殺生丸に引き込まれて数秒の後、
彩音は咄嗟に瞑ってしまっていた目をゆっくりと開いた。その瞬間に飛び込んできたのは壮大な景色。果てしなく広がる青空に薄い雲、そしてそれらを霞ませるような霧が漂う中、一際強く目を引いたのは中央に鎮座する巨大な獣の骨であった。鎧を着けているらしいそれは計り知れないほど大きく、相当の時を経ているのか体のあちこちに蔓を伸ばして草木を生やしている。
丸く見開いた目でそれを見つめていれば、殺生丸が同じくそれを見つめたまま
彩音に教えるよう小さく呟いた。
「あれが父上だ」
「え…あ、あれがっ…?」
当然のように告げられる言葉に
彩音は声が裏返りそうなほど驚いた様子で聞き返す。楓の話から、二人の父親が力を持った大妖怪だということは把握していたが、これほどまでに予想を超える大きさだとは思わず、驚かずにいられなかったのだ。しかし殺生丸はそれを否定することなく。
彩音の肩へ手を回しては、強く抱き込むようにして傍を飛んでいた骨の鳥の背中へ降り立った。
骨の鳥は翼だけに肉と羽根を持ち、その奇妙な姿で難なく空を飛び回る。それがやがて殺生丸の父の骸の傍まで滑空すると、殺生丸は
彩音の肩を抱き込んだまま不意にその身をフワリと投げ出した。
しかしそれも数秒。突然の投身に
彩音が悲鳴を上げる間もなくトン…と軽く足を着けた殺生丸は、同じく軽やかにそこへ
彩音を降ろしてみせた。
そうして二人が降り立ったそこは、父の骸の中。恐らく腹部辺りであろうそこには様々な骨が敷き詰められるように転がっており、中には仏具や武器、壺なども混ざっているようだった。
そんな得も言われぬ光景に
彩音は眉をひそめてしまうが、殺生丸だけは他に目をくれることもなく真っ直ぐに歩みを進めていく。
ふと彼の足が止められた、その先にあるもの。それは装飾があしらわれた荘厳な台座であった。そこに突き立てられるボロボロの錆び刀、それを見つめる殺生丸は、その刀へ向けるには似つかわしくない笑みを小さく浮かべてみせた。
「ついに辿り着いた…父上の骸の胎内に納められし宝刀…」
(宝刀…? こんなボロボロの刀が…?)
「一振りで百匹の妖怪をなぎ倒すという…牙の剣…鉄砕牙」
ひどい刃こぼれが見られる、刀にあるまじき姿。だというのに殺生丸は気に留める様子もなく、むしろ待ち望んでいたと言わんばかりにその刀へ歩み寄り、柄巻が乱れるそこをグッ、と握りしめた。
「鉄砕牙は父君の牙から研ぎ出した刀と聞き及びまする。すなわちこれを手にするということは…父君の妖力を受け継ぐも同じ…」
どこか高揚した声でそう語る邪見の視線の先で、殺生丸はその刀を抜くべくググ…と力を籠めた――その瞬間、突如柄を握る殺生丸の手の下からバチ、と激しい音と光が放たれ、それは殺生丸を拒むように激しく広がった。あまりに強い閃光に邪見と
彩音が揃って短い悲鳴を上げるが、対する殺生丸は表情ひとつ変えることなく。閃光が鎮まると同時に自身の手に残された炎がチロチロ…と揺れる様を、ただ静かに見つめていた。
「そ、それ…抜けないの…?」
「用心深いことよな。結界が張ってある」
自身の手から炎が消え去るのを見届けながら、どこか呆れを含んだような声で言う。そんな様子を見ていた
彩音は不思議そうな顔をして、殺生丸の背後からそっと刀を覗き込んだ。
結界が鎮まった今のそれは、ただの錆び刀。こんなものに結界を張っているのか…とやはり不可解に思ってしまうと、不意に振り返ってきた殺生丸が真っ直ぐこちらを見据えて言い出した。
「試してみるか? 刀が抜けるかどうか…」
「へっ? わ、私が?」
まさか自分へ振られるとは思ってもみなかったために
彩音は素っ頓狂な声を上げて問い返してしまう。だがこちらは目の前で電撃のような光に拒まれ、そのうえ手を燃やされる様を見せられているのだ。それで“はいやります”とは簡単に言えるはずもなく、
彩音は「いやあ、ちょっと…」と後ずさりそうになる。
――その時、突如頭上から熱の籠った怒号が大きく響き渡った。
「殺生丸! まだ決着はついてねえぞ!」
静かに顔を上げる殺生丸同様
