15

違和感の確信を突くような弥勒の言葉を胸に、犬夜叉と弥勒は村へ戻り楓の家に足を運んでいた。やはり七宝は井戸から離れたくないようで拗ねたまま連れてくることも叶わず、終いにはあの場所に置いてくる形となってしまっている。 だが犬夜叉はそれに構うこともなく、手当てをするという楓の指示に背中の傷を晒す。それは先の殺生丸との闘いで腹まで貫かれた重度の傷だ。 毒に侵されたよう変色したそこへそっと薬を塗り込む楓は、呆れを含んだ様子を見せながら渋い表情で重く言った。 「犬夜叉、この傷では闘いはしばらく無理だ」 「うるせえ二、三日で塞がる。それより楓ばばあ、なんか奈落について思い当たることねえのかよっ」 自分の傷にさえ構っていられないのだろう。強く眉をひそめた表情で振り返る犬夜叉は楓を問い詰めるようにそう言いやる。すると楓も思うところがあるようで、厳しい犬夜叉の目を見つめ返す表情をどこか真剣なものに変えた。 「わしとて…ずっと考えていたさ。あの時…桔梗お姉さまが骨と土で甦って以来、ずっとな」 そう語る楓の脳裏に甦るのは、桔梗が再びこの世に紛いものの生を受けた日のこと。あの日、犬夜叉を前にした桔梗は怨みを露わにした様子で“犬夜叉お前は…私をその爪で引き裂き四魂の玉を奪った!”と言っていた。その言葉に楓は弥勒同様の違和感を抱いていたのだ。 「犬夜叉の姿を借りたそやつは、そのまま玉を持って逃げてもよかったのだ。それなのに…犬夜叉、お前に村を襲わせ、四魂の玉を掴ませるように仕向けた。そして、桔梗お姉さまの手でお前を殺させた。お前たちを憎しみ合わせたかったのか…あるいは…桔梗お姉さまの心を…怨みや憎しみで汚したかったのか」 「なっ…?」 楓が口にした可能性の話に、衣を着直していた犬夜叉が呆然と振り返る。そのようなこと、考えもしなかったのだ。だが楓はまるで心当たりがあるとでも言うように、神妙な面持ちでその話を続ける。 「四魂の玉は、桔梗お姉さまが持つことで、浄化されていた。そのお姉さまの心が汚れるということは、玉が汚れ、邪悪な力が増すということ…その頃、それを望んでいた者が、ただ一人いたのだ」 「「!」」 思いもよらない楓の言葉に犬夜叉と弥勒がともに顔を強張らせる。それもそのはず、まさかそのような人物がいるなどとは思いもしなかったのだから。 もしかしたら奈落の手掛かりに――あるいは正体を知ることができるかもしれない。そんな思いに駆られる二人を見据えては、強い眼差しを見せる楓がそっと呟くように提言した。 「行ってみるか…そやつが居たところに…」 ――そうして一同は楓を筆頭に背の高い草が生い茂る野を進んでいた。そこは地面も見えないほど草に覆われており、長らく人が足を踏み入れていないことがよく分かる。 そんな道なき道をゆく楓が再び語り始めたのは、先ほど話していた“桔梗の心の汚れを望む者”のことであった。 「そやつは鬼蜘蛛と名乗る野盗でな…」 「野盗だと!?」 「隣国で散々悪事を働いて、逃れてきたのを…桔梗お姉さまがかくまっていたのだ」 「桔梗がどうして」 楓の言葉に犬夜叉がわずかに訝しげな様子を見せながら問う。それもそのはずだ、桔梗は清らかなる巫女。それが野盗を助けるなど到底考えられるはずもなかった。 それを悟っているのか、楓は犬夜叉に振り返ることもなく足を進めながら淡々と口にする。 「そやつ…鬼蜘蛛は“全く動けなかった”からだ」 「!?」 はっきりと告げられたその言葉に犬夜叉が眉をひそめるほどの反応を見せる。すると楓が「ここだ…」という声とともに足を止めた。 同じく足を止めた犬夜叉たちが目にしたのは岩と岩の間に口を開いたような洞窟の入り口。ずいぶんと伸びた蔦がそこを覆うようにまばらに垂れ下がり、下から伸びる雑草にも隠されんばかりのひっそりとしたものであった。 村から離れたこの場所には池もあり、人目につかないようかくまうには十分であることが窺える。 「この洞窟の中でな…全身ひどい火傷を負って、顔は特にひどく焼けただれていたし…崖から落ちたのだろう…両脚の骨は砕けていた。それでも鬼蜘蛛は生きていた。動けはしなかったが…粥をすすり、話をするほどに回復した。だが…奴の性根は…」 洞窟を見つめるまま語っていた楓の表情が途端に険しくなる。