無人の工事現場に吹き抜ける風の音が細く高く響く。いつしか手のひらの傷が消え去っていることにも気付かないまま工事現場の入り口をすり抜けると、傍に停めてあるトラックにもたれ掛かり、荒い呼吸を繰り返しながら能面へ振り返った。
ズル…と微かな音を立ててこちらへ向かってくるそれはまだ数メートルあと。顔や手足など、複数の人間の部位を見せるその体を自在に操れるわけではないのか、能面は一定の速度でゆっくりと
彩音を追い続けていた。
(まだ追いつかれそうにない…あいつが来る前に、安全な場所に逃げなきゃっ)
そう考えた
彩音は呼吸も整わないうちに踵を返し、建設途中の建物に設えられた足組へと駆け出した。鉄製の階段は静かな夜に騒々しい足音を大きく響かせる。だがそんなことに構うこともなく、
彩音は痛く重くだるい足を必死に回して足組を上っていった。
「……おのれ…」
ようやく階段まで追いついた頃、能面は高く遠ざかっていく
彩音の姿を見上げながら忌々しげな声を漏らす。やはり不自由な体では階段を上がることができないのか、途中で立ち止まった
彩音を見つめるもその足を進めようとはしなかった。
それを見下ろす
彩音は荒い呼吸を繰り返し、よろ…と後ずさるように数歩後ろへ足を踏み出した。
(よかった…ここならあいつも来ない…)
犬夜叉が来てくれるまで休もう。そんな思いがよぎっては傍の鉄骨へ脱力するように腰を下ろした。今頃犬夜叉たちがこちらへ向かってくれていて、すぐにでも辿り着くだろう。淡い期待にも似た思いでため息を一つこぼした――その時、どこからかシュルル…という小さな音が微かに聞こえた気がした。
「え゙」
彩音の短い声が漏れたのと同時にガキ…と固い音が鳴らされる。顔を強張らせた
彩音の視線の先には、真っ二つに分かれた能面が
彩音の座る鉄骨をしっかりと挟み込む光景があった。まさか、そんな思いがよぎりかけた次の瞬間、能面は鉄骨をグン、と引き寄せて
彩音ごとその階から引き摺り出してしまった。
「うそっ!? いやあああ!?」
「散魂鉄爪!」
突如聞き慣れた声が響く。それと同時に肉を斬り裂く不快な音が聞こえ、
彩音の体が掬われるような浮遊感に包まれた。かと思えば硬い板張りの床に降ろされ、「…ったく」と呆れた声を降らされる。それに閉じていた目を開いてみれば、目の前には仏頂面を浮かべる犬夜叉の姿があった。
「い、いぬや…」
「なに敵の前で油断してやがんだ、ばーか」
「うぐっ…」
すかさず向けられた指摘がぐさりと胸に刺さる。間違いない正論、さすがにこればかりは犬夜叉の言う通りだ。そう思わされた
彩音は「ご、ごめん…」と小さく謝りながら申し訳なさそうにうな垂れる。
犬夜叉はそれに「けっ」と吐き捨ててしまったのだが、その背に乗っていたかごめと草太はすぐに降りるなり不安げな表情で
彩音の傍へ駆け寄った。
「
彩音、平気!? ケガは…」
「大丈夫だよ。ケガは治ってるみたいだし、犬夜叉のおかげでこの通り」
両手のひらを見せながらどこにも傷がないことを示してみせる。するとかごめはほっ…と胸を撫で下ろして表情を緩めてくれた。――かと思えば、彼女は突然草太の肩を掴み込み、そのままぐりんと犬夜叉の方へ向き直らせた。
「もう大丈夫よ草太、犬夜叉が助けてくれる」
「う、うん」
かごめが言い聞かせるように告げると、草太は期待しているのか胸を躍らせる様子で真っ直ぐに犬夜叉を見つめ始める。それには
彩音も「犬夜叉ならすぐに倒してくれるよ」と続き、三人で犬夜叉への期待を現した。すると犬夜叉はやはり自信があるのだろう、「ふっ」と自慢げな笑みを浮かべてこちらを見やる――が、
「助けてやらんでもねえけどな、その前に…」
突然背を向け、そんな言葉を聞かされる。急になにを言い出すのか、そう思わざるを得ない
彩音たちが少しばかり目を丸くして犬夜叉を見つめると、それに振り返ってきた犬夜叉の表情は先ほどの笑みとは打って変わり、眉を吊り上げたとても真剣なものとなっていた。
「こないだのこと…謝ってもらおうか」
「え…?」
「こないだのこと…? なにそれ?」
「忘れたとは言わせねえぞ」
そう言うなり犬夜叉は全く心当たりがなくきょとんとする二人から顔を背け、「ふっ…」と乾いた笑みを小さく浮かべる。きっと思い出しているのだろう。勉強の邪魔だから帰れと、改心するまでこっちに来るなと井戸へ突き落された時のことを。
「てめえらの都合で追い返したかと思えば、今度は助けろだあ~?」
