壁を成す板と板の隙間から帯状の光がいくつも差し込んでくる。どうやらぼんやりしている間に夜明けが近付いてきたようで、灯りもないこの部屋ではそんな薄明かりでさえくっきりと視覚化された。
辺りを見れば壁にもたれるかごめとなずなは静かに寝息を立てており、床に転がる七宝はうなされ、その横で同じく転がる冥加はどこか幸せそうに「も~飲めん」と寝言をこぼしている。それにほんの小さく緩い笑みを浮かべては、再び傍の帯状の光を見つめた。
(結構明るく見えるけど…まだ日は昇ってないのかな…)
外の状況が分からず、時間を確かめようとポケットに手を触れる。だがそこにスマホはなく、ハンカチの柔らかい感触だけが指先に伝わった。どうやらこんな時に限ってスマホを忘れてしまったらしい。
それにほんの小さなため息を漏らした、そんな時だった。
「寝てねえのか…」
「! 犬夜叉…」
投げ掛けられた小さな声にはっと振り返る。すると目を覚ましたらしい犬夜叉が、どこか儚げに見える眼差しでこちらを見ていた。やはりまだ回復しないのだろう、たくさんの汗を滲ませる様子からそれを感じては、一層寄り添うよう身を寄せながら心配そうに問いかけた。
「目が覚めたの? あ…もしかして起こした…?」
「いや…」
小さく呟くように言った犬夜叉はそっと顔を背ける。その様子から自分が起こしたのではないと分かると、
彩音は安堵するように小さく肩の力を緩めた。しかし彼は眠れないのか、開いた目をどこか一点に向けていて。やがて小さく口を開くと、普段では考えられないほど落ち着いた声音で囁きかけるように言いだした。
「なあ、
彩音…」
「なに?」
「ずっと考えてた。なんで…おれのために泣いてた?」
弱々しく、それでいてはっきりと問いかけられる言葉。それに不意を突かれたような思いを抱く
彩音はついきょとんとした様子を見せてしまったのだが、「それは…」と小さく口にし、汗で貼り付く犬夜叉の髪をそっと指でなぞるように払い除けながら優しく言いやった。
「さっきも言ったけど…犬夜叉が死んじゃうかと思ったからだよ…私、本当に恐かったんだからね…」
言いながらハンカチを取り出した
彩音はそっと犬夜叉の額を拭う。そんな彼女の手を犬夜叉は何気なく見やったのだが、その時それがほんのわずかに、小刻みに震えている様子に気が付いてしまった。
先ほどのひどく弱り切った犬夜叉を思い出したのだろう、手の震えや“恐かった”という言葉、微かにしかめられた彼女の表情がそれを伝えているような気がしてくる。それを思うと犬夜叉は申し訳なさと共に言葉を失うような、形容しがたい思いに包まれていた。
決して不快なものではない。けれど言い表せない、不思議な感覚。それの正体を探るようにしばらく黙り込んでいた犬夜叉であったが、答えを見出せないまま次第に天井へ顔を向けやると、そのまま小さく「ひざ…」と呟くように言った。
「ひざ貸してくんねえか?」
「えっ、ひざ…? う、うん…いいよ」
突然どうしたのだろう、そんな思いのままに
彩音は戸惑いを露わにしてしまったのだが、すぐに頷いては言われた通り彼へ一層身を寄せ、その頭をそっと自身の膝の上に乗せてあげた。
すると途端に伝わる、慣れない感触。重み、温かさ、髪が触れるくすぐったさ――その全てが気恥ずかしく感じられて、なんだか落ち着かない気さえしてくるようだった。だがそんな
彩音とは対照的に、犬夜叉は静かに目を閉じたまま大人しく身を委ねている。
「え、えっと…変な感じ、しない? 大丈夫…?」
「うん…」
