「ここだよ。悟くん家だったとこ…この公団の一階…」
警戒した様子でそう言う草太と共に二人が足を運んだのは大きな団地であった。吹き抜ける風がザワ…と木々を鳴らす音がやけに大きく聞こえるほど静まり返った場所で、
彩音は背後に隠れてしまう草太に示される部屋を見つめる。
そこは激しく煤にまみれ、割れたガラスがそのままにされた暗く異質な部屋。火事が治まって以来手を付けられていないのだろう、それがよく分かる部屋の状態に、かごめが怪訝そうに小さく眉をひそめた。
「半年経ってるのに…焼け跡片付けてないの?」
「修理しようとすると、事故が起こるんだってさ」
「事故…?」
草太の口から語られたさらなる不可解な出来事に
彩音が小さく復唱する。原因不明の事故。悟のお見舞いに行った子供たちが遭ったものと同じような、不自然な現象。やはりあの女の子となにか関係があるのだろうかと嫌でも考えてしまう。
そんな時、なにやら不安そうにするかごめがこちらへ振り返ってきた。
「ねえ
彩音…」
「…うん」
言葉はなくとも、向けられた彼女の不快そうな表情に同意を返す。かごめも
彩音も、共に感じ取っているのだ。この場所の言い得ない気持ち悪さを。
実際、不可解なことが起きているどころか死人が出た場所だ。そのような異質な気配を感じるのもおかしくはないだろう。
そう理解していてもなお寒気さえ感じる空気にたまらず立ち尽くすよう件の部屋を見つめていた――その時、突如
彩音の髪が背後からギュッ、と強く引っ張られた。
「ぎゃああああっ!!」
「きゃあああああ!!」
「ひいいいいい!!!」
突然のことに驚き思わず大声で悲鳴を上げてしまった
彩音に釣られてかごめと草太まで盛大な悲鳴を上げる。だがそれと同時に背後から「ばぶう」というあどけない声と「あっ」となにかに気付いたような女の短い声が聞こえた気がした。
咄嗟に勢いよく振り返れば、そこには
彩音の髪を掴む赤ん坊を抱いた、いやに顔を強張らせる母親の姿があった。
「ごめんなさいね、そんなに驚かなくても」
「ぶー」
ホラー漫画のように陰影深く顔を強張らせる母親はそう言い残してすたすたと去っていく。どうやら傍を通り掛かったところで彼女の赤ん坊が
彩音の髪を掴んでしまったようだが、あまりにもひどく驚かされた
彩音たちはとてつもなく早鐘を打つ鼓動を感じながら涙目でその背中を見送っていた。
だがそれも遠くなると、草太とかごめが途端に
彩音へ詰め寄るように声を荒げてくる。
「
彩音姉ちゃんのバカっ! 驚かせんなっ」
「そうよ
彩音! びっくりしたじゃないっ」
「ふっ二人だって思いっきり叫んでたじゃん!」
「妖怪と闘ってるくせにこんなことでいーのか~っ」
「あのね草太くんっ、悪霊は幽霊だよ!? 妖怪は生きてるけど幽霊は死んでるの! 対処法分かんないの! 分からないものほど怖いものなんてないんだからねっっ!?」
草太の抗議にこれ以上ないほど必死に言い返す
彩音。
三人とも涙目で強く言い合うが、不意に頭上からギシ…となにかの軋む音が大きく響いてきては揃って硬直するように「ん゙!?」と声を漏らした。そして顔を上げてみれば、建物に備え付けられた縦長の採光窓が軋みを上げているのが分かる。しかし、そこに人影は見えない。窓が軋むほどの風が吹いているわけでもないというのに、それはギッ、ギシ…と何度も鳴き、ついにはパン、と弾けるような音を立てて窓枠から外れてしまった。
「きゃっ!」
「危ない!」
それは
彩音たちを目掛けるように落下し、わずかに身を捻った三人のすぐ傍で激しい音を立てるほど大きくガラスを飛び散らした。しかしそれだけに留まらず、さらには植木鉢や物干し竿、幼児用の自転車などと様々なものが周囲の部屋のベランダから容赦なく無尽蔵に降り注がれる。それらが大きな音を立てて転がり砕けていく中、咄嗟に草太とかごめをかばうよう抱き込んだ
彩音はただ体を強張らせながら強く目を瞑っていた。
そしてようやく静けさを取り戻した時、ゆっくりと顔を上げた先――二階以上のベランダの柵に、堂々と立ちはだかる女の子の姿が見えた。短い二つ括りの髪に厚手のダウンジャケットのあの女の子。それに気付いたと同時にまさか、という嫌な予感が
