犬夜叉たちがまやかしから解放された頃、その場を素早く立ち去る少年の姿があった。無骨な地表をものともせず駆けていく彼の腕の中には、黒く長い髪をなびかせる奈落の首がしかと抱き込まれている。
「急げ琥珀…早く城に…」
「はい、奈落さま」
防毒面で口元を覆った琥珀が声を返しながらその足を一層速めるように地を蹴り続ける。その手に支えられる奈落の首はひどく弱り切った様子で虚ろな目をしながら、先ほど対峙した
彩音とかごめの姿を脳裏に甦らせ顔をしかめていた。
「(あの女…
美琴ではないというのか…? それにあのかごめという女…奴ら…恐ろしい…あの女どもの放つ矢は…邪なるもの…瘴気も毒気も薙ぎ払い、浄化する。あやつらを犬夜叉から引き離さねば…わが命に関わる)」
* * *
清々しいほどの晴天の下、まやかしに囚われていた時とは打って変わった空気の中で
彩音たちは周囲の地面を隈なく見回していた。だがひとしきり視線を巡らせた
彩音はやがて足を止め、「いない…」と小さく悔やむような声を漏らす。
その声に、傍の弥勒が顔を振り返らせてきた。
「奈落は逃げたと…?」
「たぶん…四魂のかけらがどこにもないし…」
どれだけ目を凝らし捜そうとも気配さえ見つからないそれに思わずため息をこぼす。そんな
彩音は地面に視線を落としたまま、胸の前でギュ…と手を握り締め微かな声で言った。
「ごめん二人とも…もう少しで奈落を討てるところだったのに…」
「……」
「
彩音さまとかごめさまがいなければ、我々は皆死んでいました」
「なんかお前…今までで一番すごかったな」
気にするなとばかりに声を掛けてくれる弥勒に犬夜叉も続く。彼も
彩音を元気付けようという気持ちがあったのだろうが、それ以上にこれまで見たことがないほどの凄まじい力を目の当たりにして率直にそう感じていたのだ。
それが伝わる犬夜叉の様子に一度は振り返った
彩音だが、再び視線を落とすとわずかに悔しさを滲ませるよう小さく顔を歪めてしまう。
「そりゃ力だって入るよ。だってあいつ…みんなのことすっごいコケにして、バカにして、めちゃくちゃムカついたんだもん。第一、犬夜叉は出来損ないなんかじゃない。強くて優しくて…あんな奴にバカにされていい男じゃないんだから」
「……」
当然のようにすらすらと述べられる
彩音の言葉に犬夜叉は驚くまま頬を紅潮させる。まさか突然これほど素直に褒められるなどとは思ってもみなかったのだ。
おかげでドギマギとぎこちない動きをしながら、恥ずかしさに視線を泳がせてしまう。
「お前…そんなバカバカしー理由で…」
「どこがっ。全然バカバカしくないし、真っ当な理由でしょっ」
分かってない! と言わんばかりに犬夜叉へ詰め寄って言い返す
彩音。犬夜叉はその勢いにたじろいで言葉を返せなくなると、恥ずかしさを誤魔化すように目を逸らしながら小さく頬を掻いていた。
そんな彼に少しばかりため息を漏らすと、
彩音はその足を弥勒へ向けて「弥勒もそうだよ」と口にしながらその右手を握る。
「弥勒だって、あんな奴に蔑まれていい人じゃない。弥勒はいつだって、私たちのことを思ってくれてる優しい人だもん。…でも、だからって無理はしないで…お願いだから、どんなことがあっても風穴だけはしばらく使わないで。みんなを守りたい気持ちはすごく分かる…でも…代わりに弥勒を失うなんて、私は絶対に嫌…そんなの…耐えられない…」
懇願するように、握りしめる弥勒の右手に自身の額を触れさせる。その最悪を想像してしまったのか、彼女の手が微かに震えを刻んでいることを弥勒は見逃さなかった。
だからこそ驚き、目を丸くする。
しかしそれもすぐに穏やかな表情へ変えると、弥勒は
彩音の手を左手で包み込むように握りながらそっと顔を寄せた。
「心配させてすまなかった…もう大丈夫だ。私も…お前を残して行きたくはない…ずっと共にいたいからな…」
「弥勒…」
聞こえるか否か、それほど小さな声で囁かれた言葉に
