奈落が立ち去ったあと、いつしか夜明けを迎えた犬夜叉たちは変わらずその場から動けずにいた。
ただ静かに思い詰めたよう座り込み、深く俯いたまま重い沈黙を続ける犬夜叉。そしてそんな彼の背中を俯きがちに見つめるかごめと、その傍で犬夜叉同様塞ぎ込んだ様子の
彩音が微かな風に吹かれるまま立ち尽くしている。
どこかよそよそしささえ感じる気まずい空気。それに包み込まれる三人の姿を、少し離れた場所に座る弥勒と珊瑚と七宝の三人が様子を窺うよう遠巻きに眺めていた。
「なんか…あの三人変な感じじゃない?」
「はあ」
思い沈黙を保ったまま進展のない様子に珊瑚と弥勒がそんな声を交わす。
遅れて辿り着いた彼女たちはここで起こったことの詳細を知らず、なぜこのような空気感になっているのかが分からなかったのだ。そのため終始不思議そうに三人の様子を窺っていたのだが、その時、ようやくその凍った空気に変化が訪れた。
立ち尽くしていたかごめがわずかながらも一歩踏み出し、「犬夜叉…ねえっ」と声を掛けたのだ。しかし尚も重く黙り込む犬夜叉からの反応はなく背を向けられたまま。それでもかごめは諦めず、精一杯犬夜叉を気遣いながら控えめに口を開いた。
「行こう。桔梗を助けなきゃ」
「お前ら残れ。おれ一人で…」
「なっ…」
「ちょっと待てこら」
「ふざけんなこの野郎」
拒絶するような犬夜叉の言葉にかごめが声を詰まらせたその瞬間、聞き捨てならないとばかりにすぐさま距離を詰めてきた
彩音が犬夜叉の背中をどす、と蹴りつけ、弥勒が頭をみし、と踏みつけてしまう。
あまりにも唐突でスムーズすぎるコンボ技。それに戸惑いさえ覚えてしまうほど驚いた犬夜叉が振り返ってみれば、そこには腰に手を当て仁王立ちをしてみせる
彩音がひどく呆れた表情で犬夜叉を見下ろしていた。
「このバカ。なに勝手に一人で背負い込もうとしてんの?」
「桔梗を攫ったのは奈落なんだろ」
「そう。犬夜叉一人の問題ではない」
彩音が厳しく言いつけるのに続き、珊瑚と弥勒までもが当然だと言わんばかりに説得の声を向ける。どうやら犬夜叉のあの態度にはみんな黙っていられなかったようで、気が付けば全員が呆れの感情を孕んだ表情で犬夜叉を取り囲んでいた。
その様子に背中を押されたのだろう。少しばかり勢いに気圧されていたかごめが気を取り直すように犬夜叉へ踏み出すと、すぐ傍にしゃがみ込み彼と目線を合わせて言った。
「桔梗はあんたを助けて…それで力尽きて奈落に攫われたんでしょ。助けに行くの当たり前じゃない。こそこそしないでよねっ」
「そうだよ。こそこそされると逆にむかつくからもっと堂々としてよ、こそ夜叉」
「こそこそってあのなっ…って、おい。こそ夜叉ってなんだこらっ」
「はいそこまで。お迎えですよ」
二人の言い草、さらには
彩音のあんまりな改名にたまらず反論の声を上げると同時に弥勒から制止の声を向けられる。
どこか緊張感のあるその声に釣られるよう振り返ってみれば、彼の視線は背後の上空へ向けられていた。その視線の先、そこには様子を窺うようにこちらを見据えながらブブ…と不快な羽音を鳴らす三つの小さな影。
「(最猛勝!)」
想定よりも早い奈落の手先の出現に思わず顔を強張らせ立ち上がる。するとそれらはこちらが気が付いたことを確かめ、まるでついて来いと言わんばかりに身を翻し離れていく。
わざわざ迎えを寄越すくらいだ、奈落は十中八九罠を仕掛けてくるだろう。分かり切った手口に一行は警戒の色を見せながら互いに顔を見合わせると、それぞれの体勢を整えるなりすぐさま最猛勝のあとを追い始めた。
薄霧が漂う森の中に羽音を低く響かせ、一定の距離を保つように飛んでいく最猛勝たち。挑発的にも見えるその姿に犬夜叉がたまらず「ちくしょう!」と声を荒げながら地を蹴って進むのに続き、弥勒とその背に乗った
彩音、雲母に跨った珊瑚とかごめと七宝が同様に最猛勝を見据えながら森を駆け抜けていく。
しかしその中でふと、珊瑚が不思議そうに背後のかごめを見やった。
「…かごめちゃん、いつもみたいに犬夜叉に乗ればいーのに」
「…いや」
犬夜叉を避けるような彼女が不思議なのだろう、珊瑚が率直に言えばかごめは珊瑚の肩越しに犬夜叉を見ながら眉をハの字にさせてしまっていた。
「(…だって…いまの犬夜叉、桔梗のことで頭がいっぱいなんだもん。さっきは偉そうなこと言ったけど…やっぱり悔しいかも…きっと
彩音も同じよね…)」
そんな思いを抱えてしまいながら
