21

「お前たち…神域を汚した罪は重いですよ」 末吉の襟首を掴み神器の鉾を握るまま、水神は唸るような声色でそう告げてくる。 本物の神かもしれないという計り知れない相手からの言葉に彩音が息を飲んで身構えるが、堂々と立ちはだかる犬夜叉は怯むことなく、むしろ食い気味に挑発的な声を上げた。 「おもしれえ、バチでも当てようってのかい!」 「ちょ、犬夜叉っ…」 「面白くもなんともないぞ」 今しがた慎重にいこうという話を持ち掛けたばかりだというのに先ほどと変わらず喧嘩腰で突っかかってしまう犬夜叉に彩音が焦り七宝が呆れたような声を漏らしてしまう。 するとその挑発が引き金となったのか、水神が突然スッ、と鉾を真っ直ぐに持ち上げた。 一体なにをするつもりか、そう感じた一行が身構えようとしたその時、鉾の柄がトン、と軽い音を響かせて床を突いてみせる。次の瞬間、突如鉾を中心に目の前の景色が歪んでしまうほどの大きな波紋が広げられた。 ――しかしそれも束の間、わずか一度瞬いた直後には全身が冷たい感触に深く包み込まれてしまう。 「! (な…ここは…水の底!?)」 一変した目の前の景色に犬夜叉は強く目を見開く。同時に呼吸ができなくなり、体を持っていかれてしまいそうなほど凄まじい水流に押されるのを実感するまま咄嗟に頭上を見上げれば、大きく揺らぐ水面が遥か高くにあるのが見えた。 水神の術かなにか、社の外の湖の底へ瞬間的に移動させられたというのだ。戸惑いながらもそれを理解したその時、視界の端に見覚えのある姿が横切ったことにはっと息を飲む。 「(彩音!)」 激しい水流に伴って視界を横切る彩音たちの姿に胸がざわつく。そこには彩音とその足にしがみつく七宝、彩音が掴むかごめとその腕に抱かれる太郎丸の四人の姿があった。それらは皆苦しげに息を止め、きつく目を閉じて成す術もなく流されている。 このままでは彼女たちが水流に揉まれるまま息絶えてしまう。強張る表情にそれを悟った犬夜叉は咄嗟に水を掻き分け、彩音たちの元へ向かおうとした。 (! 犬夜叉っ!) わずかな気配に薄く開いた目で犬夜叉を見つけた彩音が縋るように手を伸ばす。同様に犬夜叉も手を伸ばし懸命に距離を縮めようとした――その時、彼の背後に迫るものを見た彩音は息を飲むよう大きく目を見張った。 (岩がっ…逃げて犬夜叉!) 声に出せない必死の思いを胸中で叫ぶが届くはずもなく、犬夜叉と彩音の手が触れそうになったその時、凄まじい水流で崩れた巨岩が容赦なく犬夜叉の後頭部を打ち付けた。同時に、犬夜叉の口から留めていた酸素が全て漏れ出てしまう。 その姿に悲鳴を上げるよう強く手を伸ばした彩音がすぐさま犬夜叉の元へ向かうべくかごめを放そうとした刹那、それは必死の表情を見せるかごめによって止められてしまった。 ここで手を放せば、いくら不死の彩音とて危険だからだ。それを訴えるような彼女の表情に唇を噛みしめた彩音はすぐに犬夜叉の方へ向き直るが、気を失った彼は力なく流されていく。 彩音同様、かごめもそれを見やった――その時、突如腕の中で不可解な異変が起こった。 「(なっ…引っ張られてる!?)」 そう驚愕の色を見せるかごめの視線の先には、なにに繋がれるでもないのに水面へ引き上げられていく太郎丸の体。それはいつしか気を失ったらしい彼自身のものではない、目に見えない力が働いていた。 その正体を理解する間もなく抗うことさえ許されず、太郎丸を抱くかごめやそれに掴まる彩音、七宝までもが巻き込まれるまま、彼らの体は水上の社の床へと無造作に投げ出された。 「え…!?」 (ここ…私たちが元いた部屋…?) かごめがほんの微かな声を漏らすとともに、彩音が周囲の景色にそれを悟る。 恐らく太郎丸を引き上げたのは水神なのだろう。だが、あの水神が助けるために引き上げたとは考え難い。それを思っては身を伏せたまま、様子を窺うように警戒の目だけを周囲に向けていた。 そうして視界に捉えたのは、部屋の奥に浮かび上がるひとつの人影。それがシュー、と細く音を漏らしながら近付いてくる様子に彩音たちは小さく息を飲む。 (あいつ…!) 「(この子を食べる気だわ…なんとかしなきゃ…)」 ギシ…ギシ…と床を軋ませながら徐々に歩み寄ってくる水神の姿に二人は狙いを悟り、顔を強張らせる。 