18

風が細く吹き抜ける崖の壁面に建つ屋敷の中。丸々と太った大男は深く座り込み、従者と見られる着物姿の動物たちに扇がれながら悠然と休んでいた。そして差し出される桃のような木の実を手に取り、ばくっ、とおもむろに喰らいつく。 「ふう。たまには木の実も食わんと胸焼けするな」 仮面のように表情のない大男、桃果人がどこか息苦しそうにそう呟いた――次の瞬間、目の前の扉がガシャーン、と激しい音を立てて勢いよく蹴破られた。 そんな突然の出来事に従者たちが驚き慌てふためくが、それとは対照的に桃果人はなにひとつ変わらない表情をのっそりと眼前の人物へ向ける。 「ん~? なんか固くてまずそうな奴が来た」 「てめえか仙人てえのは、退治しに来たぜ」 眉を吊り上げ物怖じすることもなく立ちはだかる人物、それは崖の下から登ってきた犬夜叉であった。早く済ませたい気持ちが表れているのだろう、犬夜叉は笑みを見せることもなく威嚇するように指をバキッ、と慣らして桃果人を睨みつける。 だが、桃果人はそれに怯む様子もなければ挑発する様子も見せなかった。ただ深淵のように真っ黒な、深い闇を湛えた瞳を静かに向けている。 そんな桃果人を見定めるよう捉え続けていた犬夜叉は、その巨大な体に対して呆れを露わに目を据わらせた。 「なるほどよく太ってるな。仙人を騙って、人を喰いまくってるだけのことはあるぜ。観念しな桃果人!」 勢いよく鉄砕牙を引き抜いては相手に身構える隙も与えないほど躊躇いなく斬りかかる。しかし鉄砕牙をその大きな腹へ叩き込んだその瞬間、与えた衝撃全てがボン、という鈍い音とともに大きく跳ね返されてしまった。 「なっ…!? (に…肉が鉄砕牙を跳ね返した!?)」 まさか生身の肉体に鉄砕牙が跳ね返されるなど思ってもみなかった犬夜叉は強く目を見開き驚愕と焦燥の冷や汗を浮かべる。だが対する桃果人には動じる様子もなく、腹の肉を揺らしながら「いててて…」と小さく声を漏らすだけであった。 どうやら攻撃が全く効いていないらしい。それが分かるほど悠長な様子を見せる桃果人は傍に置いていた杖を手に取ると、のっそりとした動きで立ち上がって不気味な瞳をこちらへ向けてきた。 「ばーか。どこの妖怪だか知らんが、仙人に勝てると思ってるのか」 「!?」 桃果人が言い切るや否やバッ、と勢いよく杖を振るったその瞬間、桃の花がその軌道を描くようにいくつも浮かび上がった。それは花粉のような粒子とともに瞬く間もなく数を増やすが、犬夜叉にダメージを与えるわけでもなければなにかの状態異常を引き起こすわけでもない様子。 それによりただの無力な花だと察した犬夜叉は途端に桃果人を睨視すると、気に食わないといった様子を露わにして強く吠え掛かった。 「てめえ、目くらましのつもりか!?」 「その花を、よーく見てみろ」 桃果人がまるで暗示のように低く告げた――その瞬間、犬夜叉の周囲を舞っていた小さな花が突然バッ、と拡大した。それは瞬く間に犬夜叉を超えてしまうほど巨大化し、視界を埋め尽くさんばかりに膨らんでいく。 「花がでかく…  !」 突如花の向こうから目を疑うほど大きな手がグワッ、と襲いくる。それに目を見張るのが早いか、犬夜叉の体は呆気なくその手に握られ否応なく持ち上げられた。 「ばーか、お前が小さくなってるんだよ」 目の前に現れる巨大な桃果人の顔が胡乱げな笑みを浮かべながら犬夜叉を嘲笑うようそう告げる。 どうやらあの花は術の一種であったようで、犬夜叉は気が付く間もないほどの一瞬のうちに人形のように小さくされてしまったらしい。 不意を突くようなその技にたまらず「くっ」と悔しげな声を漏らした犬夜叉はすぐさま桃果人の手から抜け出そうと腕に力を込める。だが桃果人が逃亡を許すはずはなく、突如大きな口を開いては犬夜叉をその中へ容赦なく放り込んでしまった。 「わっ、ちくしょう!」 すぐさまべろん、と巻き込んでしまう大きな舌に体勢を立て直す隙も与えられず大きな声を上げる。そんな彼があっという間に喉の奥へと転がされると、直後、桃果人はごっくんと大きく喉を鳴らしていとも容易く犬夜叉を腹の中へと納めてしまった――
* * *
その頃、屋敷の外では彩音たちが風船姿に化けた七宝に乗ってゆっくりと犬夜叉の元へと向かっていた。 足手まといになってしまう可能性も考えたが、なんといっても今日は朔の日。微力であろうとも加勢して少しでも早くことを片付けた方がいいだろうと判断したのだ。 「頑張って七宝ちゃん」 「ごめんね。もう少しだから」 「意外と力持ちなんですね」 それぞれが激励の言葉をかける中、その七宝はというと大量の汗を浮かべながら「ひっ。はっ。ひっ。はっ」と規則的な呼吸を繰り返しながら体を浮かばせていた。そんな彼を労わるように何度か撫でてあげながら、彩音は不安げな表情を頭上の屋敷へ向ける。 (犬夜叉…無闇に正面から殴り込んでなければいいけど…) 普段から正面突破をしがちな彼だ、朔の日という焦りを抱えている今は一層なにを仕出かすか分からない。必ず考えるよりも先に行動を起こしてしまうだろう。そんな犬夜叉に対して、相手が戦略的であったり四魂のかけらを使っていたりなどすれば相当厄介だ。 それが分かっているからこそ、胸のうちの不安は治まることなく膨らみ続けていく。 