「犬夜叉…」
牛車の中の女が儚げに犬夜叉を見つめて名を呼び掛けた。しかし犬夜叉の母はいないと、とっくの昔に死んだと犬夜叉自身が言っていたはず。それを思い出してはたまらず犬夜叉の表情を盗み見たが、彼も愕然と目を見張っていて信じられないと言わんばかりの様子を見せていた。
それを見てしまっては、あの女が犬夜叉の母であることに間違いはないのだと思わざるを得ない。しかし死者であるはずの彼女がなぜ現世にいるというのか。誰しもが脳裏にそうよぎらせた刹那、突如渦巻くように空を覆い隠してしまった暗雲の中心からおぞましい巨大な腕が現れた。鋭い爪を備えた三本指のそれは空を駆ける牛車を掴み、そのままバキバキと凄まじい音が響くほど容赦なく握り潰してしまう。
たまらず息を詰まらせるよう狼狽える三人の視線の先で、牛車が呆気なく崩れ落ちていく。その手の中には、犬夜叉の母だけが残されていた。
力なく項垂れるその姿に
彩音たちが言葉を失った直後、暗雲が大きく揺れて巨大な腕の先の姿がゆっくりと露わにされ始めた。それは黒く計り知れないほど大きな図体を持ち、脳みそを露出させた頭部には二本の鋭い角を備えるおぞましいもの。その姿はまさしく――
「鬼…!?」
「くっ」
彩音がたまらず声を漏らした瞬間、犬夜叉は弾かれるように地を蹴り母の元へ駆けつけようとした。だがその直後、突然放たれた凄まじい火炎が目の前に迫り、犬夜叉は咄嗟に飛び上がるようそれをかわしてみせる。その時垣間見えたのは、二つの人影。鬼の腕に現れたそれに眉をひそめれば、それは淡々と呟くように声を発した。
「邪見、殺すのは話が済んでからだ」
「へ、へへえっ」
男の声に身を退く小さな妖怪。今しがたの火炎はその小妖怪の持つ杖から放たれたもののようだ。そしてそれを止めた男は静かに立ちはだかり、冷ややかな目で犬夜叉の姿を見下ろす。それを着地と同時に見上げた犬夜叉。彼はその瞬間に顔色を変え、目を見張るように顔を強張らせた。
「てっ、てめえっ。殺生丸か!?」
「ほお…感心に覚えていたか…この兄の顔を…」
「(あ…兄!?)」
怪しげな笑みを浮かべる男の言葉にかごめが驚愕の表情を見せる。まさか犬夜叉に兄弟がいるなど考えもしなかったのだろう。それはもちろん
彩音も同じこと。だが彼女は“殺生丸”と呼ばれたその男に眉をひそめ、切なげな色を湛えた瞳でその姿を見つめていた。
(なんでだろう…私…あの人を見たことがある気がする…)
額の三日月や頬に走る模様、白を基調とした着物に独特の鎧。犬夜叉と同じ琥珀色の瞳と柔らかな白銀の髪。初めて見るはずだというのに、どうしてか彼のどこを見ても“懐かしい”という思いが押し寄せてくる。原因は分からない。だが犬夜叉を初めて見た時に感じた既視感、それに通ずるものがあると心の片隅で感じていた。
その時であった。犬夜叉を見ていたはずの彼の目がふと
彩音へ向けられたのは。
「…
美琴?」
「殺…――えっ」
ぽつり、口を突いて出た名前。
彩音の意志とは関係なく出てきたそれに
彩音自身が驚いていると、突如遠くにあったはずの殺生丸の姿が目の前へ移っていた。フワリと髪を揺蕩わせるその姿。それに目を奪われるよう立ち竦んでいれば、彼は
彩音の瞳を深く真っ直ぐに覗き込んできた。
「
美琴…戻っていたのか…」
「いや、あの…」
どこか切なささえ感じてしまうような声、様々な感情を孕んだ琥珀色の瞳。それを一身に受けては頭が真っ白になるような感覚に陥り、ただ呆然とその瞳を見つめ返すことしかできなくなってしまった。
いつもなら人違いだと、自分は
彩音だと言えるのに。どうしてか今だけは、胸のどこかでほのかに温かい感情が芽生えているのを感じて、いつしかそれに捕らわれるよう声すら出せなくなっていた。
――その時、突如静寂を切り裂くように「殺生丸!」という犬夜叉の怒号が響き渡った。
「てめえにその女は関係ねえだろっ。今すぐ離れやがれ!」
「いぬや…えっ!?」
犬夜叉が爪を振りかざしながら飛び掛かってきた、かと思えば突如体が強く引き込まれる感覚に襲われる。その瞬間視界は白に覆われ、体がフワリと浮き上がるような錯覚を覚えた。
一体何が起こったのか。ト…と地に着く感覚でようやく顔を上げてみれば、
彩音のすぐ傍、目と鼻の先に殺生丸の顔があった。そのあまりの近さに思わずドキ、と心臓が跳ね上がる。どうしてこんな至近距離に…そう戸惑いながら視線を逸らすよう首を捻ると、傍にいたはずの犬夜叉たちの姿がずっと遠くなっていることに気が付いた。
どういうわけか、
彩音はあの巨大な鬼の腕の上に移っていたのだ。それも、殺生丸に体を抱えられて。
「な、なん…」
「犬夜叉。なぜ貴様が
美琴と共にいる」
理解が追いつかずひどく戸惑う
彩音とは対照的に、殺生丸は至極冷静な様子で犬夜叉を見据えていた。まるで気に食わないと、そう告げるように。それを向けられる犬夜叉は強く眉根を寄せ、こちらもまた同様の思いを抱えるよう吠え掛かった。
「てめえこそ、なんで
美琴を知ってやがる!」
「貴様には関係のないことだ」
殺生丸は犬夜叉の問いを軽くあしらい、抱き上げていた
彩音を傍らに立たせる。まさか殺生丸と
美琴に接点があったなど知りもしなかった犬夜叉は、疎ましげに歪めた表情でそれを睨みつけていた。だが殺生丸はそんな彼を気に留める様子もなく、
「貴様はただのくだらぬ人間とつるんでいる方が誠よく似合う」
そう言い捨て、手にした鎖を強く引き寄せる。それは犬夜叉の母の首に絡められたもので。殺生丸はその顔に蔑むような笑みを浮かべると、犬夜叉へ見せつけるため力なく項垂れる母の顔を強引に持ち上げてみせた。
「人間などという卑しき生き物を母に持つ半妖…一族の恥さらし者が…」
「くっ…」
殺生丸の容赦ない言葉。それにひどく顔を歪めた犬夜叉は、怒りを押し殺すように強く唇を噛みしめた。しかし彼の胸のうちに止めどなく湧き上がるそれを容易に抑えることはできず、眉間に深いしわを刻み込んだ犬夜叉はバキ…と音が鳴るほど鋭く爪を構えた。
「殺生丸、てめえ。そんなこと言うためにわざわざ来やがったのか」
「うつけ者。私はそれほど暇ではない。父上の墓の在り処…貴様に聞こうと思ってな」
(お墓の在り処…?)
