風が細く音を立て、障子をガタタ…と鳴らす。あちらこちらが蜘蛛頭の糸に覆われる寺を駆ける
彩音たちは、和尚が襲われていたという本堂を目指して足を進めていた。
ここに至るまで犬夜叉たちの姿を見なかったが、二人も本堂にいるのだろうか。
彩音が絶えず巡る不安に顔を歪めながら燐蒼牙を握りしめた、そんな時。不意に本堂の方から小さく物音が聞こえた気がした。それは書物やものを落とすような音。
蜘蛛頭たちがいるのだろうか、そう考えた
彩音は二人を止めて息を殺すように本堂に近付いた。
「ありがたい…これで五百年は寿命が延びるわい」
微かに、それでも確かに聞こえた声。途端に嫌な鼓動を強く響かせると誰からともなく駆け出し、本堂に望むよう強く立ちはだかった。
「なっ…!?」
「お…和尚さま!?」
露わになった本堂の光景に
彩音となずなが声を上げる。「和尚さま…どうして…」と震える声を漏らし後ずさってしまうなずなが目にしたもの、それはひどく変わり果てた和尚の姿であった。
広い本堂いっぱいに広げられた体が蜘蛛の巣のように枝分かれしており、頭がその体を伝うよう自在に移動するという得も言われぬ奇怪な姿。手下の蜘蛛頭に運ばせたであろうかごめのリュックから取り出した四魂のかけらを前に妖しく笑むその顔には、優しかった和尚の面影などかけらも残されていなかった。
「やっぱりあんたが黒幕…!」
「卑怯者、よくも騙したわね!」
目の当たりにした紛うことなき妖怪の姿に二人はたまらず声を上げる。やはりあの時よぎらせた予感通り和尚が関わっていた。それ自体が、蜘蛛頭の親玉であったのだ。
それを思い知らされては早く気付けなかった悔しさに唇を噛み締めたが、その時、「
彩音っかごめ、犬夜叉が~っ」という声が聞こえてきてはっと目を見張るように振り返った。そこには和尚――もとい蜘蛛頭の手に押さえつけられ、じたじたと必死にもがく七宝の姿。彼の訴えかけるような目に促されるまま頭上を見上げれば、途端、息が詰まるほどの強い衝撃に襲われた。
犬夜叉がいた。多くの糸に絡められ、仰向けで力なく蜘蛛頭の体に引っ掛けられた犬夜叉が――
「犬夜叉っ!」
咄嗟に彼の名を叫ぶが、返事はおろか身動きなどの小さな反応さえない。よく見れば彼の首筋に大きな穴が開いており、目は虚ろに見開かれ、その口には吐血の跡がくっきりと残されている。そんな彼の見たこともない無残な姿に鼓動が激しさを増していくと、途端に胸の奥から冷えるような嫌な予感が脳裏をよぎった。
(うそ…ま、まさか犬夜叉…死んで…!?)
「くくく…たっぷりと毒を注ぎ込んでくれた。いまに体内からじわじわと溶けてくるわ」
よぎる可能性を肯定するような蜘蛛頭の言葉。それに一層強く鼓動が響くと同時、
彩音は蜘蛛頭の言葉を聞き終える間もなくその体へ飛び乗っていた。
犬夜叉を助けなければ。その一心で蜘蛛頭の体を伝い上ろうとするが、その瞬間「お主もわしの餌になるか!?」と言い放った蜘蛛頭が大きく開いた口から大量の糸を噴射し、瞬く間に
彩音を覆い尽くし絡め取ろうとした。
――だがその直後、ジュッ、となにかが焼けるような凄まじい音がすると、途端に大きく広がった煙が
彩音の姿を包み隠してしまう。
「む!?」
「な…なに…!?」
蜘蛛頭が眉をひそめると同時、煙が晴れたそこでは掠り傷ひとつ負っていない
彩音が一瞬の出来事に戸惑うよう目を丸くしていた。そこに蜘蛛頭から放たれた糸は塵ほども残っていない。代わりに、
彩音が手にする燐蒼牙に先ほどの煙が細くまとわりつくよう残っていた。
一体なにが起こったのだろう。あっという間の出来事に呆然とするよう燐蒼牙を見つめていれば、不意にどこからともなく跳んできた冥加がひょい、と
彩音の肩に飛び乗ってきた。
「燐蒼牙の結界が働いたのじゃ」
「り…燐蒼牙の、結界…? なんかよく分かんないけど…冥加じーちゃんがいるし、行ける!」
「どーゆー意味じゃい」
途端に確信を抱き強気になる
彩音に冥加が強く飛び跳ねながら抗議の意を示してくる。しかし
彩音はそれに構うことなくそそくさと蜘蛛頭の体を駆け上がろうとした――途端、手下の蜘蛛頭たちが突如それを阻むように三匹同時に跳び掛かってくる。
