09

ザワ…と木々の鳴く音がひどく大きく聞こえる。それほど静まり返った山の中で、あまりの衝撃に言葉さえ忘れたように黙り込んでいた彩音が「犬…夜叉…?」と微かな声を漏らした。 やはりどれだけ見つめても不可解な、彼の姿。いつまでも実感の沸かないそれにゆっくりと目を瞬かせれば、 「…なにジロジロ見てんだよ」 とわずかに頬を赤らめながら、それでも半ば睨むようにこちらを一瞥してくる。この姿を見られたくなかったのだろう、彼の機嫌は明らかに先ほどまでよりも悪化している。 しかしそんなことなどお構いなく、驚いた七宝は犬夜叉の頭に飛び乗ってわさわさと探るようにそこをまさぐった。 「犬耳が消えとるっ」 「むしろ、私たちと同じ耳がある…」 七宝の言葉通りいまの犬夜叉には印象的だったあの犬耳がなく、代わりに人間と同じ場所に人間と同じ丸みを帯びた耳が髪の隙間から覗いていた。どうやら髪や瞳の色の変化だけでなく、肉体的な変化まで起こっているらしい。それは犬夜叉以外の四人にとってやはり衝撃が大きく、目を丸くしたままのかごめが咄嗟に驚愕の声を上げた。 「どういうことなの!? その姿まるで人間…」 「けっ。ついでに爪と牙もねえよ」 「あ…ほんとだ…」 疎ましげに見せつけられる手。彼の言う通りそこにあったはずの鋭利な爪は人間のように丸くなっており、たまに覗く歯列には牙のような尖った歯が見当たらない。 ということは、完全に人間へと変わり果てているのか。彩音が犬夜叉の手に視線を落としたままそう考えていると、かごめの肩に乗る冥加が神妙な面持ちを見せながら慎重に語り始めた。 「犬夜叉さまたち半妖は、体内に流れる妖怪の血の霊力を、一時失う時がある。それは命に関わることゆえ、半妖は決してその時期を他の者に明かさぬ。犬夜叉さまのその時が今宵…月の出ぬ朔の日であったとは…」 「朔の日…」 「…新月、ってこと…?」 “朔の日”という単語こそ慣れないものであったが、冥加の“月の出ぬ”という一言によってそれが新月の日なのだと把握する。 妖怪と人間の血が混ざり合う彼は一時的とはいえこうして姿が変わってしまい、妖怪としての力を全て失ってしまうようだ。だからこそ日中から機嫌が悪く、時が経つにつれてそれが悪化の一途を辿っていたのだろう。 彩音がようやくそれを理解すると同時、冥加が不意に犬夜叉へ詰め寄るよう忙しなく跳ねていった。 「犬夜叉さま、なぜせめてこの冥加に教えておいてくれなんだ」 「おめー知ってたら今頃逃げてるだろ」 「……そんなにわしが信用できぬかっ」 「その間が信用できねーつってんだっ」 「あたしのことはどうなの!?」 「え゙」 冥加へ思い知らせるように怒鳴りつけた瞬間、横から迫ってきたかごめに犬夜叉は思わず後ずさってしまう。突然なんだ、といった表情を向けるが彼女は真剣で。まるで抗議するかのように、かごめは必死な様子で犬夜叉へ詰め寄った。 「あんたの体のこと知ってたらこんな妖怪の巣の中に来ようなんて言わなかったわ。あたしのことも信用できなかったの!?」 「おれは誰も信用しねえ!」 黙らせるように、分からせるように強く声を張り上げられる。それにはかごめだけでなく彩音までもがビクッ、と肩を揺らし、どうしてか一瞬、胸の奥にほんのわずかな痛みさえ感じたような気がした。 彼の言うことはもっともだ。きっと彼にとって自分は、信用に値しない人間だっただけ。そうと分かっているのに、分かっているはずなのに、彩音の脳裏には“彼女”の姿がよぎるような錯覚があった。 「今までそうやって生きてきたんだ。文句言われる筋合いは…」 「もし私が美琴さんでも、言わなかった?」 犬夜叉の言葉を遮り、問いかける。なぜ自分で彼女と比べるようなことをしてしまうのだろうと、言った傍から後悔のような念が芽生えるが、静かに口を閉ざしたまま返る言葉を待ち続ける。 すると犬夜叉は彩音の言葉に驚いた様子を見せていたが、それもやがて元の素っ気ない表情に戻り、 「あいつになら…話してたのかもな」 ボソリ、呟かれる。 