「追い返したって…あー、あの時のこと! うんうん、思い出した!」
「(わっ忘れてたのか――!?)」
犬夜叉の言葉でようやく気付いたらしい
彩音が手を打つ様子を見て、犬夜叉は雷に打たれたような衝撃を覚えるほど愕然としてしまう。まさか忘れられているなど思ってもみなかったのだろう。狼狽えるように見据えてくる彼に小首を傾げた
彩音は、突然なにかに気付いたようにはっと目を見張って悲しげに視線を流した。
「ごめんね…まさか犬夜叉がそんなに傷ついてたなんて…私、気付かなかった…」
「ばっ、怒ってるだけでいっ」
悲しげな演技に焦りを露わにした犬夜叉がすぐさま吠え掛かるように反論してくる。すると
彩音は「そうなの?」とあっさりいつもの様子に戻ってしまった。
「じゃあおあいこだと思うなー。犬夜叉だってその前に勝手にきて勝手に帰ったんだし」
「なんだよ。おめーも怒ってんのか?」
「別に怒ってないけど…」
「あれはおめーが悪いんだからな! おれは謝らねーぞっ」
けっ、と顔を背けてしまう犬夜叉に
彩音は「だから悪いってなんのことー?」と呆れたように首を傾げる。それでも答えようとしない犬夜叉の様子をずっと見つめていた草太は、汗さえ滲ませるほどに言葉を失くしてしまっていた。
「(気のせいだろうか…犬夜叉の兄ちゃんて…狭い! 圧倒的に心が狭い!!)」
小学生ながらそれをしかと感じてしまった草太は愕然とするような思いで犬夜叉を見つめ続ける。だがどれだけ見ていても彼から感じる心の狭さに代わりはなく、困り果てる
彩音に同情の念さえ覚えかけた。
――その時、近くでガキ…と固い音が聞こえてくる。それに振り返ってみれば、上階の床板を挟み込んだ能面が突如巨大な体をバウンドさせ、
彩音たちのいる階へとそれを投げ込んできた。
「うそ、上がれるの…!?」
「おのれ…よくもわらわの体を…」
まさか体ごとここまで上ってくるとは思わず後ずさる
彩音に対し、ズ…と身を寄せる能面は恨めしげな声を漏らしながら犬夜叉を見据えた。やはり体を自身のものにできず再生も不可能なのか、犬夜叉に切り付けられた傷はいまもしっかりと残されているようだ。
「けっ、気持ち悪い奴だな。どーゆー化けもんだてめえは」
「たぶんあいつの本体は能面だと思う…体は扱えてなかったし、額に四魂の玉のかけらがある」
「ほお」
彩音が四魂の玉のかけらのことを伝えれば犬夜叉はわずかな反応を見せる。やはり彼もこの時代にかけらを持つ妖怪が存在するとは思っていなかったのだろう、想定外の収穫に目の色が変わっている。それに感付いたか否か、能面は不気味なその声で静かに語り出した。
「わらわは肉づきの面…数百年の昔…四魂の玉のかけらを受けた大桂の木から掘り起こされし面よ…以来、体が欲しゅうて人を喰らい続けておったが…人の体は、簡単に壊れてしまう…良い体を創るには、もっと四魂の玉を集めねば…だから…お前の持つ玉を…寄越せ…」
「けっ、今まで何人喰ったか知らねえが…」
平面的な瞳で
彩音を見据える能面に気付いた犬夜叉が眉を吊り上げ、バキ、と指を慣らした。かと思えば音が響くほど強く床を蹴り、真っ向から能面へと飛び掛かった。
「太り過ぎだてめえは!」
「お前も喰ろうてやる」
当然能面が素直に食らうはずがなく、顔を割って犬夜叉を迎え討とうとした。しかし「しゃらくせえ!!」と声を荒げた犬夜叉が振り下ろした爪はあまりに強く、能面が彼を喰らうよりも早くその巨大な体を真っ二つに切り裂いてみせる。そうして犬夜叉が床へ降り立った時、能面の体はズウウゥン…と音を響かせるほど無残に倒れ込んだ。
「「「やった…!?」」」
「けっ、他愛のねえ…」
見守っていた三人が目を丸くして声を揃えるのと対照的に犬夜叉は素っ気なく吐き捨てるよう呟いた。大した手応えを感じなかったのだろう。呆れた様子ですぐに腕を下ろした犬夜叉だったが、ほんの一瞬目を離した隙に片割れがズル…と身を引き摺るのが見えた。
「! 逃がさねえっ」
犬夜叉から離れようとするそれを即座に追いかけた――その時、先ほどまでの能面からは考えられない速度で背後に回る片割れの影が垣間見えた。それも束の間、能面は突如喰い千切らんばかりに犬夜叉の右腕を挟み込んでしまった。
「犬夜叉っ!」
「かかったな愚か者…」
側面に並ぶ木製の牙が犬夜叉の腕に食い込む。際限なく締め付けられる彼の腕からは血が溢れ、赤い衣をさらに深く染め始めていた。