10

「こ、これは…」 裏陶が畏怖するようにたじろぎながら声を漏らす。その目の前では薬香に浸されたかごめから発せられる結界が、棺を越えて周囲に広がるほど膨張していた。それだけではない、結界は抗うように激しさを増し眩い光を瞬かせている。 先ほど弾かれた裏陶はそれに近付くことすらままならず、ただ大きな丸い目玉でそれを呆然と見つめていた。 「結界がどんどん広がってくる…これが全て魂…!? で、でかい…し、しかし…ここまで離脱を拒むとは…よほど前の世に忌まわしきことが…」 触れれば消されてしまうのではないかと錯覚してしまうほど勢いを増しながら膨張を続ける結界に、裏陶は息を飲まずにはいられない様子。対して結界の中のかごめは未だ意識を保っており、顔を青ざめさせながら苦悶の表情を浮かべていた。 「き、気持ち悪い…吐きそ~~」 「かっかごめ!」 彼女の弱々しい声に焦燥感を駆り立てられた彩音はすぐさま体を起こし、傍の裏陶を突き飛ばすようにしてかごめに手を伸ばした。それがバチッ、と強い音を立てて結界に触れた瞬間、まるで視界を塞ぐようにいくつもの記憶映像が勢いよく流れ込んでくる。 「犬夜叉に会ってみないか、美琴」 「え…」 「大丈夫だ。お前が人や妖怪を恐れる気持ちは分かるが、あいつはお前を襲うような奴ではない」 「……」 「私の言葉が信じられないか?」 「ううん…桔梗はウソなんてついたことないもの。分かったわ、その犬夜叉に会ってみる」 「桔梗の言った通りね。犬夜叉、悪い人じゃないみたい」 「ああ。付き合いが下手な奴だが、美琴ならばきっと仲良くなれるはずだ」 「そうね。それに…あの方にも、どこか似ているし…」 「あの方?」 「あっううん、なんでもないの。気にしないで」 「え…犬夜叉のことを…?」 「…ああ。いつしか自分と重ねるようになって、気付けば…ふっ、巫女として情けないな…」 「そんなことない。私にだってそういう人はいるもの。だから…その気持ちを否定しないで。ね?」 「美琴……お前がいてくれて、本当に良かった。ありがとう…」 「聞いてっ。こんなの…こんなのなにかの間違いよ!」 「止めるな美琴! あいつにお前のことを教えた私が愚かだったのだ…全ての責任は…私がとる」 「そんな…待って桔梗! 桔梗っ!!」 美琴の悲痛な叫び声が響いた直後、ドクンッ、と強い鼓動が全身に迸る。思わず目を見張りながら力なく手を突いては、自身の影に覆われる地面を見つめ、顔を歪めた。浅い呼吸を繰り返す口元に、頬を伝った汗が降りてくる。 (いまのは…美琴さんの記憶…? それとも…) 「かごめ、彩音!」 彩音の思考を遮るように突如犬夜叉の声が響かされる。それに目を向けたかごめが咄嗟に彼の名を呼ぶと、犬夜叉はただならぬ様子の二人に表情を険しくして裏陶へ声を荒げた。 「てめえ、一体なにを…」 「貴様ら…生きていたのか」 誰一人として命を落とすことなく目の前に集う様に裏陶は驚いた様子で声を漏らす。だがその時、犬夜叉の背後で愕然と目を見張った楓が信じられないとばかりに大きく震える声で呟いた。 「お…お姉さま…」 ひどい動揺を露わにした声。それを耳にした犬夜叉は釣られるように楓と同じ場所へ視線を滑らせた。その瞬間、心臓を鷲掴みにされるような衝撃に強く目を見開く。 その視線が捉えたもの――それは魂の入っていない桔梗の姿であった。力なく座り込み虚ろに視線を落としているそれに生気は感じられないが、その姿は紛うことなく桔梗そのもので。記憶と寸分の狂いもない彼女の再来に、犬夜叉たちは言葉を失うほかになかった。 ――その時、突如としてかごめと彩音の頭の中に声が響き渡る。 呼ぶな…私の名を呼ぶな! ――と。 「(え…なに…この声…)」 (この声って…まさか…) 微かに覚えのある声。記憶に新しいそれに彩音が勘付いたその時、立ち尽くすように桔梗の姿を見つめていた犬夜叉がほんの小さな声を漏らした。 「桔梗…」 存在するはずがないかつての想い人の姿に、その名が口を突いて出る。するとその瞬間――かごめが大きな鼓動を響かせると同時に強く目を見開いた。そしてそれに伴うよう、結界に激しく大きな亀裂が走る。