「くそっ、よくもわしの絵を…」
そうぼやきながら暮れる空の下を歩くのは、先ほど姫の護衛にいたぶられた紅達であった。彼は濃い影を地面に伸ばしながら、ひどく恨めしげな表情を見せている。
「(ふん、バカどもが…なにも知らずに)」
胸中で悪態づき、大事そうに抱えていた紙を両手に持ち直す。そしてそれを広げると、覗き込むように紙面を見つめながらどこかうっとりとした声を漏らした。
「ああ、昼間の姫もまた美しい。もうすぐわしだけのもの…」
まるで見惚れるように彼が見つめ続けるそこには墨で描かれた様々な姫の姿があった。護衛の男に気付かれるまで、このように姫を盗み見ては絵に起こしていたのだろう。
実の姫を想うようにその絵をじっくりと眺めていた紅達だが、突然背後から首根を強引に引っ張られて思わず「ひっ」と声が漏れる。途端に怯えたよう振り返れば、そこには不愛想な表情を見せる犬夜叉の姿があった。
「おう、ちょっとツラ貸しな」
「なっ」
突然現れた人間ではない存在、そして怪しむように見つめてくる瞳。紅達はそれらに狼狽えるよう短い声を上げるが、これまでも墨の匂いがする人々を片っ端から捕まえてきた犬夜叉は紅達にも同様に容赦なく尋問をしようとしていた。
だがそんな時、紅達が辿ってきた道に見覚えのある人影を見つけては「ん?」とそちらへ顔を上げる。
「
彩音?」
「え、なんで犬夜叉が…」
紅達を追ってきたのだろう、少しばかり息の上がった
彩音が予想もしていなかった犬夜叉の登場に不思議そうな顔を見せる。そしてそれは犬夜叉も同じ。彼女の傍に誰もいない様子を見て、訝しむように片眉を吊り上げた。
「おめえこそどうしたんだよ。あのスケベ野郎んとこに行ってたんじゃねえのか」
「残念ながら、弥勒は女の人に釣られて消えました」
「消えただあ? けっ、話にならねーな」
勝負をしていたはずの相手の放棄したも同然な行動に呆れ果てるよう吐き捨てる。するとそんな犬夜叉の手に掴まれる紅達が突如放せと言わんばかりに大きくもがきながら訴えるような声を漏らした。
「な、なんじゃ貴様らは…わ、わしはただの絵師…」
「ん…?」
自分は知らない、関係ないと言いたげにもがく紅達に犬夜叉が眉をひそめる。彼から漂った匂い。それは頼りにしていた墨だけでなく、普通ならば纏うことのない異質な臭いであった。
「おめえ…人の血と胆の臭いがぷんぷんするぜ」
「はっ放せえ!」
犬夜叉が訝しむような目で告げた直後、目を見張った紅達は突然犬夜叉の手を強く振り払い逃げようとした。この反応はなにか知っているに違いない、そう確信を得た犬夜叉はすぐさま「逃がしゃしねえ!」と声を荒げながら彼へ飛び掛かろうとする。すると紅達は傍の
彩音を地面へ突き飛ばし、犬夜叉へ向き直るようにしながら自身の衿を握り締めた。
次の瞬間、こじ開けられた着物の下から黒く禍々しい巨大な鬼の手がズッ、とうねるように飛び出してきた。
「!」
「な゙!?」
「腕…!?」
自転車で犬夜叉を追ってきていたかごめが急ブレーキをかけると同時に目の前に現れたそれに
彩音が目を疑う。その時、突如腕が
彩音を叩き潰さんと勢いよくその手を振り下ろしてきた。
突き飛ばされ倒れた
彩音ならば造作もないと踏んだのだろう。だがそれは咄嗟に地を蹴った犬夜叉によって間一髪助けられ、二人は大きく跳び退るように距離をとった。
その瞬間視界に飛び込んできたもの、それは全貌を露わにした恐ろしい巨大な鬼の姿であった。
腕だけに留まらず、鬼を丸ごと出現させた――そんな人間離れした行為に顔をしかめると、不意に鬼の背後でそれを成した張本人である紅達が小舟に乗り込む姿が見えた。
「あっ、待ててめえ…」
「(どういうこと!? あの男、妖怪!? いえ、違う…人間だわ)」
犬夜叉が声を荒げると同時、離れた場所から紅達へ視線を注ぐかごめは確かに彼が妖怪ではないと確信する。なぜなら川を渡り逃げる紅達から一切の妖気を感じられないのだ。
同様に彼を見つめ眉根を寄せていた
彩音だが、はっと顔を上げると「犬夜叉、上!」と大きな声を上げる。その直後、鬼は手にしていた刺又のような刃を犬夜叉へ容赦なく振り下ろしてくる。だが犬夜叉はそれを容易くかわすと、素早く弧を描くように鉄砕牙を引き抜いた。
「でーい!」
大きな掛け声とともに振り下ろされた鉄砕牙がザン、と鬼の体を両断する。これで頭から真っ二つだ、そう確信した七宝が思わず「やった…」と弾んだ声を上げた時、鬼の前を降りていく犬夜叉も同じように不敵な笑みを浮かべた。
「ふっ。図体がでかいだけか…」
そう犬夜叉が勝ち誇った――その瞬間、突如パン、と弾けるような音が響き、「で!?」という犬夜叉の驚愕の声が上がった。それもそのはず、複数の肉片へと変わり果て崩れ落ちる鬼の中から、突如大量の黒い液体が滝のように溢れ出したのだから。
「え゙っ」
「黒い血!?」
目を疑うような光景に
