徐々に元の姿の片鱗を見せ始める犬夜叉の妖気が大きくざわめきだす。押さえつけられていた体はやがて自身の足で立ち、蜘蛛頭の腕を押さえたまま鋭くその相手を睨み付けていた。
それを前にしながらも、蜘蛛頭は焦りひとつなく胡乱げな笑みを露わにする。
「くくく小僧…妖力が戻ったか…しかし所詮は半妖…四魂の妖力を得たわしの敵ではない…」
そう告げながら妖しく嘲笑う蜘蛛頭もまたその体に変化を見せる。ビシッ、ビシビシッ、と響かされる音に伴ってその顔を修羅の如く凶悪にし、剥き出しにされた牙はより大きく鋭く尖り、節々に体毛を生やす腕は筋肉を膨張させてさらに太く大きく強さを増していった。
「い、いかんっ、坊主の変化の方が早いっ」
「犬夜叉!」
「捻り潰してくれるっ!」
七宝たちが溜まらず声を上げる中で早々に変化を終えた蜘蛛頭が犬夜叉へトドメを刺そうとした――が、その瞬間に犬夜叉は両手で和尚の腕を鷲掴みにし、ダン、と強く床を蹴ったその勢いで蜘蛛頭の腕を激しく真っ二つに引き裂いてみせた。
「な、なにい!?」
「散魂鉄爪!!」
蜘蛛頭が驚愕に怯んだ一瞬に構えた爪を勢いよく振り下ろす。瞬く間さえ与えることなく切り刻まれた蜘蛛頭の体の一部は激しく吹き飛び、頭を備える部位が支えを失ったようにドシャ、と音を立てて床に落ちた。
それを鋭く見据えながら大きな音を響かせて着地する犬夜叉。その彼の姿はいつしか馴染み深い半妖へと変化を遂げていた。
「犬夜叉さま!」
「「「元に戻ったーっ」」」
冥加がたまらず声を上げるのに続いて
彩音とかごめがハイタッチをし、七宝が大きく飛び跳ねるほど一同は歓喜の空気に包まれる。その視線の先で犬夜叉は不敵に笑いながら、
「残念だったなくそ坊主。てめえの寿命もここまでだ」
と言い捨てながら大きく指を慣らしてみせた。妖力を取り戻したことが自信にも繋がったのだろう、勝気な態度を見せる彼はすぐに爪を構え、床を蹴るようにして真っ先に蜘蛛頭の頭へと駆け出した。
「てめえが飲み込んだ四魂のかけら…洗いざらい吐き出してもらうぜ!」
「くくく小僧…これで勝ったつもりか…」
「抜かせ!」
未だ諦めた様子のない蜘蛛頭に声を荒げ、床ごとその頭を打ち抜いてやる。誰もが仕留めたかと思ったその時、犬夜叉はその手の下に奇妙な違和感を抱いた。
「ん!? 頭がねえ!?」
手を離したそこに目を疑う。彼の言う通り、そこにはいましがた潰したはずの頭がなかったのだ。衝撃に散ったわけではない、まるで始めからそこには頭がなかったかのように潰れた体の一部だけが残されている。
それに気付いた直後、犬夜叉の背後から妖気を感じると同時にボコ、という音が鳴らされる。すぐに感付いた犬夜叉が音の元へ振り返れば、蜘蛛頭の体に新たな頭が浮かび上がり即座に大量の糸を噴射された。
「はっ。この野郎!」
勢いよく向けられるそれを軽々とかわし、その勢いのまま再び蜘蛛頭の頭を散らす。今度こそ間違いなく散らしたのを目の当たりにしたが、どういうわけか蜘蛛頭の妖気はざわめき、犬夜叉が顔を上げた時には蜘蛛頭の体中あちらこちらに次々と新たな頭が浮かびだしていた。
「なっ…」
「あ、頭が…」
「四魂のかけらの妖力じゃ!」
目の前の犬夜叉だけでなく小部屋から見守る一同もその姿に愕然と目を見張る。これではどこを狙うべきか判断がつかないではないか。そんな思いで一同が汗を滲ませる中、体を起こしたなずながただ呆然とそれを見つめたまま言葉を失っていた。
「(あたしが
鉄砕牙を抜いて…結界を破ってしまったために…)」
手にしていた鉄砕牙を見つめながら、後悔に似た感情に強く顔をしかめる。和尚を信じたかったのは確かだ。だがまさかこのような事態に陥るとは思ってもみず、ただただ自責の念に駆られるばかり。
そんな中、対処法も分からない犬夜叉は苛立った様子を見せ、
「面倒だ! 頭全部かち割ってやる!」
と叫び上げながら周囲の頭を次々に叩きつけるよう切り裂いていった。しかし、犬夜叉がいくら切り裂こうと蜘蛛頭の頭はとどまることなく現れ続けてしまう。
「切り口から頭が生えてくるぞ!」
「これではラチがあかん!」
(このままじゃダメだ…四魂のかけらを取り出さなきゃ、あいつは倒せない…!)
