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「ちくしょう、珊瑚の野郎!」 たまらず怒号を上げる犬夜叉はかごめと彩音を背に乗せて森の中を駆けていく。 どうやら珊瑚への怒りを抑えられないようだ。それが一目で分かるほど怒りに身を任せるその姿に焦燥感を抱いてしまうかごめは、彼の顔を覗き込むようにしながら懸命に宥めの声をかけた。 「怒らないで犬夜叉。きっと理由(わけ)があるのよ」 「ふざけんな!」 「きっと奈落だ…奈落が珊瑚を脅したんだよ」 先を見据えながら彩音が脳裏によぎった可能性を口にする。珊瑚が弟のために鉄砕牙を奪う理由など、それしかないと思ったのだ。 すると七宝を背中にしがみつかせた弥勒が犬夜叉に並ぶよう追いつき、「彩音さまの言う通り」と同意の声を向けてくる。 「恐らく奈落に弟の命を握られて、鉄砕牙を奪わされた。いかにも奈落が考えそうなことです」 「そんなこた分かってる!」 弥勒の説得にも犬夜叉は変わらず声を荒げる。 そう、犬夜叉も分かっていたのだ。これが奈落の仕業であることなど。だがまんまと鉄砕牙を奪われたこと、珊瑚が奈落の誘惑に負けてしまったことなど、なにもかも全てが気に食わなくて仕方がない。 だからこそ荒波が立つような心境でいても立ってもいられず、早く珊瑚の元へ追いつかねばと一層強く足を速めていた。 ――そうしてしばらく変わらない景色を背後へ流し続けていた時、ふと前方の上空に複数の小さな影が姿を現し始めるのを見つけた。 「最猛勝!?」 「!」 「近くに奈落がいるってこと…?」 「だろうね…」 犬夜叉や弥勒が睨みつけるような視線をぶつけるに続き、かごめの不安げな声に彩音が顔を険しくさせながら呟く。すると最猛勝たちはなにかを仕掛けてくるでもなく、こちらの様子を窺いながらその身を翻した。 それはまるで、自分たちについて来いと言わんばかりに。 「誘っていますな」 「罠…かな…」 先を行くその姿に彩音が微かな声を漏らす。 敵の誘いに乗れば相手の有利に繋がることは明白だ。だからこそ不安と躊躇いを感じてしまったのだが、すぐ傍からは「ふっ、おもしれえ」という犬夜叉の低い声が聞こえてきた。 「奈落の野郎…今度は本気でおれたちを皆殺しにするつもりらしいな」 「なるほど、いまなら…私の風穴は傷ついて開けない」 「おれは鉄砕牙をとられて丸腰だ。しかもご丁寧に…頼りにしていた珊瑚を使って…」 遠退いていく最猛勝たちを見つめながら忌々しげに呟くよう語られる。 犬夜叉の言うように、現状こちらにはまともな戦力がない。いま最猛勝たちについていけば、本当に全滅してしまう可能性も十分にあり得てしまうだろう。 そんな予測を噛みしめながら、一同は誘導するよう飛ぶ最猛勝の後ろ姿を静かに見据えていた。
* * *
「約束通り…鉄砕牙を持ってきた」 鉄砕牙を手にしながらそう告げる珊瑚が奈落へと歩み寄る。しかしそれを正面から見つめる奈落は手も届かないほどの距離で「止まれ」と指示し、彼女の足を止めさせた。 「飛来骨はそこに置いてもらおう」 「…用心深いんだな」 約束通り鉄砕牙を持ってきたとはいえ、やはり敵同士。信用されているわけではないらしい。それが分かる様子に珊瑚は奈落を睨むよう眉根を寄せながら飛来骨を下ろすと、カラン、と硬い音を鳴らして地面に投げ出した。 「琥珀を見せろ。ここに逃げ込んだんだろう?」 「ふっ…安心しろ。そこに控えている」 奈落がそう答えるのに合わせるよう視線を御簾へ向ければ、その向こうに琥珀らしき人影が透けて見える。 はっきりと見えるわけではないが、どうやら黙り込むままこちらを見つめているようだ。それが分かってはたまらず「琥珀…」と小さな声を漏らしたのだが、そんな彼女に構わず奈落は狒狒の毛皮の下から右手を差し出した。 「鉄砕牙を…」 琥珀に会いたければそれからだ――そう言わんばかりの奈落を前に珊瑚は唇をきつく結ぶ。そして小さく息を飲み、再び奈落への歩みを進めた。 目の前に奈落がいる。父の、仲間の仇が、もう手が届く距離にいる。湧き上がるその思いを必死に抑えながら、鉄砕牙を掴もうと伸ばされる奈落の手へ柄を差し出す――その瞬間、珊瑚の目が鋭く輝いた。 「(奈落!) 