語り掛ける殺生丸の言葉に
彩音は首を傾げる。父親の墓だというのに、息子である殺生丸は知らないというのか。なぜこのようなことをしてまで、墓の在り処を知りたいのか。そんな疑問ばかりが浮かんでしまう
彩音同様に彼も訝しんだのだろう、「親父の墓だあ?」と声を上げた犬夜叉は怒鳴りつけるように声を張り上げた。
「知るか、んなもん!」
「そうか…ならば仕方ない。貴様の母が苦しむだけ…」
殺生丸がそう呟くと、応ずるように鬼の手へ力が籠められる。直後そこにある犬夜叉の母の体がミシミシミシと悲鳴を上げ、その表情も大きな苦痛にひどく歪められた。このままでは犬夜叉の母が危ない、そう焦りを露わにしたかごめが助けを乞うように犬夜叉へ呼び掛けるが、その彼は大きく眉を吊り上げて「けっ」と強く吐き捨てた。
「ばかか、てめえ! おふくろはとっくの昔に死んでるんだ! そんなまやかし…」
「分からぬ奴だな。だからわざわざ貴様の母の魂を…死者の国から連れてきてやったのではないか。
肉体まで与えて…」
「なっ…」
ニッ、と小さな笑みを浮かべて語られる言葉に耳を疑う。あれは偽物だと、実の母はそこにいないのだと思っていた犬夜叉にとって、その言葉は心の余裕をひどく乱してしまうのに十分すぎるものであった。それだけでなく、視線の先の母が苦痛を押し殺さんとする声で自身の名を呼んでくる。それを目の当たりにしては、どうしてか、殺生丸の言葉がひどく真実味を帯びてくる気がして…
「(まやかしじゃ…ねえのか!?)」
いつしか犬夜叉は食い入るように母の姿を見つめていた。本当なのか分からない、だがもしそれが本当だとしたら。いま目の前で自分の母親が苦しめられているのが現実だとしたら。そんな思いばかりが焦燥感を駆り立てて落ち着かない。
冷汗を伝わせその姿から目を離せないでいると、母は決して苦痛を見せないようにと努めて犬夜叉へ微笑みかけた。
「母に…構うな…どうせ一度は滅びた身…」
息も絶え絶えに紡がれた直後、鬼は犬夜叉の母を一層強く握り潰した。耳を塞ぎたくなるほど痛ましく不快な音。それが大きく響き渡った瞬間、目を見張った犬夜叉は弾かれるように地を蹴っていた。
「ちくしょう! 散魂鉄爪!!」
甚振られる母の姿に耐え切れず、犬夜叉は真偽も分からないまま勢いよく振るった爪で鬼の腕を断ち切った。それによって投げ出された犬夜叉の母の元へ、かごめが慌ただしく駆け寄ってく。その姿に
彩音もすぐさま駆けつけるべく飛び降りようとしたが、それは腕を強く掴まれたことで制止されてしまった。
「なっ…は、放してっ!」
「どこへ行く。お前は…」
「
彩音!」
抵抗する
彩音に殺生丸が言いかけた瞬間、犬夜叉の声が響く。それに殺生丸が眉をひそめると、犬夜叉は強く地を蹴り目下のかごめへ声を張り上げた。
「かごめ! おふくろ連れて逃げろ!! おれは
彩音を…」
「逃がしはせぬ!!」
犬夜叉の声を遮って言い放たれたその瞬間、鬼はその巨大な手を真っ直ぐにかごめたちへと迫らせた。それに気付いた犬夜叉は目を見張り、「くっ」と声を漏らしては途端に鬼の体を蹴る。直後、勢いよく振り下ろされた鬼の手は、母を守るように飛び込んだ犬夜叉の体を容赦なく叩き付けてしまった。
「! いぬ…」
「犬夜叉!」
彩音が声を上げようとした刹那、咄嗟に叫んだ犬夜叉の母が両手を伸ばし眩い光を発した。そこに浮かんだ蓮の花。それは瞬く間に解けるように散り、一層強い光を放って犬夜叉たちを包み込んだ。
そして凄まじい風を伴い三人を飲み込んでしまったそれはやがて、数枚の花びらだけを残し、殺生丸たちの前から静かに消え去っていた。