19

突然背後から聞こえてきた弱々しい声。それにはっと弾かれるよう振り返った瞬間警戒するまま目を凝らせば、暗い影を落とす部屋の中に置かれた、浅い壺から伸びる曲がった幹の大きな花が見えた。 しかしそれはただの花ではない。大きく花びらを広げるその中心に、白く長い髪とひげを蓄えた弱々しい老人の首が備わっている。 「きゃっ…」 「な…なに…!?」 あまりに異質で不気味なその姿にかごめと彩音が短く悲鳴を上げる。だが老人の首は対照的に、どこか安堵を感じるようなか細い声で呟いた。 「人の声を聞くのは…何年ぶりか…」 「あ、あの…あなたも、桃果人に食べられて…?」 彩音はわずかに警戒心を残したまま近付き、かごめが持つ灯りに照らされる老人の首へ問いかける。その首は相当弱っているのか、しわだらけの青い顔を深く俯かせたまま悔やむような声を漏らした。 「不覚であった…あのような者に我が仙術を…」 「え…それじゃおじいさん仙人…?」 「恥ずかしながら…桃果人の師匠であった」 老人の言葉から悟ったかごめの問いにそんな答えが返ってきた途端、犬夜叉が勢いよく幹を掴み込んで「てめえ!」と声を荒げながら顔を迫らせた。それに慌てた彩音たちが犬夜叉を宥めようとするが、そんな声さえ振り切るほど怒りを露わにした犬夜叉は正気を疑うようにまくし立てた。 「仙人が聞いて呆れるぜ。なんだってあんな人喰い妖怪に仙術を教えた!?」 「奴は…桃果人は…妖怪ではない…本当にただの人間だったのだ…」 「!」 しわがれたか細い声でそう語る仙人に強く目を見開く。たまらず耳を疑い仙人を見つめるが、彼の痛ましい姿はその信じがたい話が事実なのだと思い知らせるようであった。 なぜただの人間であったはずの男が、妖怪のように人を喰らうようになってしまったのだろう。そんな疑念が一同の胸のうちへ広がったその瞬間、突如部屋の扉がドオオォン、と凄まじい音を響かせて突き破られた。 「へへへ、てめえら…こんなとこまで逃げてきやがって…」 どこか楽しむようにそう口にするのは桃果人。だが、その変わり果てた姿に強く心臓が跳ねるような錯覚を抱いた。 桃果人は先ほどまで確かにぶよぶよと太った人間の姿をしていたはず。だというのに、いま目の前で大きく裂けた口に笑みを浮かべるそれは、全身が固い岩のような姿をしていた。 まるで妖怪のような姿。恐らくは四魂のかけらの妖力を得始めたのだろう。それを悟り眉根を寄せる彩音の隣で、一層人間からかけ離れた存在となった桃果人を見据える犬夜叉は途端に吐き捨てるよう大声を上げた。 「けっ、こいつが人間だっただと!? 笑わせんな!」 「人間が妖怪化することだってあるのです。この男、よほど邪念が強かったのでしょう」 声を荒げる犬夜叉を諭すよう肩へ登った弥勒が告げる。その口ぶりから察するに、過去にも強い邪念を抱き妖怪となった人間がいたのだろう。それを思い知らされる彩音たちは一層強く顔をしかめ、シュー…とただならぬ呼吸音を鳴らす桃果人を見つめていた。 するとその様子に桃果人が耳まで裂けた口を疎ましげに開く。 「ごちゃごちゃうるせえなあ。おれはただ…強くなりたかっただけだよ!」 そう言い放つと同時に桃果人がバッ、と勢いよく杖を振るった瞬間、無数の長い棘を持つ大きな蔓のような植物がいくつも現れ襲い掛かってきた。その刹那、「危ねえ!」と声を上げた犬夜叉が咄嗟に彩音とかごめを抱えて飛び退こうとしたのだが、鞭のようにしなる蔓は彼の背中をザン、と斬り付けてしまう。 