06

ページをめくる音が不規則に立てられる静かな図書館。調べものといえばここだろうと足を運んだ彩音は早速様々な本を抱えて席に着いたが、数分後には表情を強張らせながらひどく頭を抱えていた。 (ダメだ…さっぱり分からん…!) 新聞、伝記、妖怪図鑑。様々なものに目を通したが得られた情報はただ一つ、ここが彩音の元いた時代である二〇一六年ではなく、二十年前の一九九六年だということ。 それには彩音もなにかの間違いではないかと思ったのだが、最新の新聞にも、図書館の隅で小さく流されているニュース番組にも、はっきりと今が一九九六年だと伝えられてしまう。 (なんとなく違和感はあったけど…まさか自分の時代じゃなかったなんて…) 初めてこの時代に訪れた時、日暮神社から見えた景色に抱いた違和感。それは二十年の間に変わってしまった街並みに感じたものだったというわけだ。それを思い知らされるよう痛感しては、スマホを取り出して画面を覗き込んだ。 そこに表示されるのは“圏外”の二文字。やはり二十年後とは回線が違うのか、戦国時代よりも圧倒的に発達しているこの時代でも使い物にならないらしい。 それにたまらずため息をこぼしてしまっては、時間の無駄だったかな、と肩を落としながら立ち上がった。ここで得られることはもうないだろう、そう考えた彩音はひとまず日暮家へ帰ろうと本を抱え込む。 そうして本を返そうとした時、本棚に空いた一冊分の穴がずいぶんと空虚に感じられた。 そうして図書館をあとにした彩音は、人影もまばらな街中を無意識に任せるよう歩いていた。 しかしその視線は地面へ向けられたまま。あれから思考を巡らせ続けている彼女は、なぜ自分だけ元の時代に戻れないのかと俯きながら頭を悩ませていた。 (分かんない…全然分からないけど、考えられるとしたら…対になる井戸の問題、とか…? 私が落ちた井戸は、変な現象の中で出てきた井戸だし…) 思い返すのは登校中の電車内で見舞われた、奇妙な現象。あの時彩音が否応なく落とされたのは、そもそもあり得ないような怪奇現象の末に現れた井戸だ。かごめのように所在のはっきりしたものではない。 故に、彩音が帰るべき場所の出口を見失ってしまったから――一方通行だったから、こうして唯一繋がりが確立されているかごめの時代に来ているのではないだろうか。 そんな思考に至るが、答えは分からない。確かめようがない。それを改めて実感しては、ついため息をこぼしてしまいながら足を進めていた。すると不意に、肩へドン、と鈍い衝撃が襲いくる。 どうやら俯いていたせいで人とぶつかってしまったようだ。それをすぐに察した彩音は慌てて謝ろうと顔を上げたのだが、そこに立つなんともガラの悪そうなチンピラの男に「げ…」と顔を引きつらせてしまった。 「痛ってーな、おい。どこ見て歩いてんだ…って、ああ~?」 「ん、ん~?」 メンチを切るかと思いきや突然なにかを感じたように首を傾げながら彩音を見つめてくる男。焦りのあまりそれに釣られるよう彩音も首を傾げてしまえば、男はニヤ…と嫌な笑みを浮かべてきた。 「嬢ちゃん、けっこー可愛い顔してんじゃん。よし、ちょっとおれと遊ぼうぜ」 「は、はあ? なに言って…って、ちょっ!?」 たまらず後ずさりかけた彩音だったが男は強引に腕を掴み、そのまま彩音を路地裏の方へと引き摺り込んでしまう。それには彩音も慌てて腕を振り払おうとしたが相手は男。想定以上に力が強く、男の手はびくともしない。 焦りを露わにした彩音は「やめてっ、放して!」と何度もそんな声を上げるが叶うはずもなく。すぐさま人気のない寂れた路地裏へ連れ込まれると、地面に放るよう軽く投げ出されてしまった。 