それに一同が振り返った直後、かごめを覆っていた結界が突如パシ、と乾いた音を強く響かせて耐え切れなくなったように破裂した。 「おおっ、結界が破れた!?」 「かごめ…!?」 突如訪れた変化に裏陶が歓喜の滲む声を上げるに続き犬夜叉が驚愕の声を漏らす。その視線の先では破れた結界の中から無数の淡い光の玉が噴き出し、凄まじい勢いでひとつに集まるよう天へ昇っていた。 「な、なんだ!? これは…」 「小娘の魂よ。結界を張ってまで出るのを拒んでおったがな。それが、お主に名を呼ばれた途端に、心乱れて弾け飛ぶとは…わしにとっては好都合だがな」 唯一落ち着いた様子で、否、込み上げる歓喜に笑みを深めながら語られる裏陶の言葉。それに一同は不安げな表情を隠し切れず、かごめから溢れ出す魂へ視線を向け直してはただ目を疑うよう息を飲むほかになかった。 「さあ魂よ、“元の体”に還るがいい!」 裏陶が抑えきれぬ思いにそう叫び上げれば、一つの巨大な玉となった魂は虚ろな桔梗の体へ引き寄せられるように迫った。直後、ドオオォォン、と地響きに等しい音を轟かせて桔梗に降りかかったそれは、まるで体中から吸収されるように次々と入り込んでいく。 すると虚ろだった彼女の表情は次第に険しさを見せ、魂が巡る様を表すかのように漆黒の髪が大きく揺れ広がった。 「見よ、魂が体に染み込んでゆくわ!」 待ち望んでいた光景に大きな声を上げるほど嬉々とする裏陶。それとは対照的に犬夜叉や彩音たちは目を見張ることしかできず、次第に人らしさを得ていく桔梗の姿を立ち尽くすように見つめることで精一杯であった。 ――その時、不意に強い焦りに満ちた七宝の声が響き渡る。 「かごめ、しっかりせい、かごめ!」 「! かごめ…!?」 「うひひひ、その娘はもはや魂のない抜け殻よ。あとで味噌漬けにして喰ろうてやるわ」 そう告げる裏陶は深く目を閉ざすかごめを見やりながら薄気味悪い笑みを浮かべる。彩音はそれを恨みのこもった瞳で睨みつけ、同時に、かごめを救えなかったことに唇を噛み締めながら息のない彼女にそっと手を触れた。 当然のように、そのかごめからは微かな反応も返ってこない。 「(かごめの魂が…桔梗の中に…)」 にわかには信じがたい状況に犬夜叉は目を見張ったまま桔梗を見つめ続ける。すると愕然とした様子の楓が裏陶を見据え、ここに至るまでに感じていた可能性を問うように口にした。 「裏陶とやら…お主桔梗お姉さまの骨を使って…」 「察しの通り我が鬼術を用いて、桔梗の霊骨より肉体を甦らせた。いわばこの裏陶は生みの親。桔梗はわしの意のままに動くしもべよ」 「くっ…」 裏陶の企みを耳にしては強く顔を歪めた犬夜叉が微かな声を漏らす。その間にも、全ての魂を吸収し終えた様子の桔梗が覚束ない足取りで立ち上がり、一同の前でヨロ…と体を揺らめかせた。 これで桔梗は蘇生を果たした。そう歓喜する裏陶は大きな目玉をさらに剥き出すようにするほど強く声を上げた。 「さあ桔梗、お前の霊力で手始めに、この邪魔な連中を…ん?」 不意にピタ…と触れられ、違和感を抱いた裏陶は目を丸くしながら目の前の桔梗を見つめる。――次の瞬間、突如鈍くもすさまじい音を響かせて裏陶の胸部が容赦なく消し飛ばされた。そして胴体から離された首がドシャ…と地面へ落ちると、それでもなお生きている裏陶は思いもよらぬ行動をとった桔梗へ虚ろな目を向ける。 「ばか…わしじゃな…」 「お前だ…私を引きずり出した…私は…二度と目覚めるつもりはなかった…」 ひどく眉根を寄せるほど険しい表情を見せる桔梗が苦しげに呟く。その姿形、声、全てが桔梗そのものである彼女を見つめていた楓はたまらず「お姉さま…」と小さな声を漏らしてしまう。 同様に彼女から目を逸らせないでいる犬夜叉は黙り込んだまま、やがて、その口を小さく開いた。 「本当の桔梗…なのか?」 その問いかけに、視線の先の彼女はピク…と微かな反応を見せる。「犬…夜叉…」そう囁く彼女は顔を上げ、儚げな表情を犬夜叉へ向けた。そして彼女の足は犬夜叉の方へ踏み出され、よろめくほど不安定な足取りながら確かにその距離を縮めていく。 