「い、犬夜叉っ!」 「くっ」 彩音がたまらず声を掛けると同時に犬夜叉は力なくその場に倒れ込む。 ただでさえ全身に無数のひどい傷を負わされているのだ。これ以上痛めつけられては彼の命が本当に危ない。そう悟った彩音は強く唇を噛みしめ、燐蒼牙を握りながら犬夜叉をかばうように前へ出た。 その視線の先で、桃果人は絶えずシュー…と不気味な音を漏らしながら彩音たちの様子に下劣な笑みを浮かべる。 「人間なんてくだらねえよ。弱くてずるくて、朝から晩まで泥だらけになって働いて、年とって死ぬだけなんてよ」 「……」 「親父もおふくろもそうしてくたばってった。おれは、そんなつまんねえ生き方したくなかった。それで、そこのバカ仙人に弟子入りしたってわけよ」 そう口にしながら桃果人は花となった師へ侮蔑的な視線を向ける。しかし仙人の首は申し訳なさからか言葉を失くし、反論することも諭すこともなくただただ力なく俯くばかりであった。 「何年か修行して、そこそこ仙術を覚えた頃、師匠の留守の間に巻物を盗み見てな。手っ取り早く仙人になるには…仙術を会得した、仙人の肉を喰うのが一番だと知ったのよ。だから…」 師である仙人を殺し、喰った。直接言葉にされずとも分かるその悲惨な経緯に彩音は顔を歪める。それでも桃果人は調子を変えることなく、深く項垂れる師の首を見つめるまま続けた。 「もっとも、最後の秘術…不老長寿の薬の正しい作り方だけは、そいつの頭ん中にあるらしい。だからそうやって、頭だけは生かしてやってるんだ」 「不老長寿の…薬…?」 覚えのある言葉に彩音が小さく復唱する。その時脳裏に甦ったのは、崖の下に生える大きな木に実った老人の首の話であった。 ――わしらの首は人面果と称されて…桃果人の不老長寿の薬となる… 「そんなもののために…あんたは何人もの人を殺してたってわけ…? あんただって同じ人間だったのに…それなのに、罪のない人たちを食べてんの!?」 「強い者が弱い者喰ってなにが悪い。蛇が蛙を喰うのと同じだろ」 「こいつっ…!!」 「やめろ…彩音…」 桃果人の態度とその言葉に激昂した彩音が燐蒼牙を引き抜こうとした刹那、犬夜叉から弱々しくもはっきりと制止の声を向けられる。それにグッ、と体を押しとどめて振り返れば、犬夜叉が血に塗れる傷だらけの体を重く起こし始めた。その姿にかごめが慌てて支えるよう手を伸ばす。 「犬夜叉、動いちゃ…」 「こいつに、おめえの理屈なんて通用しねえよ」 彩音を見やり、まるで下がっていろと言わんばかりにそう告げる犬夜叉。そしてその視線は、正面の桃果人へと注がれる。 「おれは半妖だからな。人間の体の弱さにはほとほと参ってるし…強くなりてえって気持ちも分かる…」 「犬、夜叉…?」 真っ直ぐに桃果人を見つめるまま真剣な瞳で語る犬夜叉の姿に小さく眉をひそめる。一体なにを言い出すのだろう、そんな思いを抱きながら見つめていたその時、 「だけどなっ、やっぱりてめえには虫唾が走る!」 突如張り裂けんばかりの力強い声で拒絶するように言い放つ。その姿に彩音は込み上げる安堵からわずかに表情を緩めるが、対峙する桃果人は表情こそ変わらないものの犬夜叉を嘲笑うような声を向けてきた。 「あ~? お前おれに説教すんのか、足腰立たねえくせによ」 「くっ…」 バカにするようなその物言いに、犬夜叉は小さく声を漏らしながらすぐ傍の壺に手をかけてゆっくりと体を立ち上がらせる。その姿はあまりにも弱々しく、見ていられないほど痛ましいもの。