15

夜が明けた村にゴオォォ…と怪しげな風が吹き抜ける。不穏な曇天の下、小屋の傍で構えるように指を組む楓が風に揺られる木々の音を耳にしながら「いやな風だ…」と呟いた。その隣には楓とは異なる形に指を組んだ弥勒の姿。二人は小屋を囲むように等間隔で榊を立て、それに括りつけた紐で大きな円を描いていた。 「楓さまご用心を…近付いてきます」 「心得ておる」 ふと気配に勘付いた弥勒がその方角へ鋭い視線を向けながら言えば楓も同様にそちらを見据える。すると二人の視線の先、遠く彼方からなにか不穏な影が勢いよく迫ってくる。それは、狼野干が従えていた三つ目の狼たち。だがその姿は以前のような狼そのものではなく、下半身がまるで人魂の尾のように形を成していない歪なものであった。 それらは犬夜叉の居場所が分かっているかのように真っ直ぐこちらへ向かってくる。 「一歩も通さぬ」 楓が意気込むように口にすると同時、二人の手が一層強く締められる。次の瞬間狼たちが勢いよく飛び込んできたが、それらは二人の目の前でバチバチッ、と激しい音と眩い光を迸らせながら見えない壁に弾かれた。 そう、いま小屋の周辺には二人による結界が張られているのだ。おかげで狼たちは居場所を悟ろうとも侵入を許されることはなく、疎ましげに周囲をうろついて回る。 するとその時、狼たちの背後から地響きのような轟音を響かせる狼野干が姿を現した。 だが、目の前まで迫ったその姿に弥勒は訝しむように目を丸くする。 「犬夜叉! どこだ!?」 忌々しげに不気味な声を大きく響かせる狼野干。どういうわけかその姿は先日と大きく異なり、額を中心に広がる蔓に顔全体を覆われ、妖しく光る大きな目はひどく濁り切っていた。 そのおぞましい姿を小屋の格子窓から覗いた七宝が途端に強張った表情を見せる。 「来たぞ犬夜叉! この前の狼野干という奴じゃ」 「狼野干? あの平面顔の狼妖怪か」 「弥勒と楓おばばが、結界を張って足留めしておる」 いまにも出ていかんばかりに鉄砕牙と衣を手にする犬夜叉へ七宝が必死に状況を説明する中、件の狼野干は「どこにいる犬夜叉ー!!」と声を上げながら狼たちとともに小屋の周りをウロウロと嗅ぎまわっている様子。それを触れんばかりの距離で目にする楓と弥勒は溢れてくる汗を伝い落とすまま、結界への集中を一切途切れさせないよう神経を研ぎ澄ませていた。 「(我らが結界を張っている限り、犬夜叉をかくまっている小屋は、妖怪の目に映らぬ)」 「(…にしてもどうしたんだこいつ…この前と全然様子が違う…もしや四魂のかけらの妖力を借りているのか!?)」 虚ろな表情でよだれさえこぼしながらうろつく狼野干の明らかな違いにそのような可能性をよぎらせる。だがいくら目を凝らしたところで弥勒たちに四魂のかけらの光は見えないのだ。これでは四魂のかけらの有無を確かめることも奪うこともできるはずがなく、いまはただ狼野干が立ち去ることを願いながら結界を張り続けるしか手立てはなかった。 ――そんな中、離れた木の陰で人知れず様子を窺う男から小さく嘲笑うような声が漏れる。 「ふっ…小賢しい…結界なぞ張ったところで…」 狒狒の皮を被ったその男――奈落はそう口にしながら皮の下に覗く目をスッ、と細めた。すると奈落の視界には狼野干の傍で空間が揺らぐ様子が見え、意識の集中に伴ってそれが徐々に薄まっていく。そうしてついには結界の中の小屋や弥勒たちの姿がボゥ…と浮かび上がってきた。 「(見えた)」 確信を得たようなその思いの直後、手にしていた槍を楓目掛けて勢いよく投げつける。その瞬間、突如現れたそれに楓と弥勒の目が見開かれた。 「(槍!?)」 「危ない楓さま!」 「いかん法師殿、動いては…」 「そうもいかん!」 楓の制止の声を振り切り立ち上がった弥勒が咄嗟に錫杖を振るい槍を打ち払う。おかげで楓の危機は免れたが、結界は二人で均衡を保っていたもの。その片方が欠けたこの瞬間結界は瞬く間に力を失い、目の前の狼野干から「見える!!」