「犬夜叉…」 真剣な表情で見つめる犬夜叉へ、哀愁を湛えた瞳を向ける桔梗。彼女が弱々しく犬夜叉へ歩みを進めていく姿を、彩音も楓も、かごめに寄り添う七宝ですら言葉なく見つめていた。そうしてそれらの視線を受ける中、犬夜叉のすぐ傍まで歩み寄った桔梗は縋るようにそっと手を伸ばす。 ――その時であった。 「なぜ裏切った――!!」 「な…!?」 突如豹変した桔梗の叫び。同時に犬夜叉の袖を掴んだ桔梗の右手から眩い光がカッ、と放たれる。それを見逃さなかった犬夜叉は瞬時に大きく飛び退き、激しい電撃のような閃光をなんとか免れてみせた。 だが桔梗が掴んでいた衣は無残にも破られ、犬夜叉の袖には白小袖が露わになるほど大きな穴が口を開く。 しかし、いまの犬夜叉にとって衣のことなどどうでもよかった。桔梗が叫んだ、“なぜ裏切った”という言葉。それがひどく不可解であったのだ。 「おれが…お前を裏切っただとお!?」 「そうだ…だから私は、末期の力を振り絞ってお前を封印した…二度と再び巡り会うはずはなかったのに…」 そう語りながら桔梗は破れた衣を強く握りしめ、忌々しげに表情を強張らせる。まるでいまにも再び襲い掛からんばかりの形相。そんな彼女の姿に焦燥感を駆り立てられた楓はすぐさま駆け寄り、縋るように桔梗の装束を握りしめた。 「おやめください桔梗お姉さま!」 「お前…」 「妹の楓でございます。お姉さまが亡くなってから五十年生きました」 「その楓が…なぜ犬夜叉をかばいだてする。この半妖は私をあざむき…私や友を傷つけて四魂の玉を奪い取った」 自身を押さえ込む楓に顔をしかめながら恨めしげに語る。その視線が正面の犬夜叉へ注がれると、桔梗はまるで言い聞かせるように彼へ語り掛けた。 「犬夜叉、お前は人間になると言った。私はその言葉を信じて…あの日、四魂の玉を持って…」 そう口を開き語られたのは、五十年前のこと―― 桔梗は四魂の玉を手にして約束の場所へ向かっていた。だがその最中でなにかが勢いよく迫ってくる物音がした直後、桔梗の右腕にザッ、と鋭い痛みが走り、血飛沫が舞う。 ――私は…鋭い爪に襲われた… 装束を赤く染め、その場に倒れ伏してしまった桔梗は「くっ…」と声を漏らし、右手からこぼれる四魂の玉を握ろうとした。しかし赤い衣を纏う素足が振り下ろされ、桔梗の右手を阻むように踏みしめてしまう。 「バカが、人間になる気なんざさらさらねえよ」 「!」 「玉はありがたくもらっとくぜ」 吐き捨てるようにそう語られては目の前で無慈悲に四魂の玉が拾われる。赤い衣、声、鋭い爪の備わる手――これら全てが合致する者など、一人しかいない。 「(犬…夜叉…)」 「ふっ、この玉…もっと怨みの血を吸わせなきゃいけねえな。あいつを襲ったあと…村の奴ら皆殺しだ」 どこか楽しげに降らされるその言葉にひどく胸がざわつく。悲しい、悔しい、様々な感情が綯い交ぜになった桔梗は顔を歪め、深く目を閉ざした。 ――そう当時を語り切る桔梗は言い表しようのない憎しみを瞳の奥に湛え、正面で立ち尽くす犬夜叉へその行為を思い知らせるように告げる。 「お前は…私を裏切った。私だけではなく、あいつも…」 「(なんだそりゃ…おれじゃねえぞ)」 確かな思いを抱えて語る桔梗の言葉に嘘はない。だが犬夜叉の知る事実とは明らかな相違があり、彼は飲み込めない状況にただ冷や汗を浮かべることしかできないまま耳を疑っていた。 なぜこれほどまでに話が食い違っているのか――それを思う隙もなく、突如桔梗が弓矢を構えて息つく間もなく犬夜叉へ破魔の矢を放ってしまう。その瞬間「くっ」と声を漏らした犬夜叉はなんとかそれをかわすが、矢が突き立てられた地面は爆発するように岩片を飛ばし、容赦なく穴を穿たれた。 そんな矢が当たれば犬夜叉もただでは済まないだろう。それを感じさせられる一撃に再び嫌な汗を滲ませると、犬夜叉はしかとこちらを見据える殺意の瞳を見つめた。 「桔梗…」 「動くな! 今度こそ生かしてはおかん」 次の矢を引き絞りながら放たれる声。それは必死さを秘めた強いものであった。

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