「殺人事件?」
翌日の放課後。昨日と同じようにかごめを迎えに行き、共に帰路を辿っていた
彩音が怪訝そうな声を上げた。それは今しがたかごめから持ちかけられた話に対するもの。そのような話を初めて聞く
彩音は、確かに頷き話を続けるかごめへさらに耳を傾けた。
「今日クラスの子が話してたんだけど…ゆうべ公園でね、オヤジ狩りやってた中学生が殺されたんだって。でも…死体が見つからないらしいの。血の海の中に服の切れ端があるだけで…でね、公園の捜索したら…身元不明の女の、首なし死体が捨てられてたって…」
神妙な面持ちで語られるその話に
彩音はうげ…と顔を歪ませる。殺人事件というより、それではまるで怪談ではないかと。想像するのも恐ろしいほど現実味がないと思うのだが、同時に“あの時代”ではあり得る話だと感じてしまう。
しかしここは妖怪などいるはずのない現代だ。あり得ない。
そう信じるように考え込み、それでもやはり感じる不安に苛まれながら歩みを進めていれば、少しばかりの人だかりができた場所へと辿り着いた。そこは事件があったという件の公園。カラーコーンとロープで入り口を塞がれたそこには『立入禁止』の札が揺れていて、穏やかなはずの園内は警察や鑑識、目撃者と見られる人物がうろつく物々しい雰囲気となっていた。
「気になるのが…オヤジ狩りに遭った人の目撃情報なの」
カラーコーンの仕切りの前に立ち、園内を見つめたままかごめが小さく呟いた。彼女の言うオヤジ狩りの被害者は、今まさに園内で警察と共に実況見分をしている男だ。
クラスメイトの話曰く、男はこう語っていたらしい。
「本当に見たんですよ。能面みたいな顔した女の首が伸びて…四人とも喰い殺されたんです」
「なにそれ…それじゃ妖怪じゃん」
「
彩音もそう思うわよね。事件の時、あの人は酔っ払ってたって話もあったけど…」
「……ちょっと、変だね」
あまりに現実離れしている話に
彩音とかごめは揃って顔をしかめる。もし男が酔っ払っていて幻覚を見ていたとしても、首のない女の死体と大きく広げられた血の海は実際に存在していたという。それは男の証言を抜きにしても十分すぎるほど不穏な話だ。
思わず脳裏にその光景を映しかけた
彩音は、ゾクリとした悪寒が背筋を駆け上る感覚に見舞われた。
「ね、ねえかごめ。念のため…犬夜叉を呼んだ方がいいと思う?」
「いやっ。あんな奴呼んだら勉強の邪魔だわ」
「あ…それもそっか…追試ももうすぐだしね」
彩音が思い出したようにそう言えば、かごめも同じく思い出したのか途端にずーん…と肩を落としてしまった。もしかしたら追試のことはあまり考えないようにしていたのかもしれない。そう思うとなんだか悪いことをした気になって。慌てた
彩音は小さくガッツポーズを見せると「か、かごめなら大丈夫だって! 一緒に頑張ろっ」と懸命に彼女を鼓舞していた。そして彼女を支えるように人だかりを抜け出し、再び帰路へつく。
小さなざわめきから遠ざかっていく中、
彩音は不穏な空気に包まれる公園へ静かに振り返った。
(このまま…なにもないといいけど…)
* * *
かごめの追試前日、学校へ行くかごめを送り出そうと共に玄関へ向かえば、そこには先に家を出ようとするかごめの母の姿があった。先ほど帰ってきたばかりだというのに、なにやら大きな紙袋を手にして再び出て行こうとするその様子は買い出しというわけでもなさそうだ。それを不思議に思ったかごめが「どうしたの?」と問いかければ、かごめの母から驚く話が告げられた。
「え~っじいちゃんが入院!?」
「軽い食あたりだけど…歳が歳だからね、ママは今夜病院に泊まるわ」
そう口にするかごめの母は玄関の戸をカラ…と開ける。思えば朝早くかごめの母と祖父が共に家を出たはずなのに、祖父だけは帰って来ていなかった。まさか自分たちが朝食などを済ませている間にそんなことになっていたとは。そう思わされる事態に不安を募らせた
彩音は「あの、」とかごめの母へ身を乗り出した。
「私にもなにか…お手伝いできることはありませんか?」
「ありがとう
彩音ちゃん。それじゃ…今夜かごめたちをお願いしていいかしら? 特に草太は不安がるかもしれないから、傍にいてあげてほしいの」
柔らかな口調で繰り出されるかごめの母の提案に、
彩音は「はい」としっかり返事をして頷く。するとかごめの母は「一人でも好きにしてていいからね」と
彩音に言い残し、二人へ微笑みかけてから病院へ向かっていった。
しかしその背中を見届けてようやく気付く。かごめの母も祖父もおらず、草太とかごめが学校に行っている間の日暮家は
