犬夜叉が夢心と話し合う頃、
彩音たちは静かに眠る弥勒の傍でその姿を見つめていた。あれだけ苦しげに弱っていた彼だが、薬が効いたおかげか今では安らかな表情をしている。
それを見下ろしながら、珊瑚が眉をひそめるようにして口を開いた。
「法師さま…心が強い人なんだね。なんでいつも…あんなに明るくしてられるんだろう」
「うん…」
どこか深刻な表情で言う珊瑚の声にかごめが小さく返す。それらの言葉を聞きながら、珊瑚の隣で弥勒を見つめ続ける
彩音はわずかに唇をキュ…と結んだ。
(でも…きっと弥勒もそう振る舞ってるだけで…本当はずっと…いつだって、不安で仕方ないはず…)
だからこそ、こうして傷が治せる夢心の元へすぐに訪れたのだろう。
弥勒の気持ちを考えるほど、胸が押し潰されそうな強い錯覚を抱く。彼の傷を治すことができれば、呪いを解くことができれば、どれだけよかっただろう。そんなあるはずのない力を望んでしまうほど思いつめるように唇を噛み、弥勒の左手を優しくも確かに握りしめた。
するとその時、弥勒から「う…」と微かな声が漏れるとともにその目が薄く開かれる。
「あ…弥勒っ!」
「気が付いた」
「弥勒ーっ」
「弥勒さまっ」
目覚めたその姿に気が付いた途端みんなが口々に名前を呼び、中でも七宝は彼の体にしがみつくほど身を寄せる。
そんな七宝に視線を向ける弥勒の顔色はずいぶんと良くなっており、安堵した
彩音たちの表情にも明るさが取り戻されると、弥勒は眉間にしわを寄せたまま対面する天井を見据えて言った。
「私は…生きているのか」
「もう大丈夫よ。和尚さまが治してくれたわ」
「そう…ですか…」
麻酔代わりの薬の効果で治療中の意識がなかったのだろう、弥勒はようやく状況を理解した様子を見せながら右手を持ち上げてまじまじと見つめ始めた。
そこはこれまでと変わらない、封印を施された右手。だがそれを見つめる弥勒が突然「あ…!」と大きな声を上げて目を見張った。
「え゙?」
「なにっ!?」
「手がどうかした!?」
彼のただならぬ様子に全員が驚きその右手を見ようと身を乗り出す。すると弥勒はその右手を見つめるまま右へと移動させていき、それに釣られるよう左側に座っている
彩音と珊瑚が腰を浮かせるほど一層大きく身を乗り出した。
――次の瞬間、
彩音の体がぴしっ、と硬直してしまう。それもそのはず、右手の様子を窺うために身を乗り出し浮いた尻が弥勒の左手によってなでなでと撫でまわされたのだから。
それに
彩音が顔を固く引きつらせると同時、珊瑚がすぐさま傍にあった桶で弥勒の頭を殴りつけやめさせると、その“いつも通り”の様子にタヌキたちが呆れ返った様子でため息をこぼしていた。
「弥勒の旦那…」
「こんな時までセクハラを…」
「いっそのことそのセクハラ癖の治療もしてもらった方がいいんじゃないかなあ、ドスケベ法師さん…!?」
呆れるタヌキとかごめに続いて
彩音が珊瑚に抱き留められながらふるふるふると体を震わせて言う。そんな現場をちょうど部屋に入ってきた犬夜叉が見てしまい、彼は今にも殴りかからんばかりに力を込めた拳を持ち上げながら冷たい目で弥勒を見やった。
「しばらく死なねえと思うんだが…」
「うむ」
苛立ちさえ感じさせる声で夢心へ言ってやれば、彼もまた呆れ返った様子で返事をくれる。
この調子ならば大丈夫だろう、誰もがそう感じさせられた時、不意に弥勒が表情を改めて少しばかり控えめな声で言いだした。
「皆集まってくれたところ悪いのですが…少し、
彩音さまと二人にさせていただけませんか」
突然弥勒が口にしたのは、そんな要望。しかし先ほどセクハラをしたばかりの男の言葉だ、素直に了承できない犬夜叉がわずかに眉根を寄せるとどこか厳しい口調で問い詰めようとした。
「おめー、どうせまたその隙に
彩音にちょっかい出すつもりだろ」
「そうではない。ただ少し…話がしたい」
疑うような犬夜叉に対してそう返す弥勒の声色が変わる。その表情はどこか儚げに見えて、とても嘘を言っているとは思えないものであった。
恐らく、彼が話をしたいというのは本当だろう。それを悟った
彩音はしばらく黙り込み、そしてすぐさま犬夜叉へ言い聞かせるよう声を向けた。
「犬夜叉。私は大丈夫だから、少しだけお願い。もしなにかあったらすぐに呼ぶから」
「……」
まるで諭すように言う
