「(なんとか間に合ったか…)」
大きな安堵にわずかながら表情を緩める犬夜叉の視線の先には、薬で朦朧としながらも確かにそこに生きている弥勒の姿。治療のために着替えたのであろう白装束が和尚につけられた傷によって左肩を赤く染めているが、それ以外に目立った外傷は見当たらず致命傷を負っている様子もなさそうであった。
しかし勝手に出ていった彼をあっさり許すはずはなく、犬夜叉は突如眉間に深いしわを刻んで眉を高く吊り上げるほど大きく声を荒げた。
「やい弥勒! 大体てめえなあっ…」
「弥勒っ!」
「弥勒さま」
「弥勒ーっ」
犬夜叉が精一杯怒鳴りつけてやろうとした刹那、後ろから声を上げて駆けてきた
彩音とかごめと七宝が犬夜叉を押し退け踏ん付け弥勒へと縋りついていく。その間誰も犬夜叉のことなど見向きもせず、三人は揃って弱り切った弥勒へ心配そうな顔を向けていた。
「
彩音さま…かごめさま…七宝…」
「ばかーっ、なんでおらたちに黙って消えたんじゃーっ」
「水臭いじゃない。心配したんだからっ」
「無事だったんだね法師さま」
七宝とかごめが訴えてくるのに加え、妖怪を散らしていた珊瑚までもが頭上から声を掛けてくれる。
誰も出ていったことを咎めるわけではなく、それどころかこちらの身を案じてくれてさえいた。そんな仲間たちの温かさに“そうか…みんな…”と胸中でこぼすほど心を揺さぶられては、言葉を失うように口を閉ざして俯いていた。
その時不意に、自身の白装束を掴む手にポタ、と雫が落ちる。
「…
彩音さま…?」
顔を上げ、目の前で深く俯くままの彼女に声を掛ける。誰しもが言葉を向けてくる中、
彩音だけはなにひとつ声を発していないのだ。
それを気にした弥勒がもう一度彼女の名前を呼ぼうとした時、突然顔を上げてキッ、と睨むように向けられた
彩音の瞳。そこに、小さく光を散らす大粒の涙が揺れていた。
「弥勒の嘘つき! なにが“心配はいらない”なの!? ケガしてたんじゃんっ。不安があったんじゃん…! それなら少しくらい…私たちに話してよ…頼ってよ、バカっ…!」
必死に訴えるようまくし立てていた
彩音の声は涙があふれるに伴って掠れ、詰まってしまう。それでも懸命に言葉を紡いだ彼女は耐え切れなくなったように弥勒の胸へ顔をうずめ、小さく声を漏らすほどに泣いていた。
「…
彩音……すまない…」
彼女の姿を見つめながらか細く、微かに囁くようにこぼす声。それは優しくありながら、同時に罪悪感に満ちていることが分かるほど思いのこもったものであった。
きっと、
彩音がこれほど泣いてしまうのは、もう信頼した仲間を失いたくないからだろう。彼女はあの時――自分が生まれ育った時代に帰った時に味わった、自分の存在が消えているというつらい記憶がまだ新しいから。一人になるということがなによりも恐いものだと知っているから。だからこそ、仲間は誰であってもただの一人でさえ失いたくないのだろう。
それを悟る弥勒は居た堪れない思いを抱えながら、もう一度微かに「すまない…」と彼女の耳元で囁いた。
そんな二人の姿に口を閉ざしていたかごめだが、不意にはっと我に返ったよう顔を上げると突然犬夜叉へ強く振り返った。
「犬夜叉もなんか言ってやって!」
「……もういいっ! (おれのセリフ全部先に言いやがって)」
本当は真っ先に言おうとしていたのに、押し退けられて言いたいことは全部言われてしまって、これ以上なにを言えというのか。そんな思いを抱える犬夜叉はどこかもどかしさを感じながらそっぽを向いた。
それでも横目にちら、と見やったのは、弥勒の胸に縋りつく