「ぎゃーきもい!」
思わずそんな色気もない叫び声を上げた
彩音は必死に燐蒼牙を振るい、バキバキと音を響かせながら容赦なくそれらを殴り飛ばしてみせる。どうやら手下程度ならこのような攻撃で容易く散らせるようだ。それを実感するように燐蒼牙を握りしめて荒い呼吸を整えていれば、不意に、頭上からほんの小さく弱々しい声が聞こえてきた気がした。
「…
彩音…」
「! 犬夜叉っ! よかったっ…!」
微かな声に顔を上げればこちらを見下ろす犬夜叉の意識が戻っていることが分かる。それにより脳裏をよぎったあの嫌な予感が外れたのだと分かると、たまらず涙が滲みそうになって。
彩音は表情を緩めるように笑顔を見せながら「すぐ行く!」と告げ、すぐさま犬夜叉の元へ向かおうとした。
その時、背後で「くくく…」と不穏な笑みをこぼす蜘蛛頭がその口に大きな牙を覗かせていたが、犬夜叉を助け出すことに必死になってしまっている
彩音はその存在に気付いていなかった。ただ夢中で、犬夜叉に手を伸ばしている。
すると代わりとばかりに蜘蛛頭に気が付いた犬夜叉が、苦しげに寄せた眉根へより深いしわを刻みながら掠れる声を漏らした。
「
彩音…逃げ…ろ…」
「大丈夫っ、もう少しだから…」
「ばか…言うこと聞…」
「ばかはあんたでしょ! 私があんた放っといて逃げるとでも思ってんの!?」
「…じゃなくて後ろ…」
「え? げっ!?」
犬夜叉を黙らせてまで糸を引き千切ろうとしていた矢先、彼の言葉に不思議そうに振り返った
彩音が見たものはすぐ傍まで迫っていた蜘蛛頭の頭であった。それに驚き咄嗟に避けようとした
彩音は思わず犬夜叉を抱えるようにその場を飛び降りてしまう。おかげで蜘蛛頭の牙からは逃れられたものの、犬夜叉にまとわりついていた糸が激しい音を立てて千切れてしまい、二人は体勢を持ち直すこともできないまま蜘蛛頭の体の上を滑るように落下していた。
「落ちてるぞこら…」
「だ、だって急だったから――ゔっ!」
ドス、と鈍い音を立てて体が床に打ち付けられる。重症である犬夜叉を守ろうと
彩音は咄嗟に彼を受け止めるような形をとったが、自分と同じくらいの男を受け止めるのは想像以上の衝撃で。たまらず何度も咳き込みながら、慌てて駆け寄ってきたかごめとなずなによって犬夜叉共々体を支えられた。
「外は駄目だ。こっち! 本堂の裏に小部屋が」
そう言いながらなずなが指を差した小部屋へ真っ先に
彩音が入れられると、なずなとかごめで犬夜叉を引き摺るように運ぼうとした。しかし蜘蛛頭が逃亡を許すはずはなく、すぐにあとを追うよう複数の手を伸ばしてくる。
このままでは捕まってしまう――そんな思いをよぎらせた瞬間、咄嗟に立ち上がった
彩音がなずなたちを小部屋へ投げ込むよう引っ張り、即座に小部屋の戸を勢いよく閉めてみせた。その寸の間、潜り込もうとした蜘蛛頭の手がバチ、と音を立てて挟まれる。
「かごめっ。鉄砕牙を戸に突き立てい!」
「え」
慌てた様子で鉄砕牙を持つかごめへそう伝える冥加。それにかごめは戸惑いの色を露わにしたが、すぐにドカ、と音を響かせるほど強く鉄砕牙を戸に突き立ててみせた。すると突然電撃のような光が戸を中心に大きく閃き、挟まれていた蜘蛛頭の手はバチバチバチと激しい音を立てて拒まれるように離れていった。
「しばらくは鉄砕牙の結界でしのげるはずじゃ。だが…いつまで持つか」
「…犬夜叉…大丈夫…?」
冥加がわずかな不安を抱えるように呟く中、犬夜叉の傍に座り込む
彩音が不安そうな声を漏らす。床に横たわる犬夜叉はひどく憔悴しているようで静かに目を閉ざしていた。それは眠っているのか、
彩音の言葉に返事を寄越さない。
その姿に、一層不安が煽られる。振り返ってきたかごめと同じ表情を向け合うと、
彩音は犬夜叉の額に触れるべく小さく身を乗り出した。
その時前へ出した左手。それが犬夜叉の手に触れてしまった瞬間、
彩音の胸に痛いほどの悪寒が迸った。直後、冷や汗が滲む。咄嗟に確かめるよう、それでいて気のせいであってくれと願うように彼の手を取れば、
彩音の表情はひどく青く、強張った。
(犬夜叉の手が冷たい…!)
