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珊瑚が結界の向こうに姿を消してどれくらいが経っただろう。不安により体感時間が長く感じられて仕方なく、彩音たち一行は表情を硬くしながら結界の前で珊瑚の帰りを待っていた。 すると不意に、景色を歪ませていた結界がサー…と景色に溶け込むよう薄れ始める。 結界が晴れたようだ。それに気が付いた一行が揃って霧の立ち込める先を見つめていれば、飛来骨を背負った珊瑚が俯きがちに歩いてくる姿が見えた。 「珊瑚っ…」 「珊瑚ちゃん、あの男の子…」 「……」 心配と不安を募らせていた彩音とかごめがすぐさま駆けつけるも、珊瑚は一度こちらに気が付いたよう顔を上げただけでまた俯いてしまう。 その様子に確信を得たか、かごめの肩に乗っていた冥加が珊瑚を見つめながら慌ただしく飛び跳ねて言った。 「やはり琥珀だったのじゃな!?」 「あれは…琥珀なんかじゃない!」 冥加の言葉にたまらず声を張り上げるほど強く否定する珊瑚。その様子にかごめが「珊瑚ちゃん…?」と呟くと同様、一同は彼女の姿にただならぬ違和感を抱いていた。 琥珀を見た際の珊瑚の様子といい姿を知る冥加の証言といい、あの少年は琥珀で間違いないはずだ。しかし珊瑚は再会を喜ばないどころか、苦痛と怒りを綯い交ぜにした険しい顔をして“あれは弟ではない”と、“別物だ”とでも言いたげである。 その姿に彩音たちが微かな戸惑いを露わにしていれば、珊瑚は深く視線を落としたまま小さく弥勒を呼び掛けた。 「法師さまお願い。殺された村の人たちの供養…してあげて」 ヒュー…と不気味さを引き立てるように風が吹き抜ける村。珊瑚の願い通り道を引き返した一行は、残酷で悲惨な景色の中に再び足を踏み入れていた。 そこで珊瑚は(むしろ)に村人の亡骸を乗せる形で一人ずつ運び、およそ等間隔に並べていく。その間必死に無心を心掛けるが、蓋をしたい記憶は勝手に溢れ出すよう蘇っていた。 先ほど対峙した自身の弟の姿、そしてそれと比較するように、かつての穏やかな弟の姿が。 「(琥珀は心の優しい子だった。こんな惨いことができる子じゃなかった。あれは…琥珀じゃない)」 まるで自身に言い聞かせるように、声にすることも表情に出すこともなく、ただ何度も思い続ける。 そんな彼女の様子を遠目に見守るかごめは心配そうな表情を浮かべてしまいながら、傍で埋葬のための穴を掘る弥勒と彩音へ向き直って問いかけた。 「ねえ二人ともどう思う?」 「ん?」 「はい?」 「結界の中で、なにかあったんじゃ…」 再び珊瑚の方を見やりながらそう口にするかごめに二人の手が止められる。そうして彼女同様に向けた二人の視線は、ただ一人離れてしゃがみ込みながら黙々と作業を続ける珊瑚の小さな背中を捉えた。 「あったのでしょうな」 「戻ってきてからずっとつらそうだもんね…とはいえ…無理に聞きだせることじゃないし…」 「しばらくそっとしておきましょう。自分から話す気になるまで…」 「けっ、なに甘いこと言ってやんでえ」 彩音に続くよう弥勒が気遣う様子を見せた時、それを否定するような声を上げたのは木材を担いで近付いてきた犬夜叉であった。その時鳴らされたザッ、という足音に釣られるよう振り返ってみれば、彼はどこか不満げに眉を吊り上げている。 「あのガキの体に四魂のかけらが仕込んであるってことは…十中八九奈落が絡んでるってことだぜ。おれが締め上げて吐かせてやらあ」 「おすわり」 ばきっ、と指を慣らしながら珊瑚へ突っ掛かろうとする犬夜叉へすかさず告げられる言霊。