脳裏に甦る百足上臈や屍舞烏との戦闘がそれを思わせる。あれらの時と違い、かけらとなったそれの効果は多少なりとも落ちているはずだが、それを感じさせないほどの強大な力に改めて玉の恐ろしさを思い知らされる。それにより焦燥感を一層駆り立てられた
彩音は強く眉根を寄せ、蜘蛛頭の体に隈なく視線を巡らせた。かけらを飲み込んで間もないいまなら、必ずどこかにそれが見えるはずだと信じて。
「! 見えた! 犬夜叉あそこ、衣の横の頭にかけらがある!」
「っしゃあ!」
蜘蛛の巣状に広げられた蜘蛛頭の体――その中心に残された衣の傍にある頭を指差せば、犬夜叉は意気込むように声を上げて跳躍する。だがその寸の間に「くっ」と声を漏らした蜘蛛頭は忌々しげに
彩音を睨み付けて。犬夜叉の手が及ぶよりも早く、小部屋に残る
彩音たちへ向けていくつもの腕を押し寄せた。
「ひえええ!」
「きゃああああ!!」
「なんか来たあああ!!」
途端に思い思いの叫び声を上げては慌てて入り口から遠ざかるように猛ダッシュで逃げ惑う。バン、と音を立てるほど強く叩きつけてくる腕をなんとかかわしてみせるが、その時、逃げ遅れたなずなの元へ手が伸びてその細い体を容易く掴み込んだ。直後、腕はなずなを小部屋から引き摺り出してしまう。
「あ…」
「なずな!」
なずなを連れて呆気なく引き下がる腕に振り返るのも束の間、彼女は強引に引っ張られ、蜘蛛頭の頭の前へと差し出された。どうやら蜘蛛頭は彼女を盾にするつもりらしい。
「! くっ…」
それを目の前にした犬夜叉は強く目を見開き、振り下ろしかけた爪に一瞬の躊躇いを見せてしまう。するとそれを見逃さなかった蜘蛛頭が無数にある頭から大量の糸を吐きつけ、瞬く間に犬夜叉の体を繭のように包み込んでしまった。
その光景に
彩音たちが焦りの声を上げる中、蜘蛛頭は嘲笑うように喉を鳴らしながら犬夜叉を見据える。
「くくく小僧…お主はもはや動けぬ…わしがお主なら、躊躇わずなずなを引き裂いておった」
淡々と口にされるその言葉。それになずなの顔色がひどく変わり果てた。彼女はあまりの衝撃で虚ろになる目を虚空に向けたまま、滲む汗もそのままに震える声で弱々しく問いかける。
「本当の…ことを聞かせて。もう和尚さまは…いないの?」
信じたくない、そんな思いを胸の奥に残したままそう口にしたなずなの脳裏には、明朝の扉越しに聞かされた言葉が甦っていた。“わしは法力が及ばず、妖怪に体を乗っ取られてしもうた…”という、悲しげな声で紡がれた言葉。
それに縋るような思いで返答を待っていたが、蜘蛛頭はそんななずなに「くくく…」と胡乱げな笑みをこぼした。
「最初から和尚なぞおらぬわ。全ては、四魂のかけらを持つという半妖を誘き出すため…蜘蛛頭を山に放ち、妖怪の噂を聞きつけてそやつらが来るのを待っておったのよ」
「妖怪…お前が蜘蛛頭を使って、あたしのおとうを殺したのか」
「くくく。憐れよのう。父の敵のわしを信じ切って…今日までよく仕えてくれた」
その答えを向けられた瞬間、「くっ」と強く声を漏らしたなずなは涙を散らすほどの勢いで振り返り、蜘蛛頭の頭へドスッ、と鉄砕牙を突き立てた。怒り、悔しさ、情けなさ、全てが入り混じった感情を抱くまま、無我夢中で鉄砕牙を強く押し込んでいく。
「よくも…」
「くくく…」
なずながひどく力を籠めるにも構わず、笑みをこぼす蜘蛛頭は頭をズリ…と動かしながらなずなを見据える。かと思えばなずなの両腕を掴んで刀から引き離し、身動きの取れなくなった彼女へ毒液の滴る大きな牙を見せつけた。
「くくく…恩知らずな娘よのう。いままで生かしておいてもらいながら…」
「あの時…おとうと一緒に死んだ方がマシだった!」
「望み通り…我が毒牙の餌食にしてくれるわ!」
涙を散らし叫ぶなずなへ蜘蛛頭が勢いよく食い掛かろうとした。その刹那、なずなの背後から伸ばされた腕がドカッ、と音を立てるほどの勢いで蜘蛛頭の口へ叩き込まれる。