やっぱりだ。思った通り、彼女には言えてしまうんだ。犬夜叉の言葉を耳にして巡る、そんな言葉。無意識のうちに強く眉根を寄せてしまいながらしばらく彼の言葉を反芻していたが、それもやがて止まり。顔を上げた彩音は、ひどく疎ましげな鋭い目を犬夜叉へ向けやった。 「へー、そう。私だってこんなに犬夜叉を信用してるのに、美琴さんとは違うんだ。生まれ変わりの私には話せないのに、美琴さんには話せるんだ」 苛立ちを抑えきれない棘のある声でそう告げれば、こちらに顔を上げた犬夜叉がびく、と大きく揺れて硬直する。かと思えば慌てたように身を乗り出して「な、なんだよその顔っ」と反論の声を上げてきた。 「おめーいつも美琴と一緒にすんなって言うだろーがっ」 「そうだけど。状況が状況なだけに単純にムカつく。こんなことなら今日はやめようとか、一言でもくれたらよかったのに」 「そうよ! あんたがそうやって一人でかっこつけてるから、結局最悪の事態になってんじゃないの! バカよあんた、バカ!」 「なっ…」 恨めしげに睨み付けてくる彩音に続いてかごめの猛攻が加わり、途端に責め立てられる犬夜叉は顔を引きつらせてたじろいでしまう。 まさかこれほどまでに形勢が逆転するとは思ってもみなかったのだろう、犬夜叉は言い返すことさえできず狼狽えるばかりであった。 そんな時、その言い争いに背を向けるただ一人だけは、真剣な表情で考え込むように腕を組んで立っていた。 「(犬夜叉が無能な人間に成り下がったいま、みんなを守れるのは妖怪のおらだけじゃ) しっかりせねば」 騒がしい三人には目もくれず、唯一の妖怪である七宝は静かに闘志を燃やす。その時、突然近くでザザッ、と大きな物音が響かされた。 追手が来たか――そう身構えかける一同だが、そんな彼らの前に現れたのは斜面を滑り落ちてくる見覚えのある少女であった。 「くっ…」 「な、なずなっ」 「無事だったの!?」 姿の見えなかった彼女の無事に彩音たちは目を丸くする。 逃げるのに必死だったのだろう、体中を汚した彼女はひどく消耗している様子であった。そんな彼女に彩音とかごめはすぐさま手を貸すべく駆け寄るが、先ほどまで勇敢に意気込んでいた七宝はいつしか誰にも負けないくらい驚き怯え、犬夜叉の腕にしがみついてしまっていた。 「「和尚さんが!?」」 なずなからことの顛末を聞き、彩音とかごめは思わず声を上げてしまう。するとなずなは身を乗り出し、強く縋るように訴えかけてきた。 「まだ生きてるんだ、助けて。あの犬夜叉って妖怪…強いんだろ!?」 「え…」 「えーっと…こう、言われてますけど…」 「けっ、やなこった」 返答に困った彩音が背後へ呼び掛けるが、返ってくるのは素っ気なく突き放すような言葉だけ。やはり取り合う気は毛頭ないようで、なずなから姿を隠すよう木の裏側に座っていた犬夜叉は腰を上げるなり寺とは逆の方角へと体を向けた。 「行くぞお前ら、こんな物騒な山長居は無用だ」 そう呼び掛けてくる犬夜叉。その姿が木の陰から露わにされた途端、なずなは訝しむように、呆けるように「人間に化けた…?」と呟き目を丸くしていた。 しかし犬夜叉もいまさら隠したり取り繕うことなどはせず、堂々とそこに立ったまま厳しい目をなずなへ向けた。 「大体おめえ、妖怪なんぞの世話になりたくねえんだろ?」 「和尚さま見捨てて逃げる気か!!」 「なんとでもいいな」 なずなは当初の気持ちを折ってまで助けを求めるが、犬夜叉は変わらず彼女に背を向けたまま。どちらも譲る気がないようで平行線を辿るばかりだ。 そんな二人を前にする七宝が戸惑ったように「どうする彩音」と問いかけてくるが、彩音もまた簡単には決断できずに唸ってしまう。 なずなの“育ての親を救いたい”という気持ちは当然分かるし、できることならばすぐにでも手を貸したい。だがこちらの主戦力である犬夜叉はいま力を失っており、自ら危険に飛び込むような馬鹿な真似はしたくないであろう気持ちも分かる。