ドドドドドと流れ落ちる滝が岩肌や水面を叩き付ける鈍い音を絶えず響き渡らせる。そんな洞窟の最奥で
彩音たちは変わらず身を寄せ合っていた。
彩音たちが鋼牙の企みに協力することになったいま、すぐにでも実行に移るかと思っていたが意外にも
彩音の回復を待ってくれるという。そしてその間に戦の準備を進めるそうで、鋼牙は三人を残したままあっさりと洞窟を出て行ってしまった。
残された
彩音たちは数頭の狼たちに取り囲まれ、鋼牙の仲間の男たちからの視線も浴びる状況。逃げ出すどころか下手な動きさえできるはずもなく、ただ息を飲むようにして静かに佇んでいることしかできなかった。
そんな中で
彩音は見張りの狼たちの向こう、鋼牙が出ていった滝の方を見つめていた。
その脳裏に甦るのは、鋼牙が洞窟を出る前に
彩音へ向けた言葉。
「もしなにかあったらこいつらに言いな。おれが戻るまで、ちゃんと安静にしてろよ」
そっけなく言い残されたその言葉は、あっさりとした態度とは裏腹に気遣いを感じるものだった。
こんな言葉、本来なら“ありがとう”で済む話だろう。だがこれを放ったのは自身を強引に攫って利用しようとしている、横柄な態度の敵。そんな相手からまさか突然こちらを案じるような言葉が出てくるなど思ってもみず、それを向けられた
彩音はそのちぐはぐな状況に戸惑いを感じ始めていた。
それに、鋼牙に意外だと感じさせられたのはこれだけではない。仲間の狼たちがなにかを訴えるように擦り寄ってきたのに対し「もう腹減ったのか? 仕方ねえ奴らだな」と困ったように言うと、道を開けるよう狼を抱えては「なんだ、またおめえら重くなったんじゃねえか? どいつもこいつも食い意地ばっかり張ってやがる」と呆れたように、けれど愛情を感じさせるように優しげな声色でぼやいていた。
その姿が最初に感じた荒さ、乱暴さからはとてもかけ離れているような気がして、彼への印象が揺らぐような不思議な感覚があった。
(あいつ…荒っぽくて横暴だけど…実はいい奴、だったりするのかな…)
ふとよぎった、そんな小さな可能性。そう考えてしまうくらい、不思議と憎み切れない相手だ。
そんなわけないのに、あいつは悪い奴なのにと思ってしまう気持ちも捨てられないまま相反する気持ちを抱えては、なんだかペースを乱されるような振り回されるようなおかしな感覚に陥って、慌てて思考を掻き消すようにぶんぶんと頭を振るった。
いままさに捕らわれている状況で、なに相手を見直しそうになってるんだ。いけないいけない、と考えを改めて頬をぱん、と叩いたそんな時、目の前に立ちはだかっている七宝の姿が目に付いた。
彼は鋼牙が去ってからというもの、ずっと
彩音とかごめに手を出されないよう両手を目一杯広げて壁となってくれている。勇敢な彼のことだ、きっと“おらが二人を守らねば”と意気込んで気を張ってくれているのだろうが、意志とは裏腹にその小さな体は小刻みに震えていて怯えを隠しきれていない様子。
そんな姿を目にした
彩音は再び胸のうちにじわりと罪悪感の波が広がるのを感じた。
「ごめんね二人とも…私のせいで巻き込んじゃって…七宝も怖いよね…」
「こ、怖くなんかないぞ。おらは立派な妖怪じゃからなっ」
「
彩音はなにも悪くないわ。気にしちゃだめよ」
七宝は変わらず震えながらも強く、かごめは小さく笑いかけて言う。
責められても仕方がないと覚悟していたのに、返ってくるのは頼もしい声ばかり。それに緊張を解されるような温かい気持ちを抱かされると、
彩音は「ありがとう…」と口にしながらわずかに表情を和らげた。
そんな時、すぐ傍にザッ、と足音を鳴らされる。それに釣られるまま顔を上げてみれば、そこにはどういうわけか大きな猪を肩に担いだ鋼牙が立っていた。
「その様子じゃもう平気そうだな。日が暮れたら出掛けるぞ。腹ごしらえしときな」
彩音の様子を見てそう言った彼は担いでいた猪を
彩音たちの目の前にでん、と置いてみせる。
しかしそれは火どころか刃物すら通っていない、ありのままの猪。いくらなんでも猪をそのまま食べられるはずがなく、反応に困ったかごめは「ごめん…食欲ない」と遠慮するようにあしらった。それに続いて
彩音も「い…今はいい」と拒否する。
――だがその直後、
彩音の腹からぐううぅ~、と情けない音が大きく鳴り響いた。
「「「……」」」
聞き間違いだと、気のせいだと誤魔化せるようなものではないその大きな音に鋼牙まで揃って黙り込む。途端に周囲の視線を集めてしまった
