18

――箱庭の外。 誰もいない静かな部屋に鈍い足音が近付き、何者かの陰がタイル張りの床に大きく伸びる。それはゆっくりとした歩みで壁際の壺へ寄ると、木製の蓋を持ち上げながらその中を覗いた。 「腹ごなしの薬でも飲むかー。さっき喰った妖怪小僧のせいで、胸焼けがする」 そうぼやくのは犬夜叉を飲み込んでしまった桃果人。その言葉通り壺の中の薬を飲みに来たようだが、ふと、その視界の端になにやら淡く光るものが映り込んでいることに気が付き、「ん~?」と不思議そうな声を漏らした。そうして光の正体を確かめるよう歩み寄り、その重く大きな体を屈み込ませる。 途端、彼は目を丸くした。 「これは…でっかい四魂のかけらだあっ!」 肥え太った指で摘まむように拾い上げた光――それはかごめが身に着けていたはずの四魂のかけらであった。 どうやら彩音の予感通り、四魂のかけらは吸い込まれることなく箱庭の外に転がっていたようだ。それを運よく見つけた桃果人は固く不気味な無表情に歓喜の色を滲ませると、すぐさま着物を肌蹴させてべろん、とだらしのない大きな腹を露わにした。 「このちっちゃいのをへそに仕込んだだけで、刀を跳ね返す体になれたんだ。これで、鋼みたいな体ができるぞ。わはははは、得したなあ」 痛みを感じないのか、桃果人は躊躇うこともなく大きな四魂のかけらを自身のへそへギュッ、と押し込んでしまう。そうして昂る気分そのままに、大きな壺を持ち上げて中の薬液を一気に喉の奥へと流し込んだ。 ――その頃、体内では小さくされた犬夜叉が肉壁に爪を立て、必死に出口を目指して食道を登り始めていた。 「あの野郎、ここから出たらぶっ殺す!」 忌々しげにそう声を荒げた――直後、頭上から突如ゴゴゴゴ…という地響きのような轟音が聞こえてきた。それに「ん゙!?」と短い声を上げた次の瞬間、大量に流し込まれた薬液が凄まじい滝のように押し寄せてきて、逃げる暇もなく巻き込まれた犬夜叉はあっという間に胃へと押し戻されてしまった。 「ち、ちくしょう! なんだこりゃ薬くせえっ」 ひっくり返った体を即座に起こしてはその臭いに顔を歪める。人以上に鼻が利く犬夜叉にとって、このような閉鎖空間で頭から大量に被ってしまったそれは相当堪える臭いなのだろう。 だが、その時不意に聞こえたジュー…というなにかが焼けるような音。それに思考を遮られるまま音源へ振り返れば、そこには胃液に浸かった人骨のようなものがドロドロに溶け始める嫌な光景が広がっていた。 ――その胃液には、自身も身を浸している。 それを自覚してはよぎる未来に眉をひそめ、たまらず目を据わらせてしまいながら肌に滴る薬液に嫌な汗を混じらせた。 「こりゃ…ゆっくりしてられねえな。中からぶち破るか!」 一か八か、そんな思いで口にしながら指を慣らすと、すぐさま「でーい!」という掛け声とともに肉壁へ思い切り爪を叩き込んだ。だがそれはゴムのように柔らかく、犬夜叉の体をバウン、と容易く弾き返してしまう。 「ちくしょう桃果人(こいつ)の体…中も外もぶよぶよしやがって…」 即座に上体を飛び起こしては苛立ちを露わに恨み言をこぼした――その時。突如自身の妖気が大きくざわつき始め、ドクン、と強い鼓動が全身を駆け巡るような衝撃を感じた。 覚えのある、嫌な感覚。 「(爪が…)」 途端に抱く焦燥感に駆られるまま自身の手を見てみれば、そこにあったはずの鋭い爪が人間のような丸みを帯びたものへと変貌しているのが分かった。それだけではない、白銀の髪にも夜の闇のような漆黒が広がりを見せている。 「(しまった! 妖力が消える! 人間の体になったら溶けちまう…どうする!?)」 無慈悲にも迫りくる非常な現実に焦燥感を抑えきれず、いくつもの冷や汗を額やこめかみに滲ませていく。 これまでは妖怪特有の強さから消化液に耐えていられたが、人間になってしまえばそれも長くは持たないことが明白だ。それを分かっているからこそ焦りは幾何級数的に増し、落ち着かない視線が周囲の溶かされていく骨たちを無意味に捉えてしまう。 そして視線の先のそれらは、徐々に原型を失い始めていく。 早くここから出なければ、自身もあれらと同じ末路を辿ってしまう。そんな思いが嫌でも脳裏をよぎり、思考さえまとまらないほどの焦燥感に唇を噛みしめた。 ――その時、突如犬夜叉の傍の肉壁にボウ…と鈍い光が滲んでいることに気が付いた。 