の話なんだけど…」 そう囁きかけるように言えば、真由はゆっくりと視線を上げる。目を合わせた彩音は柔らかく微笑み、優しく語り掛けた。 「私ね、もう…お母さんがいないんだ。大好きも、ありがとうも、ごめんねも…なにも言えない。真由ちゃんもそうなっちゃったら、すごく寂しいでしょ…? あの時ちゃんと伝えればよかったって、すごく後悔するでしょ…? だから、後悔しないために…ちゃんと仲直りするために…お母さんに、会いたくない…?」 諭すように語り、問いかけてくる彩音の瞳を真由はただ見開いた目で見つめ続ける。彩音の優しくてどこか切なげな眼差しが、彼女の話の信憑性を高く表しているような気がして。それに声を詰まらせるよう言葉を失くしていた真由は、次第に込み上げてくる感情に任せるよう強く目を瞑った。 「(会いたいよ…) もう一度お母さんに会いたい!」 堰を切ったように、涙と共に溢れ出す真由の本音。それが強く響かされた瞬間彼女を引き込もうとしていた鎖が千切れ、二人はすぐさま息を合わせるよう真由の体を引き上げた。すると彼女は途端に泣きじゃくりながら二人に縋りつき、必死に大きな声を上げる。 「仲直りしたかったんだ! 本当はお母さんと仲直りしたかったんだ!」 「真由ちゃん…」 「うん…大丈夫だよ、真由ちゃん…きっとお母さんも、真由ちゃんのことを待ってる…」 体を震わせて泣く小さな背中を撫でながら、二人は優しく声を掛けてあげる。彩音もかごめも共にひどく疲弊していたが、真由の無事を前にしてはそれが表情に浮かぶことはなく。ただそっと、彼女が泣き止むまで寄り添い続けていた。 踏み出された一歩、パキ…と乾いた音が小さく鳴る。割れた窓ガラスを踏んだまま焼け焦げた部屋を見渡すのは、かつてここに住んでいた真由の母であった。 「真由…」 見えない姿に、不安げな声が漏れる。“お姉ちゃん、押し入れの中だよ…”という悟の言葉に背中を押され、真由を捜しにきたのだ。 しかし最後に見た彼女はひどく自分を憎んでおり拒絶さえしていた。そんな彼女がもう一度姿を見せてくれるのだろうか…どうしても、そんな不安を抱かずにはいられなかった。 ――そんな時、 「お母さん…」 「真…由…?」 清々しい朝日を切り取る大きな窓を背に、求めていた姿が現される。ひどく荒れて変わり果てたこの部屋に、なにも変わらない娘の姿。 間違いなくそこにいる彼女の様子を窺うようにもう一度呼び掛けながら歩み寄っては、両膝を突いてその小さな体と目線を合わせた。すると彼女は小さく口を開き、微かな声で言う。 「お母さん…あたしもう行くね」 「え…?」 「ごめんね…」 穏やかながら儚さを覚える表情を見せる真由は、母のこめかみに張られたガーゼに優しく触れる。それは真由が母を拒絶し、壁に叩き付けてしまった時にできた傷であった。しかし彼女が口にした言葉にはそれだけでなく、いままで迷惑をかけてしまったと思う全てのことへの謝罪が込められているのが伝わってくる。 母がそれを理解すると同時、手も体も全てを白く透かせてしまう真由は、やがてその姿を静かに見えなくしてしまった。 「(真由…)」 真由が確かに姿を消して、本当の別れを経て。母の頬には一筋の涙が静かに伝い落ちていく。 ――その様子を彩音とかごめ、犬夜叉の三人がベランダの外からこそ、と覗き込むようにして見守っていた。その中で彩音が思うのは、真由との一連の出来事。彼女が地獄へ墜ちるのを防ぎ、思い残していたことを遂げさせた目まぐるしい時間。それを思い返しながら小さく息を吐いた彩音は、静まり返る部屋を見つめるまま微かな声で呟いた。 「たぶん…これでよかったんだよね…」 正解など分からない。だがそれでも信じてやり遂げたことにそんな言葉を漏らす彩音を、同じ表情を見せるかごめを、犬夜叉は意外そうに頭上から覗き込んでいた。“こいつら、本当に霊を鎮めやがった…”という思いを抱いて。 しかしそれでも褒めるようなことはなく、彼は呆れを含んだ仏頂面で二人に思い知らせるよう言いやった。 