彩音の脳裏をよぎった次の瞬間――女の子は躊躇いひとつなくバッ、とベランダの外へ飛び降りた。
「あ、危な…!」
「っ!」
かごめが声を上げると同時に
彩音が受け止めに走ろうとするが、女の子は
彩音を避けるよう軽々と降り立ちながら「ばーか、もう死んでるよ」と二人に言いやった。その姿に、
彩音は服装からではない違和感をわずかに抱く。
――“影”だ。確かにそこにいるのに、彼女の足元には影がない。そんな違和感の正体を確かに感じ取れば、やはりこの子は幽霊なのだと確信を抱かされるような気がして。
彩音は静かに意を決すると、様子を窺うようそっと女の子へ声を掛けた。
「ねえきみ…真由ちゃん、だよね。悟くんのお姉ちゃんの…」
そう告げた途端、女の子が確かな反応を見せた。どうやら
彩音の言葉通り、彼女は悟の姉の真由で間違いないらしい。
しかしそれを突きつけられた真由の表情はひどく怒りに満ちているように見えて。どうして彼女がそれほどの怒りを抱えているのか、そう思う
彩音が微かに眉をひそめてしまうと、それに続くようかごめが真由へ声を掛けた。
「どうしてこんなことするの。悟くんにもひどいこと…」
「悟なんか…殺してやる」
かごめの声を遮って放たれた言葉に嫌な鼓動が響く。まさかこんな小さな女の子がそのような殺意を抱いているなど思いもしなかったのだ。だが彼女からは一切の虚勢を感じない。本気だと、そう言わんばかりの気迫さえ感じるようであった。
「お母さんはあたしのこと嫌いだったんだ。だから…見捨てたんだ!!」
憎しみや怒りの混ざった表情を見せながら吐き出される真由の言葉を聞いて、ふと違和感を覚える。どうして悟を殺すという宣言のあとに、このような言葉が出てくるのだろうと。悟のことを殺したいほど憎んでいるのかと思えば、まるで怒りの矛先は母親の方だ。
どこか噛み合わない彼女の言葉に怪訝な表情を浮かべた、その瞬間、
「どうせあたしは…いらない子なんだ」
視線を落とす真由の表情に、今まで見せたこともない切ない悲しみの色が浮かんだ。寂しげに潤む目が、微かに揺れる。その姿を目の当たりにした
彩音とかごめはその瞬間、即座に彼女の思いを悟った気がした。
――だからこそ、このままではいけないと強く思わされる。
「真由ちゃん…もう、やめよう…? 真由ちゃんのお母さん優しそうな人だったし…真由ちゃんがこんなことしてるって知ったら、お母さんすごく悲しむと…」
「うるさい!!」
真由が
彩音の説得を遮り叫んだ瞬間、建物に備え付けられていた配管パイプがバキ、と派手な音を立てて折られてしまった。それは凄まじい勢いで飛び、真由へ差し伸べていた
彩音の腕を強く叩き付ける。それでも真由は悪びれる様子など一切なく、すぐさま踵を返して地を蹴った。
「邪魔したら…あんたらも殺してやるからっ」
「っ…待って真由ちゃ…」
――ホウ…
彼女を追おうとしたその瞬間、突如周囲の空気が一変する。同時に聞こえたのは、独特な笛の音。弾かれるように背後へ振り返れば、そこにはわずかに目を開いたタタリモッケの姿があった。
初めて目にする妖怪の姿。
彩音とかごめが揃って顔を強張らせると、それはもう一度笛の音を響かせる。
『目が開くまで…』
繰り返しホウ…と笛を吹くタタリモッケから聞こえた言葉。まるで頭の中に直接響くようなそれに硬直していると、やがて遠くから蝉の鳴き声や風に揺られる木々の爽やかな音が微かに聞こえてきていることに気が付いた。
「あ…?」
意識がわずかに自然へと向いた一瞬。その一瞬の間に、どういうわけか周囲を包んでいたはずの不思議な空気が跡形もなく消え去っていて、たまらずほんの小さな声が口を突くように漏れ出でた。
まるで、全てが夢であったかのような出来事。だが自分たちの傍に散らばる破片や三輪車などを目の当たりにしては現実だと信じざるを得ず、
彩音はただ虚空を見つめたまま先ほどの言葉を頭の中に反芻させていた。
(…目が、開くまで…って…どういうこと…?)
