仲間たちの視線がまっすぐこちらへと注がれる。だがそれは“
彩音”ではなく“
美琴”に向けられたもの。さらには全員がまるで始めからその人物と接していたかのように自然な様子を見せていて、それを目の前にする
彩音はただただ呆然とするまま、感情と同様、徐々に瞳を大きく揺らし始めていた。
「ね、ねえ…私、だよ…?
美琴さんじゃ…なくて…
彩音…」
もしかしたらなにかの悪い冗談かもしれない。驚かせようとしているのかもしれない。そんな望みに似た思いを湛えながら、
彩音は縋るように訂正の声を小さく吐き出した。
だというのに――
「
彩音?」
「誰ですか? その
彩音というのは…」
当然のように首を傾げ、不思議そうに問うてくる仲間たち。そのうえお前は知っているかとばかりに顔を見合わせる姿は、どう見ても演技でもなんでもない真剣な様子であった。
みんなは本当に、ここにいる人間が“
美琴”であると認識している。そして“
彩音”という存在は、みんなの記憶から完全に抜け落ちてしまっている――
(なん…で…)
理解ができないまま、絶望に似た思いに苛まれる。胸の奥にひどく冷え切るような嫌な感覚が広がった途端、体は小さく震えを刻み始めていた。
誰にも認められない。誰にも分かってもらえない。それはいつか自分が生まれ育った時代へ帰ることができた日にも味わったもので、それが再び、それもあるはずのない場所で、あるはずもない人たちに味わわされている。
それがなによりつらくて悲しくて、耐えがたくて。いつしか
彩音は無意識のうちに一筋の涙をこぼしていた。
――その時、不意に背後からサク…と小さな足音を鳴らされる。それに気が付き震える瞳で振り返ってみれば、そこには長い銀色の髪を揺らす殺生丸の姿があった。
どうしてここに殺生丸が…そんな思いとともに、
彩音の中には希望に似た感覚が芽生えた。
そうだ、殺生丸ならば分かってくれるはずだ。
美琴と深い関係であった彼ならば、彼女との違いに気が付いてくれるはず。まるで確信にほど近い思いを抱えながら縋るように手を伸ばし名前を口にしようとした――その瞬間、パシ…と乾いた音が響かされた。
「紛い物が…貴様のせいで、
美琴は甦らぬのだ」
「え……」
忌み嫌い、蔑む瞳で吐かれた言葉。それはあまりにもひどく冷たい残酷なものであった。
叩き払われた手が痛む。しかしそれ以上に、強く忙しない鼓動を繰り返す胸の方がずっと痛く、苦しかった。
それは、信じていた者に分かってもらえなかったからということだけではない。その言葉が、自身も考えたことがあるものであったからだ。
自分がいるから
美琴が甦らないのではないか。自分が邪魔をしているのではないか、と。
美琴を救うとまで言った自分が、その存在を拒んでしまっているのではないかと――
可能性として芽生えさせながらも考えないようにしていたこと。それが事実なのだと容赦なく突きつけられた今、
彩音の頭の中は、胸のうちは、“自分が
美琴の存在を否定している”という思い一色に埋め尽くされていた。
なにも考えられない。声を出すことさえできない。ただ静かに、仲間たちの顔色を窺うように顔を上げた。するとそれらは自分を取り囲むように立ち、底の知れない深淵のように光のない瞳でこちらを見下ろしてくる。
「偽物だ」
ポツリ、犬夜叉が言葉を吐いた。それは先ほどまでとは違い、
彩音の存在を認めながらも否定する、とても冷酷なもの。
それを浴びせられた
彩音は、いつしか唇を微かに震わせていた。
「ち、違うよ…私は…」
「偽物よ」
「違う! 私は偽物じゃないっ、
彩音だよ!! 分からないの!?」
続くようなかごめの声にたまらず声を荒げるも、みんなはなにひとつ反応を見せることなく暗い瞳で見つめてくる。温度のないそれが怖くてたまらなくて、息を詰まらせた
彩音はその目から逃げるように頭を抱えてうずくまった。
