04

「もう…行ってしまうのか」 小さく、切なく囁きかけた男。それは先ほど見た犬夜叉の兄、殺生丸だった。そしてその先で背を向ける女が一人、殺生丸から離れるように踏み出した足を止める。見るも痛ましいほど感情を押し殺しているそれは、彩音と寸分違わぬ顔立ちをし、それでいて別の衣装――蒼を基調とした巫女装束を身に纏い、立ち尽くしていた。 その時、女の中で別の少女の意識が静かに目を覚ます。 (あ、れ…この景色…どこかで…) 目覚めた少女、彩音が一番最初に目にしたもの。それは白い真綿に包まれたような、ふわふわとした曖昧な景色だった。見慣れないはずなのに、どこか見覚えのあるその景色。どこかでこのような景色を見た気がするが、それは一体いつどこで見たのか… それを思い出そうと考え込み、無意識のうちに首を捻りかけた――その瞬間、彩音は自身の体へ強い違和感を覚えた。どうしてか体が動かせない。捻ろうとした首は傾くことなく、視界も微動だにしないまま。確かにこの体は自分のものであるはずなのに、まるで誰かに乗っ取られているかのように、この体はなにひとつとして彩音の言うことを聞かなかった。 (こ…この感覚って…) あるはずのない奇妙な感覚によぎったのは、かつて見た夢。戦国時代へ落とされる直前に見たあの夢が、脳裏に強く鮮明に甦っていた。いま目の前に広がる景色も、誰かに体を乗っ取られたような感覚も、殺生丸と言葉を交わしていることも全て、同じ。 間違いない、自分はいまあの時と同じ夢を見ている。 そう確信するものの、やはり不可解な疑問は芽生えていた。なぜまたこの夢を見ているのだろう、なぜ自分の体が誰かに乗っ取られているのだろう、そもそも誰が乗っ取っているのだろう、と。あの時も今も分からないままであるその疑問に不安を募らせ、胸が強くざわめくような感覚を覚えたその時―― 「美琴…」 殺生丸の声が、確かに“あの名”を呼んだ。そして体は勝手に殺生丸へ振り返り、その金色の瞳を見つめる。まるで彼の声に応じるかのように。それらに小さく、それでも強く心臓を跳ね上げてしまうような錯覚を覚えた彩音は、ただ呆然とするように彼の声を頭に反芻させた。 殺生丸がいま確かに呼んだ、美琴という名。それは彩音が生まれ変わる前の――祖先である巫女の名だ。彼がその名をこの体へ向けて発したということは、それが今、彩音の体を乗っ取っているというのか。 その可能性をよぎらせた彩音がそれでも釈然としない違和感に眉をひそめてしまうが、この体は表情を変えない。ただ殺生丸を見上げ、困ったような微笑みを浮かべていた。 「止めないで、殺…こうするしかないの。私の“不死の御霊”だって、こんなところにあってはいけないのだし…ちょうど、よかったのよ」 (不死の…みたま…?) 自分の意志とは無関係に紡がれる言葉に気を引かれる。聞き慣れない言葉だが、それを向けられた殺生丸は気に留める様子もない。ならば彼らにとって、それは既知のものなのか。その言葉が意味するものは一体なんなのか。 彩音がそれらの疑問に思考を巡らせようとしたその時、体はゆっくりと自身の髪へ手を伸ばし、スル…と柔らかな衣擦れの音をさせた。そうして左手に取ったのは、シンプルでありながらも上品さを感じさせる真っ白なリボン。美琴と呼ばれたこの体はそれを殺生丸へ差し出し、先ほどまでとは違う柔らかな笑みを浮かべてみせた。 「あなたがこれをくれた時のこと…覚えてる?」 