24

村を離れ、珊瑚たちが待つ小屋への帰路を辿る。そんな中で彩音は地念児たちのこと――その境遇がわだかまりとなって胸に居座り、視線が上げられないままゆっくりと足を進めていた。 するとその様子に気が付いたらしい犬夜叉が立ち止まり、どこか怪訝そうな表情で彩音へ振り返る。 「彩音。お前ここでかなり力使ったんじゃねえか?」 「え? …あー…うん、ちょっとだけ疲れたかな」 元気がないことを疲労からのものだと感じたのだろう、そう指摘する犬夜叉の言葉に彩音は顔を上げるも、少し困ったように笑って言葉を濁しながら目を逸らした。 そうだ、思えば体力の温存のために雲母と珊瑚を治癒し切らず、代わりとなる薬草を捜しに来ていたのだ。だというのに、先の戦闘で自ら飛び出し怪我をしたことで治癒の力を使ってしまっている。 そのことについて注意されるのではないか、と思うと同時、珊瑚たちへの申し訳なさを感じてしまっては目を逸らすまま小さくごめん、と謝りそうになった。 だがそんな彩音の様子を怪訝に思ったか、犬夜叉は「ちょっとだあ?」と口にしながら近付いてくると彩音のひどく赤く染まった袖を捕まえるように掴み込んだ。 「こんなになるくらいの傷治してんだぞ。ちょっと疲れたって程度じゃねえだろ」 「え、いや…う、腕だけだからそこまででも…」 「おめーは隠せてるつもりかも知れねえけどな、さっきからふらふらしてんの気付いてんだぞ」 「えっ。ちょっと彩音、また我慢してたんでしょっ」 眉をひそめながらはっきりと指摘する犬夜叉に続いてかごめにまでそう言われてしまっては思わず「ゔ…」と短い声が漏れる。 確かに犬夜叉の言う通り、少し足取りがふらついている自覚はあった。今しがた彩音が説明した通り今回の治癒の体力消費はそれほどでもなかったのだが、先の奈落との闘いで傷ついた珊瑚たちを癒したあとだったため想定以上に疲労がのし掛かっていたのだ。 それでも耐えられないほどではないし手を借りるほどでもなかったからと秘めていたのだが、どうやら犬夜叉には見破られていたらしい。 たまらずどこか罰の悪い表情を見せてしまう彩音に犬夜叉は呆れた様子を露わにすると、掴んでいた袖をグイ、とまくり上げて腕を矯めつ眇めつ眺め始めた。 「ったく無茶しやがって…傷は残ってねえか?」 「本当に平気? まだ痛んだりしない?」 「大丈夫だよ二人とも。いつも綺麗さっぱり治るから…」 案じてくれる二人に苦笑を浮かべて言いながら自身の腕を見つめる。そこは激しく染まる袖とは裏腹に傷痕も血の跡すらも残っていないほどまっさらな状態だった。 ――しかしそれを確かめると同時に脳裏へフラッシュバックしたのは、傷痕だらけの地念児の腕。彼は妖怪の血を持ち人間よりも傷の治りがいいはずだというのに、それでも治り切らないほど深くひどく、多くの傷が刻み込まれていた。 それを思い出してしまっては、胸の奥がキュ…と締まる錯覚を抱く。そうして無意識に、自分の腕を掴んでいる目の前の彼の腕を見つめていた。 「ちょっと、ごめん」 小さく断りを入れて、犬夜叉の衣の袖をそっとまくり上げる。 彼の腕はこれまでに何度も見ているから結果は分かっている。だがそこに傷痕があってほしくないという思いから、つい確かめたくなってしまった。 案の定、少し筋肉質な彼の腕には傷痕などひとつも見当たらない。だがそれでも胸の奥のざわつきをなくせないのは、この程度では彼の過去を知ることができないことを分かっているからだろう。 犬夜叉から生い立ちにまつわる話を聞いたことがないが、地念児と同じ“半妖”である犬夜叉はどんな日々を送っていたのだろうか。