という歓喜の声を大きく上げさせた。 「犬夜叉! そこか!」 そう吠える狼野干は途端に重々しい足音を響かせながら小屋へ駆けていく。直後、両手で挟み込むように勢いよく叩き込まれた大きな腕が小屋を容赦なく打ち砕いてしまった。 激しい音を立てて粉々にされる小屋。それに弥勒と楓が咄嗟に「犬夜叉!」と声を上げた――その瞬間、カカッ、と閃いた光が大きく弧を描いた。それが鈍い音を立てて狼野干の顔に触れた直後、 「はう!」 情けない声を漏らした狼野干の口吻から激しく血が噴き出す。そこには確かに一筋の赤を刻まれており、その顔が俯けられるに伴って溢れ出す血がボタボタと滴り落ちていた。 その眼前に力強く着地する影。それは鉄砕牙を肩に担ぎ疎ましげに顔を歪める犬夜叉であった。 「外に出してくれてありがとうよ、狼野干。そこのばばあとくそ坊主に封印されてたんでな!」 堂々と立ちはだかる犬夜叉は大仰に声を張り上げて言う。どうやら疎ましげな表情の原因は狼野干ではなく弥勒たちのようだ。だがそれを聞いた楓と弥勒は揃って「保護してやったというのに」「忘恩の輩ですな」と白けたような冷たい表情を浮かべて犬夜叉を見やっていた。 しかし狼野干にはそのようなことなどどうでもよく、ただ標的である犬夜叉の姿を見とめては我を失ったようにドスドスと重苦しい足音を響かせながら犬夜叉へ駆けていく。 「大人しく死ねええっ!」 「やかましい!」 迎え討つように飛び掛かりながらその声とともに狼野干へ勢いよく鉄砕牙を振り下ろす。だがその瞬間、バチ、と乾いた音を強く響かせるほどの力で刀身に平手打ちを叩き込まれた。その衝撃に目を見張った直後、犬夜叉は鉄砕牙もろとも狼野干の張り手に叩き払われてしまう。 「なっ、弾き飛ばされた!?」 「犬夜叉の奴口だけで…まだ力が戻っていないのです」 楓と弥勒が予想外の展開に目を丸くすると同時、強く地面に叩き付けられた犬夜叉はドガガガと激しい音を立てながら地面を抉っていく。その衝撃により岩片が大きく散る中で、犬夜叉の懐から飛び出したものが煌めきを放ちながら岩片とともに地面へ転がった。 「あっ」 「でっかい四魂のかけらだあっ!!」 チャラ、と細いチェーンを地面へ広げるそれに歓喜の声を上げる狼野干。その言葉の通り、犬夜叉の懐から飛び出したそれは彼がかごめから奪いとった四魂のかけらであった。 自我を失ったような狼野干はその煌めきに魅せられ、途端にバン、と強く手を叩き付ける。だがそこに四魂のかけらの感触はなく、寸前で傍を駆け抜けていった丸い尻尾が体を広げるようにして狼野干へ振り返った。 「わ、渡さぬ~っ」 そう声を上げたのは七宝であった。見ればその小さな手にはしかと四魂のかけらが握られており、寸でのところで取り返したのだと分かる。だが犬夜叉がその姿に驚くと同時、同じく七宝を見つめる狼野干が途端にその口を大きく開いた。 「逃がすか!」 その声とともに無数の狼がゴッ、と吐き出される。それらは全て迷いなく七宝を追い始め、その光景を目にした彼は途端に驚き怯えた様子で「わーん!」と声を上げながら一層必死に駆け出した。 「七宝伏せなさい! 風穴を開きます!」 七宝の足ではいずれ追いつかれてしまう、そう危機感を抱いた弥勒がすぐさま右手の数珠を取り払い風穴を開こうとした――その時、突如背後からワン、と無数の羽音を響かされ、木々の向こうから数え切れないほどの影が現れる。 その見覚えのある姿に犬夜叉は強い衝撃を覚えるほど大きく目を見張った。 「(あれは…奈落の毒虫!)」 「(吸ったら毒にやられる) ちっ」 記憶に新しい最猛勝の姿にかつての経験を思い出しては、たまらず強い舌打ちを響かせて右手の数珠を巻き直す。 ここで無理に風穴を使えば足手まといになってしまうだけだ。それを思えば風穴を封じるしかなく、錫杖を握り直した弥勒はいつしか最猛勝とともに周囲を囲む狼から楓を守るよう立ちはだかった。 「犬夜叉、まずい展開です!」 「そんなこた分かってる! 