「…当然だ」 「あの時ね、私…本当に嬉しくて…あの日以来、ずっと身に着けていたのよ」 「ああ…知っている…」 見ていた、そう続ける男の瞳の奥にはその身に纏う冷酷な雰囲気とは真逆の感情が秘められていた。それに気付いてか否か、美琴は悲しみに歪みかけた表情をぐ、と持ち堪えて笑いかける。 「殺…私はこれから、時渡りをします。そして…必ず、あなたの元へ戻ります。だから、お願い。私が帰ってくるまで、あなたがこれを持っていて…?」 震えを抑えた声でそう告げれば、男はわずかに驚いたような表情を見せる。だがそれも束の間、男は差し出されたリボンを握り締めるようにして受け取った。そして言葉もなく小さく頷かれ、リボンは男の手の中で緩く揺れる。 それを見つめていた美琴は控えめに小さく後ずさり、腰に携えた刀へ手を触れさせた。そこから淡い蒼色の光をこぼし、自らの体へ纏わせていく。同時に泡のようにゆっくりと立ち上る無数の光の玉に包まれながら、美琴はもう一度確かに殺生丸へ微笑みかけた。 「私のこと…忘れないでいてね…」 「忘れるものか…どれだけの時が過ぎようと…」 優しくも切なげにそう告げながら、殺生丸が差し伸べた手は強く美琴の手を引いた。美琴が驚き目を見張ると同時にその体は彼の腕の中に収められる。優しくて、心地よい温もり。それにたまらず一筋の涙をこぼした美琴はそれでも笑顔で「ありがとう」と囁きかけ、淡い光に包み隠されるよう姿を消していく。 同様に、彩音の視界は柔らかな光に覆い隠されてしまった―― * * * 「…っ」 ドクンッ、一際強い鼓動が胸を打つ。その衝撃に目を覚ますと、横たわっていたらしい体をゆっくりと起こした。どうやら知らぬ間に気を失っていたようだ。それをぼんやりとした頭で理解しながら顔を上げれば、辺りはいつの間にか明るい場所に変わり果てていた。美しい草原が広がり、白く優しい霧が景色を霞ませる不思議な空間。 どうしてこんな場所に…そんな思いをよぎらせた時、すぐ傍から「目が覚めたか」と素っ気ない声が投げ掛けられた。それに振り返ってみれば、思っていたよりもずっとすぐ傍に殺生丸の姿を見る。思わずドキ、と肩を揺らした彩音はすぐに後ずさりかけたのだが、その時、体の揺れに伴って視界の端に白いなにかが揺れ動いた気がした。 (え…? リボン…?) 確かに自身の髪に括られているそれに手を触れる。だが彩音は今までリボンなど着けてはいなかった。故に、なんで自分にこんなものが…と疑問を抱きかけたが、それと同時に押し寄せてきた強い既視感にはっとした。 シンプルでありながら上品さを感じさせる、この白いリボン。それは今しがた夢で見たものに間違いなかったのだ。美琴が必ず帰ってくるという“約束”として、殺生丸に託したリボン。とても大切そうにしていたそれが、どうしてか彩音の髪に括りつけられていた。 「あ、あの…これ…」 「貴様は…美琴ではないのか?」 「え…」 彩音の声を遮るように投げかけられた問いに少しだけ目を丸くする。しかしそれも束の間のことで、彩音はわずかに躊躇いながらもしっかりとその言葉に頷いてみせた。それを見据えていた殺生丸は言葉もないまま視線を外し、虚空を見上げる。 その瞳が、ほんの一瞬だけ寂しげな色を差したような気がした。 しかしそれもすぐに伏せられてしまうと、今度はなにも読み取れない金色の瞳をもう一度覗かせて彩音を捉える。 「…貴様が美琴ではないにしろ、それは預けておく」 「あ、預けておくって…これ、美琴さんのものなんでしょ? それなら私じゃなくて美琴さんに渡さなきゃ…」 殺生丸の言葉に疑問を抱きながらそのリボンへ手を掛けようとした途端、それはそっと伸ばされた殺生丸の手によって止められてしまった。