06

「くっ…」 「この腕喰い千切ってくれる…」 ギリギリギリと軋みを上げるほど強く挟み込む能面の力に犬夜叉の顔が歪む。腕を引き抜こうにも能面の牙がきつく食い込み、動かすことすらままならなかった。そうしている間にも衣を染める染みはさらに広がりを見せていく。それに焦り、忠告するよう身を乗り出したのはかごめだった。 「犬夜叉、体を攻撃してもだめよ! 能面から四魂の玉のかけらを取らなくちゃ…」 「くくく…最早わらわから逃げられぬ」 かごめの声を遮るように不気味な笑い声を漏らした能面の体から小さな音が漏れる。それは取り込んだ人間の手を木のように固くし、爪を鋭くさせる変化の音だった。犬夜叉がそれに気付くが早いか、能面はその手で犬夜叉の左肩や腕を掴み込み拘束してみせる。 だが犬夜叉は特に取り乱す様子もなく、腕を一瞥して「ったく、」と疎ましげな声を漏らした。 「気持ち悪い手でべたべた触るんじゃねえっ!」 強く声を張り上げながら挟まれた右腕を渾身の力で振り上げる。するとそれを拘束する能面の体まで振り上げられ、犬夜叉を掴んでいた腕がブチブチと嫌な音を立てながら千切られた。 そんな力任せの光景に彩音とかごめが驚く中、草太だけは目を輝かせながら「すっすごいっ全然平気だ!」と嬉しそうな歓声を上げる。そんな彼の視線の先で犬夜叉は右腕を能面に喰わせたまま、突如外へ向かって勢いよく駆け出した。 ――その先には、建物前に停められた巨大なクレーン車が。 「これで終わりだ。でーーい!」 掛け声と共に振り下ろされた右腕。それは硬い鉄製のクレーンを突き破るほど強く叩き付けられ、能面の巨体を見るも無残なまでに激しく散らしてみせた。 「ふっ。ざまあみやがれ」 そう告げる彼の腕の傍には完全に二つに別たれ体を失った能面の姿。途端に左の片面が小さく震えを見せると、「おの…れ…」と弱々しい声を漏らしながら素早く犬夜叉へ襲い掛かった。しかし、犬夜叉が素直にやられるはずがない。即座に腕を引き抜いては迫りくる能面へ手を伸ばし、片手で容易く握り潰すように砕いてみせた。 「やったー!」 ガラス片のように散っていく能面に草太が高らかな声を上げる。だが彩音とかごめだけは気付いていた。そこに、四魂の玉のかけらがないことに。 「犬夜叉それじゃないっ。もう一つの面を倒して!」 「残りの片面の…四魂の玉のかけらを取らなきゃ…」 「! お前ら逃げろっ」 かごめの声を遮ってまで叫ばれた言葉に目を見張る。そして彼の視線に釣られるよう振り返れば、背後に生き残った片面がカタタタ…と微かな音を鳴らしながらゆっくりと降りてくる姿が。それも束の間、目を合わせたそれは突如勢いをつけて迫り、突き飛ばすように彩音へ襲い掛かった。 「あっ!」 「彩音っ」 「わらわの勝ちじゃ…この娘の体…四魂の玉と共にもろうた…」 不気味な声でそう告げる能面は彩音の顔を覆わんと凄まじい力で押してくる。それに対し、防がんと咄嗟に伸ばした手で抵抗する彩音は「…誰が、あんたなんかにっ…」と悔しげな声を漏らしながら能面を両手で押し返そうとした。だが、あまりに強いそれは一向に離れる気配がない。それどころか能面は細い根のような神経を伸ばし始め、今にも彩音の体を乗っ取ろうとする。 (ダメ…このままじゃ、体が…) ギギ…と押し込んでくる能面の力に負けそうになる。手が震えて力が入らなくなる。 もしこの手が外れてしまったら終わりだ。不死の可能性がある体を乗っ取られれば、もう勝つ術さえ失ってしまう。それを瞬時によぎらせた彩音は大きくざわつく胸に唇を噛みしめ、視線だけを犬夜叉へ向けやった。 「犬、夜叉…お願いっ…こいつを、私ごと斬って…!」 