――いつしか夜の帳が降ろされ、淡い光を放つ満月が低く照る夜空の下。弥勒を捜し始めた一行は表情を曇らせ、元いた村に足を止めていた。
「(ちくしょう、弥勒の野郎…手がかりひとつ残さねえで…)」
たまらず胸中でぼやく犬夜叉が切羽詰まった面持ちで幾度となく辺りを見回す。
あれから――
彩音の提案を受けてから、すぐに村へと引き返し村やその周辺を隈なく探したのだが、弥勒の姿は未だ見つけられないままであった。
これほど捜しても痕跡一つ見当たらないということは、すでにどこか遠くへ行ってしまっているのだろうか。それすらも分からないまま足を踏み出せずにいると、自転車の荷台に乗せた荷物に座る珊瑚が周囲を見やりながら問いかけてきた。
「全然心当たりないの? 二人とも」
「……」
問いを向けられたかごめは返す言葉がなく、自転車に跨るまま思い詰めた表情で俯いてしまう。同様に、かごめの隣に立つ
彩音は視線を落とし、重く微かな声で呟いた。
「思えば私たち…弥勒のことを全然知らなかった…ずっと、一緒にいたのに…」
そう口にしながら、声が震えそうになる。
そうだ、一緒にいることが当たり前になっていて、彼のことを知った気になっていた。分かった気になっていた。だが改めて考えてみればどうだ、彼がこういう時に行きそうな場所、家族のこと、昔のこと…なにもかも知らないことばかりではないか。
それを嫌というほど思い知らされてしまっては自分への苛立ちのような感情が生まれ、同時に、悲しささえ抱いてしまう気もした。
――自分は、彼に胸のうちを明かしてもらえるほどの信用を得られていなかったのか、と。
それを思っては胸の奥深くのわだかまりが重く渦巻いて、息が詰まりそうになった。それと同時に、自転車のかごでうな垂れる七宝が弱々しい声を漏らす。
「もう…会えないんじゃろか」
涙を浮かべながら悲しげに呟かれたその声に嫌な鼓動が響く。七宝の言う通り、このまま彼を見つけ出せなければ二度と会えない可能性は十分にある。“しばらく旅に出る”という伝言も、必ず帰ってくるといえるものではないのだから。
考えれば考えるほど、思考が悪い方向へと進んでしまう。弥勒は無事なのか、どこにいるのか、そんな思いばかりに支配されて強く手を握りしめた時、眉を吊り上げる犬夜叉が苛立ちを募らせた様子で言い出した。
「なんにしたってあいつは…おれたちを頼る気は一切ないってことだろ」
不満げに、不機嫌そうに漏らされる言葉。
彼がそのように怒りを抱えてしまうのも仕方がないだろう。仲間だと思っていた人間が事情も話さずに消えたこの状況は、裏切りを彷彿とさせてもおかしくはないものなのだから。
そんな彼の様子にかごめは困った様子を見せると、すぐさま「で、でも…」と声を返した。
「奈落の罠かも知れないのよ。ほっとくわけには…」
「だから、どこを捜せってんだよ!」
突如痺れを切らしたように犬夜叉が声を荒げる。それもそのはずだ、誰も行き先を知らず当てもないのだから。それを指摘するように、やるせなさをぶつけるように怒鳴ったのだが――どういうわけか、かごめは至極平然とした様子で人差し指を持ち上げた。
「…あそこ」
「「ん゙!?」」
まさか突然それほどあっさりはっきりと答えが返ってくるとは思いもせず、犬夜叉と同じく驚いた
彩音が揃って短い声を上げてしまう。
そしてその指が示す先へ振り返ってみれば、頭上の満月に重なる不思議な長い影が見えた。それはなにやら無数の小さな影に集られているようで、懸命に体をうねらせながらこちらへ迫ってきている。
「ぐわっ、たっ、たっ、助げで~~!」