両手で包むように握ればその冷たさが一層強く感じられる。人間になってしまったから、蜘蛛頭の毒がそれだけ早く回っているのだろうか。それを思うと焦燥感ばかりが駆り立てられ、大きく瞳を揺らすほど戸惑い硬直してしまっていた。その様子を見て悟ったのだろう、顔を強張らせたかごめも同様に犬夜叉へ寄り、その体に手を掛ける。
「しっかりして犬夜叉…犬夜叉!」
「揺り動かしてはならん、毒が回る。…と言っても手遅れかもしれぬ。人間の体では妖毒に耐えられまい」
かごめを制止するように飛んできた冥加も額に汗を滲ませ、難しい顔を見せながら犬夜叉を見つめる。
その言葉に、胸を締め付けられるような錯覚があった。息が詰まる。再びよぎる不吉な文字に肩を震わせながら、
彩音は同じく震える声で弱々しく冥加へ問うた。
「まさか…本当に死んじゃうんじゃ…ね、ねえ、どうにか…どうにかできないの…?」
「少々手荒いが…毒を吸い出せばあるいは…
彩音にかごめ、お主らは見ん方がいい」
「「え…?」」
冥加の唐突な忠告に二人は呆然と声を漏らす。見ない方がいいとはどういうことなのか。それを考えるよりも早く意を決した冥加が大きく飛び跳ね、牙を刺された痕が生々しく残る犬夜叉の首へピタッ、と張り付いた――直後、冥加はいきなりぢゅ~、と音を立てて血を吸い始め、その体を瞬く間にむくむくむくと大きく膨らませていく。
それには
彩音もかごめも咄嗟に後ずさってしまい、傍で見守っていたなずなでさえひどく顔を強張らせて「げ」という声を漏らした。
「な、なにこいつ…」
「冥加じいちゃん、ノミ妖怪だから…」
引き気味に冥加を見つめるなずなとかごめがそんな声を交わす中、冥加は必死にぢゅぢゅ~、と血を吸い続ける。それには
彩音も顔を青くさせて引きつらせていたのだが、ふとその音が止み、サッカーボールほどの大きさに膨らんだ冥加が「ゔえ゙~満腹じゃ~」という声を漏らしながら床にころんと転がった。
その時だった。
「う…」
「! 犬夜叉っ!」
苦しげに呻きながら顔を歪める犬夜叉に気が付いた途端
彩音が咄嗟に身を乗り出す。その拍子にドン、と突き飛ばされた冥加が壁に叩きつけられたのだが、誰も構うことなく。一同は目を覚ました犬夜叉に身を寄せ、揃って心配そうな表情を向けていた。
それを受ける犬夜叉は憔悴しきった表情で、すぐ傍の
彩音の顔を見上げる。
「
彩音…なんで泣いてんだよ…」
「だって、だって…犬夜叉が死んじゃうんじゃないかって思って…不安で…」
「…おれが…? けっ、くだらねー…」
「バカっ…私はすごく心配だったんだから…!」
そう言い返す
彩音はいくつもの涙の粒をこぼしながら震える手で再び犬夜叉の手を包むように握りしめる。それを目にした犬夜叉は黙り込み、やがて「そうかよ…」とだけ呟くようにこぼすと
彩音から顔を背けるようにそっぽを向いてしまった。
弱っていても、それを見せたくはないのだろう。ぶっきら棒な態度を貫くその姿にかごめとなずなが安堵に似た呆れのため息を漏らしかけた、そんな時。不意に部屋の奥の物陰からガサ…と物音が鳴らされた。
「な…」
「なんかいる…!? ま、まさか蜘蛛頭…?」
