「すごい霧…」
「だいぶさかのぼりましたな」
「でも…なにも見当たらないね」
川に沿って歩き続け、どれくらい経っただろう。次第に濃さを増していく霧の中を進み続けるが、特に変わったものなどは見えてこない。周囲の景色の変化さえ見つからなかった。
一体このような道がどこまで続くのか。そんな思いが一行の胸のうちに浮かび始めた頃、突然どこからともなく「おーい…誰かー…」という男のか弱い掠れ声が響いてきた。
「え゙!?」
「声…」
それを聞き取った七宝とかごめが小さく声を漏らした時、ようやく一行の前方に大きな影が見えてくる。
それは幹が歪んだ一本の大きな木。しかしそれ以外に変わったものはなく、辺りに人影も見えない。それでも「おーい。おおおーい」と誰かを呼ぶ弱々しい声は絶えず発せられ続けていた。
よく聞けば、それは自分たちの前方から聞こえてくる様子。まさかあの木からだろうか――そんな疑念が一行の胸中に広がるにつれ、次第にその足は歪んだ大きな木へと向けられた。
そうして木との距離を縮めていけば、霧に霞んでいたその全貌が鮮明になっていく。それを覗き込むようにして見上げた瞬間、
彩音たちは眼前に広がった衝撃的な光景に大きく目を見開いた。
「くっ、首がなっとる!」
「え、な、なにこれ!?」
「全部人の首…!?」
七宝に続き、かごめと
彩音が揃って怯えの声を上げる。その視線の先には大きく伸ばされたいくつもの枝の全てに無数の首がなっているという、異様で不気味な光景が広がっていた。よく見ればそれらの首は先ほど川に流れてきた武士のような男だけでなく、農民のような男や老人、中には女の首もいくつか見受けられる。
そんな首たちの複数が、先ほど聞こえたものと同様に「おーい。おおーい」と声を上げているようだ。
「話を聞きましょう」
「えっちょっと、弥勒っ」
様子を見兼ねた弥勒が怯えることもなく木へ歩み寄っていく姿に
彩音が驚いて呼び掛ける。だが弥勒は「大丈夫です」と返し、比較的近い場所になる老いた首へ声を掛けた。
「もし…どうなさいました? あなた方は一体…」
「仙人に…喰われました」
「仙人だとお?」
「妖怪じゃなくて?」
か細く返してくる首の声に犬夜叉とかごめが揃って怪訝そうに問う。
これまで人が妖怪に喰われるという話ならいくつも聞いたことがある。だが首の話はそうでなく、“仙人”に喰われたというのだ。そのような話は一度も聞いたことがなく、つい耳を疑わずにはいられない。
そのため一行は彼の話をすぐに信じることができなかったのだが、首は言葉を覆す様子もなく、目を伏せたまま弱り切った表情で静かに語り始めた。
「わしらはみんな、この世に疲れ…村を捨ててきた者たち…この山は、仙人の住むこの世の極楽だと聞いて…そして…
桃果人と名乗る仙人に…喰われました…」
「けっ、ばっかじゃねーのかおめーら。甘い話に乗せられやがって」
「ちょ、犬夜叉っ」
話を聞くや否や即座に卑下してしまう犬夜叉を
彩音が慌てて咎めようとした、その瞬間、すぐさま錫杖を握り直した弥勒が犬夜叉の頭を容赦なく殴りつけた。
「それが気の毒な方に対する口の利き方ですか」
「すみません」
「本っ当にごめんなさい」
「いえ…」
ぺこぺこと謝るかごめに続いて、
彩音が犬夜叉の頭を押さえつけながら同じくぺこぺこと頭を下げる。殴られたうえに無理やり頭を下げさせられる犬夜叉はとてつもなく不服そうな顔を見せたのだが、そんな彼に
彩音は“あんたが悪い”と言わんばかりの目を向けて牽制した。すると二人は次第にじとー、と目を細め、無言の睨み合い始めてしまう。
そんな姿に七宝が呆れのため息をこぼす中、首を見つめるかごめが恐る恐るといった様子で問いかけた。