当時のことを思い出しているのだろう。次いでその口から語られたのは、彼女がまだ幼い子供の頃の出来事であった。 「よう…チビ…」 不在の桔梗の代わりで鬼蜘蛛の世話に赴いた楓へそんな声が向けられる。だが楓は視線をくれることもなく「楓です」と厳しく言い、桶の水に浸した手拭いをしぼっていた。しかし鬼蜘蛛はそんな突き放すような楓の態度にも構わず不気味な声で続ける。 「お前の姉貴…四魂の玉ってやつを…持ってるんだろ」 「玉のこと…なんで知ってる!?」 思いもよらぬ言葉に楓は眉をひそめるほど怪訝な様子で鬼蜘蛛を見やる。彼が口にした四魂の玉は、桔梗が誰にも手出しされないよう守り続けているものだ。それを余所からきた人間が知っていれば警戒もするだろう。 だが彼女が見つめる先の男はなに食わぬ様子のまま、ボロボロの包帯の下に覗かせる目玉で楓を真っ直ぐに見つめるまま言った。 「悪党はみんな…狙ってるからな」 「お前も?」 「玉は…怨みの血を吸うほどに、悪くなるんだってなあ、いいなあ」 楓の問いに答えることなく、閉じられることのない血走った目を見せながら羨ましげに、楽しげにそう話す鬼蜘蛛。そのひどく不気味な様子は自身も四魂の玉を狙っていると語っているようなものであった。 しかし、男は起き上がることすら叶わぬ身。それを思ってか楓は鬼蜘蛛の言葉を気に留めず、しっかりとした口調で男に言い聞かせるよう厳しく言い切った。 「お姉さまが清めている。悪くはならない」 「桔梗はいつも澄ました顔してやがるもんなあ。見てみてえなあ。あの女の乱れた顔…ぞくぞくするぜ…くくく…」 楓から視線を外し、桔梗を思い浮かべているのだろう虚空を見つめる鬼蜘蛛はいやに楽しげで不気味な笑い声を漏らす。 そのような下卑た言葉を実の姉に向けられていることがひどく不快で鬱陶しく、楓は言い返すことはなくともきつく眉根を寄せて軽蔑の意を露わにしていた。 ――後日、薬草が入った籠を背負い鬼蜘蛛の元へ向かう桔梗のあとをついて歩きながら、楓は変わらず不快そうな様子で鬼蜘蛛の言葉を一言一句逃さず姉へ伝えていた。 「お姉さま、私、あいつ嫌いです」 「そう…鬼蜘蛛がそんなことを…でも、許しておあげ。あの男は恐らく一生…あそこから動けないのだから」 桔梗は表情をわずかにも歪めることなく、静かに言い聞かせるよう楓へそう告げる。自身を歪んだ感情で見られているのだと教えたにも関わらず、彼女はまるで気にしていないかのようであった。 「それから間もなくだ…お姉さまが犬夜叉を殺し、自分も死んだのは。そして数日後わしが訪れた時、洞穴は焼け落ちていた。明かりの火が燃えたのだろうと…鬼蜘蛛は逃げることができず…骨も残さず焼け死んだのだろうと思っていた」 当時の記憶――洞穴全体が焼け焦げ、なにひとつ残されていなかった煤一色の光景を思い返しながら楓は語る。だがそれに「待てよ楓ばばあ」と言った犬夜叉が怪訝そうな表情を見せ、その話に感じていた矛盾を問いただすように口にした。 「そいつはつまり、人間だったんだろう? おれが捜してる奈落は妖怪だぞ」 「確かにな…どれほどに邪悪でも奴は人間だった。それだけは間違いないが…」 「入ってみますか。この洞穴…」 二人の煮え切らない様子に弥勒が告げる。やはり真偽を確かめるにはこの洞穴を調べるほかないだろう。そう考えざるを得ない状況に弥勒は不気味な洞穴を見据え、「なにか…嫌なものが残っていそうだ…」と小さく呟いた。 そうして一度顔を見合わせると弥勒を筆頭に楓、犬夜叉と続けざまに洞穴の中へと足を踏み入れる。その時弥勒から「滑りますよ、お気をつけて」という注意の声が発せられたが、犬夜叉はそれに反応を返すことなく思考を巡らせていた。 思うのは鬼蜘蛛と奈落のこと。 どちらも四魂の玉を欲し、桔梗を憎しみに汚そうとしていた者たちだ。だが鬼蜘蛛は間違いなく人間であり、自分たちが捜している奈落は妖怪。それらを思えば一見無関係かと思えるが、桔梗の周辺でこれだけ望みが酷似した者たちが本当に無関係なのだろうかという疑いはやはり纏わりついてくる。 「(鬼蜘蛛と奈落に…なにか繋がりが…?)」 犬夜叉がそう考えた時、緩やかな坂を下って少しばかり開けた空間に足を着けた弥勒が手掛かりを探すように辺りを見回していた。