それに相手は妖怪。もし仕留めそこない逃げられでもしたら、犬夜叉が朔の日に力を失うことが広まってしまうリスクだってあるのだ。 ゆえにどちらの背を押すべきか悩まされ頭を抱えそうになったその瞬間、突如隣から「あ゙っ…」というただならぬ様子が分かるほどの声が大きく上げられた。それには彩音や七宝だけでなく、早々に立ち去ろうとしていた犬夜叉でさえ「ん゙!?」と声を上げて振り返ってしまう。 すると一同の視線を集めるかごめの顔が上がり、どこか戸惑った様子が見え隠れする小さな笑みが浮かべられた。 「四魂のかけら…リュックの中に…置いてきちゃった…」 「え゙…? え!?」 「か…かごめ…」 まさかの事態に犬夜叉が目を点にしてしまいながら驚愕の声を上げるのに続いて、彩音はもはや乾いた笑みを浮かべるしかない様子。 確かに突然蜘蛛頭が湧いて戸惑うままに逃げてきたのだ。それどころではなかった状況を思い返すと仕方のない気もしてくるが、それでもやはり、ことの重大さに一同はただしばらく呆然と立ち尽くしてしまっていた。 すると数分後―― 「よおし寺に戻るぜ!」 「お、おうっ」 意気込むように寺へ向き直った犬夜叉が威勢のいい声を響かせる。その小脇には何本もの卒塔婆が抱えられており、彼の肩には情けないほど大きく震え続けながら返事をした七宝がしがみついていた。 「お墓からあんなに卒塔婆引っこ抜いちゃって…」 「バチ当たりな奴だなあ」 「色んなものから怒られなきゃいいけど…」 鉄砕牙が使い物にならないとはいえまさか卒塔婆を持ってくるとは考えもせず、かごめとなずなと彩音の三人は呆れたような目を向けてしまっていた。 これから闘いに赴くというのに、仏や霊といった類のものに呪われてしまわないかと気が気ではない。彩音がそんな思いを抱えていると、不意に犬夜叉から「彩音、」と呼び掛けられなにかを投げられた。慌てて受け止めてみれば、それは犬夜叉が握っていたはずの鉄砕牙―― 「おめーはかごめとなずなとここで待ってろ。変化しねえ鉄砕牙でも、蜘蛛頭ぶっ叩くくらいはできるだろ」 彩音が顔を上げると同時に向けられる言葉。要は護身用に持っておけということ。それはすぐに理解できたのだが、だからこそ慌てた彩音は「だ、ダメだよ犬夜叉っ」と声を上げながらすぐさま鉄砕牙を返そうとした。 「こっちには私の燐蒼牙があるんだし、犬夜叉こそ鉄砕牙を持ってなきゃ…」 「バカ野郎。燐蒼牙はなにがあるか分からねえって言われてんだろ。そんな刀を安易に使おうとすんな」 「そ、そうかもしれないけど…でもっ…」 「いいから大人しく待ってろ。行くぞ七宝!」 「(お、おらがしっかりせねばっっ)」 食い下がろうとする彩音を振り切るように地を蹴る犬夜叉。相変わらず大きく震えながら意気込む七宝とともにその背が遠ざかっていく中、それを隣で見届けていたかごめが小さく「気を付けて…」と呟いていた。 鉄砕牙を返すことも、彼を引き留めることもできなかった。そう考えてしまう彩音は手元の刀に視線を落とし、それを握りしめる。 すると同じく犬夜叉の背中を見つめていたなずなが難しい表情を見せながらどこか不安そうな声を漏らした。 「あいつ…和尚さま助けてくれる…?」 「たぶん…あれでも結構優しいとこあるのよ」 やはりかごめも不安なのだろう。なずなの言葉にそう返しながらも、その表情にはわずかながら陰りがあるように見えた。それもそのはずだ。犬夜叉はいま完全なる人間。そんな彼がまともな武器も持たないまま、自ら妖怪の群れの中へと向かってしまったのだから。 それを改めて実感する彩音は顔を上げ、未だ漆黒に染まっている空を見つめた。 (いつになれば…犬夜叉は元の姿に戻れるんだろう…) 未知の状況に不安ばかりが渦巻いて仕方がない。月のない漆黒の空もまるでその感情を助長しているように感じて、そこを見つめているのが怖くなる。再び視線を落とした彩音はやり場のない不安に眉根を寄せ、ただこの気持ちを誤魔化すように鉄砕牙を握りしめていた。 