「あの~…助かる方法ないんですか?」
「わしらはもう…だが…まだ食われていない者たちがいるはず。せめてその者たちだけでも…」
男の首が絞り出すような声でそう懇願してくる。
どうやらこの首たちと同じ運命を辿ろうとしている人たちがどこかにいるようだ。そうと分かればその人たちを放ってはおけない。そんな思いを胸に抱いたその時、不意に頭上からカラカラカラという軽い音が聞こえてきた。
「ん!?」
「なんか落ちてきて…えっ!?」
「きゃっ!」
一同が視線を上げた直後、力なく地面に叩き付けられてボン、とわずかに跳ね上がるそれにかごめが短く悲鳴を上げる。その間にもそれは地面へ乱雑に降り注ぎ、一同の前に無残な姿を晒していた。
「ひっ…人の骨じゃ」
「まだ新しい…」
「なんでこんなとこに…」
突如現れたあるはずのないものに
彩音は思わず顔を引きつらせて冷や汗を浮かべてしまう。眼前に広がった骨は弥勒の言葉通り、まだわずかに湿り気を残しているような真新しいものであった。
なぜこのようなものがこんな人気のない崖の谷間に降ってきたのだろう。そんな思いから視線を上げようとするも、それは叶わなかった。というのも、突然木の根がシュル…と独りでに動き出して骨を絡めとり、あっという間に幹の中へ取り込んでしまう光景を見せられたからだ。
信じがたいそれに目を放せないまま言葉を失っていれば、やがて目の前の木の枝にジワ…となにかが浮かび上がってくるのが分かる。
「な…なに、あれ…」
「その骨の主の顔です…わしらの首は
人面果と称されて…桃果人の不老長寿の薬となる…」
老いた首が儚げにそう語る。と同時に、それを耳にした犬夜叉が「けっ」と不躾に吐き捨てた。直後、
「どう聞いてもタチの悪い妖怪じゃねえかよ」
「えっ、ちょっと犬夜叉!?」
悪態づくように言い捨てながら躊躇いなく地面を蹴り跳び上がってしまう彼の姿に
彩音が目を丸くする。まさか相談もなにもなくいきなり飛び込んでいこうとするとは思ってもみず、同様に驚きを隠せないかごめと弥勒までもが
彩音に続くよう声を上げた。
「待ってよ!」
「我々も一緒に…」
「てめえらいちいち崖の上まで運んでたら、日が暮くれちまわあ! そこで待ってろ!」
そう言い放つ犬夜叉は足を止めることなく瞬く間にその姿を小さくする。
普段ならば急いでいようと無理やり背中に乗せるなりして行動をともにするというのに、どうしてか今日の犬夜叉はそれすらしないままどこか焦りを垣間見せるように先走っていってしまった。
一体どうしたのだろうか。たまらずそんな不安を抱きながら霧の中へ消えていく姿を見つめていれば、突然肩へ飛び乗ってきた七宝がどこか緊張感を持った表情で耳打ちしてくる。
「日が暮れる前に終わらせたいのではないか?」
「え? なんで…?」
「今夜は朔の日じゃ」
汗を滲ませながら呟くように言う七宝。その言葉を耳にした途端、犬夜叉の普段とは違う様子への合点がいくと同時に、ドキ…と嫌な鼓動が響いた。
朔の日――いわゆる、新月の日。犬夜叉が全ての妖力を失い、完全な人間へと変わり果ててしまう日だ。半妖が人間になることは弱体化といっても過言ではない。そんな状況でまた妖怪に襲われるようなことがあっては、今度こそ命を落としてしまう可能性だって否めないだろう。
だからこそ、犬夜叉は妖怪が関わっているかもしれないこの問題を日のあるうちに片付けたいのだ。
それをようやく理解した
彩音は小さく唇を噛みしめ、力不足の自身へやるせない気持ちを抱えながら不安げな顔を上げた。
犬夜叉が駆けていった、崖の上方へ。
(お願い…どうか人間になる前に…犬夜叉が危ない目に遭う前に片付いて…!)