彩音はみるみるうちにかああ、と顔を赤くし、観念したように「や…やっぱり、少しだけ…」と小さく手を上げた。
連日まともな食事をとっていないうえに治癒の力を使いすぎている体だ、もう我慢の限界だったのだろう。そう分かっていながらも自分の腹を怨んだ
彩音は縮こまりながら、しばらく火を通してなんとか食べられる形にしてもらった肉を遠慮がちに口に運んだ。
かなり究極的な空腹のおかげか、はたまた獲れたて新鮮なおかげか。味付けなどされていないジビエでもすごくおいしく感じられてつい目を輝かせる。そのまま夢中で貪ってしまいそうになりながらもなんとか落ち着いてもくもくと食べ進めていた――そんな時。なにやら鋼牙がじろじろじろとこちらを品定めするように眺め始めたことに気が付いた。さらには顎に手を添えながら「ふーん」と感心するような声を漏らされる。
「な…なによ」
「…そんなに見ないでくれるかな…」
さすがに気に掛かったかごめが訝しげな表情を浮かべるのに続き、食べている姿をじっくり見られることだけでなく先ほど腹を鳴らしたことも相まって羞恥心がこみ上げてきた
彩音はそっと視線から逃れるように身を引いてしまう。
それでも鋼牙は二人を眺め、ついにはその口元に不敵な笑みを湛えてみせた。
「かごめと
彩音…とか言ったっけ…お前らよく見ると可愛い顔してるな」
「「……はあ?」」
「よし決めた。お前らおれの女になれ」
「はああ?」
(な、なんかこのセリフ…前にも聞いたような…)
あまりに突拍子がなさすぎる言葉にかごめが愕然とすると同時に
彩音はデジャヴを感じてしまう。まさか戦国時代で二度も“おれの女になれ”と言われるとは思わず困惑してしまうが、それでもやはり強引でストレートな告白には慣れなくてついほんのりと頬を赤くしていた。
そしてその言葉に驚いたのは
彩音たちだけではない。彼の仲間である妖狼族の男たちにとってもそれは想定外だったようで、途端に戸惑いを露わにしながらぞろぞろと詰め寄ってきた。
「こ、鋼牙。用が済んだらその女ども喰うんじゃねえのか?」
「大体人間の女だろーがよ、そいつら」
「ばーか、こいつらは四魂のかけらが見えるんだぞ。それにさっき見たろ。
彩音は傷を治しちまうような、すげえ力まで持ってやがる。そこら辺の妖怪女よりよっぽど役に立つぜ」
「え…それじゃ、ケガなんて恐くねえし…」
「四魂のかけらが全部集まるってことか!?」
「そうさ。そうすりゃおれたちの群れは無敵だぜ」
鋼牙の言葉に表情を明るくした男たちへ鋼牙が頼もしく笑んで言う。もはや
彩音たちが口を挟む間もなく勝手に盛り上がっているようだが、こちらは一度もそれを承諾した覚えはない。
このままでは駄目だ、そう感じた
彩音が慌てて抗議の声を上げようとした時、不意に振り返った鋼牙が一層こちらへ近付いてきた。かと思えば、彼はかごめの手を取り立ち上がらせ、
「そういうこった。分かったなっ」
その言葉とともにかごめの腰に手を回してぐい、と強引に体を引き寄せた。
直後――
「ちょっ…触んないでよバカ!」
ぶゎち~ん。
そんな乾いた音が洞窟に大きく木霊するほどのビンタが鋼牙の頬へ叩き込まれる。突然のことでわずかによろけるよう後ずさった鋼牙がぽかんとした表情を見せる中、周囲に集まっていた男たちが怯えた様子で一気にどよめき始めた。
「鋼牙を殴った」
「あ、あの女殺されっぞ」
「え゙っ、殺され…!? ちょ、ちょっと待った!」
ざわめく男たちの声に強く焦った
彩音が慌てて身を乗り出すように大きな声を上げる。突然のことに一同が揃って
彩音へ視線を注ぐと、いざ視線を集めた
彩音はその視線の多さに驚いてどぎまぎしてしまいながら、「その…ご、ごほんっ」とわざとらしく咳払いをした。
「か、かごめにはもう付き合ってる男がいますので! ので、あ、あんたのものになんかなりませんっ」
注目された緊張と焦りのせいか変な敬語混じりの言葉でそう宣言してしまう。それでも
彩音は信じさせるため、じっと耐えるように鋼牙を見据えた。
――なぜこのようなことをしたのか、それは
彩音がかつて同じような状況でかごめに救われたことがあるのを思い出したからだ。そのため同じ方法を使えば鋼牙を離せるはずだと考えたのだが、なぜだか鋼牙から反応らしい反応が窺えない。
まさか疑われているのだろうか…そう焦った
彩音はかごめからも後押ししてもらおうとすぐさま訴えるように見つめて言った。
「ねっ、そうだよねかごめっ」
「えっ…そ、そうね」
……ん?