覚悟!」 右手の籠手から仕込み刀を飛び出させては張り上げた声とともに勢いよく奈落へと斬りかかる。しかし、ザン、と音を立てて切り付けたのは狒狒の毛皮とわずかな黒い髪だけ。咄嗟に身をかわした奈落の身には一歩届かず、その姿は軽やかな足取りで背後へと降り立っていた。 「ふっ、隠し武器か…まったく油断も隙もない娘だ」 「! お前…」 呆れるような言葉を口にしながらも余裕を感じられる薄い笑みを浮かべた奈落の姿――毛皮を斬られたことで露わにされたそれに、珊瑚は強い衝撃を受けたよう大きく目を見張り声を詰まらせた。 切れ長の目に、どこか儚さをも孕むようなその顔立ち、緩やかなウェーブが掛かった黒く長い髪。それらを備えるその姿は、珊瑚にとってひどく見覚えがあるものであったのだ。 「(この顔…そうだこいつ…この城の若殿…)」 「思い出したか…」 「お前が奈落…」 自分を労わってくれたはずの若殿の姿をしたそれに全てを思い出しては溢れんばかりの怒りが込み上げてくるのを感じる。たまらず血が滲むほど強くギリ…と唇を噛みしめるが、その時、突如視界全体が大きな歪みを見せた。 「!?」 続いて不意にガク、と体が崩れ落ちる感覚に目を見張る。突然力が入らなくなってしまった自身の体に違和感を抱くと同時、右腕になにか蠢く影を見ては咄嗟にそこを見やった。 「(髪の毛!?)」 そう、蠢く影は右腕に巻き付いた奈落の髪の毛であったのだ。ザワ…と不気味に揺らぐそれはまるで己の意思を持っているかのように巻き付き、珊瑚の体を麻痺させ自由を封じていた。 それを見据えながら、しかと鉄砕牙を手にする奈落は胡乱げな笑みを深めていく。 「お前はもう動けない。愚か者。一人でこの奈落を討ち果たすつもりだったのか」 「ち…ちくしょう…」 ズ…とわずかに地を這うことしかできない珊瑚は向けられる奈落の罵倒に悔しげな表情を露わにする。敵は目の前にいるのに…そんな思いが胸のうちに渦を巻きかけた時、奈落の背後で音もなく忍び寄る雲母の姿が目に留まった。 どうやら奈落はそれに気が付いていない。ならば、今しかない―― 「雲母殺せ!」 望みを託すように強く声を放てば雲母が勢いよく奈落へ飛び掛かる。その声に奈落の目が雲母を捉えたが、直後、太く鋭い牙が血を噴き出させるほど強く深々と奈落の左肩に突き立てられた。 「(やった!)」 雲母の牙にしかと捉えられた姿にそう確信を抱く珊瑚。 だが次の瞬間ビクッ、と体を跳ね上げた雲母は驚いた様子で奈落から飛び退いた。そして途端にもがき苦しみ、小さな子猫の姿へと戻っていく。 一体なにが起こったのか、状況が飲めない珊瑚が愕然とする視線の先で、雲母は体を小刻みに痙攣させながら苦しげにうずくまってしまった。 「雲母!」 「くくく、無理もない。この奈落の体は毒と瘴気の固まりだからな。珊瑚よ、お前の仕事は終わった。せめてもの褒美だ、可愛い弟の手であの世に行け…」 「(な…!?)」 平然と紡ぎ出される奈落の信じがたい言葉に耳を疑うよう強く目を見張る。その直後、背後に鳴らされた足音がひとつ。咄嗟に振り返ったそこには、こちらを見下ろし顔に深い影を落とす実の弟の姿があった。 ――ザッ、 無慈悲にも躊躇いなく振り下ろされる鎖鎌。体が思うように動かせない珊瑚はそれをかわし切れず、容赦のない傷をつけられては懸命に琥珀から距離をとろうとした。だがゆっくりと近付いてくるそれは何度も珊瑚の体を斬りつけていく。 それでも必死に離れようとした時、ザッ、と左肩を斬りつけられては真っ赤な鮮血を溢れさせながら倒れ込むように地面に手を突いた。たまらず「くっ…」と小さな声が漏れた彼女のその体は、すでに着物のあちこちが赤く染まるほど傷だらけにされている。 しかしそれでもなお挫けることなく、よろめく体を強く律しながら仕込み刀を構えた。 「琥珀っ…目を覚ませ…」 「無駄だ…お前の声など琥珀には届かん」 必死に、懸命に訴えかけるがそれは奈落によって淡々と一蹴される。そして琥珀は奈落の言葉を肯定するように再び鎖鎌を振るい、珊瑚の右肩付近を斬りつけてはさらに血を溢れさせた。 「琥珀。とどめを刺せ」 ただ静かに、奈落の冷酷な指示が飛ぶ。すると琥珀はそれに返事をすることもなく、「琥珀…」と呼びかける珊瑚の声にも構わないまま冷たい目で彼女へと近付いた。 