いくら考えても答えの見えない言葉。あの妖怪は一体なにを伝えようとしていたのか。そもそもあの妖怪は何者なのか、真由と関わりがあるのだろうか。
なにひとつ分からない
彩音はただ呆然と立ち尽くし、微かにズキズキと痛みを響かせる腕を静かに押さえ込んだ。
* * *
「なに? タタリモッケは目を閉じていなかったのか!?」
そう驚いた声を上げるのは二人から話を聞いた冥加だ。
妖怪のことならば冥加に聞くのが手っ取り早いだろうと思って訪れたが、やはり彼はその妖怪を知っている様子。その言葉に頷いた
彩音は井戸の縁へ腰掛け、同じく隣に座るかごめ、その指に乗った冥加へ体を傾けながら言った。
「半開きって感じだったけど…確かに閉じてはなかったよ」
「タタリモッケ…っていうの? あの妖怪」
思い返すように言う
彩音に続いて問いかけるかごめへ、冥加は小さく頷きながら「うむ、
彩音たちの国にもおるのか」とどこか物珍しそうな顔を見せてくる。どうやら彼は現代にもタタリモッケがいるとは思っていなかったようだが、
彩音たちがその姿を見て関わりがあったと言うと、要望通りその妖怪のことを語ってくれた。
「本来は子供の霊を慰める妖怪でな、魂鎮めの笛を吹きながら、子供が無事、成仏するまで見守ってやるのだが…」
「もし…成仏できなかったら…?」
「悪霊になりきる前に…タタリモッケが地獄に連れて行くんじゃ」
冥加から語られる言葉に胸の奥がヒヤリとするような嫌な錯覚を抱く。彼の話から察するに、“目が開くまで”というタタリモッケの言葉はリミットを示していると考えて間違いないだろう。そのリミットがどんな要因で迫りくるのか自分たちには定かではないが――あの目が開き切った時、真由がタタリモッケの手によって地獄へ連れて行かれてしまうことは確実だ。
それを噛みしめるように考え込むと、
彩音は一人静かに頷いた。
(地獄に連れていかれる前に…なんとしても、真由ちゃんを成仏させてあげないと)
そう決意を固めるようにして力強く立ち上がった――その時、「やめときな」というぶっきら棒な声が投げ掛けられた。それは少し離れた場所で背を向けて聞いていた犬夜叉のもの。どうやら呆れているらしい彼は
彩音の決意を悟ったようで、顔を振り返らせては厳しい目を向けてくる。
「幽霊は妖怪と違ってな、たたっ斬ってどうなるってもんじゃねえんだ。ヘタに触るとケガじゃすまねえぞ」
「それでも…ほっとけないよ」
「そうよ。それにあたしはこう見えたって神社の娘なんだから、きっとなにかできることが…」
彩音に続いて立ち上がったかごめも意気込むようにして呟く。だがそんな彼女たちの話を聞き入れる気もない犬夜叉は寝転び、「けっ、」とつまらなそうに吐き捨ててしまった。
「バカじゃねーのかお前ら。おれは知らねーからな。そんななんの得にもならねー話…それよりな
彩音、おれはお前に聞きてーことが…」
「…二人はとっくに帰ったぞ」
「え゙」
七宝の言葉に犬夜叉は思わず間の抜けた声を漏らして振り返る。すると確かに二人の姿はなく、こちらの話を一切聞く気がないということをしっかり思い知らされてしまった。
――その頃、当の
彩音とかごめは井戸の中の不思議な浮遊感に包まれるまま、小さな小さな彼女の姿を思い出していた。“どうせあたしは…いらない子なんだ”と話す、切ない彼女の姿を。
(あの時の真由ちゃん…すごく悲しい顔をしてた…あんな顔を見せられて、ほっとけるわけない。早くあの子を止めないと…!)