10

「っ…」 ズキ、と痛みが走る。それに目を覚ましては、わずかにぼやける視界に空を映した。どうやら落ちた衝撃により気を失っていたようで、目を開いたそこにはもう誰の姿もない。 裏陶はとうに去ったのだろう。気を失う直前に垣間見たあの姿を――それに捕まったかごめの表情を思い出しては、焦りからか途端に意識が判然としてくる。それに突き動かされるように彩音は痛む体をすぐさま起こそうとした。 「い゙っ…!?」 突如右のふくらはぎにつんざくような鋭い痛みを感じて強く顔を歪めてしまう。思わず息を飲むように止めてしまった呼吸をゆっくりと再開しては、強張らせ細めた目で痛みの元を見やった。 するとそこには深く大きな傷が口を開き、多くの血を吐き出しているのが分かる。傷はこれだけではない。これほどひどくはないが、体中に掠り傷や切り傷がいくつも刻まれているようだった。 恐らく裏陶の兵の破片で切ったのだろう。辺りには大量のそれが転がっていて、右足の傍に落ちている大きなものには生々しい赤が付着していた。 彩音は強く顔をしかめ、もう一度ふくらはぎの傷へ目を向ける。あまりに痛々しく、目も当てられないようなその傷。たまらず顔を逸らしては、ひとまず止血しようとハンカチを取り出そうとした――その時、傷口がほのかに淡く蒼い光を発した。 「あ…?」 思わず小さな声が漏れる。傷口から微かな光がシャボン玉のように昇っていき、同時に、その傷口が光に包まれていく端から痕さえ残さず消え始めたのだ。 ――それはかつて、結羅の髪と闘っていた時にも見た光景。犬夜叉曰く美琴の並外れた治癒能力によるものだというが、これほど深い傷でさえたちどころに治してしまうとは思いもしなかった。瞬く間に傷ごと消え去った光にそう感じては、彩音は目を疑うように呆然としてしまう。 しかしそれも束の間。すぐに我に返るよう顔を上げると、裏陶が去ったであろう方角を睨むように見つめた。 (早くかごめを助けないと…) 意気込むように口を堅く結び、傍に転がっていた燐蒼牙を掴んで立ち上がる。と、体がクラ…とよろめくような感覚に襲われて咄嗟に足を踏みしめた。 多く出血したことによる貧血か、ただの立ち眩みか、ひどい疲労感に襲われたような体の重みに顔をしかめてしまう。だが彩音はすぐに頭を振るって気を引き締め、すぐに裏陶が向かったであろう方角へ駆けだした。 「ちょっと、なにすんのよ!?」 「やかましい娘じゃのー」 かごめが喚くように声を荒げるのに対して大きな壺を抱えた裏陶が疎ましげに言う。 いくつかの煙突を生やし、トンネルのような穴が口を開く無骨な岩山。まるで窯のようなそれがそびえるこの場所こそ、裏陶の棲み処なのだろう。かごめはそこで楕円形の棺の中に両手を縛られた状態で寝かされており、様々な葉と裏陶が抱える壺から注がれる妙な水に体を浸されていた。 「(なに? この水、薬草みたいな匂いが…くらくらする…)」 「かごめ!」 「あっ…彩音!」 突如聞こえた声に驚くよう振り返れば、そこにはようやく辿り着いた彩音の姿があった。無事だった、互いにそんな思いを抱いた二人は表情を緩ませるが、彩音だけはすぐにかごめの傍に立つ裏陶へと鋭い目を向ける。 だがその裏陶は無傷の彩音の姿に驚き、且つ歓喜するような目を向けていた。 「あの高さから落ちて傷ひとつないとは…やはりお主、不死の御霊を持つ巫女に違いないな!」 「…なんであんたがそんなこと知ってんのか知らないけど、いまはどうだっていい。かごめを返して!」 