その瞬間地面へ沈められた犬夜叉が「ぐえっ」と情けない声を上げてしまうと、言霊を放った彩音が呆れの表情を浮かべながら歩み寄り、その頭に軽いチョップを落とした。 「バカ夜叉。ちょっとは珊瑚のこと考えなさい」 「ほんっとにあんたって、どーしてそうデリカシーがないのよ」 「まったく…」 彩音とかごめが責め立てるよう言うのに続き、弥勒までもが落胆に等しいため息をこぼしてしまう。そして地面にめり込んだまま不満げな顔を見せる犬夜叉を横目にすると、弥勒は言い聞かせるような声色で端的に告げた。 「そんなに焦らずとも、待っていれば奈落の方から仕掛けてきますよ」 村人たちの供養を終え、いつしか無慈悲な夜闇に包まれた頃。一行は村の外れに見つけた古びた小屋に身を移して休息をとっていた。 だがさして広くもないここは全員が足を伸ばして横になれるようなスペースはなく、彩音とかごめと七宝が隅に積まれる藁の上に、珊瑚が筵に横たわり、犬夜叉と弥勒は壁や薪などに背を預けて座ったまま眠る形となっていた。 それでも体を休めようと誰しもが目を閉じて静寂に包まれる中、小さな囲炉裏に焚いた火だけがパチ…と微かな音を鳴らす。 それを耳にしながらも、気に留める余裕もないほど思考に頭の中を埋め尽くされるのは珊瑚であった。壁を向いて横たわる彼女は結界の中で対峙した奈落の言葉を無意識に脳裏で反芻させる。 ――琥珀は忘れているのだ。お前のことも、目覚める前の出来事も… 「(琥珀…私に会っても、顔色ひとつ変えなかった。本当に忘れてしまったのか? 私のことを…いや…それより…奈落が憎い仇だということも知らずに…)」 確かにこの目で見た光景に珊瑚は目を閉じたままわずかに眉をひそめる。 あの時――結界の中で珊瑚が奈落に襲い掛かろうとしたが、その瞬間琥珀は身を挺して奈落をかばっていた。その相手こそ本来討ち果たすべき仇だというのに、琥珀はなにひとつ疑う様子も、迷いすらも見せず奈落に付き従い、実の姉である珊瑚に刃を向けていた。 身勝手に甦らされ、記憶を失い、なにも分からないまま都合よく使われている自身の弟――それを思うと途端に胸が張り裂けそうなほどひどく痛み、開いた目に憎しみの色を灯しながら強く眉根を寄せた。 「(琥珀を取り戻したい…奈落の手から…)」 ――珊瑚よ…犬夜叉の鉄砕牙を奪ってくるのだ… 珊瑚の思いに続くよう、奈落の指示が甦ってくる。 それは琥珀を助けるための交換条件であった。当然珊瑚はそれに反発したが、ほかに琥珀を取り戻す手段が思い当たらないうえ、四魂のかけらで命を繋いでいるという琥珀は奈落の手中にある。指示に従わなければ琥珀は再び奈落の手で命を落とすことに…あるいは、もっと非道な目に遭わされてしまうかもしれない―― それを思うと胸が押し潰されるような苦しさが増し、唇をきつく結んだ。そうして物音を立てないよう静かに体を持ち上げ、背後の犬夜叉へ顔を振り返らせる。 視線の先の犬夜叉は腕を組み、その中に鉄砕牙を収める形で目を伏せていた。それを確認しては周囲の彩音たちにも視線を巡らせ、誰しもが眠っていることを確かめていく。 「(いまなら…)」 かごめたちの安らかな寝息すら聞こえるほど静かな空間にそう思い立った瞬間、突如犬夜叉の目が開かれギロッ、と鋭く睨みつけられる。その思いもよらない出来事に冷静でいられたらよかったのだが、気を張り詰めていた珊瑚はたまらずビクッ、と大きく体を揺らしてしまった。 起きていた――それを遅れて理解する珊瑚に向け、犬夜叉は彼女を見つめるまま淡々とした声色で問いかける。 「まだ…話す気にならねえか?」 