同じような目に、遭っていたのだろうか。 思案に耽りながら彼の腕を微かに撫でるように触れれば、それを見ていたかごめが不意に「ねえ…」と声を漏らした。 「犬夜叉も…あんなことあった?」 どうやらかごめも彩音の思いを察したのだろう。気まずそうに、俯きがちに犬夜叉を見やりながらそっと問いかけていた。 しかし肝心の彼には思うように伝わらなかったのか、犬夜叉は視線だけをかごめへ向けながら「なんだよ」と短く返す。するとかごめは気を遣うようそっと口を開いた。 「だから…いじめられたりとか…」 「地念児さんと…同じようなこと…」 「けっ、ばーか。おれがやられっ放しで、黙ってたわけねーだろ」 「あっ…そうよね」 慎重になる二人に対して当然の如くぶっきら棒に言ってしまう犬夜叉に、かごめは繕うような笑みを浮かべて控えめに返す。 かごめがそんな反応をしてしまうのは彩音にも理解できた。きっと同じことを思ったのだろうと感じられたから、だからこそ、彩音は閉ざしていた口をわずかにきつく結んでしまう。 (やられっ放しで…ってことは、やっぱり犬夜叉も同じ目に遭ってたんだ…) 肯定ととれる犬夜叉の言葉に改めて半妖という存在の肩身の狭さを実感する。 きっと彼も地念児と同様に迫害されてきたのだろう。そう感じさせられては地念児が味わったあの悲痛な光景に犬夜叉を重ねてしまって、ひどく胸が締め付けられるような感覚を抱いた。その苦しさにたまらず、ギュ…と袖を握り締める。 こうして気丈に振る舞う彼は、これまでどのような日々を送ってきたのだろう。 自分のことをあまり語ろうとはしない彼から得られる情報は少なく、行動をともにしてしばらく経つというのに分からないことばかりだった。それがもどかしくて…やるせなくて、たまらない。 そう思ってしまうといつしか視線が深く落ちていて、まくり上げた彼の袖をそっと直すままその手を離せずにいた。 ――そんな時、 「どっちでもねえからな…」 「「え…?」」 不意に聞こえた、儚げな声。釣られるように顔を上げてみれば、それを発した犬夜叉は遠く空を仰いでいた。 「妖怪でもない。人間でもない。どっちにも行けねえ。だから…自分の居場所は力ずくでぶん取るしかねえと思った。そうして生きてきて、気が付いたらひとりぼっちになってた」 「…犬夜叉…」 「そういうやり方しか…知らなかったからな」 「……」 彼方を見ていた金色の瞳が地面へ向けられ、紡がれる言葉。それがひどく寂しくて、悲しくて、彩音は息をすることすら忘れてしまいそうなほど言葉を失い黙り込んでしまった。 知らなかった。彼がそんな思いをしていたなんて。強気に気丈に振る舞っている彼でも、やはり境遇ゆえの苦しさや寂しさを感じずにはいられなかったのだ。 そう思えば思うほど掛けるべき言葉がなにも出てこなくて、彼の赤い衣を握りしめる手にただ力を込めることしかできなかった。 するとその時、同じく黙り込んでいたかごめが神妙な面持ちで「犬夜叉…あたし…」と口を開く。彼女も切なさに打ちひしがれたか、そう思った次の瞬間―― 「嬉しい…」 呟くように落とされたのは予想の遥か斜め上をいく、思いもよらない言葉。それには向けられた犬夜叉だけでなく傍で聞いていた彩音まで時が止まってしまったかのようにフリーズしていた。 これまでの重く切ない話から到底出てくるとは思えない感想に耳を疑う犬夜叉が思わず「え゙?」と声を漏らしてしまうと、振り返った先のかごめは聞き間違いではないとでも言うように感動したような表情で真っ直ぐ彼を見つめていた。 「なんか…嬉しい」 「えっと…かごめ?」 「あのな、おれが今どーゆー話してるか…」 「初めてだもん。