どうして止めるのか、そんな思いで顔を上げてみればこちらを真っ直ぐ見つめてくる金色の瞳と視線が絡まる。 その端整な顔立ちを前にしては思わずドキ…とほんの小さく胸を高鳴らせるが、殺生丸はなにひとつ反応を見せることなく彩音を止めた手を降ろし、その長く鋭い爪で彩音の胸を指し示した。 「貴様には“不死の御霊”が宿っている。それは、美琴のものだ」 (“不死の御霊”…って…さっき夢で聞いた…) ぼんやりと覚えのある言葉にわずかながら眉をひそめる。結局夢の中でその意味を知ることはできなかったうえ、それが美琴のものだと言われては気にならないはずがない。彩音は指し示された胸へ手を触れると、すぐに殺生丸へ小さく身を乗り出した。 「その不死の御霊ってなんなの? それが美琴さんのものってことは…私の中に、美琴さんがいるっていうことなの?」 「……」 本当に知らないという様子を見せる彩音の姿に殺生丸はわずかに目を丸くする。今まで疑心暗鬼だったのだろう。美琴の姿をしていながら、その中身が全くの別人だということが。だがこうしてなにも知らない様子をはっきりと見せつけられては、本当に別人なのだと信じざるを得ず。まるでそれを自分に言い聞かせるように、焼き付けるようにその姿を見つめていた。 しかしそれもやがて途絶え、殺生丸は外した視線を適当な場所へと投げてしまう。 「…不死の御霊は、美琴の力で助けられた龍神が礼として授けたものだ。不死の身になれると言ってな。だが礼とは形ばかり…それは、美琴の身を危険に曝すものとなった」 「危険に…?」 わずかに声色を変えた気さえする殺生丸の言葉に彩音は首を傾げる。どうしてそれが危険に晒す要因となったのか、確かにその疑問を抱きはしたが、彩音にはそれよりもずっと不思議に思うことがあった。 「でも不死になれたんでしょ? それなら危険に晒されても、生きていられるんじゃ…」 「“不死の御霊を持つ者の肉を食らえば不死の力を得られる”…そんな噂が蔓延したのだ」 「!」 どこか怒りさえ感じるほどの声で語られた言葉に目を見張る。どこから出回ったかは分からない、だが確実に広まったその噂はすぐに美琴を危険に陥れたという。巫女という存在に恨みを覚える妖怪、不死という絶対的な力を狙う悪しき人間。それらが美琴の肉体を求めて襲い来るようになり、礼として授けられたはずの“不死の御霊”はあっという間に美琴の平穏を打ち砕いてしまったのだと。 そんな争いの根源になった自分に耐え兼ねた美琴が、力を分けた四魂の玉と共に姿を消す――それを殺生丸に伝えていたのが、彩音がこれまでに見た美琴の夢の話であった。 薄々感じてはいたが、やはりあの夢はただの夢ではなかったらしい。それを感じてしまった彩音が眉根を寄せて難しい顔を見せる中、殺生丸はこちらを見て「彩音…と言ったか」と呟いた。 「貴様に不死の御霊が宿っているということは、美琴を宿していると同義。私は貴様に手出しをするつもりはない。…だが、私の邪魔をするなら話は別だ」 「え…?」 「私は貴様を消し、美琴を呼び覚ます」 はっきりと、真剣な瞳で告げられる強い意志を持った言葉。 先ほど犬夜叉と対面した際にはあれほど人間を嫌っている様子を見せていたというにも関わらず、彼は人間であるはずの美琴のこととなると明らかに違った様子を見せてくる。思わず言葉を失ってしまうほどのそれを目の前にしては、彩音も考えてしまうのだった。 