彩音ただ一人だと。
この時代に来るようになってから日暮家のみんなは
彩音を家族同然に扱ってくれ、これまでも平然と寝泊りをさせてくれていた。許してくれていたのだが、しかし。いくらなんでも家人のいない家に部外者が一人でいるというのは、あまりにも不用心がすぎるだろう。それを思った途端、
彩音は玄関を出ようとするかごめを慌てた様子で咄嗟に引き止めた。
「ま、待ってかごめっ。さすがに家に私一人はまずくない…!?」
「今さらなに言ってんのよ。ママも誰も気にしてないんだから、好きにしてたら?」
「いや、そんな適当な…」
「あっほら学校遅れちゃう! 今日はできるだけ早く帰るからっ、じゃ!」
ぱっ、と手を振り払われてあっという間にかごめの姿は遠ざかっていく。それには「あ~…」と情けない声を漏らして手を伸ばしていたが、当然彼女が戻ってくるはずはなく。静まり返ったこの場に取り残された
彩音は、がく、とうな垂れるように肩を落としたのだった。
――すっかり日も暮れた頃、かごめの母が作り置いてくれていた夕食を済ませた二人は揃ってかごめの部屋にいた。どうやら外は不穏な風が強く吹いていて、窓から見える御神木の葉が大きく揺さぶられているのが分かる。なんだか不安が募る夜だ。そう思わされる景色に眉をひそめると、
彩音は手にしていたカーテンをシャ、と閉め切った。
するとその時、部屋のドアが開いたかと思えばブヨを抱えた草太が姿を覗かせてくる。その表情はどこか不安げだ。どうしたのかと思ってその姿を見つめれば、草太はかごめのベッドに腰を下ろして弱々しくかごめを見た。
「なーねーちゃん、ここで寝ていい~?」
「なに言ってんの、男の子でしょー」
「だ~って…」
「ほんっと弱虫なんだから」
勉強に集中したいのだろう。弱気な草太を放っておいて机に向かうかごめの声にわずかな怒気が含まれている。
彩音はそんな彼女を「まあまあ…」と宥めたが、それに重ねるように草太がもう一度不安げな声を投げかけてきた。
「公園の事件の噂知ってるだろー?」
その言葉に
彩音も、机に向かっていたかごめも振り返る。公園の事件の噂といえば、能面みたいな顔の女の首が伸びて中学生を喰い殺したというものだ。
風が強く吹く音が聞こえる。
彩音がそれに不安を駆り立てられ黙り込むと、かごめは「それが…なに?」と平静を保つように問い返した。
「覚えてない? こないだのおばさん…」
「…それって、あの時の…?」
草太に言われて思い出したのはこちらへ滞在を始めた初日の朝。かごめと
彩音と草太の三人で神社の石階段を下りていた時、その麓の鳥居の傍にいた不可解な女だ。声もなく上げられたその女の顔は、深い傷が刻まれた能面のような顔をしていて。人間というにはあまりに固く、白いその顔は確かに違和感があった。
「…まさか、」
あの女は妖怪だった――そう悟った瞬間、背後の窓がミシミシッと不穏な音を立てた。それは今まで風に打ち付けられていたものとは違う音。それにはっと目を見張った直後、突然窓は激しく凄まじい音を立てて破裂した。ほんの一瞬見えた、窓を突き破る白い影。目の前にいた
彩音の頬や腕にいくつもの傷を作るガラス片が散らばり砕ける中、窓の外の暗闇には部屋の灯かりに照らされ浮かび上がる白い能面が固く薄い笑みを浮かべていた。
「もっと…もっと良い体が欲しい…」
不気味な声を漏らし、ズル…と引き摺るようにして窓から侵入してくる体――それはまるで粘土細工の人形をぐちゃぐちゃに混ぜたような、見るに堪えない異形の姿をしていた。だがそれから目を離せなかったのは、能面の額に淡く光る小さなものが見えてしまったためだ。
(かけら…!? こいつ、一体どこで…)
「お前の持つ玉を…その体を…寄越せ…」
「!」
首を曲げ、平面的な黒い瞳が
彩音を捉える。能面は最初から四魂の玉のかけらを狙っていたのだ。それに加えて
彩音が不死の御霊を宿していることを知ってか否か、体まで要求している。
小さく唇を噛みしめた
彩音はポケットの上からほんの一瞬小瓶に触れ、すぐに床を蹴るようにして草太へ飛び込んだ。怯えているのだろう、固まってしまった草太を抱え込むと
彩音はすぐさまかごめへ向けてその小さな体を突きつけた。
「かごめっ草太くん連れて逃げて!」
「で、でも
彩音は…」
「いいから早くっ!」
躊躇うかごめの声を遮り一際強く言い放つ。するとかごめはわずかに躊躇いを残したまま、それでも確かに頷いて踵を返した。慌ただしく階段を駆け下りる音が伝わってくる中、やはり能面の狙いはかけらを持った
