09

「ねえ…今日の犬夜叉、なんか変だよ」 瞬く間に日が沈み、辺りが闇に包まれる夜。犬夜叉以外がなずなに用意された夕飯を口にする中でそう口にしたのは彩音であった。 彼女が思い出すのは日中から抱いていた違和感の数々。中でも決定的なのは先ほどの和尚とのやり取りだ。彼に向けられた“お主ただの人間であろう”という一言――どう見ても妖怪の類である犬夜叉に対してその言葉は確かに不思議であったが、その程度で和尚を襲おうとしたことは未だ理解できず、彩音は繰り返すように和尚の言葉を脳裏に反芻していた。 「…やっぱり、犬夜叉が怒るほどのことは言ってなかったと思うんだけど…」 「あたしもそう思う。あんなことくらいで怒るなんて…」 彩音に続くようかごめも頷いてくれる。やはり今日の犬夜叉の異変を感じていたのは彩音だけではなかったようだ。それを実感して犬夜叉を見つめていれば、彩音の茶碗に乗った冥加が便乗するように激励の声を上げる。 「そうじゃ犬夜叉さま。もっと堂々としていなされ。貴方さまは父君が大妖怪母上が人間の、立派な半妖じゃ」 「半妖に立派もくそもあるかー?」 「やかましい」 冥加の言葉に七宝がわざとらしく犬夜叉へ顔を迫らせながら言うがぺん、と頭を引っ叩かれる。その様子はいつも通りのようにも思えたが、「けっ」と吐き捨てる犬夜叉の心境は実に落ち着かない状態にあった。 「(…あの坊主何者なんだ。おれのことを見抜いてやがる…?)」 鉄砕牙を抱くように腕を組んで座る犬夜叉は汗さえ滲みだす顔を小さく俯かせる。焦燥感、和尚への疑心、それらの複雑な感情に眉間のしわは深まるばかりだ。 しかしその顔は不意に持ち上げられ、隣へと向けられる。というのも、彩音とかごめがすぐ傍まで寄ってきていて、共にこちらをじー、と見つめていたからだ。突然なんなのか、そう思いかけた瞬間、不意にかごめが閃いたと言わんばかりの表情を見せた。 「犬夜叉、あんたもしかして…」 「……な、なんだよ」 「クモが怖いんだ!?」 「ああ、だから乗り気じゃなかったわけだ!」 「……」 自信ありげに言い張るかごめに続き、納得した様子で便乗する彩音に思わずたじろいでしまうほど拍子抜けする。と同時に、七宝が犬夜叉を驚かさんと「びろ~ん」と声を上げながら間抜け面の蜘蛛に変化した。 ――が、残念ながら犬夜叉が驚くことはなく、振り下ろした左手で七宝を押さえつけては呆気なく彼の変化を解いてしまった。 「あれ」 「…違うの?」 「なわけねーだろ」 予想と違う結果に首を傾げる彩音とかごめに、犬夜叉は強く引き攣った笑みを見せながらはっきりと言い張る。どうやら彼の不機嫌の原因は蜘蛛ではなかったようで、振り出しに戻されたような感覚の彩音は再び首を捻った。 犬夜叉は全然教えてくれないどころか、時間が経つにつれてより一層気が短くなっていくような気さえして、原因の追及は徐々に難しさを増すばかりだ。もう単刀直入に聞くべきだろうか、そう考えた彩音は泣きついてくる七宝を抱き留め、犬夜叉へと顔を上げる。 だがその彼は立ち上がり、すでに部屋の外へと足を進め始めていた。 「え、ちょっと犬夜叉。どこ行くの」 「うるせえ、おれは一人で寝る。いいかっ、これ以上余計な詮索しやがると…」 振り返る犬夜叉はまるで釘を刺すように厳しくそう言いつけるが、その言葉が最後まで言い切られることはなかった。彼の声を遮るように、なにかが壁を這うカサカサカサという音が無数に聞こえてきたのだ。それは一同の傍、頭上から聞こえてくる。 それに弾かれるよう顔を上げれば、部屋の天井の隅に蠢く無数の影が――数えきれないほど大量の蜘蛛頭たちがおどろおどろしくひしめいていた。
* * *
その頃、ひどく表情を強張らせたなずなは灯りを手に真っ暗な寺の廊下を走っていた。その周囲、寺のあちらこちらには蜘蛛の体に人間の頭が備わった不気味な姿の蜘蛛頭たちが無数に這いまわっており、すでに分厚い蜘蛛の糸をいくつも張り巡らされているのが嫌でも目に入ってくる。 「(どうして…!? 蜘蛛頭は入って来れないはずなのに…)」 明らかな異常事態に焦燥感がひどく駆り立てられる。和尚の法力に守られているというこの寺はいままで一度も蜘蛛頭に侵入されたことがない。だというのに、いまやこの有り様だ。それを顧みれば和尚の安否に不安がよぎり、嫌な汗ばかりが滲み出る。 「和尚さま!」 叫ぶように呼び掛けると同時に勢いよく本堂へ駆け込んだ――瞬間、なずなは息を詰まらせるほど強い衝撃を目の当たりにした。 和尚が、襲われている。蜘蛛頭がいくつも群がるそこに、大量の糸を絡められた和尚が力なく倒れ伏している。 ――それが意味するのは、寺の結界が破られたということ。 「お…和尚さま…」 「なず…な…?」 震えるままに和尚を呼べば、辛うじて意識を保っていたらしい和尚から声が返ってくる。だが彼は到底動けるような状況でなく、絶えず糸を絡められていく中で弱々しい声を絞り出してきた。 「なずな…逃げなさい」 「で、でも和尚さまを置いては…」 「は、早くっ! 最早わしの法力では蜘蛛頭を抑え切れぬ。せめてお前だけでも…犬夜叉殿たちと…お逃げ!」 なずなの揺れる心を律するように強く放たれる言葉。なずなはそれにひどく顔を強張らせたまま、滲みだす涙を目尻に溜めていた。