安堵の空気も一変、途端に警戒の色を露わにしたかごめとなずなが音の元へ強張った表情を向ける。同時にかごめは鉄砕牙の鞘を握り、構える。それに続くよう
彩音も涙を拭い、犬夜叉を庇うように燐蒼牙へ手を掛ければ、奥の暗闇でなにかがガササ…ともう一度音を立てた。
どこかから忍び込まれたか、そんな思いで目を凝らしていたかごめがそれの姿を垣間見た瞬間、大きく鉄砕牙の鞘を振り上げた――その時、
「わーーっ待て待て殴るなーっ」
「「「え…」」」
「おらじゃおらじゃ。化けて潜んでいたんじゃ」
途端に慌てた様子で上げられた制止の声に目を丸くすれば、丸っこい生き物が焦りを露わにしたまま姿を現した。それは太く長い尻尾を持った、間抜け面の小さな生き物。
それを目の当たりにしたなずなは驚いたようにその姿を凝視して言った。
「タ、タヌキ!?」
「いや、ネコのつもりかも知れん」
「ネズミじゃい!」
なずなと冥加の予想は違ったようで、途端に七宝が怒鳴りつけるようにして変化を解いてみせた。見覚えのある間抜け面で正体は分かっていたが、なんとも言えないあの丸っこい生き物はネズミのつもりだったらしい。
それに
彩音がつい苦笑を浮かべてしまうと、こちらへ歩み寄ってきた七宝が小さなものを差し出してきた。その予想外のものに
彩音は思わず目を見張る。
「これ、四魂のかけら…!? もしかして七宝、取り返してきてくれたの!?」
「ふっ、坊主が
彩音たちに気をとられている間にな」
「ありがとう七宝っ」
「七宝ちゃん偉い!」
どこか緊張感を残したまま得意げな様子を見せる七宝に
彩音もかごめも激励の言葉をかけて頭を撫でてあげる。まさかこの状況で四魂のかけらを取り返せるとは思ってもみなかったためその感動もひとしおなのだろう、
彩音が七宝を撫でる手はしばらく止まらなかった。
――そんな時、小部屋の外の蜘蛛頭が四魂のかけらがなくなっていることに気付いたようだった。
「おのれ…中か…」
小部屋から聞こえる歓喜の声に確信しては、忌々しげに戸を見つめる。すぐにでも奪い返したいところだが、鉄砕牙の結界があっては戸をこじ開けることも叶わない。そのため蜘蛛頭は手を出せず、手下たちがカリカリカリと意味もなく戸を引っ掻くだけに留まっていた。
「……」
小さく、それでも確かに鳴らされるその音に
彩音たちもまた戸を見つめる。静かな小部屋にはそんな些細な音でさえよく聞こえ、籠城しているしかない一同は時折軋みを上げる戸を見守ることで精一杯であった。
しかし籠城を続けても、外の敵が去ることはない。それが分かっているからこそ、先の見えない状況に七宝は眉をひそめてしまった。
「いつまでここでこうしているんじゃ」
「鉄砕牙の結界が効いている限り、ここが一番安全。それに、犬夜叉さまの妖力が戻るまでは…ヘタに動かぬ方が得策じゃ」
冥加はそう言いながら、横たわる犬夜叉を横目に見る。粗方の毒を抜いたとはいえ未だ人間の姿のままでいる犬夜叉に無理はさせられない。それを思っては妖力が戻るまで待つしかなく、ただ静かに、安静に彼を寝かせていた。
「……」
一体いつになれば、元の姿に戻れるのだろう。再び抱いてしまうそんな疑問に顔をしかめながら、
彩音は犬夜叉の傍に付き添い続けた。