「ったく危なっかしい。ヘタすりゃ悪霊のガキと一緒に、地獄に引きずり込まれるとこだったんだぞ」 「…うん…」 犬夜叉の言葉にぼんやりとした返事をしながら、真っ暗な部屋に彼女の姿を思い出す。この数日で何度も目にした、様々な彼女の姿を。 (悪霊…か…) * * * 後日、お見舞いから帰ってきた草太に悟が来週退院すること、悟の母からよろしく伝えるよう言われたことを聞かされた。様々なことがあったが、あの親子は無事に前へ進み始めたようだ。それを草太の言葉から感じながら、彩音は隠し井戸の祠の前へと訪れる。というのも、一度戦国時代へ戻った犬夜叉が再びこちらへ来ると言っていたためだ。 そろそろ頃合いだろうと思っていたのだが、どうやら祠の中に彼の気配はまだ感じられない。仕方がないからこのまま待っていよう、そう考えては祠にもたれ掛かりながらぼんやりと足元の石畳を見つめていた、そんな時だった。 「ねえっ」 不意に覚えのある声が掛けられて顔を上げる。すると、そこには可愛らしい金魚模様の浴衣を着た真由の姿があった。体中に残っていた煤汚れもなくなり、年相応の柔らかい表情をした彼女は彩音を覗き込むように目の前へ降りてくる。 「真由ちゃん。会いに来てくれたの?」 「お姉さんにもお礼くらい言ってから行こうと思ってさ」 「そっか。可愛いね、その浴衣。どうしたの?」 「へへっ、お母さんが縫っててくれたんだ」 そう言って嬉しそうに浴衣を見せてくれる真由の表情はいままでとは比べものにならないほど穏やかで楽しそうで、可愛らしい小さな女の子そのものであった。その様子に彩音がどこか安堵するような思いを抱いた時、ふと真由から「それでさ…言い忘れてたことがあって」と、改まるような声を向けられる。 「たぶんね…お姉さんの気持ちも、ちゃんとお母さんに届いてると思うよ」 「!」 穏やかな表情でしっかりと告げられる言葉に目を見張る。彼女は彩音の話を聞いたあの時からずっと、お礼と共にこの言葉を伝えたかったようだ。 それを耳にした彩音はしばらく言葉を失ってしまい、やがて「うん…そうだね」と小さく微笑みかける。 すると真由は満足そうに笑みを浮かべて。くるりと背を向けるなり軽快な足取りで再び空へ昇り始めた。 「じゃね、ありがと」 そう言い残した彼女は目を閉じた穏やかなタタリモッケの傍へ行き、共に空気に溶けるよう姿を消してしまう。それを見守っていた彩音は、やっぱり彼女は悪霊などではなく、ただお母さんのことが大好きな女の子なのだと改めて確信するような思いを抱いていた。 ――しかし、その表情はやがてどこか気まずそうに俯けられる。 「おふくろの話でもしたのか」 「うわっ!?」 突如あるはずのない声が聞こえて思いっきり跳ね上がってしまう。咄嗟に振り返れば祠からひょい、と顔を覗かせた犬夜叉の姿があり、なにやら不思議そうな顔でこちらを見ていた。 どうやら真由と話している間に戻ってきていたらしい。それに気が付かなかった彩音はばくばくばくとうるさく鳴る鼓動を抑えながら、「あ、あのさ…」とため息交じりの声で言いやった。 「来てたなら言ってよ…心臓に悪いじゃん」 「なんか話してたから待ってやってたんだろ。それより、あのガキになんて言ったんだ?」 そう言いながら犬夜叉は腕を組み、彩音の隣で同じように祠の壁にもたれ掛かる。盗み聞きをされたうえになぜか興味を持たれたようだが、どうして犬夜叉にまで話さなければならないのか…そう思ってしまう彩音であったが、いまはむしろ話してしまった方が気も楽になるだろうかと考え直し、小さなため息をひとつこぼして観念したように口を開いた。 「真由ちゃんを説得する時にね…私にはもうお母さんがいないから、もうありがとうもごめんも言えないんだよって話をしたの。真由ちゃんもそうなったら寂しいでしょって。だから真由ちゃんは気を遣ってああ言ってくれたんだけど…実は私…ちょっと嘘ついちゃって…」 「嘘?」 