散魂鉄爪!」 苛立ちを滲ませながら返した犬夜叉はすぐさまザッ、と音を立てて爪を振るう。その一撃でいくつもの狼や最猛勝を散らしてみせるが、突如背後から勢いよく手を叩き込んでくる狼野干によって手を止められてしまう。そのうえ狼野干は次々に新たな狼たちを吐き出し、絶えず犬夜叉を追い込もうとしていた。 「ちっ」 「このままではキリがない!」 爪を振るい続ける犬夜叉同様、楓を守りながら最猛勝たちを打ち払う弥勒が思わず声を上げる。 どれだけ払ってもすぐに新たな個体が生み出されるのだ。闇雲に闘い続けても体力を消費してしまうだけだろう。そう考えた弥勒はひとしきり狼や最猛勝たちを散らし、傍で虚ろに上向いた目を見せる狼野干へ視線を上げた。 「恐らく狼野干は、四魂のかけらの妖力を借りています!」 「なにい!」 「その場所を正確に突けば倒せるはず!」 「どこだ!?」 弥勒の助言に犬夜叉はすぐさま爪を構えて狼野干へ向き直る。だが問われた弥勒にはどれだけ目を凝らそうとも四魂のかけらの光など見えるはずもなく、「あいにく私の眼力では…」と悔しげに漏らすことしかできなかった。 先日との変化を見れば四魂のかけらが関係していることはほぼ確実だろう。そんな確信にほど近い思いを抱いていても見えないものはどうしようもなく、無理に必死になる二人の姿に楓が弱々しく呟くような声を漏らした。 「やはり彩音やかごめの目でなければ見えぬか…」 「! 泣き言言ってんじゃねえっ! あいつらはもういねえんだ!」 二人の名前に顔色を変えた犬夜叉が楓を黙らせるように強く言い放つ。まるで二度とその名前を出すなと言わんばかりに。 「(井戸はおれが塞いだ。あいつらはもう二度とこっちに来れねえ!)」 強く唇を噛みしめながら繰り返すようにその思いを抱く。そして二人に頼っていた分も自分がやるしかないと、やらなければならないと自身を鼓舞するよう言い聞かせながら狼野干を睨み付けた。 ――一方、森の中で井戸を背に追い詰められた七宝は複数の狼たちに辺りを取り囲まれていた。もう逃げ場などない。それが分かっているからか狼たちはなぶるようにじっくりと迫り、互いに襲い掛かるタイミングを探り合っているようであった。 そんな姿を前に七宝は四魂のかけらを握り締めたまま、ただ涙を浮かべながら恐怖に体を震わせ続ける。 「(も…もうダメじゃ。こっ殺される…なっ、なんとかせねば…)」 弱々しい思いを抱きながらも諦めようとはせず、滲んでいた涙を振り払うように気を引き締める。するとそれに勘付いたか、狼たちは突如鋭い犬歯を剥き出しにして一斉に飛び掛かってきた。その瞬間七宝は「くっ!」と短い声を漏らし、懐から数枚の木の葉を取り出してみせる。 「分! 身!」 途端にそう叫びながら葉を大きく撒き散らす。するとそこに突如複数の七宝が現れ、襲い掛かる狼たちの目をくらますよう真っ向から飛び込んでいった。それは狙い通り狼たちを惑わせたようで、次々と襲われる偽物がパチ、バチン、と破裂音を鳴らして消えていく。 「(いまじゃっ! 井戸の中に…)」 狼たちが偽物に食いついている隙を見て本物の七宝は井戸と木の小さな隙間に潜り込む。その間にも偽物を消し尽くした狼たちが見失った七宝を追いかけられないでいると、その様子に顔を振り返らせた彼は滑稽そうな笑い声を上げながら勢いよく木の幹を滑り降りていた。 「わはははアホどもが!」 ザッ、ごーん。 背後の様子にばかり気を取られていた七宝が勢いよく滑っていた木から投げ出され、無様にも顔面から地面へと突っ込んでしまった音だけがよく響く。それなりの勢いでぶつかった七宝は目を回し、そのままふらつくようにぽて、と仰向けに倒れ込んでしまった。 それにより四魂のかけらが彼の手からこぼれて虚しく地面へ転がると、それは自己を主張するようにほんのりと淡い光を放っていた。

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