落ち着かない感覚を誤魔化すように小さく問いかければ、やはり弱っているからか普段からは考えられないほど大人しく素直な声が返ってくる。そんな様子を見つめているとなんとなく安心するような感覚を抱いて、ぎこちない緊張をほぐされるようにほんの小さく笑みを浮かべた。そうして犬夜叉の顔に掛かる髪をそっと撫でるように除けながら、優しく囁きかける。
「本当に…犬夜叉が無事で、よかった…」
心の底から安心したように漏らされる声。それを耳にした犬夜叉はそっと静かに目を開いて。自身を見つめてくる彼女の顔を見上げ、やがては呆れたように再び目を伏せてしまった。
「…あれくらいじゃ死なねえよ…」
「そうかもね…でも、犬夜叉がいきなり人間になって…私、まだ犬夜叉のことなにも知らないんだって思ったら…なんか…色々重なっちゃってさ…どうしても、不安だったの」
ポツリ、ポツリ、こぼすように紡がれる言葉たち。犬夜叉はもう一度開いた目でぼんやりと彼女の顔を見つめたままそれを聞いていたが、ふと、顔を逸らすようにそっぽを向いた。
その脳裏に、自分が誰も信用しないと言い放った時の
彩音の姿が甦る。
美琴ならどうだったのかと問い、その結果に苛立ちを露わにしていた彼女の姿が。どうしてあれほど機嫌を損なってしまったのか犬夜叉には分からなかったが、あの時、彼女は苛立ちながらもはっきりと言い張っていた。
“私だってこんなに犬夜叉を信用してるのに”――と。
「(おれが
彩音やかごめを信用してねえのは確かだ…でもこいつは…
彩音は…確かにおれを信用してくれていた…なにかあるたびに、信じてるって言ってくれた…)」
次々と甦る、これまでの日々。彼女と出会って、行動を共にするようになってから長いとは言えない。だというのに彼女はその言葉に違わぬ信用を確かに感じさせていて、それに気が付いたいま、犬夜叉はまたも言い表しようのない不思議な感覚が胸の奥に芽生えていることを感じていた。
この感覚は一体なんなのだろう。ぼんやりと考えかけた時、不意に
彩音から「…ねえ、犬夜叉」と柔らかな声が降らされた。
「少しずつでいいからさ、私たちのこと…ちゃんと信じてね。私たちみんな、仲間なんだから」
「…
彩音…」
優しく、陽光が差し込むような暖かな微笑みで語られる言葉に、犬夜叉は伏せがちだった目を少しばかり丸くした。誰に頼まれたでもないのに、どうして彼女はここまで優しく接してくれるのだろう。どうしてここまで心を開いてくれるのだろう。どうして…
そんな思いばかりが芽生えていたが、彼女の微笑みを見ているとそれらが些末なことに思えてきて。自身もまた、表情が微かに綻ぶような感覚があった。
いまはただ、この心地よさに身を委ねよう。その思いひとつで目を伏せ、伸ばした手は
彩音の手に緩く絡める。すると彼女は少し驚いた様子を見せたが、すぐにキュ…と優しく握り返してくれた。
犬夜叉はそれに安心しきったように、
彩音の方へ頭を傾ける。
「
彩音といると…落ち着く…」
「え…」
不意に呟かれた言葉に、
彩音は耳を疑う。小さな声であったが聞き間違いではないだろう。そう確信できるくらい、静かなこの部屋でははっきりと聞き取れた。だからこそ驚き、戸惑い、彼の顔を見つめてしまう。
(きゅ、急になに言い出すの? 今までそんなこと、一度も…)
そう考えた時、気付く。自身の鼓動が、はっきりと感じられるほど強く早まっていることに。小さくも確かに、高鳴っていることに。
それを自覚しては顔に熱が集まってくる感覚まで抱いてしまい、
彩音はただ戸惑うままに自分の頬に指を触れていた。
どうしてこんなに高揚しているのだろう。そもそも、どうして犬夜叉は突然あんなことを言ったのだろう。普段は絶対に言わないような言葉なのに。やはり人間になって、蜘蛛頭に襲われて弱っているせいだろうか。それで、素直になっているのだろうか。