「犬夜叉…」 「弟を追って行って…取り逃がしたのか? おめえがそんなヘマするとは思えねえけどな」 「……」 どこか厳しさを孕んでいるようなその声に珊瑚は押し黙り、ただ汗を滲ませながらじっと見つめ返すことしかできなかった。その姿を正面で向き合うように見据える犬夜叉は続けて問い質す。 「一体なにを隠してる? 弟を追って行った先でなにがあった?」 ――珊瑚よ、弟を救いたかったら…犬夜叉の鉄砕牙を奪ってくるのだ。 犬夜叉の問いかけにすかさずフラッシュバックされる忌々しき奈落の指示。だが奈落と出会ったなど――弟がそれに使われ、助けるための条件が犬夜叉の大切な刀を渡すことであるなどとは到底言えるはずもなく、あくまで平静を装ったままわずかに険しい表情で小さく答えた。 「なにも…あるもんか。それに言ったはずだ。琥珀は…弟はあんな惨いことができる子じゃなかった。あんな風に人を殺すなんて…あれはもう…あたしの弟じゃない」 「そんな簡単なものか?」 思い詰めるように、意を固めるように紡がれる珊瑚の言葉に犬夜叉がはっきりと問う。その瞬間ごくわずかな反応を見せた彼女の姿から、犬夜叉は片時も目を離さなかった。 「例えどんなに変わってたって、弟には違いねえんだろ?」 「……」 「そう簡単に…憎んだり忘れたりできるはずがねえ」 「あんたになにが分かるって言うのさ」 俯き語る犬夜叉へ珊瑚は苛立ちを孕んだ様子でわずかに声を荒げる。そんな彼女を見据えながら、犬夜叉はどこか寂しげな眼をして黙り込んでしまった。 その姿を、いつしか目を覚ましていた彩音が静かに見つめる。 (犬夜叉が言ってるのは…きっと桔梗のことだ…昔と同じ姿のまま…別人のように、憎しみに生きる桔梗のこと…) 犬夜叉が愛し、一日も忘れたことがないという巫女のこと―― 桔梗の姿を、犬夜叉の言葉を思い返しては微かに胸の奥が締め付けられるような感覚を抱く。同時に感じてしまうざわつきにやるせなさを覚えては、それを押し殺すようにギュ…と手を握り締めた――その時であった。 「油断するな、囲まれている」 「「!」」 薄くも鋭く開かれた弥勒の目が出入り口へ向けられると同時に告げられ、犬夜叉と珊瑚が途端に表情を強張らせるまま身構える。そして身を潜めるように壁際へ身を移しては戸代わりの簾をめくり、静かに外の様子を窺った。 そこに見えたのは、無数の妖怪たちを従えた琥珀の姿。咄嗟に小屋の前へ飛び出し身構えた犬夜叉と弥勒に続くよう足を踏み出した珊瑚がその姿に目を見張った――直後、妖怪たちは弾かれるように犬夜叉たちへ迫った。 「殺せ!」 「ちっ。雑魚は引っ込んでろ!!」 忌々しげに声を荒げる犬夜叉が鉄砕牙を抜いては瞬く間に妖怪たちを薙ぎ払うよう断ち切ってみせる。だがその瞬間鎖に繋がれた重りが勢いよく投げ込まれたかと思うと、それはジャッ、と音を立てて鉄砕牙に巻き付いた。 犬夜叉の動きを止めるつもりか、琥珀は間髪入れずして飛び掛かり襲い掛かってくる。だが容赦なく振り下ろされる鎖鎌を犬夜叉は難なく鉄砕牙で受け止めてみせた。 「けっ、その程度の力で…おれと渡り合う気かよっ」 長い鎖を掴んでは力任せに大きく振るい、その先の琥珀の体を容易く投げ飛ばしてしまう。 やはり力量差は犬夜叉の方が優位だ。圧倒的とも思えるその差に琥珀の危機を感じては、かごめが慌てた様子で咄嗟に声を張り上げた。 「犬夜叉殺さないで!」 「分かってる!」 荒々しくそう言い返しては振り返らせた顔を再び琥珀へと向け直す犬夜叉。そうしてザン、と音を立てて着地する琥珀の元へ向かうよう、犬夜叉は強く地を蹴った。 「とっ捕まえて目を覚まさせてやる!」 