「光!? 肉が…透けているのか。うわっちちちっ!」 光りを滲ませる肉壁に触れた瞬間、手のひらに痛みさえ覚えるほどの熱を感じて思わず悲鳴を上げながら飛び退いてしまう。途端に確かめるよう手のひらを見れば、そこは焼けたようなくすんだ色に染まっていた。 「ちくしょう…痛みを感じるようになってきやがった」 手のひらにジリジリと残る痛み。それにより自身が最も恐れる弱体化が迫っていることを思い知らされては、一層脂汗を滲ませて眉間のしわを深くさせていた。 ――その一方で、元の部屋へ戻った桃果人は腰を下ろし、従者の動物たちに自身を扇がせながら傍に落ちていた錆び刀の鉄砕牙を不思議そうに見回した。 「ふうーむ。どう見てもただの錆び刀だ。あの小僧がひと振りしたら、刀が化けたんだがなあー」 そう口にしながら、変化させることなどできるはずもない桃果人は錆び刀のままの鉄砕牙を無意味にブン、と振るう。 その時、彼の腹の中では「鞘でぶち抜いてやる!」と意気込んだ犬夜叉が鉄砕牙の鞘を両手に握りしめ構えていた。鞘ならば強度もあり長さもあるため、この肉壁を突き破れるかもしれないと考えたのだろう。そしてそれを実現すべく、渾身の力で勢いよく正面の肉壁を突き込んだ。 だが、それは桃果人にとって微かにチク…と感じられるかどうかといった小さな痛みでしかなく。この分厚い腹の肉を突き破るにはあまりにも力不足のようであった。 それでも桃果人には確かに伝わったのだろう。その微かな痛みに気が付いた彼は「うるさい!」と声を上げながら痛みを感じた場所を強く叩き付けた。するとその衝撃は肉壁の傍にいた犬夜叉へ直に伝わり、彼の体を胃液の中へと容赦なく弾き飛ばしてしまう。 「あちっ!」 胃液が体に触れた途端ジュッ、と響く嫌な音とともに肌を焼く鋭い痛みと熱が体中に広がる。 体はかなり人間に近付きつつある。だがこの胃液から逃れる術もなく、犬夜叉は体を包み込むひどい痛みに深く顔を歪ませていた。 ――その時、ジュー…と鳴り続ける嫌な音に微かな違和感を抱く。 「衣が溶ける!」 違和感を抱いた音の元へ目を向けてみれば、火に焼かれても平気であるはずの火鼠の衣がボロボロ…と溶け始めていることに気付かされる。犬夜叉が妖力を失っている影響が衣にも現れているのだろう、衣はいつしか多くの焦げ跡や大きな穴を作りその範囲を広げ始めていた。 「(ちくしょう…これまでか…)」 苦悶の表情を浮かべ、認めたくない死を覚悟しそうになった――その瞬間、手の中の鞘がドクン、と強く脈を打った。突然のことに目を丸くして見やれば、鞘はドクン、ドクン、と確かな鼓動を何度も響かせる。 「鞘が… (鉄砕牙を呼んでいる!! 近くにあるのか!!)」 鞘の強い鼓動にそれを悟っては「助かるかも知れねえっ!」と確信にも似た思いを口にして体を奮い立たせる。そして鞘を握り締めれば、それに伴うように桃果人の前に転がされた鉄砕牙がピク…と反応を見せ、わずかにその身を浮かび上がらせた。 「来い鉄砕牙!」 鞘を肉壁の先へ向けるように構えた犬夜叉が声を張り上げる。その瞬間独りでに動き出した鉄砕牙はギャン、と勢いをつけ、鈍い音が大きく響くほどの威力で桃果人の腹のど真ん中を強く突き込んでみせた。 思いもよらないその衝撃に桃果人が「かは…」と息を漏らす。だが四魂のかけらの力で頑丈な体を手に入れた彼の腹を破ることはできず、鉄砕牙は虚しく音を立てて再び床に転がってしまった。 「は…跳ね返された!?」 これならば成功する、そう確信していた犬夜叉は想定外の事態に思わず驚愕の表情で立ち尽くす。 だが、無敵かと思われた桃果人に異変が起こった。腹を破られることはなかったものの、勢いよく、それも鋭く腹を突かれた彼はあまりの衝撃に顔色を青くしていき、「うぶ…」とくぐもった声を漏らす。それに伴うように、突如犬夜叉の周囲の胃液がゴボボボ…と渦を巻くようにせり上がり始めた。 それと同時、「ゔ。ゔ。ゔ」と断続的に声を漏らす桃果人は両手で口を押さえたまま立ち上がると、覚束ない足取りで数歩よろめくように足を踏み出した――次の瞬間、抑えきれなくなったものは大きく開かれた口から勢いよく吐き出され、大量の液体とともに元の大きさに戻った犬夜叉がドシャ、と床へ投げ出された。 「ゔえ゙え゙え゙え゙え゙え゙…」 「くっ…この野郎!」 