ただ混乱するようにそんな思いを巡らせていたその時、ふと、余計なことが頭をよぎった。
弱っているから、“あの人”と勘違いしたのではないだろうか、と。彼の中で、彼が信用できる人間――
美琴に存在を置き換えられていたのではないだろうかと。考えなければいいことが、じわじわと染みを広げるように頭の中を支配していていた。
それもきっと、自分にこんな優しい言葉を向けるとは思えなかったからだ。そうでないと辻褄が合わないと思ってしまったから、こんな不安を抱いてしまったのだ。
そう思うととてももどかしくて、歯痒くて。形容しがたい感情に小さく唇を結んだ
彩音は、意を決して犬夜叉に真意を確かめようとした。
「ね、ねえ犬夜叉、それって……って、寝てる…?」
「あんたも少し寝た方がいいよ。ずっと起きてたんだろ?」
突如思わぬ方向から声を掛けられたことにぎくっ、と思いきり肩を跳ね上げてしまう。と同時に振り返れば、いつの間にか目を覚ましていたらしいなずながこちらを見つめていた。
「えっお、起きて……まさかさっきの…聞いてた…!?」
「ここ狭いから」
当然のように、それでいてなにも言わないよといった様子でなずなはそう返してくれる。だがまさか起きている人がいるとは思ってもみなかった
彩音は焦りまくり、咄嗟に膝の上の犬夜叉を覆い隠すように抱き込んでいた。
おかげで犬夜叉が息苦しそうにしていたのを呆れた様子のなずなに指摘され、さらに慌ただしく動揺してしまったのであった。
* * *
「……」
壁にもたれ掛かり、膝を抱えて天井を静かに見つめるなずな。目が覚めて以来眠れず、こうして一人、得も言われない気持ちに思いを馳せている。
気が付けばずっと起きていた
彩音でさえ犬夜叉を膝に乗せたまま眠っており、そこへ次第に身を寄せていった七宝たちが寄り添い、一行はいつしか一纏まりになって静かに寝息を立てていた。それを前にしながら、なずなは何度も巡る思いに重く俯いてしまう。
「(なんでこんなことになったんだろう。まだ信じられない。あの優しかった和尚さまが妖怪だったなんて…こいつらが山に来てから…)」
「なずな…」
原因を探るように持ち上げた視線が正面で眠る一行を捉えた瞬間、背後から覚えのある弱々しい声に呼び掛けられてギク、と悪寒を走らせる。
「そこにいるんだななずな…」
知っている、優しい声。それが呼びかけてくると同時に背後の戸が軋みを上げ、咄嗟に後ずさるよう飛び退いた。
すぐそこにいる。ずっと信じていた、優しい親代わりであったはずの人。それを思えば実感が沸かないながらも憎しみが滲んで、なずなは戸を強く睨みつけながら声を荒げた。
「妖怪! あたしを騙していたんだな!」
「お前にだけは分かってほしい…わしは…法力が及ばず、妖怪に体を乗っ取られてしもうた…それも全て、中にいるそやつらのせい…」
「な…なんのことだ!?」
「そやつらが四魂の玉のかけらを、この山に持ち込んだからなのじゃ」
「(四魂の…? さっきのあれ…)」
眉をひそめるなずなの脳裏に、先ほど
彩音が七宝から受け取っていた小瓶が甦る。大事そうにされていたその小瓶の中には、いくつかの硝子の破片のようなものが入っていた。あれが四魂の玉のかけらと呼ばれるものなのだと確信を抱く。
「四魂の玉とは妖怪の妖力を高める怪しの玉…それがためにこの山の蜘蛛頭たちは妖力が強まり、わしの力では抑え切れなくなってしもうた…」
「……」
初めて聞く四魂の玉の効力。それを聞いてしまうとこの状況に納得できる兆しが見えた気がして、なずなは息を飲むように黙り込んでいた。だが相手は自分を騙していた妖怪。それの言葉を鵜呑みにすることはできず、ただ揺れる心の狭間で静かに戸を見つめていた。