頼むなら彼しかいない。もしそれが間に合わなければ、自らの体ごと能面を地面に叩き付けるまでだ――そんな思いを抱える彩音が犬夜叉を見つめれば、目を丸くした彼は「お前なに言って…」と反論しようとする。だが次の瞬間、彩音は大きく体を傾けて宙へ身を投げ出してしまった。 「彩音!」 かごめの悲痛な声が響く。しかしもう投げ出された彩音の体は地面へ向かい、抵抗していた手さえ放されていた。本気だ、それを瞬時に悟った犬夜叉は強く舌打ちし、蹴りつけたクレーンが大きな音を立てるほどの勢いで彩音へ飛び掛かった。 「いいかっ動くなよっ!」 ――鉄砕牙!! 念じるように握った刀を躊躇いなく振り切る。同時に彩音の体を強く抱き込み、すぐ傍の階へと飛び込んだ。ダン、と大きな音を響かせて着地した犬夜叉の腕の中。彼が覗き込んだそこには、目を伏せる彩音の顔に張り付いた能面の額がピシ、と音を立てて斬り離される光景があった。四魂の玉のかけらが落ちて転がるのに伴い、能面は空気に溶けるよう霧状になって消えていく。 「……」 静かに彩音の目が開かれる。その顔には傷ひとつなく、ほー…と細く息を吐いた彩音は弱々しい笑みを浮かべていた。 「終わった…?」 「おめえなあっ…なんであんな無茶しやがる! おれが間に合わなかったら死んでたんだぞ!」 「ご、ごめん…私、すごく焦っちゃって…ほら私、もしかしたら死なないかもしれないし…なにより…犬夜叉ならきっとやってくれると思ったら、つい…」 あはは…と力なくも申し訳なさそうに笑う彩音に目を丸くする。もしかしたら間に合わなかったかもしれない、鉄砕牙で傷付けていたかもしれない。だというのに彼女は、恐れることも躊躇うこともなく、こちらを信じて全て任せてくれたというのだ。 その事実に、言葉を失うほど呆気にとられる。すると上から慌ただしく階段を降りてくる音が聞こえてきて、途端に我に返った犬夜叉は「けっ」と吐き捨てるなり一人立ち上がった。 「とにかく彩音、ケガはねえな!?」 「え…? う、うん。特には…」 「よし、ならいい。次はぜってえあんな無茶すんじゃねえぞ」 突然の問いかけに戸惑いながら答えれば、犬夜叉は釘を刺すように続けながら背を向けて鉄砕牙を納める。わざわざ身を案じてくれたのだろうか。今までになかったことを目の当たりにした彩音はぱちくりと目を瞬かせ、慌てて駆け寄ってくるかごめと草太の声も半分程度にしか聞けないまま犬夜叉を見つめていた。 (あ、あんなことしたからかな…犬夜叉が少し…優しい、気がする…) 「(ふっ、まさかあんなことしやがるとは思わなかったが…おかげで一つ貸しができたな。こっから先、も~勝手なことはさせねーぜ)」 二人は同時に、似ているようで全く違う思いをそれぞれ抱えていた。しかしそれがお互いに伝わることはなく、心配してくれるかごめたちに笑いかけた彩音はすぐ傍に転がるかけらを拾って小瓶の中へ落とした。キン、と微かな音を立てるそれは、差し込んだ光に綺麗な色を反射させる。 どうやら日が昇り始めたらしい。かけらを照らすそれに気付いて顔を上げると、遠く地平線から太陽が覗き始めているのが見える。長い夜の終わりを告げる眩い光、それに目を細める彩音が一息つきかけた時、対照的にかごめだけは大きく目を見張って突然その顔を青ざめさせた。 「(しまったあ!! 今日は数学の追試の日) 犬夜叉、彩音、先に戦国(あっち)に帰ってて。じゃっ」 「え゙」 「あ、そっか。かごめー、頑張ってねーっ」 いってらっしゃーい、と驚く様子もなく平然と手を振り見送る彩音。その傍ではなにがなんだか分かっていない犬夜叉が呆気にとられるようぽかんと目を点にしていて。