彩音たちが大きく目を見張る。するとそれを頭から大量に被ってしまった犬夜叉は尻餅を突き、「ぺっぺっぺ、ちくしょう…」とぼやきながら口に入ったそれを嫌そうに吐き出していた。
しかしすぐさまなにかに気が付いたよう目を丸くすると、自身の手のひらにどろ~、と纏わりつくそれを凝視する。
「こっこれは…墨と血と胆…」
臭いからそれを突き止めた直後、犬夜叉は体を大きく揺らしてその液体にどしゃ、と倒れ込んでしまった。それはあまりに突然すぎる出来事。その背中を見ていた
彩音たちは「「え゙」」と揃って声を漏らすほど驚きを露わにすると、困惑するまま慌てて彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたのよ!?」
「犬夜叉っ、大丈夫!?」
すぐさま犬夜叉の腕を掴んだ
彩音はかごめとともに彼の体を持ち上げるよう引き摺っていく。見れば犬夜叉は目を回すほどぐったりと気を失っているようで。それに一層戸惑いを見せていれば、傍の七宝が鼻を押さえながら犬夜叉を見やった。
「鼻が利きすぎて臭気に当たったんじゃ」
「臭気…そっか、犬夜叉は犬だから特に…」
目を回す犬夜叉をウェットティッシュやタオルなどで拭きながら彼の気絶の原因を実感する。
犬は人間より百万倍から一億倍も嗅覚が優れているというくらいだ。果たして半妖である彼の嗅覚が犬と同じなのかは分からないが、人間である
彩音たちでさえ感じるこの嫌な臭いは相当きつかったに違いない。
それを思えば、鼻が利くことはなにかと便利だが時にはとても大変なのだな、と彼に同情してしまうような思いを抱えていたのであった。
* * *
「ほお…夜ごと恐ろしい夢をご覧になると…」
空が黒に染まり星々が白く輝く頃、大きな屋敷の縁側沿いにある一室で弥勒がそんな声を漏らす。姫のあとを追った彼は持ち前の口の上手さで容易に屋敷へ上がり込み、姫がこのところ苛まれているという悪夢について話を聞き出しているようだ。
「それはどのような?」
「妖怪が…やって参ります。そして見知らぬ屋敷に連れていかれ…一人部屋に置かれて…でも、はっきりと感じるのです。どこからか誰かが私をじっと見つめている…」
余程怖い思いをしているのだろう、そう語る姫はひどく落ち込み深刻そうな表情で俯き続けていた。するとその隣に座る屋敷の主人は眉を下げ、こちらもずいぶん困った様子を露わにしながら弥勒へ縋るような目を向ける。
「姫はやつれる一方じゃ。法師どの、姫は妖怪に憑かれているのであろうか」
「間違いございませんな。一刻も早く祓わねば…そこでお館さま、しばらく、姫と私を二人きりにしてもらえませぬか」
弥勒が真剣な表情でそう告げれば、主人は言われた通りすぐに部屋をあとにする。そうして姫と二人きりになった途端、弥勒はすかさず姫との距離を詰めるよう身を寄せながら言い出した。
「ご安心ください姫さま。私の法力にて必ずお助け申す。そこで…」
「は」
「礼といってはなんだが、私の子を産んではくれまいか」
「はあ?」
ぎう~、と姫の手を力強く握りながら絶えず真剣な表情で言い切る弥勒。初めてそのようなことを言われる姫は少しばかり困惑した様子を見せるが、これはもはや彼のお約束だろう。そう確信するのは姫とは別の、何度もその言葉を聞いている少女たちであった。
「やっぱり、会った女の子みんなにそーゆーこと言うんだ」
「この女ったらし」
「え゙」
突然思いもよらぬ声と罵りに目を丸くする。その聞き覚えのある声がした方――縁側へと振り返ってみれば、今度は「げ、弥勒」という声を向けられた。
「絶対お姫さまに付け込んでると思った」
「かけら捜してたんじゃなかったの?」
「おおっ、
彩音さまにかごめさま」
平然とした様子で声を上げる弥勒の言葉通り、呆れた表情で彼を見つめるのは
彩音とかごめであった。自転車に乗ったかごめと籠に納まる七宝、そして荷台に乗せられた犬夜叉とそれを支えるようにして立つ
彩音はわざわざ弥勒を捜してここまでやってきたのである。
だが犬夜叉だけはどこへ向かうかなど知らされていなかったため、弥勒の姿を見た途端に
彩音たちへ吠え掛かるよう声を荒げた。
「てめーらっ、このスケベ野郎頼りにしてたのかっ」
「だって、あんたぶっ倒れちゃったし…」
「この辺で他に頼れそうな人、弥勒しか知らないし」
いまにも噛みつかんとする勢いの犬夜叉に対して二人は当然のように返してしまう。
その様子を見るに、どうやら一行は揉める間もないほど迷いなくここへ辿り着いたようだ。それを感じ取ってしまっては、弥勒が不思議そうな顔を見せる。
「私がここにいるとよくお分かりで」
以前と違って自転車のような分かりやすいものを残したりはしていなかったはず。そう思いながら一行を見つめていれば、その傍で同じく一行を覗き込むようにする姫が「あの…どちらさま…?」と不安げな顔を見せていた。