琥珀へ迫ると同時にそう声を張り上げた――その刹那、琥珀がなにかを感じ取ったようにごくわずかな反応を見せる。 するとなにを思ったか、彼は突如自身の背中へ勢いよく鎌を突き立てた。 「なっ!?」 「琥珀!?」 「自分で傷つけとる!」 あまりに唐突で理解しがたい行動に一同が愕然と声を上げる。しかし琥珀はわずかに険しい表情を浮かべながらも躊躇いを見せず、鎌を抜いたその傷口へ自身の指をズブ…と深く潜り込ませた。 「あれ…四魂のかけらを取ろうとしてる…!?」 「! (琥珀の命を繋いでいるのは、体に仕込んだ四魂のかけら…取り出したらたちどころに死んでしまう)」 訝しむ彩音とは対照的に、珊瑚は奈落に言われた琥珀の“絡繰り”を思い出し瞬時に顔を青ざめさせる。 ――直後、勢いよく放たれた飛来骨が強く鉄砕牙を打ち付け、犬夜叉の手からそれを遠ざけてしまった。 「! 珊瑚!?」 思いもよらない味方からの妨害に犬夜叉が驚愕の表情を振り返らせる。その間にも飛来骨は器用に鉄砕牙を運び、自身を受け止める珊瑚の目の前へ変化の解けたそれを突き立てた。 どうしてこのようなことを――そんな思いを隠しきれない一同が愕然とするまま珊瑚を呼ぶ中、珊瑚の一連の行動をじっと見つめていた琥珀が不意にその身を翻す。そして従えていた妖怪の背に乗り込んでは様子を窺うように珊瑚を見やりながら天高く昇っていった。 「(私を試しているのか!? この手で鉄砕牙を持ってこいと…)」 こちらを見る琥珀を見つめながら感じざるを得ない奈落の思惑に表情を強張らせる。そして目の前に突き立てられた鉄砕牙へ視線を落とせば、その向こうで立ち尽くすようにこちらを見つめてくる犬夜叉の姿が目に映った。 「珊瑚…お前…」 「……雲母!」 “まさか”という思いが込められる犬夜叉の視線に耐えかねた珊瑚は、咄嗟に雲母を呼びつけると同時に鉄砕牙の柄を握りしめる。その行動に驚く彩音たちには目もくれず、珊瑚は鉄砕牙を手にしたまま雲母の背に跨り琥珀が消えた方角へと勢いよく飛び出した。 「珊瑚! てめえなにを…」 「(こうするしかないんだ…琥珀…必ずお前を取り戻す! どんなことをしても!)」 なりふり構っていられない思いに駆り立てられ決意を固める珊瑚は、いつしかあとを追う犬夜叉たちの姿が見えなくなるほどの勢いで宙を駆けていった。 琥珀を追えば必ず奈落の元に辿り着く。それを思いながら警戒を強めて進んでいれば、突如目下にひどく見覚えのある城が姿を現した。 「(この城は…) 父上たちが殺された場所! ここにいるのか奈落!」 琥珀の姿は見えない、だが間違いないという確信の下、すぐにそこへ降り立っては奈落を呼び出すよう大きく声を張り上げる。同時に雲母共々周囲へ視線を巡らせその姿を探すが、奈落どころか人影ひとつ見当たらない。 一体どこにいるのか、そんな思いをよぎらせかけた時であった。 「涙ぐましいことだな…弟のために仲間を裏切ったか」 「奈落…!」 突如向けられた声に弾かれるよう振り返れば、誰もいなかったはずの会所前の短い階段に狒狒の皮を被ったそれが佇んでいる。それにたまらず顔を強張らせると、対する奈落は狒狒の皮の下から試すような目で珊瑚を見据えながら言った。 「渡してもらおうか、お前がその手で奪ってきた鉄砕牙を…」 「……」 低く、体の芯に響くような声で告げられる指示に得も言われぬ緊張を抱く。 やがて意を決した珊瑚は握る鉄砕牙を両手で支えるように持ち、警戒心を一層強めながらゆっくりと奈落へ歩みを向けた。

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