そう強く言い放つと同時に燐蒼牙を抜こうとした――刹那、裏陶の背後の窯からゆらりと姿を現す人影に気が付いた。暗闇から徐々にこちらへ近付いてくるその姿。それが陽の光に照らされ判然とした瞬間、彩音の胸の奥でドクン、と嫌な鼓動が響き渡った。 なぜなら、そこに立っていたのは―― 「ひひ、待てずに出てきたか桔梗よ。待っておれ。いまにお前の魂をとり戻してやるぞ」 (桔、梗…!? なんで…桔梗は、死んでるはずじゃ…) 虚ろな表情でよろめくように歩いてくる女の姿に彩音とかごめが驚愕の表情を向ける。それは昨晩彩音が夢で見た桔梗と同じ姿。だが彼女はすでに死んでいるはずで、この世に存在するはずがない人間であった。それがどうして今ここに、目の前に存在しているのか。 あまりの衝撃に目を疑い立ち尽くす中、かごめが彼女の姿を見つめたまま驚愕に震える声で呟いた。 「ど…どういうこと…?」 「それは、桔梗の霊骨から甦らせた紛れもなき桔梗の体…」 (! それで骨と土を…) 「ほどなくお主の魂、薬香にて体内から引き離される。お主の魂が転生せし桔梗のものなら…“本来の体”に戻れるはずじゃ」 いやに楽しげに、薄気味悪く笑みを浮かべる裏陶の言葉にかごめの顔が強張る。同様に顔をしかめた彩音は燐蒼牙を握り直すように強く力を籠めた。チャキ…と小さな金属音が鳴る。そうして裏陶をひどく睨視すれば、それは下劣な笑みを深めながら萎え細った指を真っ直ぐこちらへ向けてきた。 「そしてお主。お主の名は美琴だったか…不死の御霊欲しさにお主を捜し歩いていたが、どこにも見つからんわけじゃ。噂に聞いた時渡り…お主はその身ごと時を越え、生き続けていたというわけじゃな?」 「…は…? なに、言って…」 全てを見通したと言わんばかりの裏陶の言葉が理解できず、彩音はただ訝しむように眉をひそめる。 裏陶は不死の御霊を持つ巫女が美琴であること、そして美琴が並外れた治癒能力を持っていることを知っていたくらいだ、相当の情報を集めていたに違いない。それが時渡りのことまで知っていてあのように断言に等しく語るのは、よほどの自信があってのことだろう。 だが、美琴はすでに存在しない。彩音がそれの生まれ変わりだろうと言われているくらいだ。見た目が似ているため、恐らく裏陶が勘違いをしているに違いない。 ――そう思うのに、思いたいのに…どうしてか、得も言われない胸騒ぎがする。あれの話が、信憑性を持っている気がする。 なんの根拠もなくそう感じてしまって眉間のしわを深めた時、不意にかごめが微かな呻き声を漏らした。それを聞き逃さなかった彩音ははっと我に返り、その彼女へ視線を向ける。すると薬香が効き始めたのか、かごめの表情に苦しさが滲んでいるのが見てとれた。 「かごめ!」 思わず声を上げると、彩音はすぐさまかごめへと駆けだす。だが燐蒼牙を抜くと同時に行く手を阻むよう飛び込んできた裏陶に鎌を振るわれ、強い金属音を響かせるほど激しく弾かれてしまった。その勢いに彩音は地面へ叩きつけられ、喉元に鎌の切っ先を向けられる。 「うひひひ…誰にも邪魔はさせぬ。もうすぐじゃ桔梗、この娘の体内から魂が出てくるぞ」 彩音に鎌を突き付けたまま、裏陶は嬉々とした声を虚ろな桔梗へ向ける。その桔梗から反応が返ってくるはずもなく、代わりと言わんばかりに「くっ…」と声を漏らしたかごめが裏陶を睨みながら言い放った。 「何度言ったら分かるのよ。あたしは生まれ変わりなんかじゃないってば! 間違いだったらどう責任とってくれるのよっ」 「(この娘…まだ喋るか。普通ならば薬香にあてられて口も効けぬはず…) ん゙!?」 