「いった…!」 「さーて、ここでおれの相手をしてもらおうか」 そう言うなり男は卑劣な目で彩音を見下ろし、その手を自身のズボンのベルトへ伸ばし始める。それには嫌でも“相手”の意味が分かってしまい、後ずさった彩音は自身の体を守るようにして男を睨みつけた。 「な、なんで私がそんなことっ…」 「さっきぶつかってきたのはお前の方だろ? 詫びだよ詫び。おれといいことしようぜ」 「……ふ…っざけんな!」 ギリ、と唇を噛みしめた彩音は迫ろうとする男の脇腹へ思い切り蹴りを叩き込んでやった。すると男が突然のことに驚きよろめいた隙を見て、彩音は即座にすり抜けるよう駆け出す。すると当然男は大きな舌打ちをこぼし、すぐにあとを追ってきた。 相手を怒らせた以上、次はなにをされるか分かったものではない。捕まったら終わりだ、そんな思いがよぎる彩音は振り返ることもできないまま必死に複雑な路地を駆け回っていた――が、突き当たりを曲がった途端強く目を見張った。 「なっ、行き止まり…!?」 まるで行く手を阻むようにそびえ立つ壁に顔を歪める。すぐに引き返して別の道を行こう、そう考えて咄嗟に踵を返すものの、そこにはすでに男の姿。先ほどまで卑劣な態度とは対照的に、怒りに染めた表情でゆっくりと迫ってきていた。 「てめえ…大人しくしてりゃいいもんを…このおれを怒らせたこと、後悔させてやる…」 「…っ」 低く唸るような声を吐きながらジリジリと距離を詰めてくる男。それに唇を噛みしめた彩音は逃げるように後ずさっていたが、背中にぶつかった壁がそれ以上の後退を許してはくれなかった。 それでも変わらず男は迫ってくる。 もう一度同じようにダメージを与えられれば逃げられるか、そう考えてはみるが、まるでそれを否定するかのように男が折り畳み式のナイフを取り出し差し向けてきた。 「怪我したくなけりゃ、大人しくするんだな…」 向けられるナイフの切っ先が鈍い光を閃かせる。たまらず息を飲んでしまいながら体を強張らせていれば、ふと目の前に影が落ちたと同時、ナイフにほんの一瞬赤が差し込んだような錯覚を覚えた。その瞬間、突然視界を遮るように目と鼻の先へ真っ赤な衣と白銀の髪が降りてくる。 「なっ、なんだお前!?」 「あ? てめーこそ誰だ」 男の驚いた声のあと、ごす、という鈍い音が聞こえたかと思えばあっという間に男がノックアウトしてしまう。それを覗き込むように見ていた彩音は驚いた表情のまま目の前の赤――犬夜叉を見ると、彼は呆れたような顔をして振り返ってきた。 「おめー、こっちでも狙われてんのか」 「た…たまたま変なのに絡まれただけで…って、なんで犬夜叉がここにいるの!?」 「んなもん、迎えに来たに決まってんだろ」 「迎えって…三日は待ってって言ったじゃんっ」 至極平然と言ってしまう犬夜叉の姿に彩音はつい食って掛かるように声を上げる。すると犬夜叉は口をへの字に曲げては突然噴火するかのように勢いよく言い放った。 「かごめの奴は“がっこー”とかいうのに行くから待てって言ったんだろ! おめーはそもそも時代が違うんだ。三日もいらねーだろっ」 「そんなことあんたに決められたく…え? 時代が違う?」 犬夜叉の口から飛び出した言葉に目をぱちくりと瞬かせる。その情報は彩音が今日調べてようやく分かったことだ。だというのに知っていたと言わんばかりの犬夜叉の様子に戸惑いそうになる彩音は頭を押さえながら訝しげな顔を向けた。 「な、なんで犬夜叉は、私の元いた時代がここじゃないって知ってるの…?」 「あ? んなもん、匂いとかでなんとなく分かんだろ」 「分かるかっ!」 