彩音のようでかごめたちを追おうとはしない。それどころか
彩音を真っ直ぐ見据えたままバキバキバキと不穏な音を立てて能面を真っ二つに割り、そこに並ぶ木製の牙によだれを伝わせた。
「寄越せええ…」
「っく!」
シャッ、と勢いよく伸ばされた首。咄嗟に手にした枕をそれに投げ放つが容易く喰い破られ、中綿が大きく散り広がった。その程度ではやはり止められないか、能面は枕を落とし再び
彩音にその牙を剥いた。
「こっち…来んなっ!」
目の前へ能面が迫った瞬間、傍に落ちていた窓枠を無造作に掴み、能面を殴りつけるよう大きく振り切った。だがそれはガッ、と能面に挟み込まれ、見るも無残に砕かれてしまう。なにをしても効かないのか、疎ましげに表情を歪めた
彩音は咄嗟に手を離すとかごめたちのあとを追うように部屋を飛び出した。
幸い能面の動きは鈍い。あれがまだ部屋に残っているうちに、と
彩音は靴を履くこともなく素足のまま外へ駆け出した。その時ズキ、と手に強い痛みが走る。見れば手のひらに大きく赤色が広がっていて、その中心に深い傷口が見える。恐らく、窓枠を掴んだ時に切ったのだろう。
「ああ、もう!」
その痛みすら煩わしい。大きく顔を歪めた
彩音は傷を隠すように握ると、すぐさま祠の方へ向かおうとした。犬夜叉を呼ぼうとしたのだ。だが傍の灯篭の陰にかごめと草太の姿を見つけた瞬間、背後でザッ、と大きな音を立てられて心臓が跳ねる。とうとう能面が降りて来てしまった。これでは自分が祠へ向かっている暇はない、そう考えた
彩音はすぐにかごめの方へ大きく声を上げた。
「かごめお願い! 私がこいつを引き付けてる間に…あっ!?」
咄嗟にかごめへ向けた声は素早く伸びてきた首に遮られる。体を打ち付けるよう突き飛ばされたのだ。痛みに顔を歪めながら能面に襲われた右腕を見れば、袖が喰い破られ大きな裂傷を作られている。危うく、右腕を喰い千切られるところだった――それを実感した途端ゾクリとした悪寒が走り、思わず足が竦みそうになった。
「
彩音!」
「!」
かごめの声で我に返り目を見張ったその時、頭上から能面が大きく開いた口を迫らせていた。ギク、と体が震えを刻む。それと同時にその場から体を飛び退かせると、それに遅れてドガッ、と鈍くも凄まじい音が響かされた。目の前で大きく散らされる玉砂利。それがカラカラカラと降り注ぐ中、能面が首を持ち上げようとする姿に
彩音はすぐさま体を起こした。
逃げなければ、このままでは四魂の玉のかけらごと喰われてしまう。そんな思いをよぎらせた
彩音はすぐに踵を返して駆け出した。
「かごめ! 時間は稼ぐからっ…今のうちに犬夜叉を呼んでっ!」
「わ、分かった!」
彩音の放った言葉にかごめは強く頷きを見せる。そのまますぐに祠へと向かおうとするかごめに安堵しかけた
彩音だが、能面の首がわずかにそちらへ傾きかけた。それに足を止めた
彩音はすぐさま小瓶を取り出し、能面に向かってその手を大きく振って見せた。
「バカ能面! あんたの狙いはこっちだっての!」
挑発的に声を張り上げれば、それを聞き付けた能面の首が再び
彩音の方へと向けられる。光のない平面的な黒い瞳が
彩音を捉え直す。するとその歪んだ体が遅くも確かにこちらへ向かってくる様子を見せ始めた。
「おのれ…逃がすものかああ…」
不気味な声を上げながら重い体を引き摺る能面。速度こそは遅いものの、油断すれば伸びる首に喰われ兼ねず片時も気が抜けなかった。そのため
彩音は一定の距離を保ちながら何度も能面へ振り返り、ズルズルと音を立てながら追ってくるその姿に眉根を寄せてしまう。
「もうやだ…こっちにいる時くらい、ゆっくりさせてよっ…!」
妖怪という存在などない現代ならば安全だ――そう信じていたにも関わらずそれを呆気なく覆されてしまい、たまらず込み上げてきた愚痴を誰に向けるでもなくこぼす。それでも足を止めることなく、能面の様子を確認しながら人気のない場所へとそれを誘導していく。夜も深まるこの時間ならいい場所があるはずだ。そう考えて駆けていた
彩音は、ふと遠目に見えてきた工事現場に目を付けた。
「! あそこなら…」
暗く静かなそこはまだ建物の骨組みと足場が組まれているだけ。壁も作られていない複雑なその場所なら、大きく重い体を引き摺る能面から逃げる時間を稼げるだろう。そう悟っては意気込むように小さく唇を噛みしめた。
もうずっと、足が痛む。それでも止まることを許されないまま、
彩音は虚しさと不気味さを孕んだ物々しい工事現場へと走り続けていった。