「犬夜叉っ、犬夜叉ーっ!」
渦の中心で溢れ続ける大量の泡を見つめながら
彩音が必死の呼びかけを続ける。しかしどれだけ思いを込めて声を上げ続けようと、眼前で渦巻く水面は犬夜叉の姿を見せてはくれなかった。
刻一刻と、不安や焦りが募っていく。意を決して飛び込んだとて自分の力では犬夜叉を助け出せるとは思えず、なにもできないやるせなさを胸いっぱいに湛えたまま強く手を握り締めることしかできずにいた。
――そんな時、突如廊下を駆ける二つの足音が慌ただしく響いてくる。
「
彩音ちゃん、かごめちゃん!」
「ご無事で!?」
「あ…」
「弥勒っ、珊瑚…!」
心配していた二人の無事な姿に安堵するも
彩音の表情は晴れない。それに事態の悪さを察した弥勒が彼女の傍へ駆け寄れば、
彩音はすぐさま助けを乞うように弥勒へ縋りついた。
「弥勒、犬夜叉が中にっ…」
「ニセ水神もそこですね」
「降ろせ法師」
「は、水神さま」
不意に聞き覚えのない女の声が聞こえたかと思えば、それに返事をした弥勒が自身の両手を見下ろした。その様子にかごめが「水神さま…?」と漏らすのを聞きながら揃って弥勒の手元を見やれば、その手からほてっ、と廊下へ足を着くとても小さな女の姿があった。
それはまるで人形のように小さいが、確かに生きている。どうやらそれこそがニセ水神によって岩の中に封印されていた本物の水神のようで、終始凛とした様子の彼女は葡萄のように玉が連なる耳飾りを片方チッ、と取り外した。
「水切りの法」
芯のある声でそう口にした水神は荒れた湖へ耳飾りを投げ込む。するとそれは水中でカッ、と眩い光を放ち、突如地響きにほど近い凄まじい音を立てながら湖の水を真っ二つに割ってみせた。
そうして露わにされる水底。そこには気絶した犬夜叉へとどめを刺そうとしていたニセ水神が「こ、これは…」と呟きながら驚愕の表情をこちらに向ける姿があった。
「犬夜叉っ!」
まるで崖となるよう分かたれた水と水の間を覗き込みながら
彩音が声を上げる。彼は無事なのか、それを確かめようと身を乗り出しかけたその視線の先で、突如鋭い鉾が勢いよく投げつけられた。
「なっ…」
「危ない!! あの鉾の先…」
咄嗟に水神を拾い上げたかごめが声を上げながら後ずさった直後、鉾が廊下の裏に突き込まれ大きな波紋を広げると、瞬く間に廊下を消し去るよう無数の泡へと変えてしまう。
その現象を初めて目にする弥勒は咄嗟に引き寄せた
彩音をかばいながら鉾先を見つめ、「水の泡に…」と息を飲むような声を漏らした。
「くくく…お前たち…色々と邪魔をしてくれたが…ここまでです」
再び鉾を握りながら目の前に現れたニセ水神が胡乱げな笑みを湛えながら不気味にそう告げる。
どうやら相当の怒りを秘めているらしいその姿に怯みそうになるが、こちらには明確な勝機がある。それを思った弥勒たちはニセ水神の気迫に屈することなく力強い声で言い返した。
「なにを戯言を!」
「こっちには本物の水神さまが…」
「「寝てるーーっ」」
不意に珊瑚の言葉を遮って上げられた
彩音とかごめの声。その声に弥勒たちが耳を疑うよう振り返ってみれば、彼女たちの言う通り水神はかごめの手の中で寄りかかるようにぐっすりと眠ってしまっていた。
「はは~~」
「力、使い果たしたみたい」
「確かにすごい力だったけど…」
「もう?」
くかー、と熟睡している様子の水神を囲みながらかごめを中心に話し合う。普通に考えてみればあの技一度きりで力を使い果たしたとは考え難いが、すぐには目覚めそうにない彼女の様子を見るとそれも信じられるような気がしてくる。
本当に本物の水神さまなのだろうか。体が小さいからあまり多く力を使えないだけなのだろうか――思うことは多々あったが、一同はしばし黙り込むと顔を見合わせ、同時にしっかりと頷き合った。
「…となれば…」
「やっぱり私たちで!」
「退治するしかないね!」
「できるものですか! 鉾がわが手にある限り…」
足を揃えて駆け出した弥勒、
彩音、珊瑚にニセ水神が迎え討たんとばかりに鉾を構えながら身を乗り出す――だがその時、突如ニセ水神の体が下からなにかに引かれるようガク、と体勢を崩してしまった。
「!」
「この野郎!!」
ニセ水神が目を見張り振り返ると同時、凄まじい怒号を上げる犬夜叉が大きく跳び上がりながらニセ水神の体を引き裂いてみせる。
目を覚ました、無事だったのだ。それが分かる彼の姿に
彩音たちが歓喜の声を上げるが、対するニセ水神は表情を変えることなくただ「ふっ」と見下すような声を漏らした。
「体などいくら砕かれても痛くも痒くもない」