彩音はわずかながら驚くよう顔を上げる。それが少し、仲間に向ける言葉には感じられなかったからだ。
深い、とても深い想いを秘めているかのようにさえ感じられるそれに真意を問うような目を見せてしまうが、正面の弥勒はにこ、と微笑むだけでそれ以上のことを教えてくれそうにはない。
そんな彼の様子に戸惑ってしまいそうになったその時、突如間に割り込んできた犬夜叉がべりっ、と二人を引き剥がした。
「なーーーに甘ったれた空気にしようとしてんだ弥勒。今はまず奈落のことだろーが」
「照れていたお前も同じでしょう…まったく、余裕のない男は愛想を尽かされますよ」
凄むように睨んで詰め寄ってくる犬夜叉へ弥勒は呆れのため息をこぼしながら言い返す。だが、その表情も「とはいえ…」と呟くのに伴って真剣なものへと切り替わった。
「確かに奈落について、気になる点はあります。
美琴さまが野盗鬼蜘蛛の義妹という話…あれは果たして信じて良いものなのでしょうか」
「それは…義妹っていうのは、本当みたいだよ」
訝しげに漏らされる弥勒の言葉へ
彩音がすぐに肯定の言葉を返してしまう。迷いのないその様子に犬夜叉と弥勒が「な…」と声を漏らすほど目を丸くさせると、対する
彩音はどこか寂しげな、切なげな表情を浮かべてその顔を俯けた。
「奈落に義妹だって言われた時、強い鼓動を感じて…頭の中に色んな光景が流れ込んできたの。
美琴さん…幼い時に両親に捨てられて…一人になったところを鬼蜘蛛に拾われたみたい。それからずっと一緒に過ごしてたけど、鬼蜘蛛が段々野盗行為に手を染め始めて…それが嫌だったけど止めることも叶わなかった
美琴さんは、半ば逃げるように…人助けの旅に出てた…」
あの時溢れ出した記憶を辿るように語る
彩音。その姿を言葉もなく見つめていた二人であったが、やがてその話に納得しては同様に視線を落としながら表情を硬くした。
「なるほど…
美琴さまにそのようなことが…」
「…おれもそんな話を聞いたのは初めてだ…」
どこか信じがたい、でもあり得なくはない話に二人は揃って眉をひそめる。
仲が良かったという桔梗を通じて打ち解けていたはずの犬夜叉でさえ知らなかったという
美琴の過去。恐らく本人や限られた者しか知らないであろう出来事の数々。それを思えば、時折溢れ出すこれらの光景はやはり
美琴の記憶そのもので間違いないのだろうと改めて確信する。
だが、なぜそれが
彩音の中へこうして甦るのか。体を共有しているだけで他人の記憶まで見られるものだろうか。たまらずそのような疑問を抱いては人知れず眉根を寄せてしまう。
――そんな時、突然向こうから七宝とかごめの慌ただしい声が聞こえてきた。
「だめじゃ珊瑚、動いてはっ」
「そうよ、そんな傷で…」
「……」
釣られるように振り返ってみれば、七宝とかごめに制止の声を向けられる珊瑚が飛来骨を支えに立ち上がろうとしている後ろ姿が目に留まった。それに「珊瑚っ…」と声を上げた
彩音はすぐに駆け寄り、彼女の体を支えるとともに引き止めようとした。
すると続くようこちらへ歩み寄ってきた弥勒がわずかに厳しさを孕んだ声で珊瑚へ問いかける。
「どこへ行くのです?」
「ごめんね…もう一緒にいられない」
「珊瑚…お前が弟のことで、奈落に脅されていたことは、みんな承知している」
「だから! 私はまた裏切るよ! 琥珀が奈落の手のうちにいる限り…」
「…珊瑚…」
これ以上の説得は無駄だと言わんばかりに悲痛に声を荒げる珊瑚に思わず口を閉ざしてしまう。それでも弥勒は真剣な表情のまま、変わらず珊瑚の背中を見つめて言葉を続けた。
「珊瑚お前…一人で奈落を討ち果たすつもりですね」
「…そうするしかないんだ」
俯き、微かな声でありながらもしかと言い返す珊瑚。その姿に
彩音は感情を揺さぶられるような思いを抱き唇を噛みしめると、「…ねえ珊瑚…」とそっと声を掛けた。
「私たちみんなで琥珀くんを助けに行こう? 数は多い方がいいんだし」
「ですな。一人で敵う相手ではない」