必死な悲鳴を上げて急降下してくるその影はどうやら小さな影に攻撃されている様子。それを察した一行が影の正体を確かめるよう目を凝らせば、見覚えのあるその姿にはっと息を飲んだ。
「あれは弥勒さまのお友だちの…」
「タヌキじゃっ」
かごめと七宝が続け様にそう声を上げる。
そう、影の正体は弥勒と連れ立っていたタヌキが変化したものであった。さらにそれに集る無数の小さな影の正体、それは奈落の毒虫である最猛勝で、ずっとタヌキを追いまわしその体のあちこちを幾度も刺しているようだ。
だが犬夜叉たちの姿を見つけてとうとう耐え切れなくなったのだろう、タヌキは「ひ~~っ」と弱々しい悲鳴を上げると軽快な音を立てて元のタヌキ姿へと戻ってしまう。
直後、犬夜叉と珊瑚が弾かれるように駆け出し最猛勝を蹴散らそうとしたのだが、それらは犬夜叉が鉄砕牙に手を掛ける姿を見とめた途端、ザー…と足を揃えて月へ昇るよう逃げ帰っていった。
――やがて一行はタヌキに急かされ、変化したその背に乗せられながら弥勒がいるという寺へ向かっていた。その道中、かごめにいくつもの絆創膏を貼られるタヌキが事情を語り、犬夜叉が驚愕の表情を露わにする。
「風穴に傷だと!?」
「ヘンになる前に和尚さまが言ってました。今、風穴を開いたら、傷口の裂け目から風穴が広がって、ただでさえ短い寿命がますます縮まっちまうって…」
緊迫した様子で語られる想像以上の深刻な状況に犬夜叉たちが冷汗を浮かべるほど固く顔を強張らせる。
――どうやら弥勒は傷ついた風穴を治療してもらうため、一行の元を離れて自分の育ての親である和尚がいる寺へ赴いたという。そこで傷を縫う治療を受けようとした時、一度席を外して戻ってきた和尚が突然襲いかかってきたようだ。
弥勒はそれをなんとかかわして逃げようとしたが、彼は傷を縫うため麻酔代わりの薬を飲んでいる。それにより思うように体の自由が利かなくなったうえ、寺にはどこからか無数の妖怪が集まり始め、タヌキを案じた弥勒が“薬が切れて動けるようになるまで一人で凌げるから、お前は逃げろ”と言いつけ逃がしてくれたのだという。
しかし満足に体を動かすことのできない状態で一人凌ぎ続けるなど到底不可能だと感じたタヌキは犬夜叉たちに助けを求めることを決意し、最猛勝に襲われながら一行の元へ訪れたようだ。
(…弥勒…)
自分が知らない間に、彼が思いもよらぬ危険に陥っている。それを強く実感させられた
彩音はひどくざわつく胸をギュ…と押さえつけ、やるせない気持ちを押し殺すように唇を噛みしめた。
自分がもっと彼を見ていれば、彼の信用に足る人間になれていれば…後悔のように湧き上がる様々な思いがまるで肺を圧迫しているかのように息苦しくなって、ほんのわずか、目尻に微かな熱が溢れそうになってしまう。
その時、不意にブブ…と鳴らされる羽音が耳に届いた。それに弾かれるよう振り返った珊瑚が険しい表情を浮かべると、前の犬夜叉へ警戒の色を見せた。
「犬夜叉、最猛勝だ。襲ってくる気配はないけど」
「見張ってやがるんだ…おれたちを…」
一定の距離を保ちこちらを監視するよう並走するそれに強く眉根を寄せる。
これだけの条件が揃った以上、これが奈落の罠であることに間違いはない。それを改めて思い知らされては不安に焦燥感を駆り立てられるが、逸る気持ちを懸命に抑えながら弥勒がいるという寺を捜して夜闇に沈む景色へ目を凝らしていた。
* * *
数多くの妖気がざわめく大きな寺――そこには無数の妖怪たちがひしめき合うよう闊歩し、獲物を狙う鋭い眼光を辺りへ隈なく巡らせ続けていた。
「どこだ法師…」
「八ツ裂きにしてくれる…」
「姿が見えぬ…」
「さては結界を張りおったな…」
「捜せ…近くにいるはずだ」
おぞましい声で口々に言い合いながら妖怪たちは寺の周囲をしらみ潰しにあたる。