体の震えが大きくなる。それに伴って、仲間であるはずの人たちが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「偽物じゃ」
「違う…違うのっ…」
「偽物だろ」
「私は偽物なんかじゃない…!」
「偽物でしょう」
「もうやめてっ!!」
耳を塞ぐように頭を抱えるまま叫び上げる。それによって訪れた一瞬の静寂。それを切り裂くように、眼前に立ちはだかった殺生丸が告げた。
「貴様は
美琴の偽物だ」
「いやああああっ!!」
「
彩音!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げたその瞬間誰かに腕を強く掴まれる。両耳を塞いでいた手を無理矢理剥がされ、それを引き込むようにして体を抱きしめられる感覚に包まれた。
思わず目を見張る。気が付けば、目の前には覚えのある紅が広がっていた。
「犬…夜、叉…?」
「落ち着け。それは全部奈落が見せた幻だ…現実じゃない」
グ…と抱きしめられ囁かれる言葉に、その温もりに緊張の糸が解けていくような感覚を抱く。
幻――先ほどまでの光景は、全て嘘であったというのだ。それを実感させるように、先ほど仲間とともに存在を否定していたはずの彼が今こうして自分に寄り添い助けてくれている。
その事実に形容しがたい感覚を抱きながらも徐々に落ち着きを取り戻していくと、やがて犬夜叉がそっと体を離しながら顔を覗き込んできた。
「お前にはおれがついてる。だからもう大丈夫だ、“
彩音”」
宥めるように告げられるその言葉とともに彼が口にしたのは、紛れもない自分自身の名前。それを耳にしては、抱えきれないほどの安堵が溢れ出すような感覚があって。途端に込み上げてくる涙を押さえることができないまま、みっともなくボロボロとこぼすほどに泣き出してしまった。声を上げるほど、泣いてしまった。
それでも犬夜叉は嫌な顔ひとつせず
彩音の頭を胸に抱き寄せ、自身こそ傷だらけで疲弊しているであろうに
彩音のことばかりを気遣って背中をさすってくれていた。ずっと、寄り添ってくれていた。
――その手がやがて静かに止められる頃、
彩音は落ち着きを取り戻し始めて静かに犬夜叉の胸から顔を離した。どうやら涙もほとんど止まったらしい彼女は目元を拭い、「もう大丈夫…ありがとう…」と口にする。
その姿を目にした犬夜叉は頼もしい笑みを小さく見せながら、
彩音の頭をぽん、と撫でるように触れた。
どうやら犬夜叉曰く、彼は五十年前に桔梗に射抜かれた日のこと、弥勒は右手の風穴に飲まれてしまうことと、それぞれの一番弱いところに付け入るような幻を見せられていたようだ。
それから抜け出すことができた犬夜叉は始めに見つけた弥勒を助け、彼に珊瑚たちを任せて
彩音とかごめを捜しにきたのだという。
だが、彼の姿はあってもかごめの姿が見当たらない。
「かごめは…まだ見つかってないの?」
「ああ。早いとこ見つけねえと、あいつも幻を見せられてるかもしれねえ」
「そうだね…すぐに捜しに行こう」
犬夜叉の言葉に
彩音は頷き、グ、ともう一度涙を拭いきって力強く言う。
いつまでも立ち止まってはいられない。彼女だって同じように苦しい思いをしているかもしれないのだ。そう考えることで改めるように気を正し、背中を差し出してくれる犬夜叉に乗り込んでその場を離れた。
犬夜叉の嗅覚、四魂のかけらの気配を頼りにかごめの元へ向かっていけば、次第に木がまばらになり開けた場所が見えてくる。すると地面を埋め尽くさんばかりの蔓が広がるそこに、桔梗の姿を見つけて目を丸くした。
それだけではない、彼女の眼前――足元に大きな口を開いた地面の縁にしがみつくかごめの姿まで見える。
それは桔梗が地割れに落ちかけるかごめを見殺しにしようとしているのか、あるいは桔梗が、かごめを――
「かごめっ!」
「い…犬夜叉!