しかし安易に行動を起こすことはできない。相手は神器を持っているのだ。無闇に正面から襲い掛かっても到底敵うはずがないだろう。 せめて一瞬でも隙を作れないか…そう願うような思いを抱えるまま伏せていると、不意に水神の背後で床にうずくまっていた末吉が起き上がるのが見えた。彼は様子を窺うように水神を見やり、なにを思ったか傍の燭台をギュッ、と握りしめる。 直後―― 「うわああああ!」 突然悲鳴のような雄叫びを上げながら力任せに水神へと駆け出す末吉。だが水神が接近を許すはずはなく、振り返ることもなく伸ばされた触手のような腕がパアン、と乾いた音を立てて彼を叩き払ってしまった。 そうして床に叩き付けられお面が砕け散る音を響かせる末吉へ、水神は冷ややかな視線を向けながら「愚か者」と言い捨てる。 「かごめ!」 「ええ!」 水神の視線が逸れたその瞬間を逃さず彩音が呼ぶとともにかごめが弓矢を構える。直後放たれた矢が勢いよく水神へ迫るが、彼は動揺する気配もなく左手を差し出した。 「ふっ、人間ごときの武器など通用しません」 まるでせせら笑うようにそう告げた水神は正面から迫る矢を容易く握り止めてしまう――次の瞬間、突如水神の腕がバシッ、と凄まじい音を立てて破裂するように飛散した。 その威力は想定外であったのだろう、彩音や矢を放ったかごめすら愕然と目を丸くさせてしまうと、同様に驚き狼狽える水神がただれた肉の中から細長い骨を露出させる腕を見つめながら体をよろめかせた。 「バ…バカな。この体が矢ごときで…」 「さ、さすがかごめっ…だけど…」 「バチが当たらんじゃろか!?」 「まさかこんなに効くなんて…」 予想を遥かに上回る威力に感服しながらも動揺を露わにしてしまう。なぜなら相手は神さまかもしれないのだ。そんな相手の腕を吹き飛ばしたとなれば不安を感じずにはいられない。 だが今はそんなことを気にしている場合ではない。それを思い出すようはっと我に返った彩音はすぐさま末吉の元へ駆け寄り手を伸ばすと、同時に太郎丸の元へ戻った七宝が「いつまで寝とるんじゃーい!」と怒鳴り付けながら彼の頭を引っ叩いて目覚めさせた。 その時、 「ただでは…済ましませんよ…」 低く唸るような声を漏らしながら立ち上がろうとする水神の姿が視界の端に映る。それに焦燥感を抱いたかごめが「逃げるのよっ!」と声を上げるのを皮切りに、一同は一斉に部屋を飛び出すよう駆け出した。 水神がダメージに狼狽えている今のうちに距離を離さなければ。その思いを抱えて背後を見やる彩音の傍で、ようやく状況を知った太郎丸が廊下を駆けながら隣の末吉に振り返った。 「末吉、無事だったか」 「太郎丸さまも…」 「ありがとね、君のおかげで逃げ出せたよ」 「いえ…」 太郎丸に続くよう彩音が微笑みながらお礼を言えば末吉はそっと謙遜の様子を見せてくる。 すると彩音の隣を走るかごめが、なんだか不思議そうにじっと末吉の顔を見つめ始めた。 「…もうお面取っていいのよ」 「取っております」 「か、かごめ…」 失礼とも思えるかごめの発言に彩音は思わず苦笑を漏らしてしまう。確かに末吉の顔立ちは質素でお面と似ていたため、かごめの気持ちが分からないでもない。 そう考えてしまう彩音は慌てていかんいかん、と思考を振り払うと、すぐさま気持ちを切り替えるべく辺りを見回した。 ひとまずは距離を稼ぐに徹するのも間違いではないが、この社にいる以上は水神に狙われ続けるだろう。せめて太郎丸たちだけでも早く外へ逃がさなければ…そう考えては社の周囲の渦巻き荒れる湖へと視線を向けた。 するとその様子に気が付いた七宝が彩音の意図を悟ったのだろう、すぐに否定するような声を上げてくる。 「水を渡っては逃げられん」 「そうだよね…せめて、水神に見つからないところに逃げないと…」 「どこか隠れるところは…」 彩音が言うのに続いてかごめが視線を巡らせながら呟く。 犬夜叉たちが来るまでは自分でなんとかしなければならない。そんな責任感を抱くとともに、彩音は傍で勢いよく渦を巻く水面を見つめながら胸の奥に大きな不安感を広げていた。 (犬夜叉…水の中で気を失ってた…それに、弥勒も珊瑚も見当たらない。みんな…無事でいて…) 祈るような気持ちを抱えながら懸命に走り続ける。