――それらの言う通り、件の弥勒は結界を張ってその身を隠していた。幼い頃に自身の父親が限界を迎えた風穴に飲み込まれ、その際に作られた大きな窪みの中心――そこに立てられた墓石代わりの灯篭に背を預けて。
「(ちくしょう…薬が回ってる。いつまでこの結界がもつか…)」
胸中で悔しげに、疎ましげにそう呟く弥勒の顔にはいくつもの脂汗が浮かび伝っていく。
意識が途切れてしまえば結界が消える。だというのに薬のせいですでに意識が遠ざかりつつある彼は苦悶の表情を浮かべ、懸命にそれを留めるよう強く気を張り続けていた。
その時、弥勒はすぐ傍で覚えのあるギチギチギチという気味の悪い軋みと怨みのこもった声を聞く。
「法師の首は私にちょうだい。姉さまの仇なのよ」
「私は胆が欲しい」
そう話すのは不気味で巨大な蟷螂。その声に薄く目を開いた弥勒は見とめたそれらの姿に小さく顔をしかめた。
「(風穴を切った蟷螂の身内…? なんてこった…最初から罠…こんなところで…おれは死ぬのか)」
目を開けていることさえつらく思えてくるほどに朦朧とする意識。結界の維持ももう長くは持たないだろうと悟った弥勒は、不本意ながらも自身の最期の時がくることを静かに感じ始めていた。
――そこへ、徐々に近付いていく犬夜叉たち。真っ直ぐに飛んでいたタヌキが突然「あそこです! あの寺…」と声を上げるのに合わせて目を向けると、その視線の先には確かに古めかしい大きな寺があった。
ようやく辿り着いた、その思いとともに身構えようとしたその時、寺から怪しげな光が数多く発せられて気配のざわつきを感じさせられる。
直後――
「!」
「げえっ」
タヌキが飛び出すほど大きく目を見張りながら短い悲鳴を上げたその眼前――そこには数えきれないほどの妖怪たちが群を成してこちらへ迫ってくる姿があった。弥勒に近付けないためか、視界を埋め尽くさんばかりの妖怪たちが牙を剥くが、犬夜叉はそれらに怯むことなく勢いよく鉄砕牙を引き抜きながら毅然と声を上げた。
「突っ切れタヌ公!」
「はっ、はひっ」
「こんなとこでグズグズしてられっか!」
そう声を荒げるとともに振り下ろされた鉄砕牙がザン、と容赦なく妖怪を斬り散らす。それと同時、雲母に跨る珊瑚が犬夜叉たちの前へ出るよう勢いよく飛びながら言った。
「犬夜叉! 雑魚はあたしに任せろ」
「珊瑚…」
「こいつら…図体だけだっ」
言いながら放たれた飛来骨が凄まじい音を立てながら複数の妖怪の頭を一気に打ち砕いていく。
一刻を争う状況だ、珊瑚の言葉に甘える他ないだろう。そう感じた犬夜叉は「分かった! 頼んだぜ!!」と強く声を返してはタヌキを一層急かし弥勒へと向かわせた。
――その弥勒は、灯篭に背を預けるまま苦悶の色をより強く深めていた。いつしか結界の維持も困難なほど意識が遠ざかり始め、徐々にその姿を妖怪たちへ晒すほど結界を薄れさせていく。
「見えた! 結界が解けたわ」
「くくく…法師さま丸見えよ」
「引き裂け!!」
蟷螂たちが愉快そうに声を交わした直後に響かされた声。それを皮切りに寺へ集った妖怪たちが一斉に弥勒へ牙を剥いた。
「(これまで…か…)」
迫りくる数多のおぞましき姿に今度こそ覚悟した“死”――
だが、それは突如目の前でザン、と激しく切り散らされた妖怪たちの姿に容赦なく掻き消された。
「弥勒、てめえ…こんなとこで腰抜かしてやがったのか」
散り散りになった肉片が降り注ぐ中に見えた、鉄砕牙を肩に担ぐ犬夜叉の姿。それを目の当たりにした弥勒は、ここにあるはずが…現れるはずがないと思っていた姿に息を詰まらせるような錯覚を抱くほど愕然と目を見張っていた。
「(犬夜叉が…来た!?)」