彩音が見上げたそこには、怒りを露わにした犬夜叉が勢いよく飛び降りてくる姿があった。彼は地へ降りるよりも先に爪を構えたかと思えば、落下の勢いに乗せるよう殺生丸へ狙いを定める。
「散魂鉄爪!」
大きく叫びあげると同時に強く振るった爪が凄まじい音を立てて足元の骨を砕き散らす。彼の爪はそこに浅い穴を穿ってしまうほどの威力を発揮したが、肝心の殺生丸の姿は台座に設えられた装飾の上へと移っており、掠り傷一つ付けられてはいなかった。
「どうした犬夜叉。自分の墓穴でも掘りに来たのか? それとも貴様も…父上の牙の剣…鉄砕牙を抜きに来たのか」
「鉄砕牙…?」
そう問われて初めて、犬夜叉は目の前の古びた刀に目を向ける。彼にはその名前すら初めてなのだろう。だが刀に向ける犬夜叉の目からは大した興味もない様子が窺えて、対照的に犬夜叉の肩で忙しなく跳ねる彼だけが必死に促すような声を上げていた。
「犬夜叉さま抜きなされ!」
「冥加じじい」
「殺生丸さま、あなたさまには…鉄砕牙が抜けなかった。そうですな!?」
「……犬夜叉になら抜ける……と申すのか」
冥加の見抜くような問いかけに殺生丸は冷ややかな目を向ける。それもそのはずだ。父の古くからの知人である冥加が犬夜叉の肩を持つような声を上げるのだから。しかし冥加はそれに臆することなく「当然じゃ、」と大きく反論した。
「父君が犬夜叉さまに墓を託されたのがなによりの証拠! さ、犬夜叉さま早く」
「けっ。おれはこんなオンボロ刀に興味はねえ!! 殺生丸! てめえよくも散々おれをコケにして…関係ねえ
彩音まで好き放題振り回してくれたな!」
犬夜叉は怒鳴りつけるようにそう叫びながら、殺生丸へ鋭く伸ばした爪を突き込ませた。だがその殺生丸は音も立てないほど軽々とかわし、犬夜叉の背後にある蔓へタン、と飛び移ってみせる。
「どこを狙っている」
「ちっ。この野郎!」
蔑むようなそれに一層の苛立ちを露わにしては、間髪入れずして再び殺生丸へ飛び掛かる。その瞬間ドガガ、と激しい音を立てて足元の骨が大きく散ったが、またもそれを容易くかわした殺生丸は犬夜叉の背後で彼を嘲笑うような笑みを浮かべていた。
「ふっ。相変わらず攻め方が幼いな」
「ちくしょう!」
「犬夜叉さま丸腰では勝てぬ。刀を…」
「うるせえ!」
冥加が助言するように刀を抜けと促すが、頭に血が昇っている犬夜叉は耳を貸すことなく一蹴してしまう。そのままもう一度殺生丸へ襲い掛かろうと駆け出す――が、突如それを引き留めるように一際大きな声が響かされた。
「犬夜叉、抜いちゃいなさいよ!」
「かごめ…」
思わぬ人物から強く放たれた声には犬夜叉も足を止めてしまう。誰しもが蔓に掴まる彼女へ視線を上げた時、かごめはこぶしを握り締めるほど熱く犬夜叉へ言いつけた。
「その刀、殺生丸には抜けなかったのよ! そうでしょ
彩音!」
「え!? う、うん…!」
「それをあんたが易々と抜いたら、殺生丸の面目丸潰れよ! 赤っ恥よ!!」
突然巻き込まれた
彩音が戸惑うのに対してかごめは必死に犬夜叉へ力説する。おかげで殺生丸がわずかに目を細めた気がするが、犬夜叉はそれに気付くことなく。ただ目をぱちくりと瞬かせながら、刀が刺さる台座へと視線を移した。
するとその表情は次第に変わっていき、彼は鋭い瞳で殺生丸を睨み付ける。
「なるほど……そいつはすげえ嫌がらせだな」
「抜けるものか」
犬夜叉の姿を見据えたまま、殺生丸は顔色を変えることもなく言い捨てる。しかし犬夜叉は対照的に「ふっ」と意地の悪い笑みを浮かべ、その足を刀へと踏み出した。
「てめえの吠え面が…見たくなったぜ!」
そう言い放つと同時にガッ、と刀の柄を握り締める。台座に立ちはだかりその手へ力を籠める犬夜叉の姿を前に、
彩音は殺生丸の時とは確かに違う光景に目を丸くした。
「刀の結界が発動しない…!?」
「やはり…鉄砕牙は犬夜叉さまが持つべきものなんじゃ!!」
「ぬおおおおおお!!」
冥加が確信を得たように声を上げるのに加えて犬夜叉が激しく叫び上げる。途端に刀の下から不思議な煙が漏れ出し、犬夜叉の姿を隠すように辺り一帯を包み込んでしまった。