外壁同様、無数の草木に覆われた洞穴の中。目ぼしいものなど見当たりそうもなかったが、ふと視線を落とした弥勒がなにかに気が付き、深く訝しむような表情で声を漏らした。 「楓さまこれは…」 「!」 「ここの土にだけ、草はおろか苔すら生えていない…?」 弥勒に誘われ同じ場所を見た楓が息を飲むように目を丸くしたそこ。それは弥勒の言葉通り、一畳ほどの範囲だけが湿った土を露わにしていた。辺りを見ればどこも草木に覆われて土など見えないほどであるというのに、この場所だけはわずかな苔ですら生えていない。 なぜこのようなことになっているのか。誰しもが訝しみ眉をひそめた時、楓だけはなにかに気が付いたかのように表情を強張らせた。 「こ…この場所は…動けぬ鬼蜘蛛が横たわっていたところ…」 「!」 甦る記憶を頼りに呟かれた言葉に弥勒が一層眉をひそめる。すると弥勒は再びその地面へ視線を落とし、小さく呟くように語り出した。 「…聞いたことがあります。妖怪が強烈な邪気を発した跡には、その後何十年も草木一本生えぬことがあると…」 「法師どの、それでは鬼蜘蛛はこの場で…」 「はい…妖怪に…とり憑かれたのかもしれませんな」 よぎった嫌な想定にわずかながら声を震わせる楓へ弥勒は真剣な表情で言い切るように応えてみせる。それと同時、犬夜叉がなにかを感じ取ったように「ん…?」と小さな声を漏らした。 「なんだ…この匂い…」 「ん?」 「甘ったるい…香みてえな…」 どうやら感じ取ったのはどこからともなく漂ってくる匂いのようで、鼻に集中するよう口を押さえた犬夜叉は怪訝そうに眉根を寄せる。しかし弥勒と楓はそれに気が付いていないようだ。もちろんここに香など焚いておらず、誰もそのような匂いをつけてきてはいない。 確実に今しがた、それも近くから漂い始めたそれを怪しむよう顔をしかめていた――その時、不意に洞穴の奥の暗がりにボウ…と人のような輪郭が浮かび上がる。それには一同揃って強く目を見張った。 「犬夜叉…お前がここに来るのを待っていた…」 「き…桔梗!?」 「お姉さま!?」 突如目の前に現れたのはここにいるはずのない桔梗。彼女はひどく血にまみれ、強い怨念すら感じさせる瞳をこちらへ向けながら憎悪に満ちた妖しげな笑みを浮かべていた。 そのおぞましい姿を前に、犬夜叉と楓は息を飲むように目を見開く。 「犬夜叉…お前さえいなければ…私は死なずに済んだ…お前も早く…地獄に来い…」 妖しげに細められた目で挑発するように告げられたその直後、ドカ、となにかを突くような鈍い音が響かされた。それに伴い、桔梗の体が霧散するようにフ…と薄れてその姿を消してしまう。その様子にはたと我に返った犬夜叉が目にしたのは、岩へ錫杖を突き立てる弥勒の姿であった。 「つまらぬまやかしだ。トカゲの腹に幻術の香を仕込んだものですな」 「わしらがここに来ると察して…?」 「そのようで」 そう答える弥勒の錫杖の先には腹を貫かれ命を散らしたトカゲの死骸。まるで犬夜叉たちの動向を見ていたかのようなその仕込みに犬夜叉は「くっ…」と声を漏らし、込み上げる怒りに体を打ち震わせながら血が滲まんばかりに強く唇を噛みしめた。 直後、 「持って回った嫌がらせしやがって!」 「犬夜叉!」 突如怒りを爆発させるかのようにダッ、と駆け出す犬夜叉。すぐさま楓がその名を呼ぶが彼の気が治まるはずはなく、洞穴を飛び出した犬夜叉は鬼気迫る表情で激しく怒声を張り上げた。 「出てきやがれ! なんで直接襲って来ねえ!」 自身の感情とは不釣り合いなほど穏やかな自然に囲まれた景色の中に響かせる声。しかし付近に人の気配はなく、草木が風に揺れるさざめきが犬夜叉の声を攫っていく。 素性も、姿も知らない相手。それにただ翻弄されるばかりの現状に犬夜叉は「ちくしょう…」と苦言を漏らさずにはいられなかった。 (近くにいるはずなんだ) 確信に近い思想を抱き悔しげに遠く彼方を見つめる。しかし犬夜叉の思いが現実となることはなく、虚しさを煽るようにさざめく草木の音に包まれながら立ち尽くすことしかできなかった。

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