それだけを言い残すとニセ水神は突如シャー…と細い音を立てながら天へと昇っていく。遠ざかろうとするその姿に慌てた犬夜叉はすぐさまその体へしがみつくと、げほっ、と水を吐きながら強く爪を立てた。
「逃がすかてめえ!」
「ふっ、逃げる? とんでもない」
ニセ水神は犬夜叉へ侮蔑の視線だけを向けながらその体を高く高く昇らせる。
なにかを始めようというのか、意図の読めないその行動に警戒した珊瑚が雲母を呼びつけると、すぐさま変化したその背中に飛び乗ってニセ水神を追い始めた。同時に、その体にしがみつく犬夜叉へ厳しい視線を向けやる。
「くたばり損ないは引っ込んでな。あとはあたしがやる」
「な゙っ…」
「こういう長い奴は、頭を落とすに限るんだ!」
そう言い切った珊瑚はいまにも反論せんとする犬夜叉を無視して空へ近付くニセ水神の頭へと距離を縮めていく。風が唸るほどの勢いで天へ昇っていくそれに近付いた瞬間、珊瑚は担いでいた飛来骨を強く握りしめ「飛来骨!!」という声とともに強く投げ放った。
しかし――
「次から次へとうるさい!」
疎ましげに声を上げたニセ水神が振るう鉾に叩き付けられ、飛来骨は呆気なく跳ね返されてしまう。持ち手の一部が泡となってしまうそれをすぐに受け止めた珊瑚が強く舌打ちすれば、ニセ水神は動きを止めるとともに不気味に首を傾け、その周囲に嫌な気配を立ち込めさせ始めた。
「愚か者どもが…神器“雩の鉾”の真の力を思い知らせてあげましょう」
低く唸るような声でそう発せられた直後、ニセ水神が掲げる鉾の向こうで黒雲に埋め尽くされる空に眩い稲妻が閃いた。直後、ニセ水神が天を突くように鉾を突き上げ、大きな体をうねらせながら空を泳いでいく。
「あ…!?」
「雨雲を呼んでいる!?」
かごめや太郎丸が思わず声を上げるほど愕然とさせられるこの行動。それは言葉通り、ベールのような光を纏う鉾が周囲の黒雲を揺らがせ、この一帯に雨雲を呼び込んでいるのだ。
それがただならぬ技であることは明白。それを悟った珊瑚はすぐさま雲母を飛ばし、ニセ水神を止めるべく再び飛来骨を強く投げ放った。
「無駄です」
飛来骨がニセ水神に迫らんとした刹那、その声とともに鉾が勢いよく振り落ろされる。するとその瞬間、どういうわけか突如ニセ水神の周囲に勢いよく渦を巻く三つの竜巻が顕現させられた。
「なっ… (竜巻!?)」
瞬時に形成されるそれに愕然と目を見張る。凄まじい勢いのそれははっきりと目に見えるほど物理的な密度を高め、ほんの一瞬驚愕という隙を見せた珊瑚へ容赦なく突き込んだ。
たまらず「うわっ」と短い声を上げた彼女は雲母から弾き飛ばされ、宙へと投げ出される。その姿に地上のかごめがつい水神を握り締めるほど強く「珊瑚ちゃん!」と声を上げる中、とどめを刺さんとするニセ水神は珊瑚へ勢いよく鉾を突き込もうとした――
その時、珊瑚の眼前で緋色の衣が大きく広がりを見せる。
「え!? (犬夜叉…!? あいつなんで…!?)」
目を疑うと同時に駆けつけた雲母によって体を掬われた珊瑚は愕然とするままその緋色を見つめる。
そう、彼女を守ったのはニセ水神の腕ごと鉾を抑え込んだ犬夜叉であったのだ。しかし彼はニセ水神の体のずいぶん下方にいたはず。あの瞬間に駆けてきたとしても間に合わないはずだというのに、どうしてここに…
そんな信じ難い思いを抱える珊瑚は、ニセ水神と押し問答する彼の元へ近付きながら眉をひそめて問うた。
「どっから湧いて出たのさ」
「地道にこいつの体登ってたんだよ。お前がオトリになってくれてる間になっ」
「あ…あたしがオトリだと…!?」
ニセ水神を押さえながら平然と“オトリ”呼ばわりしてしまう犬夜叉に珊瑚はむかっ、ときてわずかながら頬を赤くする。犬夜叉が接近していることにも気が付かず、さらにはダシに使われたような状況が少し恥ずかしくなったのだろう。
しかし犬夜叉はそんな珊瑚から顔を背けると目の前のニセ水神を睨み付け、強く歯を食い縛りながら鉾を握るその手を握り潰さんばかりにギリ…と力を込めた。
「(この鉾さえ取れば…)」
その思い一つでニセ水神の手を押さえ込む――だがその頃、周囲では地から天へと凄まじく渦を巻く竜巻が一層勢力を増していた。風を唸らせ地響きに等しい音を轟かせながら、大きな社さえ吹き飛ばしてしまいそうなほどに湖が荒れ狂う。
「湖が…」
「いかんこのままでは村が…」
「「え…!?」」
末吉と太郎丸の焦燥感に満ちた声が上げられると同時に
彩音とかごめの表情が険しくなる。
そう、このまま竜巻が勢力を増し続ければいずれ竜巻や大水が村まで襲い、全てを滅ぼしてしまい兼ねないのだ。
それを阻止するためにも、一刻も早くニセ水神から神器を取り戻さねばならない――