思わずそんな声が胸のうちでこぼれる。どうしてか同意を求めた彼女は頬を赤らめ、戸惑いと照れくささを表すように少しばかり目を泳がせたのだ。
話を合わせるだけならそのような反応はしないはず。そう疑問を抱いた
彩音まで戸惑いを感じてしまいそうになれば、それまで黙っていた鋼牙がわずかに眉をひそめながら問う。
「その相手は…犬っころか?」
「犬夜叉よ! 犬っころなんて言わないでっ」
鋼牙の声に弾かれるよう向き直ったかごめが強く反論する。その様子から信憑性を感じたのだろうか、鋼牙は「へ~~~~~」と口にしながらかごめを窺うようにじろじろじろと見つめ始めた。
「嘘じゃねえんだな?」
「そうよ」
よほど疑っているのか、鋼牙が再び確認の問いを投げかけるがかごめは変わらず言い切ってみせる。するとしばらくしてようやく納得したのか、鋼牙がかごめから一歩引いて腕を組んだ。そしてどういうわけか、その口元にはふっ、と不敵な笑みが浮かぶ。
それに気が付いて怪訝に思うも束の間、鋼牙は
彩音に近付くなりその肩に腕を回して強引に抱き寄せてしまった。
「じゃあ、
彩音はおれがもらっても問題はねえってことだな」
「……ん゙!?」
なにやら話がおかしな方向に向いていないか、そう感じた時には
彩音の体はすでに鋼牙に引き寄せられるまま彼の体に密着させられていた。
どうやら鋼牙にとってはこれが思惑通りの好都合だったようで、その表情には満足げで強気な笑みが浮かべられている。
「おれは元々
彩音に目を付けてたんだ。犬っころなんかにはちょっともったいねえ気もするが、かごめはくれてやる。それで文句ねえだろ?」
「いやっ、いやいやいや、なに言ってんの!?」
当然のように吐かれるあまりにも横柄すぎる鋼牙の言葉に
彩音は目を白黒させてしまう。
目を付けていたというのは“四魂のかけらが見えるから”であったはずだ。それは今回の極楽鳥の親玉捜しに協力させるためで、自分の女にするためではなかったはず。
混乱のあまり慌ててそう頭を整理しながら後ずさろうとするが、肩をがっちりと掴まれているようで逃げることすら叶わなかった。これではどうすることもできない。もはや戸惑いに体を硬直させるばかりだ。
彩音がそうして動けずにいた、そんな時、足元でふるふるふると小さく震えていた七宝がついに「待たんかい!」と威勢のいい声を上げた。
「残念じゃが、
彩音も犬夜叉の女じゃ! お前の手には渡らんぞっ」
「し、七宝!?」
ものすごく当然のように、堂々ととんでもないことを言い出す七宝に愕然とする。
彼が自分を助けるために咄嗟についた嘘だということは分かる。だがこれでは犬夜叉がただの女たらしのようではないか。そう感じてしまいながらも鋼牙の表情を盗み見てみれば、
「…本当か?
彩音」
彼は訝しげな表情でそう問いかけてくる。
当たり前だ。疑われるに決まっている。いくら取り繕ってもこれはすぐにバレてしまうだろう。そう思ってしまっては返答に困り、「えっと…」と言い淀んでしまう。
するとついにはかごめまでもが身を乗り出すように顔を迫らせてきた。
「本当よっ。あたしたちはそれを承知で、犬夜叉と付き合ってるの」
そうはっきりと言い切るかごめの姿。それはまるで演技をしているようには見えないほど真剣なものであった。
その気迫に
彩音はたまらず言葉を失ってしまう。しかしやがて声を発しようとした時、同じく黙り込んでいた鋼牙が不意に「へっ面白え」と笑い飛ばし、
彩音の顔をくい、と向き直らせた。
「じゃあ、その犬夜叉とやらが…この世から消えれば問題ねえわけだ」
「え…」
「なんにしたってあの野郎、今度会ったら、ぶっ殺してやるつもりだったからな」
強気な笑みではっきりと言い切る鋼牙に目を丸くする。というのも、正面にある彼の青い瞳から、脅しではないことがしかと窺えてしまったからだ。
ああ、失敗だ。思い返してみれば、かつても犬夜叉の女だと嘘をついて“犬夜叉を殺せば…”という話に発展してしまっていたのだった。なぜそんな大事なことを忘れていたのだろう。そう後悔の念に苛まれると同時に、この先訪れるであろう二人の接触に身を震わせる。
犬夜叉と鋼牙はあの時の戦闘を見る限り互角だ。だが鋼牙は四魂のかけらを使っており、二人とも未だ本気で闘ってはいないはず。もし鋼牙が本気を出し、四魂のかけらの力で犬夜叉を圧倒してしまったら…
そんな不安がよぎり眉をひそめる
彩音の足元で、彼女の思いを感じ取った七宝がこっそりと自身の手元に視線を落とした。そこに握られるのは、白い斑点模様の鮮やかな赤いキノコ――
「(二人とも…もう少しの辛抱じゃ。おらが密かに蒔いてきたキノコの胞子、そろそろ育つ頃じゃ。きっと犬夜叉はおらたちを見つけてくれる)」