彩音の姿。本当は今すぐにでも引き剥がしたいほど気に食わなかったが、この状況でそれは野暮だろう。そう考えた犬夜叉は誰にも聞こえないほどの声で「今だけは許してやる」とぼやき、見なかったことにするよう視線を逸らした。
――それと同時に、こちらへ近付く足音がひとつ。
「誰じゃ…わしの寺を騒がす奴らは…」
「(こいつが…夢心とかいう和尚か…)」
初めて聞く男の声に振り返れば、そこには数多の妖怪を背にしながら拳ほどの大きな玉が連なった数珠を担ぐ和尚――夢心の姿があった。右手に持つ壺が酒好きを物語るように、彼は赤みがかった顔を向けながら犬夜叉へヨロ…と歩みを寄せてくる。
「成敗してくれる…」
「おもしれえ。やれるもんならやってみやがれ!」
夢心の声に毅然と言い返しながら鉄砕牙を肩に掛け立ちはだかる。だがそんな犬夜叉を止めるよう、背後から弥勒の弱々しい声が投げかけられた。
「い…犬夜叉…頼む…その人を殺してくれるな」
「くくく…殺してくれるなよ。なにしろ“わし”は弥勒の育ての親じゃからな…」
「くっ…」
ほくそ笑む夢心に犬夜叉は短い声を漏らすほど小さく唇を噛みしめる。
タヌキの話や夢心の口振りから何者かに操られているであろう可能性は大きい。だがそうなると力任せに闘うのは得策ではなく、彼の体をなるべく傷付けないように闘わなければならないのだ。
それを思った犬夜叉は面倒くさそうに舌打ちをしながら強く地を蹴った。
「ちっ、しょうがねえ。手加減してやるぜ老いぼれ坊主!」
「それはありがたい!」
犬夜叉が駆けだすと同時に夢心は抱えていた巨大な数珠を伸ばすよう強く投げ放つ。それが振り下ろされる鉄砕牙を受け止めた瞬間、ババッ、と電気のような閃光を瞬かせては呆気なく鉄砕牙を元の錆び刀へと戻してしまった。
「鉄砕牙の変化がっ…」
「法力!」
「!」
窪地に身を潜め見守る
彩音たちが驚愕する眼前で、犬夜叉の体が数珠に絡め取られ法力による電撃のような痛みを与えられる。一瞬で全身を駆け巡るその衝撃と重い数珠のせいで身動きもとれず、犬夜叉は叩き付けられるように地面へドシャ、と倒れ込んでしまった。
途端、それを好機と見た妖怪たちが突如「倒れた!!」「殺せ!」と声を上げて群を成し、一斉に犬夜叉へ無数の牙を剥いて迫りくる。
「くっ…散魂鉄爪!」
自らを奮い立てるように叫び、拘束されながらも鋭い爪を大きく振るってみせる。その様子を鐘楼の床に腰かけ眺める夢心は「ほお…」と感心するような声を漏らしながら悠長に酒を仰いだ。
「元気なことよの。わが法力の数珠に縛られながら…だが、いつまで持つかの」
不意に厳しい表情を見せてそう呟いた夢心が手を組み合わせて念じるような仕草を見せる。瞬間、犬夜叉を縛る数珠が意思を持ったかのようにギリッ、と一層強く絞めつけてきた。
――それと同時、夢心の口から突然糸の束のようなものが姿を覗かせたことをかごめたちは見逃さなかった。
「な…なにあれ!? 和尚さんの口から…」
「あれは
蟲壺虫じゃ」
かごめの声に返された老爺の声。それに釣られるよう
彩音がかごめの肩へ振り返れば、そこにはこちらを見やる冥加の姿があった。
「じゃあ夢心さんは…」
「和尚はあれに心を操られておる」
「た…助からんのか?」
彩音の問いに答える冥加へ弥勒が不安げに問いかける。
今は操られ牙を剥いてくるが、本当は優しく温和な人だ。それだけでなく弥勒にとっては大切な育ての親。助かってほしいと思うのは当然だろう。
するとその声を聞いた冥加がわずかに汗を滲ませながら言った。
「近くに蟲壺虫を飼う壺使いがいるはずじゃ。そやつから壺を奪って、夢心和尚に向ければ…蟲壺虫は体を離れ壺に戻るはず」
そう語られる言葉を耳にし