妖怪的、動物的な勘なのか、当たり前のように言ってのけてしまう犬夜叉に彩音は今日一番の声を放っていた。ようやく得られた貴重な情報だというのに、こんなにあっさり知ることができていたなんて…そう思ってしまう彩音は今日の行動が全部無駄に終わったような感じがして盛大なため息をこぼしてしまった。 それから二人は路地裏を潜り抜け、屋根の上を跳ぶなどしてあっという間に日暮神社へと戻っていた。しかしかごめがいないため日暮家に居座るのも悪く、井戸の祠に入って古い木製の階段に腰を下ろしている。 そこで話したことは今日の成果。色々調べてはみたものの自分が知りたいことは特に情報を得られなかったと話せば、犬夜叉は呆れたような表情で「なんでい」と頬杖を突いた。 「それならやっぱり、向こうに戻った方が分かることがあるんじゃねえか?」 「さあ、それも分かんない。あっちにいたって、私が知りたいことを教えてくれる人がいるとも限らないし。美琴さんのことだって、教えてくれたのは誰かさんじゃなくて殺生丸だったしねー」 かつて犬夜叉に美琴がどんな人物なのかと問うても“自分で調べろ”と跳ねのけてなにひとつ教えてくれなかった。それを思い出させるようにわざとらしく言ってやれば、思惑通り思い出したらしい犬夜叉が「ぐ…」と気まずそうに言葉を詰まらせる。 かと思えば、親指で自身を指し示しながらずい、と身を乗り出してきた。 「じゃあおれも教えてやる。なにが知りたいか言ってみな」 「んー…私の時代に帰る方法?」 「それは知らねえ」 「ほらー」 「美琴のことを聞けって言ってんだよっ」 「えー。それはほとんど殺生丸が教えてくれたよ」 偉そうに言っておきながら答えられるのはそんな限定的なことなのか、と彩音は唇を尖らせる。 殺生丸のおかげで美琴について知りたいことはもうほとんどないのだ。それなのに今さらなにを聞けと言うのか…なんてことを考えながら「んー…」と唸っていると、ふと美琴の“関係”が気になった。 美琴は犬夜叉と面識があり、彼の様子を見るにその仲は悪くなかったはずだろう。そして人間を嫌っているはずの殺生丸とさえ、良好な関係を持っていた。 それを思うと言いようのない違和を感じてしまうような気がして、彩音はなんとも難しい顔をしながら首を捻っていた。 「美琴さんって…人間、なんだよね?」 たまらずそう問いかければ、犬夜叉は思い切り怪訝な表情を見せて「はあ? 当たり前だろ」と答えてきた。予想通りの答えだが、それでもやはり彩音の中にはなんとも腑に落ちないところが残って仕方がない。美琴が人間だと、辻褄が合わない気がするのだ。 「変だよね。美琴さんは人間なのに犬夜叉と友達みたいで、そのうえあの殺生丸とも仲がよさそうでさ。人間で、霊力のある巫女として生きてきたなら、普通は妖怪に嫌われるんじゃない?」 そう語りかけながら、膝に乗せた腕で頬杖を突く。やはり情報が少ないからか、いくら考えてもそこだけが不可解で引っ掛かるのだ。 聞いた話では巫女は妖怪を滅するため、巫女を忌み嫌う妖怪は多いという。だが美琴に関しては未だ彼女を嫌う妖怪を見たことがなく、むしろ親しげな者ばかりが現れる始末だ。それを思うとやはり犬夜叉たちと仲のいい美琴が人間で、さらには巫女であるという話は不思議で、疑問ばかりが残されてしまう。 そうでしょ? そう言わんばかりに犬夜叉へ振り返ってみれば、彼は考えるように黙り込んだまま器用にも階段の上でごろりと寝転んだ。今にも滑り落ちてしまいそうなその姿に彩音がひやひやとしてしまうが、当の犬夜叉は平然とした様子で「そりゃあ…」と呟くような声を漏らしてくる。 「たぶん不死の御霊のせいだろ。