彩音!」
「……」
嫌な憶測がよぎった
彩音が咄嗟に声を上げたことでこちらに気が付いた二人から視線を向けられる。命の危機が迫り緊迫するかごめと違い、桔梗はただ涼やかな表情でこちらを見据えていた。
どうやらかごめに手を貸すつもりは一切ないらしい。それを悟ってはすぐに地割れを飛び越え、犬夜叉の背から降りた
彩音がすぐさまかごめを上へと引き上げた。
「大丈夫!? かごめ…」
「き…桔梗が…あたしを…」
「「なっ…」」
彩音に縋りつきながら震える声で告げられた彼女の言葉に
彩音と犬夜叉が愕然とする。
あの光景を見た瞬間にまさかと思いはしたが、本当に…? そう感じざるを得ない状況とかごめの言動に
彩音は眉をひそめて桔梗を見つめた。すると彼女は胸の前で右手を握り締め、
「四魂のかけらをもらっただけだ」
抑揚のない声でそう話す。見ればその手からは見覚えのある華奢なチェーンが覗いており、桔梗がかごめから四魂のかけらを取り上げたことは一目瞭然であった。
その様子に犬夜叉は汗を滲ませるほど顔を強張らせる。
「桔梗お前…」
「こんなものを持っているから…かごめは命を狙われる…恐らく奈落はかごめの体を溶かし…残った四魂のかけらを取るつもりだったのだろう」
そう語られる桔梗の言葉を聞いて地割れの内側を覗き込めば、底にまるで溶岩のように濃密な瘴気が満ちているのが分かる。ゴボ…と音を立てるほど濃度の高いそれに触れれば犬夜叉でさえ危険なはずだ。そんなものに、かごめを…
それを思えばたまらず奈落への怒りが込み上げてくるが、その時視界の端で見えたかごめの表情はどこか違ったもの。まるで桔梗の正気を疑うかのような、なにか言いたげな表情をしていたのだ。
それに気が付いた
彩音が小さく眉をひそめかけたその時、微かに大気がざわめくような気配を感じる。その元へ咄嗟に振り返ってみれば、どこからともなく現れた複数の死魂虫が桔梗を絡め取るように集い、そのまま彼女の体をフワ…と宙へ持ち上げていった。
「き、桔梗っ」
「どこに行く!」
「……」
彩音と犬夜叉が咄嗟に声を上げるが返事はない。彼女はただこちらを真っ直ぐに見つめたまま、空をも覆い隠す霧の向こうへと静かに消え去ってしまった。
桔梗は一体なにを企んでいるのか――それも分からないまま
彩音は自身が支えるかごめへ振り返り、目線を合わせるように顔を覗き込みながら問いかけた。
「…かごめ…桔梗と、なにがあったの?」
「……だから…四魂のかけらを取られて…ごめん」
「そんなこと聞いてるんじゃねえっ。桔梗はまさか…お前まで…」
求めていた答えが出ないことに犬夜叉が痺れを切らしたよう問い詰める。それでもかごめは眉根を寄せるばかりで、押し黙ったまま俯き続けていた。
「(…やっぱり言えない。殺されそうになったなんて…なんかやだ。告げ口するみたいで…)」
わずかに表情を硬くするかごめは人知れず胸中でその思いを吐き出す。そしてわずかに顔を上げると、どこか不安げな表情で犬夜叉を見つめながら口を開いた。
「犬夜叉…まだ桔梗のこと…好きなんでしょ?」
「な゙…なっ、なに言ってんだよこんな時に」
驚きながらも動揺を露わにしてしまう犬夜叉。おかげでかごめには「なに焦ってんのよ」と言い返されていた。
その時、
彩音はかごめのその問いかけでなんとなく悟っていた。
犬夜叉は未だ桔梗のことを想っているだろう。だからこそかごめは、あの誰が見ても分かる状況――桔梗がかごめを殺さんとしていた事実を、彼女が悪者であるという話を彼にしたくはないはずだ、と。
そう思い至った
彩音はひとまずこの場を取り仕切るように二人の間へ割り入った。
「この話はここまで。色々気になると思うけど…犬夜叉は桔梗派で、向こうに肩入れしちゃうでしょ。だから話し合いも平行線になると思うし、とりあえずは一旦終わりとします」
「なんでお前がそんなこと…第一、なんだよその桔梗派って」
