19

風が吹き抜ける音が響く薄暗い石階段。それをずっと下った先にある木製の扉の向こう――そこに、ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していくの感じる彩音の姿があった。 (なんだろ…あったかい…お湯の、中…? でもこの匂い…お酒、みたいな…) ようやく匂いを認識できるほどに覚醒した頃、やけに体のしがらみがないような違和感に気が付く。その瞬間はっと目を覚ませば、すぐさま自身の体を抱くように隠して辺りを見渡した。 一体、気を失っている間になにがあったのか。彩音は全ての衣服を脱がされ、大きな酒風呂のような場所に浸けられていた。しかもそれは隣で未だ目を覚まさないかごめも同様。 そして視界の端には、着物を着た二足歩行の動物が大きな壺から酒を足している姿が見える。 「な、なにここ…どうなってんの…?」 知らぬ間に変わり果てた光景にたまらずそんな声を漏らすほど呆然としてしまう。 よく見れば動物は酒を足しているものだけではない。かまどで火を焚くタヌキ、いくつもの葉をすり潰すサル、包丁を研ぎ澄ますイタチと様々なものが各自作業に没頭しているようであった。そしてそれは、まるで料理をするための下準備をしているかのよう。 (…そうか…ここはお風呂なんかじゃない。きっと、厨房だ…) そして考えるまでもなく、食材は自分たち二人―― ようやく自分の置かれている状況を理解しては顔をしかめて後ずさりそうになる。その時、視線を向けた先――部屋の隅に、大きな壺が置いてあるのが見えた。それを目に留めた途端、体がビクッ、と震えを刻む。 (あれって…人の、骨…!?) 目を疑うような思いで見つめるもの、それは大きな壺に溢れんばかりに詰め込まれた人間のものであろう白骨の数々であった。恐らく今までここで調理され喰われた者たちの骨だろう。それを悟ってしまっては嫌でも考えてしまう。自分たちもこんな風になるのだろう、と。 しかしすぐさま首を振るい、負に傾く思考を掻き消した。 最悪の事態など考えてはだめだ。一刻も早く、絶対にここから抜け出して犬夜叉と合流しなければ。そう考えを改め決意を固めると、隣で意識を失ったままのかごめを強く揺さぶった。 「かごめっ。起きてかごめっ」 「彩音…え、ここは…!?」 「桃果人の厨房みたい…とにかく、すぐに逃げないと!」 目を覚まし当惑するかごめの手を強引に握り、すぐさま酒の湯を駆けていく。だが扉へ向かっていることに気付かれたのだろう、彩音が湯の縁に手を掛けようとした刹那に菜切り包丁や斧を掲げた二匹のサルが行く手を阻むように立ちはだかった。 その姿に思わず立ち止まった彩音は咄嗟に燐蒼牙を握ろうとするが、空をつかむ手に自身が一糸纏わぬ姿であることを思い出しては「このサル…!」と忌々しげにこぼしてしまった――その時、突如扉の向こうから必死さが伝わるほど慌ただしく荒々しい足音が一気に近付いてくることに気が付いた。 「彩音ー!」 その声が強く響かされると同時にドカ、と激しい音を響かせてドアが突き破られる。その衝撃に驚き怯えたサルたちが慌てて逃げ惑う中、外れた扉の向こうに現れたその人物に彩音はたまらず表情を緩めるほど歓喜の声を上げた。 「犬夜叉っ! よかった…!」 生きていた。それがなによりも嬉しく、彩音は思わず湯の縁に手を突いて身を乗り出すほど喜びを示していた。 だがその時、犬夜叉が突然「あ…」と声を漏らして固まってしまう。その様子に、表情に「ん?」と首を傾げてしまう彩音が犬夜叉を見つめ返せば、しーんと変な沈黙が一同を包み込む。 直後、 「あ゙っっ!?」 ようやく自分が堂々と裸体を晒していることに気が付いた彩音は大きな声を上げ、顔を真っ赤にしながらかごめとともに勢いよく湯の中へ身を隠した。と同時に、耳まで真っ赤に染めた犬夜叉もくる、と背を向ける。 見られた。思いっきり見られてしまった。いや、今のはむしろ自分から見せていたようなものだろう。それを思っては頭まで沸き立ちそうなほどの羞恥心に苛まれ、小さく縮こまりながら両手で顔を覆っていた。 するとその時、犬夜叉は深いため息をこぼしながらズル…とその場にへたり込んでしまう。 「(生きてた…)」 思わず胸中で漏らす、安堵の言葉。桃果人がすでに喰ったかのような口ぶりで話していたために表しがたいほどの焦燥感や怒りなどに苛まれていたが、あの言葉が嘘だと分かっては体の力が抜けてしまうほど一気に緊張が解けてしまった。 そんな彼の様子に気が付いた彩音ははっと表情を変え、すぐさまその背中へ寄り添うよう駆け寄ってくる。 「犬夜叉…すごい血…」 「けっ、こんなの掠り傷でいっ! さっさと着なっ」 彩音が治癒の手を伸ばそうとした途端、犬夜叉は背後の彩音を見ないよう顔を逸らしたままなにかを突きつけてきた。 それは犬夜叉が捕らわれていた部屋に投げ捨てられた二人の制服と燐蒼牙。わざわざ持ってきてくれたのだと知ると彩音は「ありがとう犬夜叉」と微笑みかけ、すぐさまかごめの元へと駆け寄りそれを渡した。 