犬夜叉がこんな風に話してくれるのって」 正気を疑うかのような犬夜叉の言葉を遮って向けられる優しい声。 その言葉に、彩音は思わず“あ…”と声を漏らしてしまいそうなほど心打たれるものがあった。 かごめの言う通りだ。彼の悲痛な境遇に心を痛めてばかりいたが、それはずっと知りたいと思っていた犬夜叉の昔の話。それを犬夜叉が自ら話してくれたことなど初めてのことで、それに気付かされたその瞬間、苦しかった胸の奥がス…と溶けるように軽くなった気がした。 そのきっかけをくれたかごめは穏やかに微笑みかけながら言葉を続ける。 「知りたかったんだ。つらかったことも、悲しかったことも。犬夜叉がどんなこと思ってるのか」 「そんなことが…嬉しいのか」 かごめの言葉に犬夜叉は至極不思議そうに、どこか照れたように問う。するとかごめは柔らかな笑顔で「うん」と返していた。 その笑顔はなんだか、本当に嬉しそうで。そう感じられるかごめの姿に彩音は微笑みをつられながら、それでもどこか、微かな違和感を抱いていた。 それはかごめに対してか、自身の中になのか――それを探る間もなく、犬夜叉が不意に大きく体を背けたことで握っていた衣が手を離れた。顔を上げてみれば、犬夜叉がそっぽを向いてしまっている。 「けっ、ばかばかしい。こんな話どーでもいいから、早く雲母に薬草持っていけよなっ」 かごめに背を向けて追い払うように言う犬夜叉。照れくさいのだろう、それが一目で分かる姿についくす、と込み上げる笑みを小さくこぼしてしまうと、彩音は気を取り直すように犬夜叉の顔を覗き込みながら笑みを深めた。 「あらら、照れ隠し?」 「なっ…や、やかましいっ」 からかうように言えば犬夜叉は慌てた様子ですぐさま吠え掛かってくる。どうやら図星らしい。それが分かる様子を微笑ましく思っていれば、同様にくすくすと笑っていたかごめが不意にリュックの肩紐を正した。 「じゃあ犬夜叉もこんなだし、珊瑚ちゃんたちも待ってるだろうからあたしは先に戻ってるわね」 「え、私も一緒に戻るよ?」 「彩音は疲れてるんだし無理しちゃだめ。珊瑚ちゃんたちには言っておくから、ゆっくり戻ってきて。犬夜叉、彩音が無理しないかちゃんと見ててよ?」 犬夜叉へ釘を刺すように言いながらかごめは自転車に跨りペダルに足を乗せる。それでも彩音は食い下がろうとしたのだが、それよりも早く「あとでね~」と言い残したかごめは颯爽と自転車を走らせて行ってしまった。 ちりりん、と軽快な足取りで漕がれる自転車は、彩音が伸ばした手が虚しく空を掴む間にもみるみる遠ざかっていく。 「行っちゃった…もー、犬夜叉があんなこと言うから」 「仕方ねーだろ。実際に待たせてんだから」 「なら私たちも早く行こうよ。手当ての手伝いだってしなきゃだし…」 そう提案しながら歩き出そうとするも、なぜだか犬夜叉の足が根を張ったように動かない。むしろ犬夜叉の方が早く戻りたがっていたはずなのに、どうしてだろう。もしかしてかごめに言われたようにこちらが無理しないよう留めるためだろうか。そう考えてはみるものの、犬夜叉の様子を見ている限りでは違う気がしてくる。 不思議に思って体ごと振り返れば、彼はどこか落ち着かない様子で視線を落としているのが分かる。その表情は先ほどまでの照れくさそうな、少しふて腐れたような色を残しながらなにかを言いたげなもの。 「どうかしたの? 犬夜叉」 その落ち着かない雰囲気が気になって問いかけてみれば、犬夜叉は微かな恥じらいを混じらせた様子でこちらを窺うように視線をくれた。 「……彩音は…どうなんだ」 「え? どう…って?」 