彩音が口を小さく結ぶ。
夢心が助かる方法があるのだ、夢心のためにも弥勒のためにもすぐにその壺使いを捜す他ないだろう。そう考えた
彩音が立ち上がると同時、「分かった!」と声を上げるかごめが同様に駆け出すよう立ち上がった。
「壺使いを捜しに行くわよ、冥加じいちゃん」
「え゙? わしも?」
「当たり前でしょ。ほら、観念してついて来て!」
今にも逃げたそうに顔を引きつらせる冥加を
彩音が引っ捕まえて拘束する。だがその足は先に駆けていくかごめと違って留められ、窪地に身を潜める弥勒の方へ向けられた。
「夢心さんは私たちで必ず助ける。だから弥勒も、もう少しだけ頑張って」
「
彩音…無理はするな…」
苦悶を滲ませる表情でこちらを見上げる弥勒から不安げに告げられる。それを耳にした
彩音は少し目を丸くするよう瞬かせると、すぐに困ったような笑みを浮かべてみせた。
「どの口が言ってんだか」
ふふ、と茶化すように言うと、彼女はすぐにかごめを追うよう踵を返し駆けていく。そんな様子に少しばかり目を丸くした弥勒は、まるで目を離せなくなったかのようにその後ろ姿を見つめていたが、やがて、フ…とわずかに笑みを滲ませた。
――それと同じ頃、先を走るかごめが振り返った先では犬夜叉が数珠に縛られたまま妖怪を薙ぎ払い続けている様子が窺える。相手が雑魚妖怪ばかりとはいえ、状況や敵の数を見るに犬夜叉の方が不利であることは明白だ。彼がいつ追い詰められてもおかしくはない。
それを感じさせる光景に焦りながら一層速く駆けていくと、不意に頭上から妖怪の頭を咥えた雲母が並走するよう身を寄せてきた。
「上は片付いたよっ」
「珊瑚ちゃん…」
「犬夜叉の奴なに手こずってんのさ?」
珊瑚がそう問いかけると同時に
彩音がそこへ追いつく。するとその瞬間、
彩音が捕まえていた冥加がひょーい、と大きく跳ね上がり、とんでもなく嬉しそうな様子で珊瑚の肩へと移っていった。
「珊瑚っ、よう来てくれたっ」
「冥加じい…」
「…そっちの方が安全てこと?」
「正直ですねえ、冥加じーちゃん?」
「……」
頼りないと言われたも同然の状況に涙目を見せるかごめと冷めた表情を向ける
彩音。それにはなにも言い返すことができず、冥加はただ黙り込んだまま誤魔化すように飛び跳ねていたのであった。
――怪しい風が吹き抜ける寺の中。その炊事場の隅に、壺の中へ向けて呪文のような声をかけ続ける壺使いがいた。
それがただ一心に壺へ向き合っている間に、どこからともなく大量の煙が音もなく流れ込んでいく。瞬く間に視界を覆い尽くしてしまうようなそれに気が付いた壺使いがたまらずケホケホと咳き込んでしまうと、突然一本の矢が勢いよく壺使いへ襲い掛かった。
しかし壺使いはそれを咄嗟にかわし、驚いた様子を露わにしながら矢が飛んできた方角へ顔を上げる。
「いた! 寺の中逃げ回られちゃ面倒だ。追い出すよっ」
「「はいっ」」
煙の向こうから突然姿を現したのは珊瑚と
彩音とかごめ。妖怪退治なら専門の珊瑚の指示に従った方が確実だと踏んだ二人は彼女の指示に従い、ハンカチをマスク代わりにして煙の中に立ちはだかっていた。
そして見つけ出した壺使いを睨むように見据え、二人はそれぞれ燐蒼牙と弓矢を構えながら追い詰めるよう距離を縮めていく。
――それと同じ頃、寺の外では数多の妖怪たちを散り散りに引き裂いた犬夜叉が荒い呼吸を繰り返しながら片膝を突いていた。対してここまで高みの見物をしていた夢心はその様子に妖しい笑みを浮かべ、覚束ない足取りで犬夜叉へ歩み寄っていく。
「くくく…だいぶ弱ってきたな」
「(くっ、この数珠…おれの妖力を吸い取って…)」