だがそのような状態になっても犬夜叉は屈せず、手元の壺をギュッ、と強く握りしめた。 「てめえなんかに…言ってやる言葉はねえっっ!」 そう言い放つと同時に白骨が詰め込まれたその壺を桃果人の顔面へ思いきり投げつける。すると反応に遅れた桃果人へそれが直撃し、激しい音を立てて割れた壺の中から無数の骨たちが大きく散らばった。 「(この外道に妖力が溶け込む前に…四魂のかけらを!)」 桃果人の視界がわずかでも塞がれたこの隙にと即刻駆け出し、へそにはめ込まれた四魂のかけらへと手を伸ばしながら飛び込む。その指先が四魂のかけらに触れそうになった――その直前、勢いよく振り下ろされた桃果人の岩の腕が犬夜叉の後頭部をガッ、と強く殴りつけ、その勢いのまま犬夜叉の体を払うよう弾き飛ばしてしまった。 「ぐっ!」 大きな壺に叩き付けられ思わず声が漏れるほどの衝撃に顔を歪めたその時、犬夜叉が衝突したそれがビシ、と悲鳴を上げて大きなヒビを走らせた。それも束の間、壺は激しい破壊音を響かせて弾けるよう割れてしまい、破片とともにその中身を大きく撒き散らした。 「なっ…く、首…!?」 突如目の前に広がった異様な光景に彩音が顔を青ざめさせる。 その言葉通り、中から飛び出し転がったそれは無数の人の首であった。恐らくそれらは桃果人に食べられた者たちの首。そしてそれを浸していたであろう大量の液体が床を侵食するように大きく広がった。 その光景に彩音とかごめは揃って言葉を失ってしまう。同時に、自身を取り囲むよう周囲に転がる首を見つめる犬夜叉もまた声を発することができずにいた。 「その薬をひとすくい飲まれよ」 不意に投げかけられる声。それは犬夜叉の傍に佇む仙人のもので、それを向けられた犬夜叉はたまらず「な…薬だと!?」と耳を疑うような思いで返していた。 すると仙人は項垂れるまま薬だというそれを見つめ、犬夜叉を説得するかの如く言葉を続ける。 「それは桃果人が作った、不老長寿の秘薬の紛いもの…だが…たちどころに傷を治すくらいの効き目はある。さあ、助かりたかったらそれを飲んで…」 「そ、そんなものっ…」 飲めるわけがない、彩音が咄嗟にそんな思いを口にしかけるが、それを遮るように「へへへ…」と笑みをこぼした桃果人が犬夜叉へ肯定の声を向ける。 「飲んでいいんだぜ、少しくらい元気な方がおもしれえや」 「ふっ…」 余裕そうに挑発する桃果人の言葉を嘲笑うよう犬夜叉が声を漏らす。そうしてすでに立ち上がることすら困難になりつつある体を鞭打ち、桃果人を鋭く睨み付けながらゆっくりと立ちはだかってみせた。 「誰が飲むかよ。こんな寝覚めの悪いもん…てめえなんぞと一緒にすんな!」 鬼気迫る表情で渾身の力を込めて言い放つ犬夜叉。その姿を目にした彩音とかごめはどこか安堵するような感覚に包まれ、強張っていたその表情をわずかに綻ばせた。 (やっぱり…犬夜叉の心は、れっきとした人間なんだ…) “完全な妖怪になりたい”――そう願ってきた犬夜叉は、言葉とは裏腹にいつだって慈しみを忘れていなかった。人間を助ける思いやりを持っていた。今もなお、変わらずに。 それに気付かされるような思いに、彩音は嬉しさのような温かな感情を抱いて、キュ…と手を握り締める。 だがそんな犬夜叉を馬鹿にするようせせら笑う者は、じっとその姿を見つめて無機質な表情のまま言い捨てた。 「へへへ、半妖…薬を飲まなかったこと…後悔するぜ」

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