あれは龍神に授けられた神的なもんだ。あれのおかげか美琴の霊力も不思議と悪くねえ気がして、むしろ妖怪に近いような…不思議な感じがしたからな」 「妖怪に近い…? 妖気を感じたとか?」 「はっきりとは分かんねーけど、そんなとこだ。元々龍神ってのは、竜人とかいう妖怪を束ねる神らしいからな」 「へ? 神さまが妖怪を…?」 思いもよらない言葉に目をぱちくりと瞬かせる。いわゆる神は清らかなイメージが強く、邪なイメージのある妖怪を束ねているなど一度も考えはしなかったからだ。 妖怪の中にも清らかなものがいるのか、はたまたその神が邪心を持っているのか。彩音には詳細など分かりはしなかったが、戦国時代はまだまだ自分の知らないことが多そうだ、と眉根を寄せて難しい顔を見せていた。 しかし龍神のことはどうあれ、美琴のことはまた少し分かったかもしれない。語った犬夜叉にも確証があるわけではなさそうだが、この話が確かならば今まで矛盾を感じていた話の辻褄も合う。そう考えた彩音はようやく腑に落ちるような感覚を覚えて、ぼんやりと彼方を見つめるように向かいの壁と天井の境目へ視線を投げた。 「だからあの殺生丸も…美琴さんだけは、他の人間みたいに嫌わなかったんだろうなあ…」 ぽつり、誰に向けるでもなく小さく呟いたその声は静かな空間によく通る。そのおかげかピク、と耳を揺らした犬夜叉が横目で彩音を見据え、「…彩音」と呼びかけてきた。 なにやらいつもよりどことなく低い気がするその声。それに微かな違和感を覚えた彩音が振り向くと、犬夜叉は少しばかり仏頂面を浮かべて体を起こした。 「おめー、この前から殺生丸殺生丸って…あいつのことばっかり話してるぞ」 「え、そう? 私そんなに話してた?」 「気付いてねえって…じゃあ今まで無意識で言ってたのかよ」 「んー…言われてみればそうなのかも。なんか殺生丸のこと、すごく気になるし…」 約束のこととか、美琴さん絡みのこととか…そう思いながらも彩音はそれを口にすることなく考える仕草を見せる。すると犬夜叉が「な…」と短い声を漏らし、目を真ん丸と見開くほど驚いていた。 なぜその程度でそれほど驚くのか。理解できない彩音はきょとんとした顔を犬夜叉へ向けるが、対する彼は信じられないと言わんばかりの様子で彩音に身を乗り出した。 「き、気になるって…あんな奴がか!?」 「そりゃそうでしょ。気になって当然だよ」 「と…当然…なのか!?」 何度も狼狽えるように問いただしてくる犬夜叉。珍しく本気で驚いているようだが彩音は相変わらず彼のその反応が分からず、不思議そうに首を傾げるばかりだ。対する犬夜叉は顔を背け、「まさか…あいつについて行こうとか考えてやがんのか…?」と小さな声でぶつぶつ呟いている様子。 するとその声が聞き取れない彩音はやがて頭に疑問符を浮かべることにも飽きたのか「ねえ犬夜叉、」と声を掛けた――が、それと同時にすっ、と立ち上がった彼の姿に口をつぐんでしまった。 「帰る」 「えっ? か、帰るって…急にどうしたの?」 「うるせえっ。三日待ってやる! それまでに改心しやがれっ」 突然怒鳴り散らすようにそう言うと犬夜叉は問答無用で井戸の中へ飛び込んでしまった。それには彩音も慌てて追うように井戸の中を覗き込むが、すでにそこはもぬけの殻。光の残滓が暗闇に溶ける様子しか見えなかった。 それをしばらく見つめていた彩音はようやく視線を上げると、古い板張りの壁を見つめたまま小さく首を傾げていた。 「改心って…なんのこと?」

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