大量の嘔吐に悶えるよう床に転がる桃果人の腹へ、犬夜叉は即座に拾い上げた鉄砕牙を躊躇いなく叩き込んでみせる。だが牙の鉄砕牙で傷ひとつ与えられなかった腹が錆び刀の攻撃を通すはずがなく、やはりダメージを一切与えられないままボン、と大きく弾き飛ばされてしまった。 直後、桃果人は吐かされたことに腹を立てたのか、血走った目を見開いて「おのれ!」と怨みの声を上げる。それに顔を上げるが早いか、桃果人は両手を広げながらその重い巨体をバウン、と跳ね上げた。 「!」 自身に被せられる黒い影に目を見開いた次の瞬間、わずか一瞬の反応に遅れた犬夜叉の体を、何倍もの重さを誇る体がドオオォォンッ、と凄まじい轟音を響かせて押し潰してしまった。その衝撃は計り知れず、全身にそれを受けた犬夜叉は「ぐっ!」と短い声を漏らし、はち切れんばかりに目を見開きながら込み上げる血を噴き出す。 そうして床までも破壊されたその場が完全に静まり返ると、桃果人はようやくその体を起こして下敷きにした犬夜叉を見やった。どうやら意識を失ってしまったらしい犬夜叉は力なく横たわっており、桃果人はそんな彼の先ほどとは違う姿に「ん゙~?」と唸るような声を漏らす。 「こいつ…さっきの妖怪小僧か?」 そう口にする桃果人は漆黒に染まった犬夜叉の髪を掴んで持ち上げながら不思議そうにその顔を覗き込む。桃果人に吐き出された直後、犬夜叉は完全な人間の体となっていたのだ。 まるで別人とも思えるその姿をまじまじと見つめていた桃果人はなにを思ったか。まだ息のある犬夜叉にとどめを刺すでもなく、そのまま引きずるようにして別の部屋へと運び出してしまった。 ――やがて、「う…」と小さな呻き声を漏らした犬夜叉が目を覚ました時。その目に映ったのは何十本もの茨のような蔓に雁字搦めにされた自身の体であった。 その蔓は天井から床まで大きく広がっており、一つの大きな幹のように絡まりまとまって犬夜叉を包み込んでいる。そのうえ蔓は犬夜叉の腕ほどの太さがあり、無数の棘も相まって引き千切るのは容易ではないことが一目瞭然であった。 それに言葉を失くしていれば、犬夜叉の様子に気が付いたらしい桃果人が顔を振り返らせて「起きたか」と抑揚の少ない声を向けてくる。それに犬夜叉は身を乗り出すほどの勢いで吠え掛かった。 「てってめえっ。なんだこれは!?」 「お前半妖だったんだな。半妖の肉は珍しいからな、血を絞ってから塩漬けにして喰ってやる」 桃果人は犬夜叉の問いに答えることなく、自身の計画を口にしながらとても大きな壺を犬夜叉の傍へ置いた。恐らくその壺で犬夜叉の肉を漬けようと考えているのだろう。 「くっ…結局、お前は喰うことだけかっ」 呆れと屈辱と苛立ちが綯い交ぜになったような感情で今にも殴り掛からんばかりに身を乗り出そうとする。だがその瞬間蔓に備わった大きな棘が犬夜叉の腕をザン、と切りつけて深い色をした鮮血を溢れさせた。 「好きなだけ暴れろ。棘が血を吸いやすくなるからな」 「ち…ちくしょう」 怯む様子なく余裕を崩すこともない桃果人の言葉に歯を食い縛るほどの悔しさを滲ませる。その時、壺の陰に隠れていた桃果人のへそのかけらが垣間見え、ギク、と嫌な感覚が背筋を撫でた。 「お前…それ…誰から…とった?」 「誰から? ばーか拾ったんだよ。おれん家で拾ったんだからおれんだ」 「……」 ひどく胸がざわつく犬夜叉の問いに桃果人は平然とした様子で返してくる。 あの四魂のかけらは間違いなくかごめが持っていたものだ。だが桃果人の様子を見るに嘘は言っていないだろう。それだけは間違いない。 ならば、かごめたちと桃果人は接触していないことになる。 それにわずかな安堵を覚えかけるが、それがこの屋敷に落ちていたということは待たせているはずの者たちがここに来ているということになる。四魂のかけらを取られただけでも厄介なのに、もし桃果人が不死の御霊のことを知っており、彩音の中にそれが宿っていることを勘付かれでもすれば… そんな最悪の事態が脳裏をよぎっては、不安や心配の念が頭の中を支配するように巡り続ける。それに伴い、犬夜叉の表情は一層の焦燥の色に染め尽くされていった。 「(捕まるんじゃねえぞ、彩音っ…おれの妖力が戻るまで…)」

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