訝しむようにかごめを見つめていた裏陶が突如目を見張る。その視線が注がれる先、それはかごめの襟元でボウ…と灯る淡い光であった。 「この光…お前四魂のかけらを持っていたのか!?」 「え…」 「なんたる大幸運、もらっておくぞ!」 「なっ…!?」 「やだ! だめえ…」 彩音が目を見張りかごめが抵抗の声を上げた直後、かけらへと伸ばされた裏陶の手が激しい音を立てて弾かれるように拒まれた。思わず短い悲鳴を上げた裏陶の目の前には棺を覆うように展開された結界。中のかごめでさえ「…あれ?」と不思議そうな声を漏らすほど突如として現れたそれは、不思議な光を閉じ込めるように淀んだ色のざわつく膜を広げていた。 「棺の周りに…結界…?」 焼かれたように微かな煙を上げる手をそのままに、裏陶は訝しげな様子で結界を見つめる。結界はまるで中に溢れる光を抑えているかのように微かに震えていて、とても安定しているとは言えないものであった。 裏陶はそれに気が付くと、ただ目を疑うように一層強く結界を凝視する。 「(こ、これは…結界が…出てこようとする魂を押しこめている…!?)」
* * *
風が吹き抜ける細い音が響く谷底。あの高さから落とされたというのに平然としている犬夜叉の上へ、妖術で出現させた大きな葉っぱに乗る七宝と楓がドス、とのしかかった。 おかげで犬夜叉は無様に潰されてしまったが、なんとか無事に合流することができた三人は楓の提案でその場に腰を下ろし、状況を把握すべく話を始めた。 「彩音とかごめが…攫われただと!?」 「犬夜叉よ、覚えているか? 二人が初めてわしらの前に現れた時…わしが言ったことじゃ。かごめは桔梗お姉さまの生まれ変わりかもしれぬと…」 「…それがどうした?」 「言ってはくれぬか? お主とお姉さまの間に…真実なにがあった?」 神妙な面持ちで語り、問いかけてくる楓に犬夜叉がわずかながら目を丸くする。しかしその表情もすぐに呆れを含むぶっきら棒なものに変わると、「けっ、」と吐き捨てるように言って顔を背けてしまった。 「こんな時になにを…」 「知っておきたい。わしの考えが当たっていれば…お主は間もなく、桔梗お姉さまと会うことになる」 「な…」 冗談ではない、そう感じられるほど真剣に口にする楓の姿に、犬夜叉は心臓が跳ね上がるような嫌な感覚を抱いた。 ――その感覚を忘れられないまま、犬夜叉は楓を負ぶさりながら崖を登っていく。傍を七宝が追い抜くように軽々と走っていく様すら目に留めず、犬夜叉はただ思い詰めるように真剣な表情を浮かべ、ゆっくりと霧に包まれる崖を進み続けていた。 「犬夜叉お前は人間になれる」 脳裏に甦るかつての桔梗の言葉。同時に浮かび上がる彼女は儚げで、どこか諭すような瞳を犬夜叉へ向けながら語りかけてきていた。 「四魂の玉を使えば、人間にもなれる」 ――おれは、ずっと本当の妖怪になりたかった。だから桔梗の守る四魂の玉をつけ狙ってた。でもあの女メチャクチャ勘が鋭くて…このおれが手も足も出ねえ。 「てめえ! なんでいつもトドメ刺さねえ!」 「もうチョロチョロするな、矢がもったいない」 ――おれは、玉さえ手に入れば桔梗を殺す気なんてなかった。桔梗もおれを殺さねえ。 「犬夜叉、そこにいるんだろう? 降りてこないか」 一人静かに佇む桔梗は振り返ることもなくそう呼び掛ける。すると背後の茂みからどこか恨めしげな表情をした犬夜叉が顔を覗かせ、彼女を警戒しながらも近くへと腰を屈めた。桔梗はそれに振り返ることもなく、ただ静かに彼方へ視線を投げている。 