そんななずなに、戸の向こうのそれは絶えず力のない声で呼びかけてくる。
「その中に四魂のかけらがあるのではないか? いまなら…陽射しがあり、蜘蛛頭が鎮まっている今のうちに、四魂のかけらでわしの法力を高めることができれば…蜘蛛頭を調伏することができる…わしも、お前たちも救われる…」
「だ…騙されるものかっ!」
「なずな…」
「うるさいっ!」
自分に縋る儚げな声を拒絶するよう叫び、強く耳を塞ぎ込む。聞きたくない。これ以上聞けば一層心が揺らいでしまいそうで怖かった。だから耳を塞ぎ全てを遮断しようとしたというのに、それでも、彼の声は聞こえていた。過去の、自分を救ってくれた時の彼の声が。
――憐れな…父親を、蜘蛛頭に殺されてしもうたか。
悲哀の色を見せる和尚がそう優しく語りかけてきたのは、なずなが父親の墓の前で悲しみに暮れていた時だった。辺りにいくつもの死体が埋葬されている中、彼はなずなの元へ歩み寄って傍に並んでくれる。
――わしがねんごろに弔ってあげような。
埋葬され、卒塔婆を立てられた父親の前で和尚は数珠を持った手を合わせる。その頭がゆっくりと下げられる中、なずなは顔も上げられないほど重い悲しみに包み込まれていた。すると和尚は、慈愛のある優しい微笑を向けてくれたのだ。
――行くところがないなら寺においで。ひとりぼっちでは心細かろう。
「(和尚さま…)」
その優しい微笑みが、温かな言葉が次々と甦って胸を埋め尽くす。名前も知らない赤の他人の自分をそれほど気に掛けて救ってくれたあの和尚が妖怪であったなど、やはりどうしても信じられなくて。小さく体を震わせるなずなの目には、じわりと滲む涙が浮かんでいた。
――森の木々が不気味さを謳うようにざわめく。犬夜叉がなにかを悟ったように目を覚ましたその直後、強く凄まじい破壊音が部屋中に響かされた。それに
彩音たちも目を覚ませば、小部屋に押し入ってくる蜘蛛頭やその手下の姿を目の当たりにして愕然と目を見張った。
そこには結界が張ってあったはず…そんな思いで倒された戸を見ると、苦しげに表情を歪めるなずなが下敷きにされている姿があった。そんな彼女の手には、戸に突き立てていたはずの鉄砕牙が握られている。
「なずな…鉄砕牙を抜いて…結界を解いてしまったのか!」
「ど、どうしてっ!?」
「くくく…なずなはわしを信じ切っておったでな…こうもあっさりと騙されてくれるとは…かわゆい奴よ…」
驚愕に染まる一同を前に、蜘蛛頭は嘲笑うよう告げながら吐いた糸で四魂のかけらが入った小瓶を絡め取ってしまう。それに気付いた犬夜叉たちが「四魂のかけら…!」と声を上げて体を起こそうとしたが、
「もう遅い…」
そう呟いた蜘蛛頭は血走った眼で犬夜叉たちを見据えるまま、無慈悲にもバリバリバリと音を立てて小瓶を噛み砕きかけらを飲み込んでしまった。
「てめえっ…」
直後、犬夜叉がよろめきながらも蜘蛛頭へ襲い掛かろうとした――その瞬間、「小僧!」と声を上げたそれに素早く長い腕を伸ばされ、首元を掴まれた犬夜叉はいとも容易く壁へ押さえつけられる。
「今度こそトドメを刺してくれるわ」
一層血走る目を見開きながら蜘蛛頭はその口を怪しく開いてみせる。そこにはいくつも並ぶ鋭い歯に加え、犬夜叉を襲ったあの毒牙がミシミシミシと音を立てて現わされた。再び犬夜叉に毒を注ぐつもりか。誰もがそれを予感したその時――負けじと蜘蛛頭の腕を掴む犬夜叉に変化が訪れた。
漆黒の髪に見覚えのある白銀が滲み始め、瞳の色も薄く色づいていく。さらに丸みを帯びていた耳が尖り始めると同時に爪に鋭さが戻り、彼が握る蜘蛛頭の腕がビシビシビシと生々しい軋みを上げ始めた。
「むっ。こやつ元に…」