彼にはただならぬ思いが、美琴への確かな気持ちがあるのだと―― 「そんなこと…できるの?」 確信に近いものを抱いては、たまらずそんなことを問いかけていた。しかし殺生丸はその言葉に声を返すことはなく、ただ静かに視線を逸らす。恐らくは、まだ可能だという確証がないのだろう。それでもそれを諦めるつもりはないらしい彼の瞳を見つめていた彩音は一度視線を落とし、胸の奥で決意を固めるようにして「…じゃあ…」と小さく呟いた。 「いつになるかは分からないけど…いつか絶対、私が美琴さんに会わせてあげる」 言い切るようにそう宣言をした途端、殺生丸はわずかながら驚いた様子でもう一度目を向けてくる。まさか彩音がそのようなことを言い出すとは思ってもみなかったのだろう。それでもその言葉は偽りでないと、自分の意志で告げたものだと真っ直ぐに彼を見つめていれば、彼はやがて眉根を寄せて彩音を試すように問いかけてきた。 「貴様にそれができるとでも言うのか?」 「…正直、分からない。でも、やれることは全部やってみるつもりだよ」 「……」 優しく、それでも確かに力強く言い切る彩音の姿を殺生丸は言葉もなく見つめていた。凛と輝く彼女の瞳を、ただ、じっと。どうして彼女がここまで言い切ってしまうのか、どうして初めて会った者にそこまで尽くそうとするのか。殺生丸にとって彩音の思考や心情などなにひとつ分かりはしなかったが、それでも悪くはないと、そう感じていた。 やがて小さく「ふっ、」と笑みをこぼした殺生丸はその目を伏せ、ただ静かにその腰を上げる。それを目で追うように顔を上げる彩音へ金の瞳を落とすと、 「彩音よ、私と共に来るか」 どこか挑発的に、笑みを浮かべた口からそう問いかける。思ってもみなかった言葉に彩音が目を丸くして「え…」と小さな声を漏らしてしまったその時、突如辺り一面を覆っていた白い霧が瞬く間に薄くなっていくのが分かった。それだけではない、新緑色の地面は死んだように色を失い、空は暗くくすんだ色へ変わり果て、明るかった世界はものの数秒で禍々しい空間へと豹変してしまった。 「……そろそろか」 「え? あ、ちょっとっ」 空間の変化に戸惑う彩音とは対照的に殺生丸は遠くを見据えて平然と歩き出してしまう。問うだけ問うておいて、答えも聞かず行ってしまうのか。離れていく彼の姿にそんな思いを抱きながら、ふと辺りを見回した。 恐らく殺生丸に連れて来られたのだろうここは一体どこなのか。そして、母親とともに消えた犬夜叉やかごめはどこへ行ったのか。美琴の話を聞くばかりでそれを知ることはできておらず、こうして辺りを見回しても場所の把握はできないし二人を見つけられない。二人はどこか違う場所にいるのか、それさえ分からなかったが、こんな禍々しく不穏な空間に一人取り残されてしまうのは気味が悪く、先を行く殺生丸のあとを慌てて追い始めた。 迷いなく進んでいる様子の彼は一体どこへ向かっているのだろう。そう考えながらしきりに辺りを見回し、殺生丸の背後をついて歩いているそんな時だった。 「右の黒真珠? それじゃ分からぬ」 ふと前方から聞こえてきた声、それは邪見と呼ばれていたあの小妖怪のものだった。はっきりとは聞こえないが誰かと話している様子。もしかしたら犬夜叉たちもそこにいるのかもしれない。彩音がそんな思いをよぎらせた矢先、殺生丸が突然なにかに確信を抱いたように足早に声の元へと歩を寄せていった。 彩音はその様子に少し驚きながらも慌ててあとを追い、犬夜叉たちを捜さんと前方に目を凝らす。すると遠くに見えたかごめの姿。