「近くで話すのは初めてだな」 「それがどおした」 「犬夜叉…」 後ずさるようにしながら不躾に言い返してくる犬夜叉へ、桔梗は視線を落としながら小さく呼びかける。ようやく彼へ向けられた桔梗の表情はいつも通り涼やかで凛とした、恐れを知らない目をしていた。それが犬夜叉の瞳を捉え、抑揚の少ない声で問いかける。 「私がどう見える? 人間に見えるか?」 「あー? なに言ってんだてめえ」 「私は誰にも弱みを見せない。迷ってはいけない。妖怪につけこまれるからだ。人間であって、人間であってはならないのだ」 そう語る桔梗の瞳は再び虚空へと向けられる。その瞳も声色も、いつも通りのものであった。いつもの容赦ない、強い巫女の彼女であった。それが小さく顔を上げるとどこか弱々しく、そっと呟くように声を紡ぎ出す。 「犬夜叉、お前と私は似ている。半妖のお前と…だから…殺せなかった」 「けっ。なんだそりゃーグチか? おめーらしくな…」 「やっぱり…私らしくないか…」 呆れたように立ち上がり話を打ち切ろうとした途端に向けられた、桔梗の表情。わずかに眉根を寄せて寂しそうに小さな笑みを浮かべるその表情が、一度も目にしたことがないその表情が、犬夜叉に得も言われぬ思いを抱えさせた。ぎく、と、心を打った。 ――桔梗の寂しそうな顔を見ておれは…生まれて初めて悪いことをしたような気分になった… 気になって… 桔梗のことばかり考えるようになってた―― 「(ちくしょう…)」 「犬夜叉、なぜ黙っている。あの頃、お主本当はお姉さまを慕っていたのではないか?」 「! けっ、たぶらかされたんだよおれは」 確信を突くように向けられた楓の言葉。それに確かな反応を見せてしまうと、犬夜叉はすぐに誤魔化すよう言い捨てた。 「犬夜叉お前は人間になれる。四魂の玉を使えば…明日の明け方、この場所で…私は四魂の玉を持ってくる」 記憶の中の桔梗は、犬夜叉へ確かにそう告げていた。そんな淡い約束。それを犬夜叉の口から聞かされると、楓は目を丸くして信じられないといった表情を露わにしていた。 「お主…人間になろうと思ったのか」 「気の迷いってやつだ。だが約束の日――」 「桔梗…?」 約束の場所で桔梗を待つ犬夜叉は人の気配を感じて振り返る。桔梗が来たのだろうか。そう思った彼が視線を向けた先からは、突如犬夜叉を仕留めんとする三本の矢が勢いよく放たれた。それに目を見張った直後、矢は犬夜叉のすぐ傍へ鈍い音を立てて突き立てられる。 同時にザッ、と音を立てて現わされた影に振り返れば、そこには見慣れた巫女装束を纏う女の姿があった。 「桔梗!?」 「死ね犬夜叉!」 そう叫び、躊躇いもなく次の矢を引き絞る桔梗の姿。その表情は悪しき妖怪を討つ恐ろしい巫女の形相をしていた―― それを思い返しながら、犬夜叉はその顔に笑みを浮かべた。まるで過去の自分の愚かさを嘲笑うかのような、呆れに富んだ笑みを。 「桔梗は最初からおれを殺す気だったんだ。おれを油断させておいてな。あとは楓ばばあも知っての通り、おれは村を襲って玉をぶん盗り…挙句の果てに桔梗にぶっ殺されたってわけだ」 半ばやけくそ気味にそう語る犬夜叉は浮かべていた嘲笑をやがて影に隠してしまう。そんな彼の背中で楓は確かな違和感を覚えていて、わずかに俯きがちなその頭を見つめたまま眉間にしわを寄せていた。 「(そんなはずはない…なにかが…なにかが違っている…)」

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