徐々に力を失っていくような感覚に苛まれる犬夜叉は自身の体を締め付ける巨大な数珠へ忌々しげに視線を落とす。
そんな彼の姿を見つめる七宝は動けない弥勒の隣で心配と不安に満ちた声を漏らした。
「このままでは犬夜叉の体が持たん」
「…… (くっ…せめてこの体が動いたら…)」
七宝の言葉にそんな気持ちが溢れて顔を歪める。薬のせいで麻痺する体は未だ満足に動かすことができず、ただ守られてばかりの、足を引っ張るばかりのこの状況がもどかしくて堪らなかった。あまりにもやるせなかった。
なにか少しでも策はないものか、そう思考を巡らせようとしたその時、夢心が深く据わった目で犬夜叉を見据えながら再びギュッ…と手を組んだ。
「そろそろ首をねじ切ってくれようか…」
「くっ。調子に乗るな、くそ坊主があ!」
夢心の言葉に痺れを切らした犬夜叉が激しい怒号を上げながら強く地面を蹴り跳び上がる。その勢いのまま無心へ迫った彼はその首をガッ、と容赦なく掴み込み、夢心の体を鐘楼の土台へ力の限りで押しつけてしまった。
「てめえ…弥勒に頼まれたから今まで我慢してたがなあ」
「ふっ…ならば殺すがいい。だがな…この夢心を殺したら、弥勒の風穴の傷を治せる者がいなくなるぞ」
言い聞かせるように告げられるその言葉にはっと目を見張る。風穴の傷を治さなければ、弥勒の死期は一層早まってしまうのだ。そしてそれを治せるのは、弥勒の一族と関わりが深いこの夢心だけ――それを改めるように思い知ると、犬夜叉は無意識に無心の首を押さえる手をフ…と緩めていた。
――その瞬間、夢心が胡乱げな笑みに顔を歪ませる。
「ふっ、馬鹿め!」
突如声を上げるとともに数珠を強く握りしめ凄まじい法力を放たれる。途端バチバチバチと激しい音を響かせるほどの衝撃が犬夜叉を襲い、彼は力なく崩れ落ちるように両膝を突いてしまった。
その体を引き寄せるように、夢心は握りしめる数珠を引っ張り上げる。
「諦めろ…この寺にいる者は間もなく皆死ぬのだ。貴様らも弥勒も…」
「な…に…?」
夢心の言葉に犬夜叉が眉をひそめる。するとその視線の先、夢心の背後に見える漆黒の空から無数の怪しげな光がザワ…と溢れ出した。
途端に目を凝らして見えたそれは、数多くの新たな妖怪たち。群を成して迫りくるそれらを目にした七宝とタヌキが「げ!」「また来た~っ」と口々に悲鳴紛いの声で叫べば、寺の廊下へ出ていた
彩音たちもそれに気が付き目を見張った。
「なっ…!?」
「しまった新手が…」
愕然とする
彩音に続いて珊瑚が焦燥を滲ませるよう声を上げる。それと同様に妖怪を見上げる犬夜叉が顔を強張らせながら「くっ…」と声を漏らすと、妖怪を待つよう見つめる夢心が冷酷に言った。
「もはや貴様にあの大群と闘う力は残っておらん…」
そう、夢心の言葉通り。今の犬夜叉には立っていることさえやっとというほどの力しか残されておらず、あの大群を倒すなど不可能であった。
――そんな状況の今、犬夜叉の他にあの妖怪たちと渡り合える者はいない。珊瑚たちが立ち向かっても全員が無事でいられる保証はなく、さらに壺使いを野放しにすることになってしまうためこの状況を繰り返すことになるだろう。
それを静かに悟った弥勒は歯を食いしばり、突如意を決したように右手の数珠をジャッ、と解いた。
「げ!」
「! 弥勒っ!?」
「まさか風穴を…」
タヌキの声によって気が付いた
彩音たちが愕然と目を見張る。その瞬間弥勒の傍の七宝とタヌキが「やめろ弥勒!」「いま風穴を開いたら命が…」と必死に声を上げながら止めようとしたが――
「構わん!」
制止の声も聞かず、弥勒は勢いよく右手の数珠を取り払ってしまった。