彼女はどうしてか邪見が持っていたはずの杖を握り、傍の池へ駆け込んでは水面を強く叩き付けた。一体なにを、そう思った直後、けたたましい女の悲鳴が上がる。それは犬夜叉の母が着ていた十二単を纏う、顔のない女の悲鳴。どうやら偽物だったらしいその女の体からは突如犬夜叉が吐き出され、彩音はその光景には思わず目を見張り足を止めてしまった。 自分がいない間になにが起こっていたのか。どうして犬夜叉が取り込まれかけていたのか。分かるはずもないそれらに顔を歪めてしまっては、すぐに犬夜叉の元へと駆け出そうとした。 しかし―― 「犬夜叉よ。墓の在り処が分かったぞ」 「!」 即座に犬夜叉との距離を詰めた殺生丸の左手が容易く犬夜叉の首を掴み上げる。その一瞬の早業に誰しもが目を丸くする中、殺生丸だけはその冷めた表情に怪しげな笑みを薄く浮かべてみせた。 「まさかこんなところにあろうとは…この殺生丸も見抜けなんだわ」 「殺生丸てめえ…」 「父上も妙なところに墓を隠したものよ。右の黒真珠…か。恐らく父上は骸を暴かれぬために、“そこ”に墓を封じたのであろうな」 そう語る殺生丸が笑むのに反して犬夜叉は怒りに顔を歪める。そして自身の首を掴む腕を強く握りしめ、それに力を籠めるように身じろぎながら殺生丸を睨み付けた。 「てめえ…さっきからなにわけの分かんねえことを…」 「知らぬうちに託されたのか…? ならばこの兄と共に…父上の墓参りでもしてみるか!?」 「!」 突如ドス、と鈍くも凄まじい音が響き渡る。それは勢いよく突き出された殺生丸の指が犬夜叉の右眼に深々と差し込まれたものであった。その光景に思わずかごめが短い悲鳴を上げ、彩音は絶句のあまり声も出せず目を見張る。誰しもが愕然とした次の瞬間、殺生丸の指はズッ、と真っ赤な血を引きながらなにかを引きずり出してみせた。 「やめてーっ」 呆気なく地面へ投げ捨てられる犬夜叉の姿にかごめの悲痛な声が響く。駆け寄る彼女とは対照的に言葉を失くし立ち尽くしてしまう彩音は、殺生丸の手に握られる黒い真珠をただ見つめることしかできなかった。 「ふっ…いくら地中を探っても見つからなかったわけだ…墓の手がかりはただ一つ…見えるが見えぬ場所…“真の墓守”は決して見ることのできぬ場所…それが…貴様の右眼に封じ込まれた黒真珠だったとはな…」 彼の指同様に深い赤を滴らせる黒真珠を見せつけるようにして語られる。ビー玉ほどの大きさのそれが墓だというのか。彩音たちには信じがたいものであったが、血を溢れさせる右眼を抑えた犬夜叉は驚く様子なく、しかしそれに構うこともなく体を起こしながら「くっ…」と小さな声を漏らした。 「てめえ…そんなことのために、ニセのおふくろまで仕立てやがって…許さねえ!!」 怒りに弾かれるよう飛び掛かった犬夜叉が殺生丸目掛けて勢いよく爪を振るう。だが殺生丸はフワ…と跳び上がり、それを難なくかわしてみせた。同時に空を切る犬夜叉の爪。その直後、殺生丸は犬夜叉の背後でバキッ、と指を慣らした。 「私は忙しいのだ。邪魔するなら死ね」 ――ドカ、 殺生丸の爪が弧を描くと同時に響かされた鈍い音。それによって無残に体を散らすのは犬夜叉でなく、犬夜叉の母に擬態していた無女という妖怪であった。犬夜叉に覆い被さるようにして殺生丸の爪を受けた彼女は力なく地面に投げ出され、自身の肉片を刻まれた着物へバラバラと降らせていく。 その思いもよらない行動に目を丸くした彩音は、無残にも首を転がす彼女を訝しむよう顔をしかめていた。 