その時、かごめが「あそこに隠れましょ!」と声を上げながら遠くの建物を指差した。 それは小さな蔵のようなもの。それを目にした彩音はすぐさま頷くと、太郎丸たちと足並みを揃えてそこへと駆け込んだ。 ――そうしてそこに立て籠もった一同は大きな扉を閉め切り、息をひそめながら扉の裏側に張り付く。彩音は燐蒼牙を、かごめは弓矢を構えながら耳をそばだてていれば、次第にヒタ…ヒタ…という足音が聞こえてきた。 「近付いてくるぞ」 「しっ」 太郎丸が不安げな声を漏らすがすぐにかごめが黙らせる。 恐らく水神はここに彩音たちがいることを分かっているだろう。ゆえに今さら息を殺したとて意味などないのだが、それでも一同は息を飲み静けさを保ちながら、どうか遠ざかってくれという願いを抱えるほど緊迫していた。 ――そんな時、不意に外の足音が途切れるよう聞こえなくなる。立ち止まったのだろうか、そう思うほど静かな様子に痛いほどの鼓動を響かせながら身構えるが、それはいつまで経っても現れず一切の動向が分からない。 「こ…来ない…?」 変化のない様子を不審に思った太郎丸が扉の方を見つめながら呟く。 その時、頭上で微かにギ…と軋む音が聞こえてきた。なにかがいる気配、それを悟った一同が揃って薄暗い天井へと振り返った、その瞬間―― 「え゙え゙え゙え゙!?」 「い゙や゙あ゙あ゙!?」 あまりにも予想外すぎる光景が視界に飛び込んできては揃って大きく情けない悲鳴を上げてしまう。 一同が見たもの、それは壁と屋根の間にある格子から首をズ…と侵入させてくる水神の姿であった。 まさか音もなくそのような場所から文字通り首を突っ込んでくるなど誰が予想できただろうか。そのためあまりにも驚き焦った彩音が悲鳴を上げるままかごめに縋るよう手を掛けては彼女を揺さぶりながら必死の声を上げた。 「かごめ早くっ、矢っ、矢ーーっ!」 「きゃああああ!」 彩音の声を聞いてか否か、かごめはもうわけが分からないといった様子で悲鳴を上げながら矢を放ってやる。だが水神は格子から首を抜いて容易くかわしてしまい、矢が刺さった天井の梁の横からその白い顔を覗かせてきた。 「くくく…逃がしませんよ」 「くっ…みんな早く逃げて!」 「う、うん。え゙!? あ…開かない!?」 小さく唇を噛みしめた彩音の指示ですぐさま太郎丸が扉へ飛びつくが、その表情は瞬く間に焦りに満ちてしまう。どういうわけか、どれだけ力を込めようと扉がわずかにがたつくだけで一向に開く兆しを見せないのだ。 ――それもそのはず。なぜなら水神が蛇のように太く長く伸ばした体で、この蔵全体に幾重にも巻き付いているのだから。そうとは知らない一同はただ焦りを露わにし、懸命に扉を開けようと押し引きを繰り返す。 そんな姿を滑稽そうに見据えていた水神は小さな目を妖しく動かすと、眼下の彩音を確かめるようにしかと見つめ始めた。 「その白い髪飾り…噂で聞いたことがあります…お前が不死の御霊の持ち主ですね…」 (なっ…こいつ、なんでそれを…!?) 水神の言葉に耳を疑うような思いを抱えながら咄嗟にリボンに触れ後ずさる。 一体どこで聞きつけたのか、その“噂”とはどういったものなのか、そしてそれは美琴が生きていた時に蔓延したものなのか――様々な思いが瞬時に脳裏をよぎる中で警戒するよう身構えるが、対する水神は彩音を静かに見据えるだけですぐに牙を剥こうとはしなかった。 「すぐにでもお前を喰らってやりたいところですが…その前に小娘…お前は一番最初に殺します…」 一層声のトーンを落とし、憎悪を込めた瞳がかごめへ移される。どうやら先ほど腕を消し飛ばされたことに相当憤っているようだ。それが分かるほどの明らかな殺意を向けられたかごめは「くっ」と声を漏らしてすぐさま弓矢を構える。 だが、どこからともなく突如伸ばされた水神の触手のような腕に足を絡め取られ、その体がダン、と音を響かせるほど強く床に叩き付けられてしまった。 直後、鋭い鉾が彼女を目掛けて勢いよく振り下ろされる―― 「かごめっ!」 かごめが目を見張ると同時、強く声を上げた彩音が咄嗟にかごめへ飛び掛かる。その体がかごめをかばうように覆い被さった――その瞬間、なにかを破壊するようなドガ、という鈍い音、そして金属が激しくぶつかり合う凄まじい音までもが彩音たちの頭上すぐ傍で鳴り響いた。 