* * *
「どんどん増えてくるぞ」 「ちっ…」 ザワザワザワと耳障りな音が絶えず響かされる、夜闇に包まれた部屋。そこで後ずさるようにたじろぐ犬夜叉たちは、瞬く間に数を増やし部屋を埋め尽くさんとする蜘蛛頭たちへ苦い表情を見せていた。 このままでは全員襲われるだろう。その可能性をよぎらせた犬夜叉は背後に隠れる彩音たちへ強く言い放った。 「お前ら、先に逃げろ!」 「でっでもっ…」 「犬夜叉は…!?」 「うるせえっ。おれ一人ならなんとかなる!!」 かごめと彩音が犬夜叉を案ずるものの彼は聞く耳も持とうとせずまるで追い払うように厳しく言いつける。その瞬間、突如蜘蛛頭たちが一行目掛けてザッ、と跳び上がった。 「行けーっ!」 「わ、分かった」 「行こう二人ともっ…」 これ以上躊躇っていても犬夜叉の足手まといになるだけだ。そう考えた彩音が二人を背後の庭へ促そうとした時、犬夜叉が抜いた鉄砕牙に強い違和感を覚え足を止めた。 「くっ」と短い声を漏らし蜘蛛頭へ斬り掛かる犬夜叉の手元――そこに握られる鉄砕牙が、どういうわけか錆び刀のままであったのだ。 (うそ…鉄砕牙が変化してない…!!) 殺傷力のないボロボロの錆び刀で振るわれるそれに嫌な鼓動が響く。本来ならば大きな牙の刀に変化するはずだ。だというのに、何度振るい続けられても鉄砕牙は一向に変化の兆しを見せない。 当然錆び刀の鉄砕牙では蜘蛛頭を斬ることもできず、犬夜叉は襲い掛かってくる蜘蛛頭を一匹一匹叩き落とすのが精一杯なようであった。そんな状況で犬夜叉一人を残して大丈夫なのか――そんな思いがよぎった直後、突如蜘蛛頭たちは大量の糸と共に波のごとく流れ込み、一気に犬夜叉を覆い込もうとした。 「なっ…犬夜叉!」 「いかん!」 明らかな劣勢に目を見張った三人はすぐさま踵を返す。彩音が咄嗟に鞘に収めたままの燐蒼牙で蜘蛛頭を叩き払うと同時に、「狐火!」と叫んだ七宝の手から勢いよく青い狐火が振り放たれた。すると火に怖気づいたか蜘蛛頭たちが一瞬怯んだように捌けていき、そこへすかさず手を伸ばした彩音とかごめは二人掛かりで犬夜叉の体を引っ張り出した。 姿が見えないほど大量の糸に厚く覆われているが、いまはそれを払っている余裕などない。二人は犬夜叉の体を支えながら部屋を抜け出し、皆懸命に木々の生い茂る深い闇の中を駆け続けた。 そうして息を切らせるほど夢中で走り続けたのち、静けさが満ちる山中でようやく足を緩める。荒れた呼吸を整えるように歩み続け、徐々にその足を止めては静かに背後を振り返った。しかしそこに満ちる闇の中に蠢く影はなく、蜘蛛頭たちの足音も聞こえてこない。 「…もう追ってこないみたい…」 「うん…とにかく、いまはここに隠れていよう」 はあ、と上がった息を落ち着かせるようにため息を吐き、視線を落とす。その目が見つめているのは「ちくしょう…」と声を漏らす犬夜叉だ。蜘蛛の糸を深く被ったままの彼の表情は窺えないが、それでもやはりいつもと様子が違うことだけは強く伝わってくる。 「…ねえ…やっぱり違うよ、今日の犬夜叉。なにが…」 「うるせえ!」 遮るように強く上げられた声に伸ばしていた手が止められる。まるで触れるなと、構うなと言わんばかりの様子。それに彩音が眉をひそめると、同じくその声を聞いていた七宝が跳び上がり、代わりと言わんばかりに犬夜叉の頭をぺんっ、と叩いてしまった。 「なんじゃその態度は。彩音が心配してやってるのに」 「おれのことより…てめえら自分の心配してろよ」 いつもならやり返すはずの犬夜叉は不機嫌そうに眉根を寄せ、自身の頭に掛かった糸を握りしめる。それによりようやく彼の表情が窺えるようになったが、次いで忌々しげに糸が取り払われた瞬間、一同は各々が短い声を漏らすほど愕然と目を見張り、同時にその目を疑った。 「いつもみてえに守ってもらえると思ったら大間違いだぜ」 素っ気なくそう言い捨てる犬夜叉の姿。それは美しい白銀の髪を深い闇色に染め、琥珀のようだった金の瞳まで暗く色を落としているという、とても信じがたいもの。 普段とは真逆とも言える姿へ変貌してしまった彼のその姿はまるで――人間そのもののようであった。

prev |2/6| next

back