誰しもが息を飲んでそれを見つめる。すると徐々にその煙が薄く晴れてきて、そこにぼんやりと犬夜叉の輪郭が浮かび上がった。やがて鮮明になっていくそれを静かに見守っていた
彩音は、ようやく判然としたその光景にはっと強く目を見張った。
「…うそでしょ?」
ぱちくりと何度も目を瞬かせる
彩音はついそんな声を漏らしてしまう。だがそれも無理はない。誰しもが緊迫し固唾を飲んだというのに、あれだけ盛大に煙を吐かれて期待を煽られたというのに、犬夜叉が握る鉄砕牙はその台座から一ミリも動いてはいなかったのだ。
いつしか充満していた煙も完全に消え去り、辺りはしーん…と虚しい静寂に包まれる。それに気まずそうな顔を見せた犬夜叉が肩の冥加へ「…おい」と声を掛けると、それは分かりやすいくらいに「ぎくり」と声を上げた。
「抜・け・ね・え・じゃ・ね・え・か・よ」
「なっ、なぜでしょおおっ」
途端に犬夜叉に摘ままれた冥加の体はみしみしみしと指先で押し潰されてしまう。それにより冥加から悲鳴紛いの声が上げられていたが、それはひどく呆れたような声によって遮られた。
「茶番は終わりだ。鉄砕牙は貴様如き半妖の持つ刀ではない!」
「! くっ」
冷ややかな表情をしながらも厳しく言い放つ殺生丸は目にも止まらぬ速さで犬夜叉の目と鼻の先へ距離を詰めてしまう。それどころか彼を追い込むように迫り続け、必死に飛び退る彼にバキバキと指を慣らした。
「我が毒爪にて昇華せよ。毒華爪!!」
その声と共に突き出された殺生丸のしなやかな手。寸でのところでそれをかわした犬夜叉だが、代わりに受けた背後の骨は一瞬で液状化し、相当分厚いはずのそれが貫通するほどの穴を開けてしまっていた。焼かれても傷一つ付かなかった犬夜叉の衣でさえ、その爪がわずかに掠めただけで大きく欠損している。
それほど厄介な毒に犬夜叉はたまらず「くっ」と小さな声を漏らし、すぐさま殺生丸から逃れるように飛び退いた。だがその殺生丸は「逃がさぬ」と呟くように言い、瞬時に犬夜叉の目の前まで迫ってみせる。
圧倒的に殺生丸の方が速く、強い。それを思い知らされ汗を滲ませる
彩音の傍で、同じくそれらを見届けていた邪見がなにやらクル…と人頭杖を振り回し始めた。
「ひへへっ、殺生丸さまご加勢を…」
「させるか!」
「あたっ。ぐえっ」
彩音が足元の骨を邪見にぶつけた瞬間、それに続くように飛び降りてきたかごめがぐしゃ、と邪見を踏み潰す。そんな彼女はまたも人頭杖を奪い取ろうとするが、すぐに起き上がった邪見がそれに対抗するよう掴み込み、二人はぎりぎりぎりと人頭杖を強く引っ張り合い始めた。
「小悪党~」
「こっ、この小娘え~」
「いけっ、かごめ! 頑張れ!」
「今度は負けぬ!」
彩音がかごめを応援しながら加勢するべく骨を拾い上げた途端、邪見が人頭杖を思い切り振り払ったことでかごめの体が投げ飛ばされた。その先には
彩音の姿。思わず「え゙」と声を漏らした
彩音は避ける間もなくかごめとぶつかり、二人揃ってガシャ、と音を立てて地面に叩き付けられてしまった。
「いっ、たあ…! もう許さん! 覚悟しろこのチビ助っ!」
苛立ちを露わにした
彩音は起き上がると同時に近場にあった武器を拾い上げて邪見へ向けやる。だがその瞬間、その姿を目の当たりにした邪見が目をまん丸と見開いて「げ」という声を漏らした。武器を手にしたこちらに恐れを成したか、そう思って不敵な笑みを浮かべかけた
彩音だったが、どうしてかすぐ傍のかごめも、押さえつけられる犬夜叉も、その彼にとどめと刺そうと手を掲げる殺生丸も、みんなが目を丸くして硬直したように
彩音を見つめていた。
その注目度にはさすがに驚いた
彩音だが、自身も戸惑うままにその視線の先――自身の手を見てみれば、そこにはなにやら見覚えのある古びた刀があった。
「…へ…? あ、あれ…?」
なんでこれが、ここに? そんな思いで傍の台座へ振り返るが、やはりそこに刺さっていたはずの刀がない。どう見ても
彩音が握っているそれが、殺生丸も犬夜叉も抜くことができなかったあの“鉄砕牙”だった。
「あの…えーっと…ご、ごめん…なんか、抜けたみたい…」
どうすればいいのかも分からないまま呟いた声は、本人でさえ驚いてしまうほど情けない腑抜けた声だった。