彩音の姿に犬夜叉は口を閉ざす。かと思えば「ったく、仕方ねえな」と頭を掻き、不本意そうにしながらも踵を返して部屋を出ていった。するとかごめや珊瑚も
彩音を見て頷き、犬夜叉に続くよう部屋をあとにする。
そうしてとうとう二人きりになってしまった部屋は、先ほどよりも一層広く感じられた。気を遣ってくれているのか、廊下より遠くへ歩いていくみんなの足音が聞こえる。
その間、目の前の彼は天井を見つめたまま黙り込んでいた。
まだ、なのだろうか。それを思いながら静かに待っていれば、やがて足音さえ聞こえなくなり、鳥のさえずりが遠く微かに聞こえるほどの静寂を迎えた頃、変わらず天井を見つめるままの弥勒がようやくその口を開いた。
「
彩音…私の元へ来たあの時…お前はなぜ泣いていたのですか」
ふと落ち着いた声で呟かれるのは、そんな問い。まさか開口一番にそのようなことを問われるとは思ってもみず、どうしてそのようなことを聞くのだろうかと、話とはそれのことなのだろうかとわずかな疑問を抱いてしまう。
だが返事を待つ彼の姿を見ては一度視線を落とし、布団のしわを見つめながらぽつりとこぼすように言葉を返した。
「そんなの…弥勒が心配だったからに決まってるでしょ。ずっと不安で…奈落の罠だって分かってからは本当に…気が気じゃ、なかった…」
言いながら、わずかに涙が滲んでくる。あの時の恐怖が甦ってしまったのだ。もしかしたら弥勒を失ってしまうかもしれないという恐怖が。
それを押し殺すように小さく唇を噛んだのだが、どういうわけかそれを見ていた弥勒はどこか呆気に取られたような表情を見せていた。
「私が心配…? 本当に、私が心配だったのか?」
「…? そうだよ。弥勒以外に誰の心配しろっていうの」
「ああ、いや…そうではなくてな…私個人を思ってくれたのかと驚いてしまったんだ。私はてっきり…仲間だからとか、それくらいの気持ちだろうと思っていたから…」
再び天井へ視線を投げながら、わずかに儚さを感じさせる声音で話す弥勒。
なんだか少し、悲観的にさえ聞こえるその言葉。なぜ弥勒はそのようなことを言ってしまうのか、なにを思っているのか。
彩音には彼の発言の意図が読めなかったのだが、それがあまりにも馬鹿らしく感じられてしまっては呆れるように「なにそれ」と笑みをこぼしてしまった。
「確かに仲間だからっていうのはあるけど…私はちゃんと弥勒だから心配したんだよ。弥勒にいなくなってほしくないって、そう思ったの」
言い聞かせるように、優しく温かく紡ぐ言葉。それを耳にした弥勒は驚くように目を丸くさせるまま、呆然とするように
彩音を見つめていた。まるで見惚れてしまうかのように。
だがやがてゆっくりと手伸ばすと、弥勒は彼女の頬に手を触れ、そっと柔らかく目元を拭うように触れた。その指先に感じる濡れた感触にフ…と薄く笑みを浮かべる。
「…いけませんね。
彩音にこうして心配をかけて、泣かせて……お前を不安にさせてはいけないと…涙は見たくないと思っていたはずなのに…私は、こうしてお前が私のために泣いていることを、嬉しいと思ってしまったようだ」
「え…?」
弥勒の言葉に、少しばかり目を丸くする。
その言葉の意味が、よく分からなかったのだ。どうして自分が弥勒のために泣くのが嬉しいのか、それを問うように彼を見つめていれば、弥勒は目を細めて柔らかい微笑みを浮かべる。
「それくらい、
彩音が私のことを大切に思ってくれているという証拠ですからね」
当然のように、しかと告げる言葉。それに
彩音はなおも“それだけ?”とでも言うように困惑した様子を見せていたのだが、弥勒はにこ、と笑いかけるだけでそれ以上を語ることはなかった。
ただ静かに、人知れず胸中に思う。
「(
彩音の周りには恋敵に成り得る者が多くいる。それでも
彩音の中に、確かに私という存在があることが分かった。それが…とても嬉しかったのだ)」
言葉にしないまま、傍の彼女へ語りかけるよう胸中に響かせるのはそんな本音。
自分は彼女の眼中にないのではないかと思うこともあった。だがこうして自分を思ってくれる姿を見て、自分もまだ同じ土俵にいられるのだという希望を持てるような気がしたのだ。
それを誰にも聞かせることなく静かに思いながら、目の前の彼女を見つめ続ける。おかげで
彩音はいまひとつ理解できていないらしく、大きな瞬きを繰り返しながらわずかなぎこちなさを見せていた。