ふと、その手に優しく手が重ねられる。顔を上げればかごめが眉を下げながらも微笑みを浮かべていて、 「きっと大丈夫よ。いまは信じて待ちましょ」 そう、語りかけてくれた。彩音はそれに小さく頷くと促されるままに岩陰へ歩み寄り、三人でそこに隠れるよう身を寄せ合う。 そうだ、彼女の言う通りいまは信じて待つしかない。そしてその間は自分が犬夜叉の代わりに二人を守らなければならないのだ。不安に俯いている暇などない。 そう気を持ち直すように改めて鉄砕牙を握り直しては、静かに辺りを警戒する。そんな時、不意になずなが弱々しい小さな声を漏らした。 「和尚さまは…この山を法力で蜘蛛頭から守ってくれてたんだ」 やはり和尚が心配で仕方がないのだろう。自身の体を抱くようにうずくまるなずなはそう語りながら、不安に歪めた顔を微かに俯かせていた。 「蜘蛛頭に殺された野晒しの死体を、甦ってこないように供養してまわって…あたしも…おとうが殺されてからずっと、和尚さまに守ってもらってた」 (…ずっと…?) 「(それなのに急に蜘蛛頭たちが暴れ出した…?)」 彼女の不安を和らげるためにも静かに耳を傾けていたが、彩音とかごめはその話に言いようのない違和感を抱く。なぜいままで法力で抑えられていたはずの蜘蛛頭たちが突然暴れ始めたのか。 聞けばなずなが和尚に引き取られてからそれほど長くはないという。ならば和尚の力が衰えたとも思えず、蜘蛛頭たちが突然力を蓄えたとも思えない。 それらを思案していくうちに、彩音たちが感じた違和は嫌な予感へと変貌していくような気がした。 (あの和尚…まさか…) 可能性でしかない。可能性でしかないが、胸の奥に不安がとぐろを巻く。確かめに行くべきかと思わされるものの、いまはかごめとなずなを頼まれているためこの場を離れるわけにはいかない。連れ出すことは危険が伴うため論外だ。 それを思うといまはただこの可能性が気のせいであることを願って身を潜めていることしかできず、行き場のない不安をきつく握る手へと追いやることで精一杯であった。 ――しかし、それからどれくらいの時間が経っただろう。絶えず草木を揺らしざわめかせる風が吹き抜ける中で犬夜叉と七宝の帰りを待ち続けているが、岩の向こうに見える総門を覗いても彼らの姿は見えてこない。蜘蛛頭たちさえ出てこないが、寺はその気配を感じ取れないほどひどく静まり返っている。 だからこそ、犬夜叉たちが帰ってこないことが心配で仕方がない。 (犬夜叉…大丈夫かな…) あれからしばらく経っているというのに、一向に出てこないどころか足音も聞こえてこないのだ。 やはりなにかあったのか――先ほどから感じている嫌な予感にそう思わされていると、不意に隣のなずなが「二人とも、あれ…」とわずかに緊迫した声を向けてきた。それに釣られるよう振り返れば、総門の向こうから光る小さななにかがこちらへ飛んできているのが分かる。 得体の知れないものに彩音は鉄砕牙を構えようとしたが、小さな火のような光に包まれるそれが特に害のないものであることは一目で理解できた。 「これって…」 「ドングリ…?」 彩音となずながたまらず不思議そうな声を向けたもの、それは小さなドングリであった。 どうしてドングリが光を纏いながらひとりでに飛んでいるのだろう。そんな疑問を抱きかけた次の瞬間、そのドングリは軽快な音を立てると間抜けな顔で「わーん」と大きな泣き声を上げた。かと思えばそれは変化の煙を一瞬だけ細く残して、あっという間に虚空へ消えてしまう。 見覚えのある間抜けな顔、ドングリを使った術――これは、七宝の合図だ。 「まさか、犬夜叉たちになにか…!?」 ドングリが七宝の合図だと悟った瞬間によぎった嫌な予感。それに弾かれるように立ち上がると、彩音はかごめに鉄砕牙を押し付け自身は燐蒼牙を手にしながら寺への石階段を駆け上がった。

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