「そっちの話は済んだらしいな。今度はおれの相手をしてもらうぜ」
そう告げながら、糸を掴んで除ける犬夜叉が笑みを浮かべる。その表情に怯みなどは一切なく、やられたとばかり思っていたなずなと蜘蛛頭は丸くした目でその彼を見つめていた。
「観念しな坊主。てめえの悪行もここまでだ」
やはり犬夜叉は負ける気などさらさらないのだろう。余裕溢れる様子でそう告げるが、小部屋の陰からそれらを見守っていた
彩音が蜘蛛頭の体に見えた小さな変化に眉をひそめた。それもそのはずだ。蜘蛛頭の体に見えている淡い光が、ゆっくりと渦を巻くように薄まり始めているのだから。
「い、犬夜叉っ! 早くかけらを…四魂の妖力が溶け込み始めてる!」
「なに!」
「鉄砕牙の横! 急いでっ」
言いながら
彩音は燐蒼牙に手を掛けて床を蹴る。四魂のかけらを取り出すつもりなのだろう。その様子に犬夜叉もすぐさま拳を引き抜き向かおうとするが、「くくっ」と笑みをこぼした蜘蛛頭がまるでそれを阻むように突如その巨大な体を動かし始めた。
まるで地響きのような音を轟かせ、犬夜叉たちを包み込むように体を丸く寄り集めていく。そんな予想外の展開に
彩音が思わず足を止めてしまえば、犬夜叉となずなを中心へ落とし込んだ蜘蛛頭は、そのまま巻き込んだ柱や仏像などを圧縮し破壊するほど強く縮こめてしまった。
「な…」
「うわっ、嫌じゃ~」
「肉圧で潰す気だわっ」
思わぬ事態に各々が目を見張る。蜘蛛頭の体が隙間なく絡み合うように中心へ圧を掛ける中、そこに巻き込まれたなずなは光もない空間で苦痛に顔を歪めていた。
「息が…できな…」
体を押し潰されることで肺が圧迫され、呼吸さえままならない。そんな死さえ覚悟する状況で脳裏をよぎったのは、強くひどい、後悔と自責の念であった。
「(あたしはバカだ…おとうを殺した妖怪とも知らずに、奴を信じ切って…妖怪が、もっと悪くなるための手伝いをさせられていたなんて…) ち…ちくしょう…」
あまりの悔しさに弱々しく声を漏らした――その時だった。目の前の肉に手が掛かり、ギギ…と力を込められる。それに気が付いた直後、その肉は犬夜叉によって左右へ強引に押し退けるようこじ開けられた。
「あ…」
「ったく、しょーがねえな人間なんて。こんなことくれえで死にそうな顔しやがって」
そう告げる犬夜叉はひどく呆れた様子でため息さえついてしまいそうな表情を見せる。こちらは死さえ覚悟したくらいだというのに、彼は平気だというのだろうか。それを思うと同時、どうして彼は自分の元へ来たのかと疑問を抱く。こうして自力でこじ開けられるのならば、とっくにこの空間から抜け出していてもいいはずだ。
分からない彼の行動に呆然とするようその姿を見上げていれば、犬夜叉は当然のようにはっきりと言い放った。
「なにしてる、さっさと掴まれ!」
「あたしを…助ける気…? (こいつ…妖怪なのに…)」
「ついでだよついで。あそこに用があるんでい」
そう言いながら犬夜叉が視線を向けた先には肉に挟まれる鉄砕牙があった。しかしそれは殺傷力もない錆び刀。あんなものが必要なのかと不思議に思ってしまうなずながわずかに眉根を寄せた――その時、突如周囲の肉壁がググッ、とさらに強く圧迫してきた。
「くくく小僧…」
「押し潰してくれるわ」
なんとかそれらを抑えていれば、周囲にボコ、ボコ、と蜘蛛頭の頭が浮かびだす。それらに冷ややかな嘲笑を向けられる中、なずなは苦悶の表情を滲ませながら小さく掠れる声を漏らした。
「あたしに構わず…逃げろ…」
「ん?」
「その代わり
敵を…敵をとって!!」
犬夜叉の衣を強く掴み掛かるほど必死に懇願する。自分はもうどうなってもいい、だが父の敵だけはとらずにいられないのだ。妖力の戻った犬夜叉ならばそれが可能だろうと信じたなずなは彼にそれを託そうとした。