「騙してたのに…犬夜叉を、守ったの…?」 「無女は母が子を思う情念の妖怪…子を守ろうとするのもまた無女の性なんじゃ」 「……」 同じく驚いているらしい冥加の言葉を聞き、犬夜叉は肩に掛かった無女の着物の切れ端を見つめる。彼女は母を騙っていたのに、自分を陥れようとしたのに、命を投げ出してまで自分を守ってみせた。それを改めて感じてしまうと、犬夜叉の心の奥には言いようのない複雑な感情が湧き上がり、呆然とその姿を見つめることしかできなくなる。 するとそれに応じるように、顔のない無女が「坊…や…」と慈悲の声を絞り出した――その直後、その首は殺生丸の足に容易く踏み砕かれてしまった。 「くだらん奴だ」 踏みにじるようにギュ…と足に力を籠める殺生丸の姿。それに思わず小さな声を漏らしたかごめが「ちょっとあんた…」と食い掛かろうとしたが、それは肩で忙しなく飛び跳ねる冥加によって止められた。 「逆らうなっ、わしらまで殺される」 「だって…」 納得のいかない様子を見せるかごめが反論の声を上げる中、殺生丸は傍に立つ彩音へ視線を滑らせた。しかしなにを言うでもないその様子に彩音が思わず「え…?」と声を漏らすと、同時に近くの草がガサガサと音を立てて揺れ動く。なにかいる、そう思って咄嗟に振り返れば、そこには人頭杖を抱えるように持つ邪見が控えめに顔を覗かせる姿があった。 「殺生丸さま、人頭杖取り戻しましてございます」 「…今度なくしたら殺すぞ」 どうやら人頭杖を捜すのに苦労したらしい様子を見せる邪見だが、殺生丸は構うこともなく冷たく言い捨ててしまう。そして人頭杖を受け取っては黒真珠に視線を落とし、小さくも不敵な笑みを浮かべた。 「ふっ、この時を待ちわびたぞ…」 呟くようにそう言った彼は黒真珠を地面へ落とし、突如高く掲げた人頭杖で勢いよくそれを突き込んだ。その瞬間人頭杖に備え付けられた老爺の顔がカカカカカカと不気味な笑い声を上げ、それに伴うようどこからともなく地鳴りのような音が響き始める。 「翁の顔が笑った…墓が開きまする!」 邪見がそんな声を上げるが早いか、突如黒真珠からゴッ、と音が響くほど凄まじい風を伴う黒い光が放たれた。禍々しくも思えるその光だが、殺生丸は待ち望んでいたとばかりに笑みをこぼす。そしてその光の中へ飛び込む刹那、殺生丸は傍に立っていた彩音の腕を強く引き込んだ。 「え!?」 「! 彩音っ!」 はっと目を見張った犬夜叉が身を乗り出すように叫ぶがすでに遅く、彩音は殺生丸や邪見と共に光の中へ飲み込まれるよう姿を消してしまっていた。途端に辺りは静寂に包まれ、取り残された犬夜叉たちはただ静かに黒い光を見つめる。 渦を巻きながらゆっくりと、それでも確かに収縮を進めていく光。それを前にしながらも犬夜叉は表情を強張らせるばかりで踏み出そうとせず、その様子に痺れを切らしたらしい冥加が突然慌ただしく声を上げてきた。 「犬夜叉さま、入口が閉じる前に早くあとを…殺生丸さまは父君の財宝を独り占めなさる気…」 「…そんなもんに興味はねえ」 「そ、そんなっ、もったいない…」 「うるせえな、誰が行かねえと言った!」 耳元で騒ぎ立てる冥加を黙らせるよう怒鳴りつける。すると犬夜叉は複雑な面持ちで肩に掛かる着物の切れ端を握りしめ、渦巻く光の先にいる存在を射抜かんばかりに鋭く睨み付けた。 「殺生丸の野郎…散々コケにしやがった挙句彩音を巻き込みやがって…ぶち殺してやる!」

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