彩音へ視線を向けて、たまらずは~~、と大きなため息をこぼす。
それを珊瑚が不思議そうに見つめる頃、件の
彩音は口をつぐんだまま眼前の弥勒の背に視線を落としていた。するとその様子を感じ取ったのか、わずかにこちらへ顔を向ける弥勒がそっと声を掛けてくる。
「先ほど…
彩音がかごめさまのように怒らなかったのは、少し意外だった」
唐突に向けられたのは、そんな言葉。恐らく犬夜叉が一人で行くと言い出した時のことを思い出して言っているのだろうが、まさか不意にそんなことを言われるとは思ってもみず、
彩音は少し戸惑った様子で「え、なんで?」と目を瞬かせながら不思議そうに問うた。
それに対し、弥勒はこれまでを思い返すよう空を見やりながら返答する。
「これまで桔梗さまが関わった時の
彩音は、よく犬夜叉に怒っていたように見えたからな」
「よく怒ってたって……まあ、でも…言われてみれば確かにそうかも…」
弥勒の言葉にこれまでの自分の姿を振り返ってはなんだか少し呆れてしまうような思いを抱く。自分でも分かってしまうくらい分かりやすく何度も見せていた姿だ、それが突然見えなくなれば意外に思われるのも仕方がないだろう。
もちろん、今回もそのような思いがなかったわけではない。だがそれ以上に抱えるものがあったことを思い返しては「なんとなくだけど…」と呟くように言葉を続けた。
「今回はちょっと…それどころじゃない気持ちだったから、かな。奈落が体を取り戻すのを止められなかったし、そのうえ桔梗まで攫われて…私はすぐ近くにいたのに、なにもできなかった…それがすごく…すごく悔しい…」
見ていることしかできなかったあの時の光景を脳裏に甦らせながら、やるせない思いをこらえるようにギュ…と弥勒の着物を握り締める。それを肌に感じた弥勒は黙り込むように口を閉ざし、やがてもう一度、そっと宥めるような優しくも頼もしい声を
彩音へ向けた。
「人間誰しも全てが上手くいくわけではない。失敗が続くこともある。原因だって、自分一人にあるわけではないだろう。だから…あまり思い詰めるな。挽回できるようにまた次を頑張ればいい。私もお前のためなら、いくらでも力になる」
視線をこちらへ向けながら、穏やかな笑みを浮かべる弥勒。その姿に、言葉に心打たれるよう言葉を失くした
彩音はその横顔を見つめるまま口を閉ざしていた。だが胸の奥にじんわりと広がる温かいものに気が付いては、いつしかふ…と微笑むほどの穏やかさを取り戻す。
「ありがとう、弥勒」
そっと囁き、彼の肩に頬を当てるよう寄り添う。
彼のおかげで抱えていた後悔などのやるせない気持ちが落ち着いていくのを感じられた。
そうだ、いつまでも思い詰めてばかりいられない。いまは一刻も早く桔梗を取り戻さなければ。気を持ち直すようにそう決断するとともに、先を行く犬夜叉の背中をそっと見やった。
その背中に感じるのは、桔梗のためにと必死になる彼の一途さ。それを目にするとどうしても先ほどの決断とは相反するような居心地の悪さを感じてしまうのだが、
彩音は小さく唇を結び考えないようにしながら流れゆく景色へと視線を移した。
――そんな
彩音やかごめの思いなど知る由もなく、先頭を駆け抜ける犬夜叉は湧き上がる怒りに歯を食い縛るまま、最猛勝から目を離すことなく必死に追い続けていた。
「(桔梗は…奈落のせいで死んだ。奈落にだけは、桔梗は渡せねえ)」
悔しさと忌々しさ、そして怒りが複雑に混ざり合う。その嫌な感情に駆り立てられるまま懸命に駆け続けていれば、突如、背後から見覚えのある妖怪たちが滑らかな動きで犬夜叉を追い越していった。
「(これは…桔梗の死魂虫)」
そう、どこからともなく現れたそれは死魂を抱えた死魂虫であった。
その妖怪は桔梗が従えていたもの。それが向かう先にはいつも彼女がいたことを思い出した
彩音は、身構えるよう表情を硬くさせて死魂虫を見据えながら声を上げた。
「もしかしてこの先に桔梗がいるんじゃ…えっ、霧…!?」
確信に近い可能性を口にしていたその時、突如目の前に現れた白く濃い霧に目を見張る。先が見えないほど濃密に立ち込めるそれはまるで壁のように大きく広がっているが、先を行く死魂虫たちは躊躇いなくその中へと突き進んでしまった。
この霧の先に、桔梗がいるのだろうか。そんな思いをよぎらせると同時、犬夜叉とともにそこへ迷いなく立ち向かう弥勒が強く律するような声を上げた。
「恐らくこの先は奈落の罠だ。油断するな犬夜叉!」
「分かってる!」
荒々しく声を返す犬夜叉が一層強く早く足を進めていく。