すると犬夜叉はほんの小さな反応を見せ、途端にきっぱりと言い返した。
「敵っておめーの親父のか? ふざけんな」
「え…!?」
「お前のせいでひでえ目に遭ってんのに…敵とる義理はねえよ!!」
そう怒鳴ると同時に肉へ爪を突き立て、ドガガガ、と激しく抉るように切り裂いてみせる。その拍子になずなを抱え込み、目前の鉄砕牙へ即座に手を伸ばした。
しかしあと数センチというところで突如足を糸に絡められてしまう。その瞬間バランスを崩した犬夜叉はなずなを向こう側へ放り、迫ってきた肉壁にガキッ、と強く挟み込まれた。それだけに留まらず、蜘蛛頭は犬夜叉を肉で覆いつくし肉壁の向こうへ封じ込めようとする。
「くくく…」
「まもなく四魂の妖力が我が身の隅々にゆき渡る…」
肉と肉の隙間に残された右手の周囲に現れる頭がいくつもの嘲笑を向ける。いくら力の強い犬夜叉とて、これでは肉を押し返すこともままならないだろう。それを悟ったなずなは犬夜叉が鉄砕牙を求めていたことを思い出し、頭上のそれへ視線を上げた。幸い、人間である自分は蜘蛛頭に警戒されていない。それを思いながら体を起こし、肉に刺さる鉄砕牙を懸命に引き抜いた。
「(届いて…)」
柄を犬夜叉へ向け、わずかに覗く彼の右手に差し向ける。それが徐々に徐々に距離を縮めていき、微かながら人差し指と触れたその時、犬夜叉の手がピクッ、とほんの小さな反応を見せた。
――直後、突然弧を描く眩い光が凄まじい勢いで振り上げられる。同時に激しい破壊音を響かせたそれに思わず閉じてしまった目を見開けば、蜘蛛頭の体を大きく切り開いた犬夜叉が宙で鉄砕牙を構える姿が見えた。
「なずな、“そこ”から動くな!!」
「え…!?」
「どけえええ!」
突然の指示に戸惑うなずなの傍に突如現れた蜘蛛頭の頭が牙を剥いて迫ってくる。そこに先ほどまでの嘲笑や余裕はなく、ひどく焦っていることは明白であった。このままでは襲われる、そんな状況でも犬夜叉はなずなへの指示を覆そうとはしなかった。
「動くな! おめえの体の下の四魂のかけら…そこを斬れば妖怪は死ぬ!!」
「(そうかあたしは…目印!) 動くものか! 例え一緒に斬られたって…」
なずなは毒牙を迫らせる蜘蛛頭へ言い放ちながら一層強くそこへしがみつく。その瞬間なずなの頭と足の先へ強く勢いよく振るわれた二連撃が深くその部位を斬り離した。すると迫っていた蜘蛛頭の頭はなずなの目の前で真っ二つに分かたれ、「おの…れ…」と微かに無念の声を漏らす。
――直後、四魂のかけらが斬り離されたためか、塊と化していた蜘蛛頭の体は途端にボロボロと崩れるよう霧散していく。そんな状況でも未だ諦める気はないのだろう、なずながしがみついていた肉片に残る頭が「く…」と声を漏らし、執念深く口を開いた。
「まだ…死なぬ…四魂の妖力は…まだ我が体内に…」
それが言い切るのを待たずしてドカ、と鉄砕牙を突き立てる。瞬間、残された巨大な肉片は他同様に霧散し、瞬く間に跡形もなく消え去ってしまった。
「(終わった…)」
長かった闘いも、敵討ちも、なにもかも。訪れた静寂にそれを実感すると、なずなは言葉もなく床の木目を見つめていた。しかしその視線もすぐに持ち上げられると、呆気なく鉄砕牙の変化を解いてしまった犬夜叉へ向けられる。
「あの…助けてくれてありが…」
「けっ、おれはやられた分やり返しただけでい。半分はおめーの働きだろ」
「……」
鉄砕牙を肩に掛け、至極当然だと言わんばかりにそう言い捨てる犬夜叉になずなは再び言葉を失ってしまう。
そんな時、駆け寄ってきた
彩音たちが犬夜叉の背後から覗き込むように姿を見せた。どうやらそれは蜘蛛頭が消えた床へ注がれているようだが、どうしてか
彩音は不思議そうな、きょとんとした表情を浮かべている。
「もしかして…あいつの体内で固まったのかな。ほらこれ、かけらがひとつになってる」