そうしてついに、ス…と鎖鎌を掲げてみせる。 「琥珀!」 咄嗟に声を張り上げるとともに珊瑚が弾かれるよう琥珀へ飛び掛かる。その勢いのまま琥珀へ腕を伸ばすと、彼女は自分よりも小さなその体を強く抱きしめた。 「琥珀…思い出せ…」 視界が掠れ始めるのを感じながら、弱々しくも確かな思いを込めた声で腕の中の彼へと囁きかける。それに対して琥珀は思いもよらない状況に呆然とし、どうすればいいかを問うように奈落へ顔を振り返らせていた。 その姿を、奈落は冷たく見据える。 「なにを躊躇う…」 「珊瑚!!」 突如奈落の声を遮るように響かされた声――それは犬夜叉のものであった。 やはり仲間を見捨てることなどできるはずもなく、犬夜叉たちは例え罠だとしてもという思いで最猛勝たちを追ってきたのだ。そして目にした光景に、たまらず息を飲むような衝撃を受ける。 なぜなら彼らが辿り着いた時にはすでに珊瑚は傷にまみれ、着物をひどく真っ赤に染めるほど痛々しい姿となっていたのだから。 「犬…夜叉…?」 声に気が付いたらしい珊瑚がわずかに振り返り犬夜叉たちの姿を見とめる。だがそれと同時、まるで糸が切れたかのように琥珀の体から崩れ落ちドシャ…とその場に倒れ込んでしまった。 「珊瑚っ!」 「ひ…ひどい…」 「弟にやらせたのか」 咄嗟に駆けだした彩音が珊瑚の体に手を伸ばす中、かごめは涙を浮かべ弥勒は目を疑うように顔をしかめていた。 死んだはずの弟を強引に甦らせ、その彼に襲わせるという奈落の残忍なやり方。それを目の当たりにした途端、彩音は止めどない怒りが込み上げてくるのを感じ強く唇を噛みしめた。 珊瑚が、琥珀が、一体なにをしたというのか。罪のない人間の感情を弄び傷つける奈落が信じられず、許せず、気が付けば熱を帯びた目尻には微かな涙が浮かんでいてギリ…と拳を握りしめた。 そんな彩音の様子を見ていた犬夜叉は奈落へ向き直り、同時に自身の妖気を大きくざわつかせるほどの怒りを露わにさせる。 「奈落っ…てめえ…」 「くくく、おめでたい連中だ…罠と分かっていてやって来たのか」 「ふざけんなっ」 髪を大きくざわつかせながら笑みさえ浮かべる奈落の態度に感情を抑え切れず、犬夜叉は弾かれるよう叫び上げながら奈落へ飛び掛かる。するとその瞬間、ざわめいていた奈落の髪が突如質量を増し、まるで意思を持っているかのようにザワッ、と広がり襲い掛かってきた。 それでも犬夜叉は怯むことなく飛び込み、奈落目掛けて力任せに振るった爪でバキ、と激しい破壊音を響かせた。 しかしそこに感じたのは人のものではない硬い感触。気が付けば奈落の姿は消え、ただ無惨に床板を砕かれた廊下だけが広がっていた。 「くっ…逃げやがったか」 「逃げるものか…わざわざ来てもらったのだからな」 思わず漏らした犬夜叉の声を否定するように、どこからともなく奈落の愉快げな声が響いてくる。それに伴うように周囲に散らばった多くの奈落の髪の毛たちがザワザワ…と蠢き始めたかと思うと、それらは瞬く間に黒く太いヘビのようなものへと姿を変えていった。 直後、躊躇いなく一斉に犬夜叉へと襲い掛かる。 「こんなもん!」 飛び込んでくるそれらに怯むこともなく、怒声を上げた犬夜叉は煩わしげな表情を見せながら即座に振るった爪でヘビたちを呆気なく散らしてみせる。 だがその瞬間ジュッ、と嫌な音が響くと、散らされたヘビの肉片が液状となって地面に降り注ぎ、そこからひどく焼けるような臭いが漂った。 それと同時に抱く、自身の右腕の違和感―― 「くっ…瘴気…」 見れば右の袖がわずかに焼け、腕には火傷のような傷がしっかりと刻み込まれていた。 恐らくこのヘビたちは全て奈落の瘴気の塊なのだろう。それを示すように、たった数匹散らしただけで辺りにはもう霧状の瘴気が漂い始めている。 「闘えば闘うほど…この場は瘴気に満ちてくる…わが瘴気にまみれて死ね…」 「ちくしょう…」 姿が見えぬまま挑発的な声を発せられれば、いつしか犬夜叉だけでなく珊瑚を支えていた彩音、かごめ、七宝、そして弥勒までもが追い立てられるように無数のヘビに囲まれていた。

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