ただ立ち尽くすことしかできない彼を、草太だけは少しばかり高揚した表情で見上げていた。 「あのー、すっごくかっこよかったよ…」 「…そおか」 どこか慰めともとれる言葉だが、それがちゃんと伝わっているのかも分からないほど犬夜叉は呆然と立ち尽くすばかり。彩音はその様子を静かに見上げると、途端に「ぷっ、」と小さく噴き出してしまった。 「犬夜叉ってばヘンな顔。心配しなくても、かごめは追試が終わったらすぐ帰ってくるよ」 くすくすと笑いながらかごめが去っていった道路を見つめる。だがそこに降らされた声は「はあ?」という不躾な声だった。 「なんだその言い草は。それじゃまるで、おれがあいつと離れたくねえと思ってるみてーじゃねーか」 「違うの?」 「ちげーよ! おめーらが助けろって言ったくせに、礼の一言も言わねえから呆れてんだっ」 そう怒鳴って腕を組むなり犬夜叉はふん、とそっぽを向いてしまう。やはり律儀なのか、器が小さいのか。そんな姿に呆れの笑みをひとつこぼすと、彩音は握っていた小瓶に一度視線を落とし、再びポケットの中へとしまい込んだ。 するとその時、ため息をこぼした犬夜叉が仏頂面を浮かべたまま草太へ身を屈め、「さっさと帰るぞ」とこちらに声を向けてくる。確かにいつまでもこんなところにはいられないだろう。それは分かっていたのだが、彩音はそれに対して「あー…」と釈然としない声を小さく漏らし、どこか気まずそうに視線を泳がせ始めた。 「ごめん、先に帰ってていいよ」 「先にって…おめーここに残んのか?」 「いやあ、それがその…どうも、腰が抜けちゃったみたいで…」 どこか気恥ずかしそうに顔を背けながら彩音は言う。そんなまさかの答えにぱちくりと目を瞬かせた犬夜叉は、ずっと座り込んだままの彩音をじっと見つめだした。 それは嫌がらせか。そう思ってしまう彩音は目を細め、口をへの字に曲げるほど不服そうな顔を見せた。 「そんなに見ないでよ…私だって、まさか腰が抜けるとは思ってなかったんだから…」 「けっ。慣れねえことするからだ。ま、これでおめーも懲りただろ」 「……」 「懲りろよ」 渋るように黙り込んでしまう彩音にすかさずツッコんでしまう。それでも彩音は頷くことがなく、その様子にたまらずため息をこぼした犬夜叉は後頭部を掻いて彩音に歩み寄った。かと思えば突然彩音の膝裏と背中に両腕を回し、そのまま軽々と持ち上げてしまう。 「えっ!? ちょ、ちょっと犬夜叉…!?」 「懲りねーならもう一回同じ目に遭わせてやる」 「は!? いやいやいややめてバカ! 絶対死ぬ!」 「“死なないかもしれない”んだろ」 「あ、あれは可能性の話であってまだ確証はなく…い゙や゙ーっ! 分かった! もうしないから落とさないでー!!」 平気で自分を建物外へ向けてしまう犬夜叉に必死にしがみつきながら懇願の声を上げる。するともう一度ため息をこぼした犬夜叉は「本気で落とすと思ったか。ばーか」と呆れたように言い、彩音の体をギュ、と強く抱き込んだ。 「分かったら大人しくしてな。このまま連れて帰ってやる」 「こ、このままなの?」 「なんだよ。おめえ一人じゃ歩けねえだろ」 「……落としたらめちゃくちゃ恨んでやる…」 「だから落とさねーよ」 恨めしげに見つめてくる彩音に呆れを通り越して目を細めてしまう。少しばかりやりすぎたか、そんな思いを浮かべながら犬夜叉は草太を背負い彩音を抱えたまま、日暮家へ向かって朝焼けの街を大きく跳躍して行った。

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