「たったこれっぽっちなのか!?」
いままで集めてきたものがひとつに纏まっているのを目の当たりにした犬夜叉は信じられないと言わんばかりに食い掛かってくる。しかし四分の一ほどはあるだろうサイズに
彩音とかごめは「え、これっぽっち?」「結構あるのに」と意外そうな様子を見せていたのだった。
* * *
「ここでいいよ、すぐ村だから」
「そう…元気でね」
「なずな。頑張ってね」
眩い日差しに照らされる中、一行と共に川まで降りてきたなずなから別れを切り出されてはかごめと
彩音がそう口にする。するとなずなは小さな笑みを浮かべて頷き、
彩音もまた微笑みを返した。やがて一行が揃って舟へ身を移していけば、それになずなが「さよなら…」と告げた――そのあと。
「ありがと犬夜叉、あんたいい妖怪だったんだね」
「…けっ」
照れくさそうにお礼を言うなずなに対し、犬夜叉もどこか照れた様子で素っ気ない反応を返す。二人はどこか似ているのかもしれない、そんなことを思ってしまった
彩音は楽しげに柔らかな笑みを浮かべた。
そうして互いの姿を見送りながらその場を離れ、一行の旅を再開を迎える――
「ねえ犬夜叉。体はもうなんともないの? 大丈夫?」
「ったりめーだろ」
勢いのある水流に任せて進む中で
彩音が問えば、相変わらず先頭に座る犬夜叉は振り返ることもなく言い返してくる。かと思えば「それよりいーかおめーら…」と言いながら、どこか釘を刺すように顔を向けてきた。それに冥加が高々と跳び上がり、犬夜叉の肩へピン、と飛び乗ってみせる。
「心得ております。新月の夜、犬夜叉さまが妖力を失うということ。これが四魂のかけらを狙う妖怪どもに知れたら、命に関わる。お主も他言するなよ七宝。犬夜叉さまの弱味」
「弱味じゃな」
「秘密と言え秘密と」
冥加の言葉に七宝は便乗するようわざとらしく繰り返す。それに対していつも通り突っかかる犬夜叉の姿をまじまじと見つめていたのだが、それに気が付いたらしいかごめが不思議そうに首を傾げてきた。
「どうしたの
彩音。なにか気になるものでもあった?」
「え。あー…ううん。なんでもない」
かごめの問いに正直に言い出せず、
彩音は誤魔化すように笑い掛けながら手を振った。あの時かごめは眠っていたから知らないのだ。人間だった時の…あの時の犬夜叉の姿を。
それを思いながら再び前を向き、そこにある犬夜叉を見つめる。
(…完全に元の犬夜叉だ…姿も、雰囲気も…)
――彩音といると…落ち着く…。
いまの姿を実感すると同時に蘇る、あの時の言葉。あの時の犬夜叉を、
彩音は忘れることができないでいた。
だがあの時のことはなんだか空間丸ごと現実味のないような、まるで夢のようなものとさえ感じられて。思い返せば思い返すほど、やっぱりあれは夢だったのではないかと思ってしまうほど実感が沸かなかった。
(…でも、感触も温もりも…全部覚えてるんだよね…)
鮮明に記憶に刻まれたそれらに、夢である可能性を否定される気がする。それにもし夢でないのなら、
彩音には犬夜叉に問いたいことがあった。あの時聞けなかった、“あの言葉は本当に自分に向けたものなのか”、ということ。
やはりどうしてもそれが知りたかったのだが、しばらく犬夜叉を眺めながら思案していたせいか、こちらの視線に気が付いたらしい彼がその瞳を向けてくる。
かと思えば、犬夜叉はこちらへ距離を詰めてずい、と顔を迫らせてきた。
「なんでい人の顔ジロジロ見やがって。なんか文句あんのかコラ」
(うん、やっぱりあれは夢だ。夢。間違いない)
まるでチンピラのように言い寄ってくる犬夜叉に強く呆れ返った
彩音は込み上げるため息を大きくこぼし、あれは夢だったのだときっぱり結論付けてやる。そうしてあの出来事は頭の奥深くのどこかへと放り捨てるよう、あっという間に掻き消したのであった。