「あ…」 「い…犬夜叉」 戸惑うままに顔を上げてみれば、目の前には銀色の髪を揺らす犬夜叉の後ろ姿。 ついに来てくれた、そんな思いで彼の姿を見つめるが、その背中越しに見える鉄砕牙は鉾を叩き払ったことで再び妖力を鎮められ、無力な錆び刀へと戻されてしまっていた。 それに彩音がわずかな不安を滲ませると同時、犬夜叉の姿を見とめた水神が鉾を握り締めるまま恨めしそうな表情を覗かせる。 「貴様…」 「ニセ水神が…本性現しやがったな」 錆び刀の鉄砕牙を手に怯む様子も見せない犬夜叉は吐き捨てるようにそう言いつける。その言葉にかごめと彩音は耳を疑うように眉をひそめた。 「(ニセ水神…?)」 (やっぱりあいつは本物の水神なんかじゃなかったんだ…!) 犬夜叉の言葉により、これまで抱いていたわずかな疑心が確信へと変わるような思いを抱く。それもそのはずだ、これまで大人しかった神が突然意味もなく一方的に村を襲い、生贄を求めてそれを喰らうなど通常あるはずがないのだから。 それを思いながら偽物であるという水神を見据えていれば、不意に振り返った犬夜叉が強く声を上げてきた。 「彩音!! かごめやガキどももケガはねえな!?」 「だ、大丈夫。私は平気…」 「あたしも…」 「今の今まで無傷だったんじゃが…」 彩音とかごめが答えるのに続くよう、犬夜叉が勢いよく蹴破った扉の下からたんこぶを膨らませる七宝たちが顔を出してくる。どうやら扉のすぐ裏にいたため、そのまま下敷きにされてしまっていたようだ。 それに一同が振り返っていた時、頭上でズ…と重く這うような音が鳴らされる。それにはっとするようニセ水神の方へ向き直れば、それは静かに壁の向こうへ姿を消そうとしていた。 「逃げるかてめえ!」 犬夜叉が怒号を上げるが構わず、ニセ水神はあっという間に蔵を離れていく。このままでは見失ってしまう、そう感じた犬夜叉が即座に蔵を飛び出して駆けるが、周囲には荒れる湖が広がるだけですでにニセ水神の姿は見えなくなっていた。 「ちくしょう、どこ行きやがった」 廊下に足を止めた犬夜叉が周囲を見回しながらたまらずぼやくような声を漏らす。 次の瞬間、湖から勢いよく飛び出してきた触手のような腕が犬夜叉の足を絡め取り、瞬く間に彼を水中へと引きずり込んでしまった。それだけではない、すぐさま逃れようと水面でもがく犬夜叉の体を勢いよく縛り上げ拘束してみせる。 「くくく…私をニセ者と言いましたね…」 「くっ…」 不意に背後から聞こえてきた声に歯を食い縛りながら振り返れば、蛇のような太い体で犬夜叉を拘束し嘲笑うニセ水神が高々とその身を伸ばしていた。対する犬夜叉は抵抗するようにその体を掴み込み、ニセ水神を鋭く睨み付ける。 「ああ聞いたぜ。神器の鉾さえぶん取れば、てめえはただの下っ端の精霊だとなっ」 「ならば取ってみなさい!」 小馬鹿にするように、吐き捨てるように言う犬夜叉の言葉に水神は勢いよく鉾を突き込んでくる。その瞬間犬夜叉は拘束されながらも思い切り体を逸らすことでそれを交わしてみせたのだが、代わりに鉾先を突き込まれた廊下の柱はワン、と大きな波紋を広げられた。直後、周囲の廊下やその上の建物がともに泡と化して瞬く間に溶け消えてしまう。 「くくく…今度はお前に当てます」 「けっ。やってみろ、その前にてめえのこの体…引き裂いてやる!!」 気迫のこもった剣幕を見せる犬夜叉がバキ、と指を慣らした直後、自身を拘束するニセ水神の体を勢いよく左右へ押し開いた。途端、ブチブチと肉が裂けるような音を立てられるほどの衝撃を与えられたニセ水神は怒りを露わにし、「おのれ!!」と声を荒げては犬夜叉を再び強く拘束しながら湖の中へと引きずり込んでしまう。 「うそっ…犬夜叉っ!」 「犬夜叉!」 蔵の陰に身を潜めていた彩音たちが弾かれるように犬夜叉の元へ駆け出すが、彼の体はあっという間に湖の底へと遠ざかってしまう。そうして彩音たちが廊下に手を突き覗き込む頃には、すでに犬夜叉を飲み込んでしまった水面が無慈悲に激しい渦を巻き無数の泡を吐き出しているだけであった。

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