そんな落ち着かない気持ちに拳を握り唇を噛みしめていれば、差し伸べられた弥勒の手が彩音の固く結ばれた手に優しく重ねられた。 「彩音さま、大丈夫です。犬夜叉を信じましょう」 「弥勒…」 「さあ、私の胸に来なさい。不安を和らげてあげましょう」 「そんなこと言って、また彩音にセクハラするつもりじゃないの」 両手を広げてみせる弥勒へかごめが容赦なく告げる。 本来ならば“セクハラ”など戦国時代の人間には伝わらない言葉だが、あまりにも弥勒がその行為を繰り返し、そのたびに“セクハラするな”と言い続けたせいか一行は皆その言葉の意味を覚えてしまっていた。そのため弥勒は平然とした様子のまま首を横に振り、潔白を示すように両の手のひらをこちらへ晒してみせる。 「そんなことはありませんよ。私はただ彩音さまを安心させようと…」 「すまん」 弁解しようとする弥勒の声を遮った七宝の声がぽつりと響く。同時に、三人の表情がひどく凍りついて「「え゙!?」」という声が短い漏れた。 明らかに嫌な予感を抱かせるその一声。それに耳を疑いかけた次の瞬間、風船のように浮いていた七宝の体が突如重力に従って勢いよく落下を始めてしまった。 「すま――――ん!」 「「え゙え゙え゙え゙え゙え゙え゙!?」」 七宝の謝罪の声に彩音とかごめの悲鳴が混ざり合う。その間にも自由落下現象により体が浮き上がりかけた――その時、弥勒が彩音に錫杖を押しつけてはその勢いのまま彩音とかごめを両脇に抱え込んだ。 「降りましょう!」 そう声を上げると同時、弥勒は七宝の体から崖に向かってバッ、と飛び出してみせる。その瞬間彩音は“降りるって一体どこに”と不安を抱かされたが、それはすぐ下に見つけた深い茂みによって見事に解消された。 ――しかし安堵の間もなく。どういうわけかその茂みの下はずいぶんと深かったようで、三人は落下の勢いを殺し切れないまま茂みの中へズボ、と沈み込んでしまった。 「うっ」 「いたっ」 ドッ、と強く尻餅をついてしまう衝撃に彩音とかごめが短く声を漏らす。それとは対照的に弥勒はうまく着地できたようで、その後ろには元の姿に戻った七宝も同様に転がってきた。 なんとか全員無事らしい。それに安堵しかけた時、彩音は顔を上げた眼前の光景に「あれ…?」と不思議そうに目を丸くした。 そこはなにかの部屋のよう。視線を巡らせてみれば壁際には壺や籠、小さな苗木などと様々なものが並べられているようであった。よく見れば自分たちが着地した場所も短い階段のようになっていて、どうやらここが桃果人の住処であろうことが窺える。 ――そんな部屋の中で、一際存在感を放つ不思議なものがひとつ。 「なんだろ、あれ…」 タイル張りの床に直に置かれたとても大きな箱。目を引くそれに近付いて覗き込んでみれば、中には山や木や川など、この戦国時代の景色がジオラマのように広がっているのが見て取れた。 しかし、その自然がいやにリアルでたまらず息を飲んでしまいそうになる。 するとかごめたちも彩音に続いて箱へ近付き、その中をまじまじと覗き始めた。 「なにかしら…箱庭…みたいな…」 「! 見て、あそこ!」 なにかに気が付いたよう目を丸くする彩音が咄嗟に指を差す。そこには恐ろしく小さい、ミニチュアの人形のような農民らしき男が歩いていた。 人間までリアルだと感じてしまいそうになるが、その男は判然としない表情を見せながらも確かに自身の足で歩いている様子。その体のどこにもカラクリのようなものは見当たらず、どうやらそれが紛れもない本物の人間であるという信じがたい事実を思い知らされてしまう。 「な、なんでこんなところに…」 「木の影にうじゃうじゃおるぞ」 「もしやこれは…桃果人に捕らえられた人たち…」 不気味な箱庭の真相に勘付いた弥勒がそう呟いた――その瞬間、突如ググッ、と強く引き込まれるような感覚が体を包み込んだ。 「え…なに!?」 「は、箱庭が大きく…!?」 「しまった! 見つめてはいけな…」 弥勒が咄嗟に忠告の声を上げるが、時はすでに遅く。目を離すことができなくなった一同の視界には箱庭の中の景色が拡大されるかのごとく大きく広がった。 直後、はっと我に返るよう目を見張った彩音たちは、どういうわけか箱庭の中に広がっていた畑の前で揃って膝を突いていた。 あまりに理解しがたい、不思議な現象。容易に受け入れることのできないこの状況に“どうして”という声すら漏らすことができず、彩音はただ警戒した様子で辺りを見回していた。 そんな時、不意にかごめから「あ…!?」と驚愕の声が上がる。それに慌てて振り返れば、彼女はなにやら焦った様子で胸元を押さえていた。 「四魂のかけらが…ない!!」 「え…」 「どうしよう。ちゃんと首にかけといたのに」 不安げに眉を下げながら言うかごめに彩音たちも表情を曇らせる。とにかく辺りを捜そう、と周囲を捜し回ってみるがどこにもそれらしいものは見つからない。 もしかしたら四魂の玉には箱庭の術が効かず、自分たちが吸い込まれる時に外れてしまったのではないだろうか。そんな可能性をよぎらせながら、彩音は不安に満ちた瞳を頭上――箱庭の外へと向けていた。

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