だがそんな彼女は不意にフ、と小さな笑みを浮かべると、
「私はこんな風に泣かされるなんて、もうごめんだけどね」
困ったように、茶化すようにそう告げてくる。そんな姿にわずかながら目を丸くした弥勒は、同じく困ったよう微かに眉を下げて「善処します」と返して笑いかけた。
もちろん
彩音のことは泣かせたくない。彼女を不安にさせるのはこれ切りにしなければ。そう意識を改める弥勒が天井へ視線を投げた時、自身の手元へ視線を落とした
彩音が「ねえ、」と改めて口を開いた。
「私もひとつ、聞きたかったんだけど…」
思い出したようにしてそう口火を切る
彩音。弥勒がそれに「なんでしょう」と不思議そうに問えば、
彩音は微かに首を傾げながら何気ない声色で言いだした。
「弥勒にとって私は、まだ信用するに足らない?」
「え゙…な、なぜですか?」
いつもの調子を見せる表情とは裏腹の深刻さを感じさせるような言葉に弥勒は思わず狼狽えて目を丸くさせる。それでも
彩音は小さな微笑みを浮かべたままの表情で視線を落とし、弥勒の左手の中心に円を描くようそっと指をなぞらせた。
まるで、右手の風穴を思うように。
「弥勒はさ…風穴に傷を負ったことも…出ていくこともなにも言わずに姿を消したでしょ? それで弥勒を捜そうとした時…私って弥勒のことなにも知らないんだって…なにも教えてもらえてなかったんだって分かって…そしたら、私はまだ信用が足りてないんだろうなぁって考えちゃったから…」
「それは違う」
言葉を遮るように、不意に手のひらをなぞっていた
彩音の手が弥勒のそれに握られる。それにはたと動きを止めて彼の顔を見れば、どこか苦しそうな、バツの悪そうな顔がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「隠したのは…黙って出ていったのは、心配をかけたくなかったからだ。私が自分の話をしなかったのも、元々人と深く関わろうとしていなかった性分ゆえ…今でもどう話せばいいのか…どこまで話せばいいのか迷ってしまうのだ。だから、
彩音を信用していないわけではない。これは本当だ」
今までに見せたことのないような真剣な表情で紡がれる言葉。それはまるで必死に伝わってほしいと、信じてほしいと願うような、少し余裕のなさを感じてしまうものであった。
彼もこのような姿を見せるのか、と心のどこかで感じてしまう感覚。それに気が付いた
彩音はわずかに開いてた口を小さく閉ざし、なにかをくすぐられるような錯覚さえ抱いてしまいながら、ふふ、と微笑みを浮かべてみせた。
「弥勒も案外不器用なところがあるんだね。ちょっと意外だったかも」
「私だって苦手なことくらいある。…だから…これから私が迷ったりした時は、
彩音が教えてくれると…導いてくれると助かる」
言いながら弥勒は、指を絡めるようにして深く手を握ってくる。それがなんだかくすぐったくて、言い表しようがなくて。微かに困ったような笑みを浮かべた
彩音は、「世話が焼けるなあ」とこぼしながらその手をしかと握り返した。
* * *
緩やかな風が木々を優しく揺らす。そんな静かな空を飛ぶのは一匹の最猛勝であった。寺をあとにしたそれは城へ戻るなり、すぐに主の元へ赴いてその手に止まる。
「戻ったのは一匹だけ…ほかは死んだか…」
あれだけ大量に送り込んだにも関わらず全て散らされたであろう様子に重く呟く。そして唯一の生き残りである眼前の最猛勝からことの顛末を聞くと、奈落はその表情を変えないまま、それでも確かに大きな衝撃に愕然とさせられた。
「(犬夜叉が…鉄砕牙の一振りで!?)」
己の敵の飛躍的な成長に耳を疑いさえする。たまらず警戒の色を隠せないほどの衝撃を抱いては最猛勝を放し、やがて冷静になるように思慮に耽った。
「(犬夜叉が力をつけてきている……となれば百匹の妖怪を差し向けるより…殺せぬ一匹を放つのが得策…)」
声を発することなく静かに思考する奈落が行きついた、ひとつの答え。それに適した人物の様子を窺うよう視線を流せば、御簾の向こうに佇む影が指示を待つようにこうべを垂れているのが見える。
「貴様を使う時がきた。もう体は思い通りに動くだろうな」
「はい…奈落さま…」
従順に、大人しく返事をする少年の影。
覇気の感じられないその姿には不穏な空気が強く深く纏われていた。