「ね、まずケガの手当てしなくちゃ」
「あんたたち…どうして…」
彩音、弥勒、かごめと、否が応でも止めようとするどころかどこまでも協力的に手を差し伸べてくるその姿にたまらず小さな声が漏れる。
珊瑚にとって、
彩音たちがこれほどまでに自分に協力しようとする理由が分からなかったのだ。長い間ずっと一緒にいたわけでもなければ、こちらは初対面で襲い掛かったうえにこうして一度裏切った身。本来ならば、とうに忌み嫌われていてもおかしくないはずだと思っていた。
そのため素直に納得できずにいる珊瑚であったが、その様子に我慢の限界を迎えたのかいままで黙って見ていた犬夜叉が突然怒鳴り散らすように大きな声を張り上げた。
「ごちゃごちゃうるせえな。一緒にいた方が都合いいんだよ! お前はケンカが強えからな!」
「犬夜叉…」
「まんまと鉄砕牙を奪われた犬夜叉が、こう言っているのです。問題はないでしょう」
彩音がはっきりと言い放つ犬夜叉の様子に感銘を受けるのに続き弥勒が説得するよう珊瑚へ告げる。だが、それにいち早く反応を示したのはどこか恥ずかしそうにむくれた顔を見せる犬夜叉であった。
「…まるでおれがマヌケみてえじゃねえか」
「心が広いと言っているのです」
怒らせないように、こちらもまた宥めるように返す弥勒。するといつしか膝を突いていた珊瑚へ七宝が一層近付き、わずかに不安げな表情を浮かべながら顔を覗き込むようにして言った。
「珊瑚はおらたちが嫌いなのか?」
「……」
幼さゆえの、純粋な問い。それを向けられた珊瑚は飛来骨を抱えるまま、俯けた顔を上げることもなく押し黙っていた。
否、言葉が出なかったのだ。
自分のせいでこのようなひどい目に遭ったというのに、またいつか同じことを繰り返すかもしれないのに。それなのに変わらず同行を誘ってくれる者たちがいることの嬉しさや申し訳なさや戸惑いがすべて綯い交ぜになってしまって、この場に相応しい言葉が見つからなかったのだ。
それはいつまでも見つからないまま、それでも、珊瑚は唯一浮かんだ言葉をぽつりとこぼすように口にする。
「一緒にいて…いいの?」
「だからっ、そう言ってんだろっ!」
苛立ちを隠すこともなくすかさず放たれた犬夜叉の肯定の言葉。それが珊瑚の耳に響いた瞬間、これまで抑え込んでいた感情が堰を切ったように涙を溢れさせた。
「(本当は怖かった…独りになるのが怖かったんだ)」
零れ落ちる涙をそのままに、珊瑚は
彩音とかごめに縋りつきながら嗚咽を漏らすほど泣き出した。そんな彼女の悲痛な背中を撫で、二人はすべてを受け止めるように珊瑚を抱きしめる。
その姿を見ていた犬夜叉はどこか戸惑うような様子を見せ、小さく頬を掻きながら呟いた。
「…こいつなんで泣いてんだよ」
「分かってお上げなさい」
思うままに言っただけでまさか泣かれるとは思ってもみなかったらしい犬夜叉へ弥勒がそっと諭すように告げる。そんな二人に小さな微笑みを向けていた
彩音は再び珊瑚へ視線を落とし、小刻みに震える背中を絶えず優しく撫でてあげながら、ここに至るまでの彼女のことを思い返していた。
一人で抱え込むには重すぎる、その経験のすべてを。
(珊瑚…本当はずっと…ずっとつらくて、苦しかったんだね…)
一度は過去のことと割り切る強さがある人なのかと思ってしまった。だが、それは違ったのだ。いつだって泣き出したかったはずなのに、それなのに殺された里のみんなの、父親の仇討ちのため、そして弟を取り返すために、強くなければならないと気を張りつめていたのだ。ずっとずっと我慢して、一度も涙を見せなかったのだ。
そんな珊瑚のことを思うと、胸が締め付けられるような感覚を抱いて仕方がない。
だから、これからはもう一人で背負わなくてもいいんだよと。ただそれだけを伝えるように背中を撫で続けながら、
彩音はかごめとともにそっと珊瑚へ囁きかける。
「もう大丈夫よ…」
「私が…私たちがずっと一緒にいるから…」
――みんなで手を取り合って、助け合っていこう、と。