このままいけば桔梗が、そして奈落が待っているだろう。それを思えば
彩音も自然と体を強張らせ、意気込むように強く手を握り締めた。
次の瞬間、真っ先に霧へ飛び込んだ犬夜叉に弥勒が続くと、密度の高い霧がまるで押し返さんばかりに
彩音の体へ纏わりつく。もはや周囲の景色などなにひとつ見えない。それほど濃密な霧に全身を包み込まれるような感触を覚え強く目を瞑った――その時、不意に自身の体がガクン、と崩れ落ちるような感覚に襲われた。
咄嗟に地面へ手を突いて驚くままに顔を上げれば、周囲の景色がいつしか薄暗い森に変わっていたことに気付く。
「え…あ、あれ…?」
たまらず小さな声が漏れる。霧を抜けたのだろう、それは分かったのだが、どういうわけか自分を背負ってくれていたはずの弥勒の姿が見えなかった。彼だけではない、犬夜叉も珊瑚もかごめも七宝も雲母も、誰一人見当たらない。
先に行ってしまったのか、それともまだ辿り着いていないのか。いずれにしても背負ってくれていた弥勒が突如いなくなったのはどういうことなのか。なにもかも不自然で理解できないまま周囲を見回し耳を澄ませるが、人影など見えず物音ひとつさえ聞こえることはなかった。
「うそ…みんなどこ行ったの!?」
奇妙な状況に不安をよぎらせてはすぐさま立ち上がって声を上げる。しかしそれに返る声や音はなく、いても立ってもいられなくなった
彩音は慌てて仲間を捜しに駆け出した。
しかしいくら走っても呼び掛けても、一向に自分以外の存在を見つけられない。
「な、なんで誰もいないの…? 結界かなにかに阻まれた…?」
わずかな可能性を思って来た道へ目を凝らすも見えるのは立ち込める霧ばかり。それに隠されているのかどうかさえ分からないが、結界らしきものはひとつも見えなかった。
状況が分からず不安を覚えてしまううえ、なにやら自分の中を探られるような気味の悪い感覚があって小さく身を震わせる。加えて足元で蠢く蔓が不気味で、一層の心地悪さを抱かされて仕方がない。
さらに懸命な大声で呼べば誰かに届いてくれないだろうか、そんな思いで遠くを見据えた――その時、突如足元の蔓がザザザと音を立てて動きだし、足を絡め取るように激しく巻き付いてきた。
「なっ…!?」
驚愕に小さな声を漏らすその一瞬、その間にも蔓は素早く体まで伸び上がり、
彩音に抵抗する隙を与えることなく全身を拘束するよう縛り付けてしまった。
「いやっ…なに、これっ…」
ギリ…と締め付けられる体に苦悶の表情を浮かべる。止まることなく首まで登ってきたそれは幾重にも巻き付き、決して外れぬほど強く頑丈に絞めつけてきた。
腕や足も拘束され、もがくことすら許されない。痛い、苦しい、息ができない。様々な思いに頭が支配されていく中、いつしか気管が潰れるほど締め付けられては、徐々に掠れゆく視界を涙で歪めることしかできなかった。
誰か…誰か助けて。その思いひとつで目を瞑った――その時、こちらへ近付いてくる慌ただしい足音が聞こえた。
それも束の間、ザン、となにかが振るわれ断ち切られる音が聞こえたかと思えば、拘束が解けて力の入らない体を大きく傾けてしまう。それをすぐさま受け止められる感触にゆっくりと目を開くと、そこには焦りを露わにした表情でこちらを覗き込む犬夜叉の姿があった。
――よかった、助けに来てくれた。
「げほっ、ごほっ…い、犬夜叉…ありが…」
「大丈夫か!? “
美琴”っ」
「…え…?」
声を遮り、真っ直ぐに見つめながら呼ばれた名前。それは自身のものではない、この体の持ち主のものであった。
なぜ、どうしてその名で呼ぶのか。そんな思いが強く胸のうちを支配した直後、緊迫した表情を見せる弥勒たちが犬夜叉に続くようこぞって
彩音の元へ駆け寄ってきた。
「“
美琴さま”、ご無事ですか」
「奈落の奴…“
美琴さん”を狙ってたんだね」
「もう安心じゃぞ“
美琴”! おらたちがおるからなっ」
みんなが犬夜叉同様に“
美琴”の名を口にしながら見つめてくるのは、紛れもなく“
彩音”であるはずの自分。その噛み合わない状況に理解ができないまま呆然と仲間たちを見渡していれば、遅れて駆け寄ってきたかごめが目の前に立って微笑みを浮かべた。
「無事でよかった。怪我はない? “
美琴さん”」
そう言いながら彼女は労わるように優しく手を差し伸べてくる。それは当然、自分の前にあって。
彩音はその手を取ることができないまま、声を発することもできずに彼女の姿を見つめていた。