「うん…」 問い返される声に彩音は困ったような笑みを小さく浮かべて視線を落とす。しばらく気まずそうに毛先をいじっていたのだが、やがてその手を降ろしてしまい、両手の指を交差させるように緩く組ませる。そして祠の屋根の下から覗き込むように、痛いくらい清々しい群青の空を見上げた。 「その…本当は私、お母さんがどんな人だったかとか、全然覚えてないんだ。小さい頃に死んじゃったらしくてさ…だから、お母さんに伝えたいこととか特にないっていうか…そういうこと、考えたこともなかったんだよね」 騙すような真似して、真由ちゃんには悪いことしちゃったかな。そう言って切なく小さな笑み、再び視線を落とす彩音。 ――思えば彼女の身の上話を、それもこれほど切なげに語られたのは初めてで、犬夜叉は思わず目を奪われるような呆気にとられるような、不思議な感覚に包まれるまま彼女を見つめていた。 だがそんな自分に気が付いては、はっと我に返って。途端になんだか落ち着かないような思いを芽生えさせると「まあ、その、なんだ」と口走りながら小さく頭を掻いた。 「別に、いいんじゃねーか? おれだって親父の顔も知らねーし…鉄砕牙を手に入れるまでは親父になにか思ったこともなかったんだ。それにあのガキだって、その嘘のおかげで鎮められたわけだろ。だから悪いことしたかもとかそんなことうじうじ考えてねーで…なんつーか、あれだ…」 「…気にするな…って言いたいの?」 「そおだ」 彩音が代弁するように言えば犬夜叉は食い気味にそう返してくる。それもびしっと決められたつもりでいるのだろう、どこかふんぞり返るような偉そうな態度だ。 そんな姿を見せつけられた彩音は思わずぱちくりと目を瞬かせるまま呆然とするが、しばらくして唐突に小さく拭き出すと、ついにはあはは、と声を上げてしまうほどはっきりと笑い始めてしまった。 「なっ…なんで笑いやがるっ」 「だって、全然言葉もまとめられてないのに、なんか偉そうなんだもんっ。あははっ」 「(こいつ…)」 おかしそうにけらけら笑う彩音に犬夜叉の顔が引きつっていく。せっかく慰めてやろうとしたのに、まさかバカにされるとは。そう思ってしまう犬夜叉は少しふて腐れるように背を向けて「けっ、」とわざとらしく吐き捨ててやった。 「遠慮なく笑いやがって。慣れねえことするんじゃなかったぜ」 「ふふ、ごめんごめん。つい笑っちゃったけど、犬夜叉の気持ちはちゃんと伝わってるから大丈夫だよ。ありがとう」 そう言って彩音はこちらの顔を覗き込んでくる。その表情をちら、と見やれば、確かに先ほどまであった不安や切なさは消え、いつもの明るい笑顔が浮かべられていた。どうやら思うようにいかなかったものの、慰めることには成功したようだ。 それを実感した途端、なんだか気恥ずかしい思いがこみ上げてくるような気がして。つい小さく眉根を寄せてしまった犬夜叉は、このなんとも言えない気持ちを切り替えるべくはあー、と大きくため息をこぼしてやった。 そしていつもの調子を取り戻すように、可愛げのない仏頂面を彩音へ振り返らせる。 「そういえば言い忘れてたが、楓ばばあがお前を呼んでたぞ」 「え、楓さんが? なんで?」 「なんか彩音に確認してほしいことがある…とかなんとか言ってたな」 思い出すようにして言う犬夜叉に彩音は“確認?”と首を捻る。しかしそれがどんなものなのかは犬夜叉も聞いていないようで、さらには彩音だけが呼ばれているというのだから謎は深まるばかりだ。 そうとなれば、早く楓の元へ確かめに行った方がいいだろう。そう判断した彩音は「そういうことは早く言ってよ」と犬夜叉へぼやきながら日暮家の方へ足を向ける。そしてあとについて来る犬夜叉に「忘れてたって言ったろ」と反論されながら、かごめに戦国時代へ向かうことを話しにいった。

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