そうしてかごめがすぐに袖を通すのに続き彩音も着ようとしたその時、昨晩かごめが襟の隅に着けてくれた印――小さな犬のワッペンが目に付いた。それはかごめが“縁がある犬夜叉も殺生丸も犬でしょ”と言って採用したものなのだが、なんでそんな理由なのかと問い詰めようとした彩音の言葉は呆気なく流されてしまったのである。 そんな昨晩の他愛のない出来事を思い出しては、つい顔を綻ばせる。しかしそれもほどほどに、早く袖を通してしまおうと改めて制服を広げたその瞬間、思わず「あ!?」と大きな声を上げた。 「なんだ。どうかしたのか」 「制服が…破れてる…」 犬夜叉の戸惑うような声に制服を見つめるまま呆然と呟くよう返す。 両手で広げたそれは全面がバックリと口を開くほど敗れており、とても着られるようなものではなくなっていたのだ。恐らく蔓を叩き付けるように床へ倒してしまった際、彩音の制服までやられてしまったのだろう。 念のためかごめの方は大丈夫かと視線を送るが、どうやら彼女のものは袖などが微かに破れたり擦れたりしている程度で問題なく着られるようだ。 それには安堵したが、問題は自身のもの。制服以外に着るものもない彩音は、戸惑いながらもどうにかその制服で体を隠すことができないかと試行錯誤しようとした。 そんな時、突然犬夜叉から火鼠の衣をバサ、と投げ渡される。 「え…犬夜叉…?」 「それ着てろ、血だらけで気味悪いだろうけどなっ」 わずかに頬を赤らめながら横目にこちらを見る犬夜叉がそう言い捨てる。その姿に、彩音は小さく唇を結んだ。そして犬夜叉の血により赤黒く染まった衣をギュ…と強く抱きしめ、目線を合わせるように傍へしゃがみ込んで言う。 「気味悪くなんてない…犬夜叉の血なら、平気。ありがとう」 「……」 そっと小さく微笑みながらお礼を言えば、犬夜叉は合わせていた視線を静かに逸らしてしまう。どこか気まずそうに、むず痒そうにしながら。 * * * ゴオォォォ…と風の抜ける音が響く。無骨な岩壁に備え付けられた灯りが心許なく揺らぐ薄暗い階段の中腹で、壁に体を預けるよう深く座り込む犬夜叉がひどく疲弊した様子で静かに目を閉じていた。 「犬夜叉…だいぶ参っとるな」 「このケガです。本当は動かさぬ方が良いのだが…」 血で赤く染まった袖から顔を覗かせる弥勒と七宝が不安げに言葉を交わす。 桃果人によって元の大きさに戻された彩音たちとは違い、未だ術が解けず小さいままの二人はこうして身を潜めることが精一杯だ。そのため自分たちが乗る傷だらけの犬夜叉の腕に顔をしかめ、なにも助力できないことを歯痒く思ってしまう。 するとその時、こちらへ近付くヒタ…という小さな足音に気が付いた。 「一応外に出られそうなところは見つかったよ」 「歩ける? 犬夜叉」 そう声を掛けてくるのは道中で拝借した燭台を手にする彩音とかごめ。その声にわずかながら瞼を持ち上げた犬夜叉は二人の姿を見とめ、掠れるほど弱々しい声で問いかけた。 「外…見えるのか? 朝は…」 「ううん、まだ全然…でも、いまは犬夜叉の妖力が戻るまで逃げないと」 そう返しながら犬夜叉と目線を合わせた彩音は彼に肩を貸して立ち上がらせようとする。 ――本当は出口を捜しに行く前に、彼の傷を治癒するつもりであった。だがそれは彩音の体力を犠牲にする力。使えば当然彩音の行動が鈍くなるため、自分が弱っている今は使うべきではないと犬夜叉に拒絶されてしまい、彩音は腑に落ちない思いを抱きながらもその指示を飲むことにしたのだ。 だからこそ、せめて少しだけでも犬夜叉の力になれるよう、率先して出口を捜し犬夜叉の体を支えて歩いた。 そうして静かに歩みを進めた末、彩音たちが見つけたという出口のある部屋まで辿り着く。その奥にある大きな戸を開いてみると、確かにそこは外に通じており屋敷から出られるようではあった。 だが、そこは断崖絶壁の中腹。付近に足場のようなものはなく、崖を登ることもできそうになければ下は深い闇に覆われて地面など見えず、到底飛び降りることができるような場所ではなかった。 それを目の当たりにして、手すりに肘を掛ける犬夜叉は小さく乾いた笑みを浮かべる。 「…これか? 外に出られそうなところって」 「だめ?」 「ほかに出られそうなとこがなくて…」 困った様子でそう返すかごめと彩音に、犬夜叉は深く考え込むよう右手で顔面を押さえてしまう。必死に策を考えているのだろう、それが分かるほどしばらく無言を貫いては、顔を上げると同時に親指を立てた。 「よし、こうしよう」 「いやよ」 「私もいや」 「まだなにも言ってねえ」 「言われなくても分かる。どうせ私たちを逃がして一人で残る気なんでしょ? そんなの絶対いやだからね」 訝しげな視線を向けてくる犬夜叉へ同じような表情を浮かべながら言い返してやれば、どうやら図星だったようでむ、と口を結ばれる。その姿に呆れてため息をこぼしそうになった、その時であった。 「誰か…いるのか…?」 「!」

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