「そうでしょ? 私たちより桔梗桔梗じゃん」
不服そうな犬夜叉へ咄嗟に言い返してしまい、はっとする。ここまで言うつもりはなかったのに、つい言いすぎてしまったと。これは性格が悪い、そう思って後悔のような念を抱いてしまうと同時に、すぐさま“なんでもない”と取り消そうとした。
だがその刹那、
「ば、ばかやろうっ。おれはなあっ、お前のこと思い出したからこうやって…」
犬夜叉が途端に身を乗り出すほど強く反論の声を上げてくる。しかし
彩音はそれに驚きながらも言葉の意味が理解できず、ぽかんとした顔を見せて立ち尽くしてしまった。
なぜ突然こちらのことを思い出したなんて話になっているのだろう。そもそも、思い出したというのはいつ、どこでの話なのか。なにひとつ分からないまま呆然と犬夜叉を見つめていれば、彼は唇を結んで黙り込むまま視線を落とした。
「(あの時
彩音を思い出さなかったら…おれは奈落の罠で…桔梗の幻にとり殺されていた)」
思い返すのは、奈落の幻に囚われていた時の光景。五十年前のように桔梗によって胸に矢を打たれ、炎に包まれる中で彼女に優しく抱かれた犬夜叉はこのまま桔梗とともに死のうとさえ思った。生前の彼女を信じられなかったこと、そのせいで彼女に矢を射させ、あとを追って死なせてしまったこと。それにより彼女と出会う前と同じように、またひとりになってしまったことを憂いながら――
だがその時脳裏に甦った、
彩音の言葉。“犬夜叉はもう一人じゃない”と言った彼女の姿を思い出したことで、犬夜叉は奈落の幻影を打ち破ることができたのだ。
それを静かに思い返し、
彩音の手をギュッ、と握りしめる。それに驚く彼女へ顔を上げ、その手を引き寄せるようにしながら真っ直ぐに瞳を見つめた。
「と、とにかく…もうちっとおれを信用して…」
「…は、はあ…」
強く握りしめられる手と犬夜叉の金色の瞳を交互に見やりながら微かに首を傾げてしまう。その様子をかごめに見つめられていることにも気が付かないまま、
彩音はただ不思議そうに“信用って?”と思ってしまいながら状況についていけていない様子でその手を緩く握り返してみた。
そんな時――
「…ずいぶんと熱心なようで」
「「「え゙」」」
突然思わぬ方向から声を掛けられて三人共々硬直する。咄嗟に声の元へ振り返ってみれば、地割れの向こう側にうな垂れる珊瑚と七宝と飛来骨を背負ったぼろぼろの弥勒が立っていた。
どうやら傷だらけで疲れ果てているらしいが、それと同時にほのかに怒っているような目を向けられる犬夜叉は、なんともマヌケな顔で固まったまま弥勒を見ていたのであった。
* * *
「おい、わしをダマしてんじゃねーだろうな冥加」
紺碧の空に数えきれないほどの星々が広がる真っ暗な夜道。大きな満月を背にした老爺は目の前に座る冥加へ疑いの声を向けていた。
「本当にそのなんたらいう奴が、鉄砕牙を使いこなしたのかー?」
「犬夜叉さまじゃっ」
名前を覚えようとしない老爺へ向けて冥加が声を上げる。それと同時に老爺の肩へ跳び移るが、彼は目もくれずにぶぉりぶぉりと頭を掻いた。
その老爺は黒く大きな三つ目の牛にあぐらを掻いており、やせ細った体に古びたボロボロの着物を纏っている。その姿からただの老爺かと思われそうであるが、彼の目はとても大きく丸々としており、尖った耳からも人間ではないことがしかと窺えた。
「犬夜叉…刀に使う牙をくだされた、犬の大将の息子…バカ兄弟の弟の方か」
「うむっ。まだほんの一度だけだがな。ただの一振りで、百匹の妖怪を薙ぎ倒したことがある。もっともそのあとはサッパリでの。も~~お側にいると危のうて危のうて…」
これまでの出来事を思い返す冥加がうんざりといった様子で
頭を振りながらため息をこぼす。すると目の大きな老爺は遠く空を見上げ、「まー試させてもらうかの」とぼんやり口にした。
「その犬夜叉が…わしの鍛えた名刀、鉄砕牙を持つに相応しいかどうか…」