「だから、おめーもこんな話なんかが嬉しいとか思うのか?」 再び視線を逸らしてしまいながら言いにくそうに尋ねてくる。そんな思いもよらない質問に彩音はきょとんとするまま大きく目を瞬かせた。 どうしてわざわざかごめの時と同じことを自分にも尋ねてきたのだろう。かごめがそう言ったことが理解できなかったとか、そういうものなのかと確かめるためだろうか。よく分からなかったが、それよりも先ほど自分で“こんな話はどうでもいい”と切り上げたばかりなのにまた自分で蒸し返すのか、と思ってしまっては小さく笑みがこぼれた。 ちょっと、可愛いとさえ思えてくる。 優しく和らげた目を手元へ落とすと、どこかむず痒い感覚を誤魔化すように緩く絡ませた手の中でそっと親指を弄ばせた。 「そりゃあやっぱり、嬉しいよ。私もずっと犬夜叉のこと知りたいなって思ってたもん。少しでも知れて…それも犬夜叉の口から直接聞けて、すごく嬉しい。もっと色々教えてほしいなって思った」 どこか確かめるように丁寧に、噛み締めるように紡ぎ出す。その言葉を耳にする犬夜叉は表情を変えないまま――否、ほんのわずかに目を丸くしながら、一言も聞き漏らさないよう真っ直ぐに彩音を見つめて静聴していた。 その静けさに誘われるように、言葉を続ける彩音は「だからさ、」と小さく口を開く。 「これからも…たまにでいいから素直になって、犬夜叉の嬉しかったことも嫌だったことも全部教えてほしいな。それで気が向いたら、また心の中の弱いところとか、ちょっと言いにくいことも吐き出してくれたら嬉しい」 そう語りかけながら柔らかな微笑みを向ける彩音。 彼女のわずかに潤んだ瞳が、暖かく揺れる反射光がとても綺麗で、犬夜叉は目が離せなくなるような錯覚を抱いた。 かごめ同様、どうしてこうも自分の弱い部分を受け入れてくれるのだろう。自分にとっては弱く情けない、決して誇れないものだというのに。なのにどうして、こんなにも包み込んでくれるのだろう。 形容し難い、けれど心地良ささえ感じる不思議な感覚に戸惑いを覚えてしまう。言葉を発することもできないまま自然と目線を下げてしまえば、それに気がついたらしい彩音がこちらを覗き込むように「犬夜叉?」と声を掛けてきた。 それになぜだか慌てるような思いを抱いてはすぐに取り繕うよう「けっ、」と吐き捨て、大きく顔を背けてみせた。 「それじゃ、まるでおれが弱音吐いたみてーじゃねえか」 「それくらい別にいいじゃん。悪いことじゃないんだし。犬夜叉だって、私が弱音吐いてもちゃんと聞いてくれるでしょ?」 「………まあな」 当然のように受け入れてしまう彼女の問いを否定できずに答えれば、彼女は「ほらね」と言って隣へ並ぶよう歩み寄ってくる。 「だから犬夜叉も、いつでも弱音吐いていいんだよ。私が聞いて、受け止めてあげる。ううん、私だけじゃない…みんな受け止めてくれるよ。犬夜叉はもう、ひとりじゃないんだから」 澄んだ瞳でこちらを覗き込みながら優しく告げられる言葉にわずかながら目を丸くさせる。思わず確かめるように向き直ってみれば、彩音は「そうでしょ?」と口にしながら優しい笑みを浮かべてくれていた。 そんな彩音はいつもそこに――自分の隣にいる。 「(ああそうだ。いつの間にか…当たり前みたいに彩音が傍にいる――)」 おれの居場所だ―― 確信を抱くような思いとともに感じた、温かな気持ち。それに満たされる犬夜叉はふと差し伸べられた手を取って、笑顔で歩き出す彩音とともに足を踏み出した。 優しく迎え入れてくれる、仲間たちの元へ。

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